魂兮帰来[陳情令]

[陳情令]

 

仙侠ドラマ『陳情令』を観ました。あらゆる人にお勧めしたく、しかしドラマを観るのは中々に大変という方向けに、1話を文章にしました。これで興味を持ってくださった方は是非にドラマを御覧ください。2話以降は個人的解釈を加えたファンフィクションですので、鍵をお持ちの方に限定させていただきます。(最終的に加筆した上でP4Pによる紙の本の頒布を予定しています)

 

――魏无羡ウェイ・ウーシェンが死んだぞ、実に痛快だ!
――よくぞ殺してくれた。雲夢うんむジャン氏が正義を貫かねば姑蘇こそラン氏、蘭陵らんりょうジン氏、清河せいがニエ氏の三大世家でも夷陵老祖イーリンラオズーを始末出来なかった。
――雲夢江氏が奴を引き取って育てたのに、奴が大勢を敵に回したせいで江家は滅亡寸前となったのだ。私が江澄ジャン・チョンなら早々に殺したさ。

 

 剣戟に喧騒が重なった。怒号の合間に悲鳴が満ち、悲鳴の狭間に風が絶えず渺渺びょうびょうと吹き荒ぶ。無数の裙や袍が翻って凶鳥の羽音がこだます中を、蘇芳の煙が漂った。
 そこかしこに倒れ伏した死骸は仙師らしく霊剣を堅く握り締めたまま鮮血に塗れ、鉄錆の血潮に沈んでいる。尚も喧騒は途切れない。
 岐山ぎざんウェン氏の誇る不夜天城は、今や互いの欲望を相啖う百虫蠢く悪夢の光景と化していた。元より灼熱の溶岩流るる火山岩上に築かれた大門前の広場は常から風に巻き上げられる土煙が濛々と立ち昇っているのであったが、夜が訪れぬと言われ何時いかなる時にも明かりの絶えぬ不夜天の、しかし今は悪夢の色が覆い尽くして全てが墨画じみていた。広場を埋め尽くす仙師の、その数、数百。城門の外には今しも不夜天に辿り着かんとする一軍が尚も押し寄せて鬨の声を上げている。
 広場の喧騒の中心で小さく跳ねる黒点があった。否、それは禍々しく邪気を纏う掌程の大きさの金属の塊で、良く見れば妖虎を象った微細な彫りが施された法具の片割れだった。無数の仙師の手がそれを求めて伸び、求め奪い合うが故に血飛沫が辺りを染める。
阴虎符いんこふを手に入れたぞ!」
 手にした者の腕を刎ね、足を刺し貫いて歓喜の声を上げた仙師が、次の瞬間、阴虎符の陰気に耐えきれず目を見開くや吐血して倒れ伏す。宙を舞った阴虎符は地に落ちて跳ね、別の仙師がそれを手にする。
「阴虎符か」
 陶然と呟いた刹那、しかしこの仙師もまた背後から霊剣に刺し貫かれて絶命した。仙門百家の宗主から高弟、末端に連なる門弟に至るまで、既に場は阴虎符を巡る争奪の舞台と化して当初の目的を完全に失っている。
 遠く、城壁と一体となった岩石の上で、広場を睥睨して黒衣の若者が一人、その全貌を見詰めている。
 髪を結い上げた目に鮮やかな深紅の絹帯紐と黒衣が風に靡き、これも同じく深紅の内衣が見え隠れして鮮烈な印象のこの若者に、しかし阴虎符を奪い合う殺戮の場は一切目を向けない。
 若者は目を眇めて醜悪な眼下の光景を見詰めた。吐血したらしい口元を鮮血が染めている。蒼白な顔貌は整っているだけに悲痛で、印象的な大きな瞳に今は絶望の色が濃く巣食って、やがてそれは透明な雫になって滴った。
 一部始終を具に見詰める若者の、絶望の上に哀しみが満ちる。若者は微かに笑みを浮かべようとし、それは皮肉に歪み、そのまま淡く消えて血の気のない唇が戦慄いた。霊剣を互いに向け合う眼下の喧騒と対照的に、若者の手にはたった一本の闇夜の沼から引き抜いたかの曲笛のみが握られて、余りに強く握り締めた指先が白い。力の籠もる指に、曲笛のこれも深紅の流苏ふさかざりが揺れて蓮花を象った白玉が震えた。落涙。一滴二滴と零れ落ちるそれは宝珠の煌めきで溶岩の墨色を濃く染めて消える。
 黒衣が風に翻って膨らむ。最早眼下を見るに堪えぬ面持ちで若者は静かに一度目を閉じた。押し出された雫がまた落ちる。次に目を開いた時、若者の顔には最早全ての感情が消え失せていた。真っ直ぐにそのまま後退る。
 不夜天城の城壁は天然の要塞たる火山岩によって形成されている。若者が立っているのは急峻な崖の縁で、今や彼は明白な意志を持って、その崖に身を投げようとしているのだった。
 風が黒衣を更に煽る。両手を広げた彼は、小さく一つ息を吐いた。安堵にも似たそれは音もなく辺りに紛れ、その身が宙に投げ出される。刹那。
 白い風が疾走はしった。
 衝撃が落下する筈の若者の身体を宙に縫い留める。大きく目を瞠った若者が見上げた己の腕を、純白の外衣を纏った腕が掴んで繋ぎ止めている。何もかもが白いその月光の如き眩さに、鮮血が滴って若者の腕をも濡らした。純白の衣の上腕部分が裂けていた。深い切り傷。止めどなく滴るそれを凝視して若者は息を詰める。何かを言い掛けて開かれた唇が虚しく開閉し、数瞬の逡巡の後に、若者は不意に、全くの不意に――余りにも柔らかに、その名を呼んだ。
「――藍湛ラン・ジャン
 絶望と哀しみの色はそのままに、だが囁くその声は奇妙な明瞭さを孕んだ。
「手を離せ」
 尚も鮮血が滴る。崖から身を乗り出し、黒衣の腕を掴んでいる白装束の若者は声もなくただその手に力を篭める。滴り続ける鮮血の、その赤さが目を射た。
「藍湛……藍忘機ラン・ワンジー、手を」
 繰り返し掛けたその声を、しかし霊剣の煌めきが遮った。新たに現れた紫紺の箭袖軽袍の人影に「江澄」と声が漏れる。藍忘機の横に仁王立ちし、己の霊剣の切っ先を真っ直ぐに向けて、見下ろした顔が苦渋に歪んでいる。
「魏无羡」
 叩き付けるように呼ばれた名に、黒衣の若者は微かに表情を緩めた。殆ど安堵したとさえ見える微笑が魏无羡を満たす。手を離すまいとする藍忘機の隣で、霊剣が振り翳された。
「死ぬがいい!」
江晚吟ジャン・ワンイン!」
 藍忘機の制止と江晚吟の霊剣が突き出されるのとは殆ど同時だった。魏无羡は目を閉じる。
――これで何もかも、そうだ何もかも、終わりだ。
 笑みが零れた。透き通った笑みだった。身体が今度こそ宙に浮く。もう何も見えない。何も、見なかった。
 魏无羡の二十数年の短い生涯は、ここに幕を閉じた。

 

 

「魏无羡と言えば、十六年前、仙門の中でも非常に名高い世家の若者であった」
 茶楼『詠仙樓』に縷々と講談師の声が響いている。聞き手は霊剣を携えた年若い仙師ばかり二十人に満たず、しかし老いた講談師の声は高座から歯切れよく続く。
「若くして名声を欲しいままにしたというのに、どんな末路を迎えたと? 不夜天の雲を衝く高さの崖から落ちて骸も存在せず、未来永劫、蘇る事はない」
 思い思いに茶を煎じ、菓子を口に運びながら聴くともなく聴いている仙師達の中に、一際目立つ白装束の若者達の姿がある。共に額に巻雲の紋が入った細い抹額を着けているのが更に目を引く彼らの、揃いの校服が仙師の中では最も数多い。
 その白装束の仙師の内、静かに茶の香りを確認する若者の隣で、豆菓子を口に抛り込んだ若者が「講談師よ」と声を上げた。
「では、その夷陵老祖――魏无羡というのは死んだのか? 生きているのか?」
 まだ幼さが残る勝気な瞳が真っ直ぐに講談師に向いている。講談師は何故か背後を気にする素振りを見せ、逡巡した。講談師の背後の帳には扇を手にした大人ターレンの姿が影になっている。
 講談師の沈黙に茶屋内が時ならず静まり返り、大人の扇を手に叩き付ける鈍い音だけが等間隔に響いた。怪訝な顔で若者が講談師の背後を窺って身を乗り出す。その動きに咳払い一つ、講談師は正面に向き直って「姑蘇藍氏の若き仙師よ、魏无羡があの険しい崖から落ちたのは確かだ」と請け負った。
「だが、この十六年――若宗主、江澄が谷底を捜索させるも、骸は見つかっていない。殊によれば――そうだ、噂の通りであるなら、夷陵老祖は天地を覆し、山河を動かす能力があるというからな」
 声を上げた若者が隣で茶杯を降ろした若者に目線を流した。小声で「眉唾だな、思追スージュイ」と声を掛ける。「景儀ジンイー」と穏やかに窘めた若者が目線を講談師に戻し、講談師は我関せず先を続けた。
「故にこの十六年、平穏に歳月が過ぎたとて、先のことは分からぬ。夷陵老祖 魏无羡が今日――」
 勿体を付けてぐるりと屋内を見渡し、講談師は卓を拍子木で音高く叩いた。
「復活するやもしれんぞ」
 瞬間、不意に風が渡った。
 一天俄かに搔き曇り、楼内が瞬く間に暗くなる。霊剣が一斉に怪異に反応して震え、思追と景儀は顔を見合わせて頷き合った。剣を取って立ち上がる。

――魂よ、帰り来たりて幽都をあとにする

 楼の表通りに、ふらりふらりと酔客が邪崇除けの呪が書かれた幢を立てて謡っている。風は、明らかな邪気を孕んで吹き渡った。魂兮帰来……。
――魂よ、帰り来たりて幽都をあとにする

 

 

 声が聞こえる。
 風のざわめきに掻き消されながら、しかし声が聞こえている。した、した、と水の滴る音がする。鉄錆の匂い。風が渡り、木々がざわめく。戸窓が揺れ、カタカタと音を立てて震える。その向こうから、声がしている。
――莫玄羽モー・シェンユー
 風が無数の呪符を巻き上げて葉擦れの如き音を生む。ざわめき、唸り、その奥で、誰かの名を繰り返し、呼んでいる。
――莫玄羽
 微かな光を感じて閉じた瞼の裏が朱い。眉根が寄る。誰だ、と誰何しながら、意識が辺りに漂って定まらない。
 ひた、と素足の音がし、気配が眼前に近付いて来る。濡れた足音。水、粘りついた、否、血潮、否、乾いて罅割れたかつて血肉であった何か――
――莫玄羽……莫玄羽……
 繰り返される。眼前のそれは、名を呼び続ける。呪符が音を立てて翻る。濡れた気配と、鉄錆の匂い、それから。
――誰だ。
 問いは当然に溢れて落ちる。意識が一点に収束しようとしている。眩い光、渺渺と吹き荒ぶ風の音、此処は何処だ――お前は、誰だ。
――誰が叫んでいる?
 薄く目が開いた。幕が掛かった狭い視界に、朧に生成りの装束が見える。黄ばんだ呪符、血で書かれた呪。風に煽られて、全てが躍る。渺渺、渺渺。
――莫玄羽……莫玄羽
 声には哀惜が籠もって響いた。血に塗れた素足。生成りの衣の裾も血に染まっている。声の主が戦慄いて腕を伸ばす。赤黒く汚れた指先が揺れるが届かない。
――莫玄羽とは誰だ。
――お前に決まっている。
 声は震えている。苛立ちを含み、しかし微かな歓喜を滲ませ、その奥に憤怒を紛らせて、ようやく風のこちら側に明瞭に声が届く。
――やっとのことでお前を蘇らせた。今日からお前は莫玄羽である。十六年も眠ったのだ、充分だろう? お前はたった今この時より莫玄羽となったのだ。
 不意に記憶が脳裏で瞬く。不夜天、渦巻く怨念、撃ち重なる剣戟音、陰の気を撒き散らし全てを翻弄する阴虎符……藍湛、そうだ絶望に目を見開いた哀しみに満ちた白装束……剣を、霊剣三毒サンドゥを突き出した江澄の悲痛な眼差し……風に巻かれて落下する、あの瞬間――莫玄羽? いや、違う、と意識が抗う。視界に己の腕が映る。悍ましく深い切り傷が等間隔に並んでいる。十六年? 俺は……。
――私とて命と引き換えに舎身呪しゃしんしゅを掛けたりなどしたくはなかった。だが、奴らは非道が過ぎたのだ。
 訴える声が高まっていく。風が強まった。戸が風に煽られて鳴る。渺渺、渺渺――
――殺せ。
 声が一際強くなった。悲痛さが増して絶叫に近くなる。
――奴らを殺すのだ!
 叫びが幾重にも谺して響く。声は哀願する響きに代わった。
――魏无羡
 俺の、名だ。
――私の仇を討ってくれ――
 ごとりと、眼前に青銅の仮面が落ちて転がった。
 光が射す。

 

 意識がようやく焦点を結んだ。血塗れの男の姿はない。莫玄羽……命と引き換えにと、そう言った。捨身呪。魏无羡はそろりと手を伸ばす。仮面に手が触れ、それを持ち上げて見詰めて茫然自失した。何が起きた。
 だが不意に荒々しい音が響いて「急げ、此処だ!」と怒声が続き、扉が蹴り開けられた。風が雪崩れ込み、呪符が無数に下げられている以外には粗末な調度が数点あるだけの空疎な室内を蹂躙する。光が目を射て、眩しさに瞼を下ろした。複数人の沓音が入り乱れて響く。
――誰だ。
 当然の疑問に答えはない。瞬間、「消えろ!」の怒号と共に闖入者に胸を蹴り飛ばされて硬い床に転がった。蹴られた衝撃に詰めた声が漏れる。
――老祖様を蹴るとは大胆不敵だな。
 もう姿のない莫玄羽の声だけが微かに脳裏に響いた。新たな沓音と共に最後に踏み入って来た男が怒鳴る。
「お前が訴えたところで私が恐れると?」
 先に乱入した揃いの衣の男達は僅かな調度を蹴り飛ばし、薙ぎ倒し始めている。
「よく考えろ、誰の家で食わせて貰っている? ここは莫家荘、莫家だぞ!」
 調度の破壊される音が鳴り響く。男は尚も怒鳴る。
「奪って何が悪い? 本来、私の物だろう!」
 末尾は倒れ伏した背中を蹴り飛ばしながら吐き捨てられて苦痛に身が丸まった。息が出来ない。
 音が止んだ。調度を引っ繰り返していた男達が「全部捜しました」と駆け寄って来て報告する。
「それで仙門の宝器は?」
「部屋にあったのはこれだけです」
 ばさりと紙の束が押し付けられる音がする。受け取った男の舌打ちが響き、屈み込んで覗き込む顔が失笑に歪むのを見た。
「こんな紙屑を大切に?」
 嘲笑に侮蔑が混じる。
「数年、蘭陵金氏で過ごしても、結局は我が子と認知されず、犬のように追い出された」
 紙束が顔面に叩き付けられる。目に入った書き付けに目が奪われた。これは――
「従兄弟として忠告してやる。死んだ母親のように夢を見てどうする? 卑しい奴が蘭陵金氏に迎えられるものか!」
 高らかな哄笑が響いた。良家の子息らしい身なりの若者である事をようやく認識する。従兄弟? どちらが卑しい、と唾棄したくなる物言いだが周囲の家僕達は何も言わない。そこに新たにもう一人の家僕が走り込んで来て若君に頭を垂れた。きちりと四本の指を揃え、左手で右手を覆って拱手する。
子渊ズーユエン様、仙師が到着したので夫人がお呼びです」
「よし」
 莫子渊が頷いた。身を起こして家僕を従え、沓音高く部屋を後にする。残されたのは調度さえ失い血塗れの床に呪符が舞い散った無残な部屋一つである。
 ようやく身に力が入る。震える腕を床に衝いて身を起こした。思考がバラバラに脳裏で踊り、何もかもが曖昧模糊として形を成さない。荒い息が漏れた。手元の書状数枚の意味がてんでに辺りを漂っている。

 庭の手水桶で顔を洗った。
 辛うじて薙ぎ倒された調度品から探し当てた道具で乱れた髪を整え、最初にしたのがそれだった。水が冷たい。茫漠としていた意識がようやく明瞭になっている。手水桶に映る己の顔を見詰めて瞑目する。身形を整えてみれば、己が身に着けている衣は生成りで、裾が血に染まっている。細く息を吐き、水面に揺れる顔に向かって「莫玄羽よ」と呟いた。
「安らかに死んでたのに、何故蘇らせた……」
 空を切って落下する己の感触がある。不夜天。途切れがちな記憶の彼方で、しかしそれだけは真実だった。あの時、間違いなく魏无羡は崖下に身を投げた。それきり途絶えた筈の意識が、今また唐突に繋がっている――。
「しかも捨身呪とは」
 顎先から水が滴って水面を乱す。揺らめく顔は己のようで己ではなく、何者でもない顔をして波紋に蠢いている。
「どれだけ恨みが深いんだ?」
 左腕に傷がある。ほぼ等間隔に四本、刃物で刻まれた醜い切り傷は赤黒く変色している。
「確かに――」
 魏无羡は目を伏せた。目まぐるしく脳裏を駈け巡る記憶の断片に首を振る。そうだ確かに、俺は恩義を忘れ道を外れた夷陵老祖であって、敵討ちというならもってこいには違いない。書き付けが浮かんで消える。捨身呪――傷一つに命一つ。仇敵を殺さぬ事には、この傷は永遠に癒えない。
 手水桶の横に置いておいた青銅の仮面を手にする。顔の上半分を覆うこの仮面が、たった一つの莫玄羽のまともな持ち物だった。
「死んだ方がマシだな」
 嘆息が漏れた。考えるべき事が多過ぎる。つい最前まで死んでいた身には荷が重い。もう一度天を仰ぐ心持ちになった瞬間、背後から「おいお前!」と怒鳴りつけられて肩が跳ねた。咄嗟に振り返って何かを言おうとし、しかしその前に駆け付けた家僕に指を突き付けられる。反射的に上擦った声が出た。
「おおお、お前って?」
「痴れ者め、誰が外に出ろと⁉ さっさと戻れ!」
 あー、と声が漏れた。自分を指さして確認してみる。
「その……俺は莫玄羽なのか?」
「莫玄羽でなくて誰だ?」
 家僕は呆れ果てたと顔に大書して魏无羡をねめつけた。手にした豆菓子の紙の小袋から一粒を取り出して口に抛り込み、咀嚼しながら続ける。
「いいか? 夢なんて見るなよ。お前が名門の貴公子になれるものか。蘭陵金氏がお前を認知する事なんかないのだからな!」
 蘭陵金氏。犬のように追い出されたと最前も従兄弟殿とやらが口走った。
 家僕が不意にまじまじと魏无羡の顔を眺める。
「おい、ところで仮面は?」
「……俺はいつも仮面を着けてる?」
 家僕の眉が跳ね上がった。吐息一つ、指が突き付けられる。
「今日はまともそうだから訊くが、金鱗台で何が起きた? 戻るなり顔を塗りたくったり仮面を着けたり……おめおめ帰されて顔見せ出来ないか?」
 道理で素顔を晒していても莫玄羽と認識される筈だ。莫玄羽はもう長く顔を誰にも晒していない。だからこそ痴れ者、と呼ばれたのだろう。これなら何を訊いたところで問題は起きまい。僅かに考えて口にした。
「俺は何歳で金鱗台へ?」
 蘭陵金氏の拠点金鱗台……十六年前に既に莫玄羽が金鱗台に居たのであれば夷陵老祖を見知らぬ筈もなく、だが伝聞の域を出ないのであれば悪辣非道の夷陵老祖を復讐に利用しようとするのは至極良い思い付きに見えただろう。
「十三歳だろ、何故そんな事を訊く?」
 唖然と家僕が答えるのに笑みが漏れた。莫玄羽は二十代半ばだ。
「別に。それじゃ」
「おい何処へ行く?」
 腕を捕まれそうになって咄嗟に振り解いた。立ち去ろうとする背後から、しかし家僕が棒を手に追い縋って背を殴打する。悲鳴が漏れた。成程、莫家での莫玄羽の扱いは酷過ぎる。何度も殴打されて堪り兼ね、吐息一つ、振り返った。指を鳴らす。
「止まれ」
 家僕が静止した。天下の中で家僕だけが時を止めて腕を突き出したまま硬直している。小さく笑って魏无羡は家僕の手から小袋を取った。中身を手の平に僅かに出してみる。姑蘇周辺では良く見掛ける豆菓子だ。期待し、一粒摘まんで口に入れた。咀嚼して渋面になる。左程旨くはない。
「十六年前の方が美味だった」
 嘆息して小袋は投げ捨てる。残りの豆菓子を摘まみながら家僕を置き去りに中庭へ向かった。家僕に掛けた術は時間が経てば自然と解ける。何が起きたかも分からない筈だ。
 莫家の屋敷はそれなりに大きい。莫家荘と言ったか。生業が何かは知らないが、荘を束ねる家であれば中程度の規模だろう。四大世家のそれと比べてしまえば見るべきものなど無いも同然とはいえ、庭の手入れ、置かれた灯篭などはそれなりに好ましい。見るともなく庭を眺めて歩く内、回廊で話し声が聞こえて足が止まった。
「何の祟りか、大勢死人が出まして」
 訴える声に白い特徴的な校服の仙師の一団が付き従っている。
「さ、こちらへ。夫人がお待ちです」
 一行は魏无羡と擦れ違う。白い校服、雲紋を象った抹額、全員が佩刀しているこれも白い霊剣――魏无羡はそれだけ見て取って一行に背を向けた。年若い仙師達に見知った顔はない。怪訝そうに魏无羡を見る仙師に顔を伏せた。姑蘇藍氏――。なんて偶然だ、と内心で嘆息する。目まぐるしいにも程がある。復活した途端、姑蘇藍氏の登場とは。
 まさか、と思い当って瞠目する。まさか、あいつも来てるのか? 冗談じゃない、と腰に下げた青銅の仮面を手に取った。握り締めて後を追う。

 

「今日はお祓いに来ていただき感謝しています」
 会客室には莫家荘の荘人達が物見高く押し掛けて鈴生りになっていた。主席には夫人が座し、左右に夫と息子を従えている。対面する仙師はその数、八人。邪崇を抑えるには充分な人数だ。
「何でも姑蘇藍氏は〝雅正集〟を教訓とする気高い世家とか。噂に違わぬ佇まいですね」
 魏无羡は仮面を着けて室内に入り込み、柱の陰から一部始終を覗き見ている。姑蘇藍氏を招くような何が起きているのかは分からないが、いずれにせよ莫家の現状を把握せねば莫玄羽の仇敵にさえ辿り着かない。『奴ら』が誰なのか突き止めなければ、腕の傷は生涯そのままになる。
「実は、この莫家も、仙門とは縁がありましてね、うちの若輩者が仙門で指導を受けたのですよ」
 何の自慢のつもりか夫人が顎を上げる。
「此度、仙師様方が数日長く滞在してくださるなら莫家も」
 こんな与太は聴いてはいられない。魏无羡は手を挙げて戸口の人だかりの前に飛び出した。身を翻して「此処だよ!」と笑みを見せてやる。
「今、呼んだだろ? 莫家で仙門と縁があるのはこの俺だ」
 如何にも痴れ者とは都合が良い。今の魏无羡は莫玄羽だ。胸を張ると夫人が眉を顰め、家僕を振り返った。
「誰が外に? 部屋に戻して!」
「出ていけ!」
 主人が大声を上げる。背後の荘人達がざわめき始めた。魏无羡は咄嗟に床に腹這いになる。床に貼り付いて手足を振り回した。全く、痴れ者とは都合が良い!
「嫌だね! 何処にも行かない。何処にも行くもんか!」
 姑蘇藍氏の仙師達から失笑が漏れた。あからさまな笑いに夫人が色めき立つ。失笑する同門を宥める仙師に仙師達の笑みが引くのと、夫人が「恥ずかしいわね」と吐き捨てるのとは同時だった。莫子渊が夫人の隣で憤然と立ち上がる。横目でそれを確認して声を張り上げた。
「俺は此処に居る!」
 喚く魏无羡に莫子渊が歩み寄る。腕を掴んで力任せに引き摺り出しに掛った。
「出て行け!」
「嫌だよ! 手を離せ、何処にも行かないよ!」
 狼藉に最前同門を窘めた仙師が眉を寄せて立ち上がった。白い衣を翻して歩み寄って来る。
「引っ張るなって!」
 莫子渊が掴んだ腕を振り回して喚く魏无羡に反対側から仙師が手を差し伸べる。尚も手を離せと喚く魏无羡に莫子渊が「立て!」と怒鳴った。手を伸ばす仙師に頷き、魏无羡は「わかったよ」と憮然と答え、しかし立ち上がるなり柱に駆け寄ってしがみ付いた。莫子渊が色を成して駆け付け魏无羡の肩を掴む。
「此処から出て行け!」
「嫌だ、戻らないよ」
 夫人が悲痛な声を上げた。
「甥はおつむが弱いんですよ。どうか笑わないでください」
 莫子渊が「阿童アートン、連れて行け!」と家僕を呼んだ。
「戻っても良いが、盗んだ物を返せ」
「莫迦か! お前の物を盗んでどうする」
「そう、盗んじゃいないかもな、奪ったんだ」
 叫んだ魏无羡の声に、荘人達が「ひどいわね」と囁き交わし始めた。業を煮やした莫子渊が魏无羡に向かって足を振り上げる。蹴り飛ばす寸前に、しかし莫子渊もよろめき、魏无羡は大仰に隣の卓に倒れ込んで卓上の物を薙ぎ払った。莫子渊が目を剝く。
「酷いな! 痛過ぎるだろ」
 魏无羡は床を転がり回った。蹴られる寸前、最前助け起こしてくれた仙師が供された茶に呪を掛け、莫子渊の振り上げた足に飛ばして止めたのには気付いていた。全く、つくづく痴れ者とは都合が良い。
「みんな、見てくれ!」
 魏无羡は荘人達の前にまろび出た。
「莫家の女主人は嫉妬深くて、家族全員でいじめるんだ」
 莫子渊が悲鳴のように「私は蹴ってない!」と叫んだ。魏无羡は目を覆う。
「死んでしまいたい」
 大仰な泣き真似を始める。確かに莫子渊は蹴っていない。だが蹴ろうとはした。それは場の全員が見ている。
「じゃあ自分で蹴ったとでも?」
 荘人達のざわめきは大きくなる。
「同じ莫家なのに、なんて残酷な親戚だ」
「戻った時はもっとまともだったのに」
「虐げられたのだ、間違いない」
 莫子渊が憤怒に身を捩り、駆け寄って魏无羡に掴み掛かった。
「黙れ! 図に乗りやがって」
「黙っても良いけど」
 しゃくり上げて魏无羡は言い、不意に表情を滑り落した。手を出して告げる。
「奪った物を返せ」
 横目で荘人達の反応を窺って再びしゃくり上げて見せる。
「嫌なら何回か土下座してくれても良いよ」
 莫子渊が憤然と息を荒げた。怒りのままに咄嗟に周囲を見回し、背後の卓から徳利を取り上げて振り被る。叩き付けようとする莫子渊を魏无羡は素早い身のこなしで避け、床で粉々に粉砕された陶器を指さした。
「みんな、見たでしょ? 盗んだうえに殴ろうとするなんて!」
 最前の仙師が眉を寄せ、「乱暴はよくない」と再び席を立って歩み出た。物腰の柔らかな、面差しの優しい若い仙師の糾弾に、夫人が慌てて駆け付ける。
「仙師、妹の息子はここが働きませんの」
 頭を指さして顔を歪める。
「周知の事実で、幼い頃から妄言を吐くのです、真に受けないで」
「誰が妄言を吐いたって?」
 魏无羡は割って入る。
「もう一度言ってやる。今後、俺の物を盗んだら手を斬るぞ、分かったか」
 勝ち誇り、振り返って背後の卓から酒の徳利を手に取った。荘人達の間を擦り抜ける。
「みんな、退いてくれ」
 背後では、仙師が場を収めようと夫人に拱手し、「それよりも、今夜は西院をお借りするので、くれぐれも夜は部屋から出ず、西院に近付かぬように」と告げている。

 

 咄嗟に持ち出した徳利を手に、魏无羡は西院に続く回廊に陣取った。西院からは仙師達が人払いをして、周辺なら邪魔が入らない。高欄に腰を落ち着け、足を投げ出して行儀悪く酒を呷る。呑み下して顔を顰めた。
「まるで水みたいだ」
 これでは酔いもしない。徳利を抛り、大きく息を吐く。最前の騒ぎを思い返し、腕の傷を確かめた。切り傷は四つ。
――本当に一族を皆殺しにしろと?
 夫人、主人、そして莫子渊。少なくとも莫家の仇敵はこの三人に間違いないだろう。だが。
 立て続けに吐息が漏れた。莫玄羽の恨みがどれ程の物か知らないが、人を三人も殺めるというのは。
――どうしたものかな。
 沈思し掛けた刹那、しかし庭に姑蘇藍氏の仙師達が現れた。家僕に先導されて西院に向かう。全員が黒っぽい厚手の布地に金の紋様が入った旗を手にしているのを魏无羡は確認した。
――召陰旗か。
 何の祟りか大勢死人が出た、と言っていた。仙師を招いた事を知った荘人達が集まったのも荘全体で被害が出ていたからであったろうし、祟りと目される以上、事故でも病気でもなく、間違いなく怪異で人が死んでいる。
 遠目に様子を窺った。仙師達を指示しているのは、最前の柔らかな面差しの仙師だ。
「景儀とお前は西の屋根、お前達は東へ」
 痴れ者の芝居を始めた時に盛大に失笑して窘められていた仙師が景儀と呼ばれている。その景儀とやらが「思追の指示に従え」と背後に声を掛けている。どうやらこの二人が差配をする立場にあるらしい。
「上で偵察し、軒に出来るだけ旗を掛けよ」
 手近な柱の陰から仙師達の作業を眺める。指示の出た旗は当然に召陰旗の事だ。既に庭を囲んで旗竿が立ち並び、召陰旗が陣を形成している。
 俺の事は殺せと言ってた癖に、と十六年前の自分の立場を思って嘆息する。何の事はない。仙門の連中と来たら、夷陵老祖の創り出した道具はちゃっかり使っている。
「東から現れたら四方から挟み撃ちにするぞ。莫家の者を脅かすな。それと」
 単純な作戦のようだった。召陰旗で邪崇を呼び寄せれば方向は操作出来る。今回は東からと設定されているらしいそれは単純だが明快であり、成功する可能性は高いと言って良かった。成程、若手だけであっても、手堅さは流石は姑蘇藍氏というところか。
 思い付いて柱の陰から身を屈めて近くに寄る。
「回廊とあの屋根は必ず見張りを置け」
 思追とやらも、その指示を受ける者も背後には気を払っていない。立てられた召陰旗に近付き、旗を外しに掛かる。だが半ば外し掛かったところで屋根の上に陣取った景儀に見付かった。
「此処は立ち入り禁止だ」
 憤然と言われるが構わず旗を棹から抜く。苛立ちを露わに屋根から「触ってはならぬ!」と怒声が降った。思追と対照的に景儀の方は短慮であるらしい。
「嫌だね、これが欲しい。絶対に貰う」
 魏无羡は唇を尖らせた。手は休めない。痴れ者も板に着いて来た。
 振り返って目を瞠っていた思追が困惑を露わに景儀を見上げる。お構いなしに旗を折り畳み、魏无羡はそれを懐に入れた。立ち去ろうとした瞬間、屋根の上から景儀が二十尺余りを飛来して立ち塞がる。
「返さないと殴るぞ」
 品行方正がお家芸の姑蘇藍氏とも思えぬ事を口走って拳を構える。勝気な瞳が本気を伝えて来て呆れた。十六年経って教育方針が変わったのか?
「返すもんか、これは俺のだ」
 背後で思追が小さく笑った。「景儀」と駆け寄る。
「頼めば良いだろ、殴る必要が?」
「脅しただけだ。それが欠けると折角組んだ陣が」
 憮然と言うのに構わず背を向けて召陰旗を広げた。殆ど墨に近い濃い藍色の布に金の紋様や呪が配置されている。
――紋様や呪も正確だな……。
 迂闊に濫用しているわけではないらしい。使っても問題はないだろうが、書いた者の経験が浅く、五里以内の邪崇しか呼び寄せない。
――だが、それでも十分だ。
「すぐに日も暮れる」
 思追が声を上げた。宥める物言いをする。
「お祓いを行う故、早く部屋に戻るのだ。何を耳にしても外に出ぬよう」
 この魏无羡に邪祟の何たるかを言い含めようとは。言い返そうとして顔を向けた。瞬間、正対した思追が身に纏う校服の、襟に入った雲紋に目を奪われる。淡い空色の、姑蘇の地紋だった。鮮やかに、瞼の裏に面影が過る。端正な立ち姿。何時いかなる時も一本の若木の如く伸びた背筋が印象的な、純白の装束を纏った男――
 記憶にそれは余りにも鮮明だった。真っ直ぐに、必ず真っ直ぐに正面から、目を逸らさずに魏无羡に歩み寄り、そうして短く魏无羡の名を呼ぶのだ――
 堪らずに屈み込んだ。眩暈がする。
「どうされた?」
 思追が傍らに屈み込んだ。怪訝に問われて手の中の召陰旗を握り締める。動悸がしていた。
「こんな旗、別に欲しくもない」
 子供じみた癇癪を起こして地に叩き付ける。踏み躙った。
「下手糞め」
 背後で景儀が「痴れ者め」と吐き捨てるのを聞いた。「思追、抛っておこう」と声を掛けるのに、思追が「ともかく準備を進めよう」と答えている。背中に、思追の視線がいつまでも貼り付いていた。

 

 夜半、満月は既に高く昇っている。
 西院では召陰の陣が発動する頃だった。何もない莫玄羽の部屋で魏无羡は気配を探って様子を把握する。姑蘇の仙師達の気配は清かだ。だが、中庭に異物が紛れ込んでいる。
「坊ちゃま」
 上擦った声だった。
「西院には来るなと注意されたのでは?」
 家僕の声に、「奴と決着をつける」と莫子渊が色めき立っている。回廊の柱の陰から西院の中庭を見遣る主従は確かに姑蘇の仙師達からは気付きにくい。莫子渊が陣旗を指差す。
「あの旗を持って来い」
「でも仙師が」
「藍思追だとか藍景儀だとかいう仙師か? 姑蘇藍氏の法宝を盗まれたくないから脅してるだけだ」
 勝手な理屈を捏ねて周囲に配置された仙師達を見回す。
「見ろ、どの仙師も旗を持ってるだろ。良いから行って来い」
 乱暴に家僕を押しやった。諦めたらしい家僕が駆け出し、陣旗を一枚毟り取って駆け戻る。陣が乱れた。
 魏无羡は静かに手にしていた柳の一葉を唇に当てる。目を閉じ、息を吹き込んだ。草笛の澄んだ音色が流れ出す。迷いなく、身に馴染んだ曲を吹いた。西院に向かって音が奔流になる。
 陣を形成し、配置に着いて西院の屋根に上がっていた藍思追と藍景儀が草笛に反応した。
「景儀」
 藍思追が記憶を探る顔をする。
「この曲、何処かで……姑蘇の調べか? 何処で聴いた」
「こんな下手な曲など知らぬ」
 草笛の音色はともすれば抑揚に欠ける。それでも魏无羡の中では曲は豊かに情景を描いた。迸る水流、余りにも冷厳な泉の怜悧、風が渡り葉擦れと共に揺れる竹林の降り注ぐ陽光、更夜に降り注ぐ、月光。脳裏にはまたあの面影が浮かんでいる。月光に良く似た、純白の――
 知らず笛が止まった。呟きがまろび出る。
「……藍湛」
 その刹那、西院に動きが出た。魏无羡は顔を上げる。莫玄羽の部屋に、沓音も高く複数の人間が向かって来ている。
「官府に突き出しては?」
「官府? 殺してしまえ!」
 声を荒げているのは莫家の主人だ。身構えた魏无羡の目の前で扉が乱暴に開け放たれる。家僕達が闖入し、瞬く間に引き立てられた。殆ど引き摺られて部屋から出される。
「痛いだろ」
 抗議の声は通らない。連行されて投げ出された部屋には姑蘇の仙師達も集まっていた。『お祓い』は中断したのか。先に到着していたらしい藍思追と藍景儀が顔を見合わせるのに、魏无羡は慌てて顔を逸らした。仮面がない。
――莫家の連中は俺の顔を知らないが、姑蘇藍氏には知った者があるかもしれない。
 背後では何事か騒ぎが起きている。横目で窺えば莫子渊が暴れるのを、どうやら家僕が数人掛りで抑え込んでいる。邪気が満ちていた。憑かれたか、と見た瞬間、横から藍思追が屈み込んで「莫の若君は隠れて」と耳元で囁いた。魏无羡は辛うじて頷く。少なくとも、藍思追は魏无羡を知らないらしい。
 背後で雄叫びが上がった。振り返った先、莫子渊が遂に抑え込もうとする家僕の一人を振り切った。投げ飛ばされた家僕が書桌に叩き付けられて木製のそれを粉砕する。藍思追と藍景儀の二人が一斉に捕縛縄を投げ、印を結ぶ。霊力で操られ、過たず巻き付いた縄が莫子渊を縛り上げる。ようやく莫子渊の動きが止まった。
「子渊」
 主人の悲痛な声が上がる。「玄羽に何をされた!」
 魏无羡は眉を顰める。何を? まだ何もしていない。官府に突き出すとかいうのは、この事か。
「仙師」
 家僕が上擦った声で藍氏の二人に詰め寄る。身動きの取れなくなっている莫子渊の顔は不自然なまでに白い。生気がない、と言い換えても良かった。目の下にどす黒く隈が浮いている。
「傀儡か?」
 魏无羡は独り言ちた。どうしましょうと家僕が声を上げたのに重ねて、ようやく騒ぎを聞きつけたらしい夫人が駆け付けて悲鳴を上げた。
「子渊!」
 莫子渊は唸るばかりで正体を失っている。夫人は猛然と振り返り、魏无羡に指を突き付けた。
「お前ね? お前でしょう!」
 心外だ。夫婦揃って短慮が過ぎる。いずれ方法を考えねばと思ってはいても、流石の夷陵老祖様とてまだ生憎何もしていない。
「まさか邪崇が坊ちゃまに取り憑いたのですか」
 家僕が慄いて拳を握った。阿童と呼ばれていた男だ。どうやら莫子渊付であるらしい。
「事は深刻やも」
 じっと莫子渊に目を据えていた藍思追が慎重に口にする。「首の黒い紋様は特別な印かもしれぬ」
 確かに、歯を剥き出して唸る莫子渊の首には胸から這い上る黒い雷めいた紋様が無数に走っていた。良く見れば、蒼白な顔面には赤黒く血管が透けている。
「僅かな間に二人も殺したんですよ! お助けを」
 阿童が悲鳴じみて声を上げた。縋り付かれた藍景儀が眉を顰める。
 夫人が俄かに目の前に飾ってあった置物を取り上げ、魏无羡に向かって振り翳した。咄嗟に藍思追が飛び付いて止める。
「莫夫人!」
「この男のせいでうちの息子が!」
 悲鳴に魏无羡は閉口する。
「俺は関係ないでしょ」
「御子息は霊識を損傷した。邪崇の仕業です」
 藍思追も莫夫人を宥める。人は肉体のみで生きるのではない。精神と肉体を司る気である霊識を損傷すれば当然に正体を失う。藍氏の門弟達は莫子渊を遠巻きに霊剣を構えている。
「この男の父親は仙門の出なのよ、邪術を学んだのだわ!」
 莫夫人の指摘は誤っている。誤っているが真実ではあった。だが、今のところは本当に魏无羡は莫玄羽なのであり、何もしていない。
「莫夫人、証拠がない以上は」
「証拠? 息子が良い証拠よ! 昼間、自分の物を奪ったら手を斬ると言ったわね。子渊は何一つ盗んでいない。でっち上げた上、こんな姿にするなんて!」
 直後、莫子渊が天に向かって咆哮した。首に走る黒い紋様が見る間に首を這い上って顔面に到達する。絶叫する莫子渊の瞳が白く濁った。家僕や侍女の悲鳴が満ちる。藍思追が莫子渊に駆け寄った。
 印を結んだ藍思追が素早く莫子渊の胸元に霊力で呪を書く。遅れて駆け寄った魏无羡も莫子渊の背中側に呪を施した。一閃。藍思追の呪が発動すると同時、魏无羡の呪が莫子渊の活動を止める。
 莫子渊は完全に沈黙した。目を閉じ、僅かに俯いて立ち尽くす姿は死者と大差ない。じっと目を据えたままの藍思追を一瞥し、魏无羡は小さく息を吐いた。
 静止した莫子渊を検分する。外観上は首の黒い紋様と血の気のない肉体の他に不可思議なところは見受けられなかったが、何もなくこんな状態には成り得ないのは自明で、だとしたら何か原因がある、と衣の上から手を当てて行った先、胸元に何かが仕舞われている事に気付いた。合わせから手を入れて取り出したのは召陰旗だ。藍思追を含めた周囲が一斉に息を呑む。姑蘇藍氏の召陰旗。仔細を検分しようとして、魏无羡は自身の左腕に刻まれた傷の一つが消えるのを見た。
――一つの傷に、命一つ、だ。
「身から出た錆だな。こんな物を盗めば取り憑かれもする」
 召陰旗は邪崇を集める為の道具であって発動している陣の一枚を抜けばどうなるか、考えもしなかったというのなら、幾ら仙門に連なる家ではないにせよ余りにも軽率が過ぎるというものだった。
「私の可愛い子渊や」
 夫人が駆け寄って莫子渊の腕に縋った。莫子渊は微動だにしない。「息子に何を」と血相を変えた夫人に、藍思追が静かに「気絶しただけです」と告げる。夫人は烈火の如く怒りをぶちまけた。
「なんて役立たずなの! 邪を祓う仙師ですって? 子供も守れない癖に!」
「ふざけるな」
 魏无羡は一つ息を吐いた。
「姑蘇藍氏はあんたの使用人じゃないぞ。一文も取らずお祓いに来てくれたのに、そんな言い方があるか。子供だ? こいつは幾つだ。どう見積もっても十五は過ぎてる。再三注意されておいて、聞いてなかったのか? 部屋から出ず、西院にも行くなと、たったそれだけが覚えられなかったとでも? それをこっそり抜け出した挙句に盗みまで。邪術なんか使うまでもないだろ、使えたとしてもやらないね。こいつらや俺のせいにするな」
「何ですって?」
 夫人が戦慄いた。振り返って夫に「早くみんなを呼ぶのよ!」と叫ぶ。「こいつを抛り出すのよ! 突っ立ってないで、早く!」
「旦那様、行きましょう」
 家僕が飛び上がって主人の腕を引いた。阿童がその後を追う。夫人は続けて「阿丁アーディン、息子を休ませて!」と侍女に命じ、先に立って背を向けた。姑蘇の仙師達は顔を見合わせている。
 魏无羡は顎に手を当てた。腑に落ちない。召陰旗で呼び寄せられた邪崇が莫子渊に取り憑いたとして、今の莫子渊にその気配はない。既にこの男の霊識は取り返しがつかない程に損傷し、それ故に腕の傷の一つは癒えた。莫子渊は最早傀儡として生きる他なく、自我を取り戻す事はあるまい。だが、ならば取り憑いた邪崇は何処に消えた?
 不意に外から男の絶叫が響き渡った。魏无羡は部屋を飛び出す。回廊で主人が家僕を投げ飛ばし猛り狂っている。中庭に出て振り返った主人の瞳が白い。
 主人は後退った阿童の喉を腕一本で締め上げ、そのまま頭上まで持ち上げた。人間の力では有り得ぬその光景に魏无羡に続けて部屋を走り出て来た全員が絶句する。
 藍氏の仙師達が主人と相対した。主人の様子は莫子渊とまるで同じだ。藍景儀が捕縛縄を取り出して構え、同じく藍思追の捕縛縄が霊力を篭めて放たれると同時に繰り出される。二本の縄が主人に絡み付き、一瞬動きを戒めた刹那に二人の仙師は縄を引いた。捕縛された主人が獣の唸り声を上げる。
「奥様、しっかり」
 目撃した夫人が気を失い、侍女が抱え起こす。魏无羡は夫人の様子を確認しようとし、しかし藍思追が藍景儀に「邪祟が凶暴過ぎる」と告げるのを聞いて振り返った。藍思追が切迫した声で言う。
「含光君に信号を送れ」
 魏无羡は思わず声を上げた。
「含光君だって?」
 姑蘇藍氏の二人に詰め寄る。
「含光君って藍湛の事?」
 冗談ではない、それはマズい。自分達では手に負えない、と年若いこの二人が判断するのは理に適ってはいる。いるがしかし、よりによって呼ぶ相手が含光君というのは。当然の事ながら、含光君は直接に夷陵老祖を見知っている。あの不夜天の惨劇を招いた夷陵老祖を潔癖な含光君が赦すとは考え難く、顔を見れば莫玄羽の仇討ちをさせてくれるどころではなくなる。だが二人は魏无羡の声に耳を貸さない。藍景儀が思追に首を振った。
「含光君の行先は聞いていない」
 待て待て待て、魏无羡は何とか割って入ろうと前のめりになった。如何な姑蘇藍氏の信号弾とて、有効範囲は限られている。撃ったところで無駄になる可能性はある。
「含光君がこの近くに居ると?」
 行先も分からないのならやめておいた方が良い。信号弾とて無尽蔵に持ち歩いているわけではあるまい。魏无羡の声は殆ど懇願する響きになった。しかし当然ながら二人は魏无羡に取り合わない。「まずは信号弾を」と藍思追が決然と口にする。
 藍景儀は逡巡しているらしかった。伏せた目をせわしなく左右して迷いのままに口を開く。
「含光君が来るかどうかは賭けになる」
 魏无羡は「あー、含光君を呼ばなくても」と口を挟んだ。藍景儀が続けて「原因も分からず手遅れになれば?」と懸念を口にする。
「いや、ほら、含光君なしでも俺が解決出来る」
 藍思追が強く頷いた。
「来るまで死守だ」
 完全に魏无羡は無視されている。
「だから俺が……!」
 魏无羡の手は虚しく宙に浮いた。直後に藍景儀が信号を放つ。眩い光が天上を目掛けて飛び去り、頭上高く閃光を四方に走らせて散った。
 嗚呼、と魏无羡は屈み込む。マズい。藍湛が来れば魏无羡である事は即座にバレる。
――さっさと解決しないとな。
 頭を抱えた。そもそも、前提として問題はもう一つ判然としている。
 床に描いた陣と貼り付けた呪符で動きを止めたままの父子を二人並べて封じた室内で、夫人と家僕は藍思追が治療を開始した。己の霊力を注ぎ込む事で回復を図る姑蘇藍氏の治癒能力は高い。そちらは藍氏に任せる事にして、魏无羡は父子の仔細を検分する。赤い陣と黄の呪符で彩られた室内は最早悪趣味極まりない装飾としか言えなかったが、そもそも主人と一人息子が傀儡と化した莫家の明日は考えても詮無き事だった。
 父子の様相は良く似ていた。首の黒い紋様が二人揃って浮き出ている。白い瞳、既に損傷している霊識とを併せて考えれば、結論は一つしかない。
――黒い紋様は明らかに阴虎符の痕跡だが。
 そうだ、魏无羡の正体の他に、それがもう一つ大問題だった。
――阴虎符は破壊された筈じゃないのか? だが、だとしたら原因は何だ。
 阴虎符は二つで一つだ。だが魏无羡の記憶の断片では、自分が崖から身を投げた時点で阴虎符の片割れは間違いなく自分が破壊した後で、ならば不夜天の惨状後、事態を収めただろう四大世家がそのまま残りを保持するとは考え難い。
 阴虎符でないとするなら、黒い紋様の傀儡を生み出す何かが出現した事になる。何者かの意思が介在する以上、この傀儡は凶屍と言うより活屍と見る他ないが、死者を操るのでなく生者を屍同然にして操るとなれば、其処には悪意しか感じ取れはしない。
「阿童! 気が付いたの」
 不意に侍女が声を上げた。主人に首を絞められて気を失っていた家僕が目を覚ましている。振り返ってそれを確認した魏无羡は咄嗟に「近付くな!」と侍女を止めた。
「首を見て」
 促して示した家僕の首には父子と同じ黒い紋様が浮き出ている。荒い息を吐く阿童が、直後、痙攣して目を剥いた。唸り声を上げる阿童のその瞳が白い。
 侍女が悲鳴を上げた。阿童の左腕が見る間に膨張し、鋭い爪が伸びて暴走し始める。左腕が意志を持ったかに周囲に襲い掛かり、果たせぬと知ると阿童自身にその爪を向けた。阿童が自身の腕を抑えようと右腕で左腕を抑え付ける。だが、抵抗虚しく左腕はそのまま阿童の首に喰らい付き、瞬時にその首をへし折った。鈍い音が響く。
 誰もが声もなくそれを見ていた。瞬く間さえない。音を立てて倒れたまま動かなくなった阿童の姿に、一拍遅れて侍女の絶叫が轟いた。
「幽霊よ! 幽霊だわ! 見えない幽霊がいるのよ」
 魏无羡は詰めていた息を吐いた。幽霊ではない。ないがしかし、一体これは何だ?
「幽霊が阿童の首を絞めたんだわ!」
「幽霊じゃないよ」
 狂乱する侍女に魏无羡は素っ気なく告げる。何かに気付いたらしい藍思追が「静かに」と声を上げた。
 立ち上がった藍思追は父子の左腕を確認する。
「……左腕が折れている」
 告げられた声に魏无羡は思わず笑い出した。藍景儀が「こんな時に良く笑えるな」と声を荒げるのに、「違うって」と制して続ける。
「その家僕を襲ったのは莫家の主じゃないし、今此処で暴れたのは家僕じゃない」
 驚愕に藍氏の二人が目を見開いた。
「何故だ」
 声を上げた藍思追に、魏无羡は「手を見ろ」と答える。「二人は左利きじゃない。俺を殴る時はいつも右手を使ってたからな」
「自信満々に言う程の事か?」
 藍景儀の憮然とした声に、しかし藍思追は何に気付いたのか息を呑んで顔を上げた。
「主人は左手で家僕の首を絞め、持ち上げた。家僕は自分の左手で己の首を折った……」
 踵を返して場の真ん中に歩み出る。
「邪祟は左手に取り憑いたか!」
 全員が驚嘆の内に藍思追を囲んで輪になった。「左手を挙げてくれ」と命じられておずおずと左手を挙げる。全員の左手を確認しても、しかし邪祟の痕跡はない。
「だったら、一体」
 直後、魏无羡は藍思追の腕を掴んで引いた。背後から、気を失っていた筈の夫人の左手が思追の首のあった場所を薙ぎ払う。髪と肩とに触れただけで難を逃れた思追が声もなく夫人と正対した。凝視する藍思追の背後、藍氏の仙師達が一斉に霊剣を構える。
 夫人の左腕は不自然に膨れ上がり、鋭い爪を擁して人の腕とは思えない浅黒い紫に変色している。瞳が白い。今や邪崇が夫人に取り憑いたのは明白だった。だが夫人に取り憑いた左腕はそれ以上襲って来ない。左腕が肩に触れながら攻撃を続けなかった理由に思い当ったらしい藍思追が声を張り上げた。
「護身符が怖いのだ、衣を脱げ!」
 藍氏の仙師達は護身符を身に着けている。全員が一斉に衣を翻した。白い布が室内を舞う。夫人は目の前の卓を左手で跳ね上げた。卓が無数の衣を受け止めて轟音と共に床に落ちる。夫人はそのまま外に飛び出した。藍氏の二人が後を追う。捕縛縄が繰り出され、夫人を絡め取った。
 魏无羡は目を眇めてそれを確認し、思い付いて封じた父子に歩み寄った。取り憑いた邪崇は莫子渊、その父と徐々に凶悪さを増している。今や夫人に取り憑いた邪崇を抑えるのに捕縛縄では持たないのが明白だった。父子を戒める足元の陣の円環を沓底で踏み躙って破る。
「仕事だぞ」
 囁いて指を鳴らした。父子が一斉に意識を取り戻す。邪崇から解き放たれた素の傀儡であれば夷陵老祖の領域だ。傀儡は魏无羡の意を受けて夫人を追う。
 予想通り、夫人は捕縛縄を振り切ったらしい。中庭では捕縛縄が解けて藍氏の二人が弾き飛ばされてもんどりうっている。一塊になって後退して来た藍氏の仙師達の頭上を飛び越えて、魏无羡の傀儡となった父子が夫人と相対した。
 壮絶な光景が現出した。二人を相手に夫人は互角に戦っている。息を呑んで見守る仙師達の前で剣が舞い、拳が繰り出されてそれは果てなく続くように見えた。
 突然、夫人が父子ではなく、背後を振り返る。
「景儀!」
 叫んだ藍思追の声に藍景儀が仰け反った。勝ち誇った笑みを浮かべた夫人の突き出した左腕を、即座に魏无羡が放った呪が跳ね返す。だが、夫人は間髪入れず体勢を立て直し、再び藍景儀に襲い掛かった。馬鹿な! 魏无羡が驚愕に目を見開いたその刹那、しかし蒼い閃光が夫人に炸裂して夫人が弾き飛ばされた。琴の弦を強く弾く音が辺りに響き渡る。
 魏无羡が振り仰いだ先、天上から放たれた閃光は既になく、夜空だけが深く広がっている。我に返って咄嗟に魏无羡は身を翻した。頭上に月光。魏无羡が柱の陰に潜むのと、回廊の高い屋根の上に白い光が舞い上がるのとは殆ど同時だった。
「含光君!」
 藍景儀の喜色に満ちた声が響いた。白い光は人の姿をしている。天上遥か、月光が満ちる夜を切り裂いて、宙に浮かべた琴を携えた含光君が衣を翻した。含光君の手が琴の弦に触れ、再び蒼い閃光が放たれる。
 過たず地上で争う三人の傀儡を穿った閃光に、全ての動きが止まった。琴の音に操られて一斉に傀儡が膝を衝く。場には一本の剣だけが取り残され、地上全ての喧騒が消えた。含光君が目を眇める。風にその純白の衣が翻って光になり、夜を照らした。
 魏无羡は知らず笑みを浮かべる。眩いばかりの男の姿に唇が弧を描いた。含光君――藍忘機……藍湛。
 終わったと思っていた生が再び時を刻み始めて以降、折に触れて脳裏に浮かぶのはいつもこの男の姿だった。白い白い、何もかもが純白の、清廉潔白が衣を身に着けて歩いているような男。それを裏切ったのも、振り切ったのもきっと自分でしかなく、それでも真っ先に思い出すのは、何時だってお前の事ばかりだった。
「相変わらず全身、白装束だな」
 若干の呆れを含んで呟きが零れ落ちた。脳裏に描いたままの、真っ直ぐに背筋を伸ばした男のその白さに射し貫かれて目を細める。圧倒的な霊力、圧倒的な制圧。藍氏の頂点たる藍氏双璧の片割れであり、世に含光君と号される、それがこの男だった。
 藍忘機が袖を振り琴を収める。そのまま手を伸ばし、印を結んで傀儡の前に投げ出された一振りの剣を招き寄せた。宙を飛来して右手に納まった剣を、藍忘機は間近で見詰める。
 地上では遅れて歓声が上がった。藍氏の門弟達が我先に駆け出して藍忘機を揃って見上げる。それを横目に、魏无羡は身を屈めて回廊に出た。誰からも見えない位置を移動する。
「含光君!」
 門弟達が声を上げる。藍忘機は微かに目を眇めて地上を見下ろした。
「含光君、来てくださったのですね」
「含光君、未熟な我らでは歯が立たなかったのです、申し訳ありません」
 口々に言うのを藍忘機は黙して聞く。藍思追が歩み出て、まだ手の内の剣を見ている藍忘機に問い掛けた。
「それが……今回の邪崇ですか。こんなに凶暴とは、何の悪霊なのです」
 藍忘機は目を伏せる。微かな沈黙を挟んで低い声が響いた。
「……一品いっぽん霊器に宿った霊識だ」
 藍思追が目を瞠った。藍忘機は静かに続ける。
「剣に宿った霊識であるなら剣霊となる」
「一品霊器がこれほどの怨念を?」
 藍景儀と藍思追が顔を見合わせる。仙師が用いる霊器の内、とりわけ優れた霊器に霊識が宿る事は常識だが、だからこそ一品霊器程の存在が怨念に染まるとは余程の事だ。主と定めた仙師に何かがあったのか、それとも。
 同じ疑問を抱かなかったわけもない藍忘機は微かに頷き、再び伏せた目で剣を見詰めると不意に二本指の印を結んで霊気を篭め、その刃をなぞり上げた。剣が反応して蒼く光る。呻きに似た奇妙にくぐもった音が響き、それは何かを語る声にも聞こえなくはなかった。藍思追が息を呑む。
「含光君、それは?」
 問い掛けに藍忘機は即答しない。剣は陰の気を放ち始めている。その黒煙に似た邪気を見詰め、藍忘機はようやく口を開いた。
「――阴虎符だ」
 驚愕に藍思追と藍景儀が目を瞠り、門弟達が一斉に息を呑む音がさざ波になって広がる。一足早く我に返った藍思追が声を上げた。
「阴虎符――剣霊に、阴虎符の痕跡があると?」
 大きな懸念を孕んだ声だった。俯いていた藍景儀が思い詰めて顔を上げる。
「不夜天の戦いで阴虎符は破壊された。そうですよね? まさか……夷陵老祖が生きている?」
 藍忘機は応えなかった。目を陰の気を放つ剣から離さない。気懸りを篭めてそれを見詰めていた藍思追が、ふ、と何かに思い当った顔で辺りを見回した。藍景儀が怪訝に見遣るのに小さく呟く。
「莫の若君は?」
 問われて藍景儀も周囲を見回した。身を隠していた魏无羡は遠くそれを眺めて小さく笑み、そのまま身を翻した。二人には悪いが、まさか藍忘機の前に姿を現すわけにはいかない。
 藍忘機はまだ剣を見詰めている。唇が微かに動いて短い言葉を刻んだ。声は誰にも届かない。
 姿を消す一瞬、藍忘機の視線を感じた気がした。回廊の屋根から、月光の色をした男が地上へと舞い降りる。
 懐かしい、声が魏无羡の脳裏で響く。短く呼ぶ、その、声。
――魏嬰
 風が吹いている。月が煌々と明るかった。

 

  

※本文庫の親鍵について、詳細は[PREFACE]を御覧ください。
※最終的に本にした後でP4Pにて頒布します。親鍵をお持ちくださった方については、事前予約の確定と見做し、親鍵の代金を内金に致します。400ページ前後で一冊ずつ刊行する予定です。

 

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