大義、というものの姿。愛、というものの色。 [20,500 字]
親愛なる視聴者の皆さん、──国境警備隊がその義務を遂行し、二人の男を撃ちました。二人は国家を裏切り、国境を破ろうとしたのです。呼び止め、警告射撃を行い、それでも彼らは止まりませんでした。一人は重体です……我がドイツ民主共和国の国境を越えようとする者は誰であれ許可が必要です。許可なく国境に近付かないでください。さもなくば──死ぬ事になります。
テープが止まった。
「随分と、古いテープですね」
画面がブラックアウトし、モノクロ番組の残像は掻き消えた。代わりにただのガラス板に戻ったそこにぼんやりと柔和な笑みを浮かべた女の顔がうつる。見事な淡いブロンド。白い顔を縁取っているそれが僅かにほつれている。暗い画面を鏡代わりに手をあげて髪を整えた。目の端でとらえた右手の乾いた皺は瞬き一つで追いやって左方向に首を傾ける。
古いが良く手入れされて美しい革の一人掛けソファが身動きにつれて微かな音を立てた。左隣のソファに腰を下ろした男の顔を見て目を細める。長い睫が視界の上下をふわりと覆って消えるのを意識した。男は上質な西のダークスーツを纏ってソファに沈んでいる。初老、というべきか。既に消えた画面から視線を動かさないその横顔は好悪の感情を抱くには余りに印象に乏しい曖昧な表情しか浮かんでおらず、しかし顎から右頬に掛けて走る引き攣れた傷跡だけが目立った。
「一九六五年。良く覚えています。この放送の頃、まだ私は二十歳にもならない小娘でしたけど」
言いながら男から視線を外してあたりを見回した。男の他に室内に居るのはあと二人だけだ。壁際に立った彼らも同じように暗い色彩のスーツを纏っていたが、その様子は任務に忠実な歩哨に等しかった。広いとは言えない室内にあって、四人の人間の質量はいささか大き過ぎて飽和している。小さなオフィスビルと思しき一室。一周した視線は窓枠を捉える。地上四階、珍しく冴えた青天。既に四十年の昔になった終戦の瓦礫からささやかに積み上げられてきた街の新たな歴史は戦後世代の目にさえどこか荒んだ空気を孕んでいると思わせたが、それも今日は僅かに薄い。本格的な冬を目前にしたベルリンの一角。時折遠く工事と思しき振動と音が響いて煉瓦とコンクリートの壁を震わせている。壁は……今なお市民による破壊が続く壁は見えない。どこからか甘い香りが漂った。
「『デア・シュヴァルツ・カナル』のフォン・シュニッツラーの放送。ええ、私の周囲で彼を好きだという人間になんて会った事がないわ。こうして聞いてみると、何一つ変わらないのね。知ってた? つい先日までこの番組はあったのよ。ああ、その最後まで四半世紀も前の放送とそっくり同じ調子だったなんて。フォン・シュニッツラー、体制の操り人形。全部を高いところから見下ろして冷ややかに笑う政府の広報老人」
室内に湿った笑いが満ちる。
「西にも、このテープがあるとは思わなかったわ」
誰に向かって言うともなく呟かれた言葉は床の擦り切れかけた絨毯に吸い込まれた。ソファと同じく手入れの丁寧さは窺えたが、丁度目線を落とした足元の絨毯の綻びに小さく昏い穴が続いている。行き着く先は見えない。
傍らの男の視線が振り向けられた。
「東が西の情報を集めていたように、西も東の情報は入手して保存した。西にも当然テープはある。そうでしょう、エッカート夫人」
男の言葉に、そうね、と頷いた。
「隣り合った二つの国が思想さえ異なるというならそうならない方がおかしい。たとえそれが元は同じ国であったとしても。それどころか、同じであったせいで尚更、というべきかしら。ああそうだわ、私が掻き集めた東の事なんて、あなた達が知らない筈もない。でも、もう東も西もなくなるのよ。壁は崩壊した。国家は再統一に向かうに決まっているのだし、自由を求めて壁を越える事もなくなる」
ゆるく首を振って目を伏せる。
「壁を越えようとして犠牲になった人達はどう思うかしら。ベルリンは私の大切な故郷だけれど、好きか嫌いかと言われたら答えられないのよ。これからは変わるかしら。私ね、東にないものが西には溢れていて、東で当然の事は西では当然ではないと知った時、この街はなんて呪われているのだろうと思った。壁の向こうには何でもあって、こちら側にはないなんて、同じ街なのにそんな事……西の人にもわかって貰えるかしら」
「勿論、想像は出来ますよ、エッカート夫人」
「……堅苦しいのは苦手なの、東にいるような気持ちになる。出来ればミリヤムと」
「では、ミリヤム」
男の穏やかに細められた目はやはりどこか印象が薄く、唇の動きばかりに視線を取られた。
「当時の事をより思い出しやすくなるかと御用意したテープでしたが、お役には立ったようだ」
「ええ、ノイマンさん」
小さく微笑んでみせる。
「ごめんなさい感傷的になって。余計な話ばかり聞かせてしまったわ。二十年以上も前に東を捨てた私でも、やっぱり東は故国ではあるのよ。でも、だとすると何から話せば良いのかしらね」
「どうぞ、思い出すままに」
男の唇は薄く笑みを形作った。今度は唇でなく頬の傷痕にばかり視線が向く。
「時間は有限ではありますが、折角の機会です、心残りのないように話していただいた方が良い」
醜いその傷痕と裏腹に男の声は穏やかに響いた。
「あなたを助けてくれた兄弟がいたのでしたね? その彼らが東の当局に人道的でない扱いを受けたと、それを告発したいというのがあなたの訴えですが」
「ええ、ええ、そうよ」
ミリヤムは両手を堅く握り締めて何度も唇を噛んだ。せわしなく視線を彷徨わせて膝を震わせ、首を振る。視界の端で鏡面じみた黒い画面に映る色の失せた唇が戦慄いて、自分が酷く細い息一つを漏らすのを見た。
「当局……そう、国家保安省に、彼らは……」
「シュタージの名は世界を震撼させた。あなたは彼らを告発しようとしている。ミリヤム、貴女は勇気のある人だ」
わかっているのよ、と呟いてミリヤムは目を伏せた。強くソファの肘を握った指先が白い。視界を覆った長い睫毛がさざめくように震えて、ミリヤムは声を押し出した。
「カールと……ロベルトは幼馴染だったの。リヒテル家とは父親同士に交流があったから、子供の頃に少し年上の彼らは私を可愛がってくれたわ。父の仕事の都合でその後ベルリンを離れたのだけれど、また戻ってから再会したの。私が大学に合格したのに、入部試験に通らなかった、丁度その頃よ。さっき観たシュニッツラーの放送から、そんなに経っていなかったわ」
それはお前の為になるだろう、と男は言い、青年は視線を落として腰掛けた木の柵を手で握った。目の前にはグラウンドが広がり、複数のコートがセッティングされて『トア(門)』が立っている。その向こう、もっとも離れた外れのフェンス前で複数人が身体を動かしているのも見えていた。傍らに立った男の灰色のコートは灰色の講義棟や灰色の空と同化して滲み、輪郭はおぼろげではっきりしない。風に植え込みの木々が揺れている。
成績は申し分ない、と灰色の男は言葉を繋ぎ、すぐにも将校待遇になるだろうと告げた。灰色の声は穏やかに響いて青年の耳朶を掠める。青年は小さく笑って顔を上げた。ベルリナー・ディナモは、と青年は躊躇いがちに口にして意味ありげに視線を投げた。それは俺のものになりますか。
直後、試合開始 の音色が高く響いた。
「ミリヤム・ベーレンス?」
そうだ、と返って来た返事は短かった。
「君の監視対象だ、ロベルト・リヒテル少佐」
見回してもコンクリート製の灰色の壁しか目に入らない小部屋だった。古びた、しかし重厚ではある木製のデスク一つが置かれたその部屋の窓は酷く高い位置にあり、僅かに入ってくる光が舞う埃を煌めかせる以外に一切の装飾がない素っ気無さだった。無論、崇高なる労働に過度の装飾などは不必要だ。リノリウムの床にぼやけた光が散っている。
デスクの上には数枚の書状と厚みのあるブリーフケースとが無造作に投げ出され、ロベルトに向けて一葉の写真が差し出されていた。それを指先で滑らせた男はデスクの向こう、背を向けて後ろ手に指先を組んでいる。
「監視……彼女に、何かの嫌疑が?」
「無論、そうでなければならない」
かつん、と踵を鳴らして男が反転した。着ている灰色の着衣は国家人民軍とまったく揃いの制服であり、一切の緩みなく首元の詰まった折襟、胸の略綬と共に一種不可思議な威圧感を与えた。表情の乏しさがそれに拍車を掛けている。
「我々の任務は国防だ。諜報部門が外敵に対する備えであるとすれば、我々内務は国内の不穏分子の洗い出しこそが最大の任務であり、当然、自国の国民を監視する以上、それは国家に対する明白な逸脱行為の兆候を得た結果でなければならない。違うかね、同志」
反論を許さない強さを孕んだ声に、元より否やを唱える教育は受けていない。ロベルトは返答の代わりにデスク上の写真一葉に手を伸ばした。何かの証明写真用なのか、真っ直ぐに前を向いた理知的な瞳は明るく、整った容貌の中、柔らかな花びらを思わせる唇は控え目に綻んでいる。
「ミリヤム・ベーレンスを監視する、となりますと」
「方法は問わない。君は彼女と知己だそうだな」
「子供の頃に隣家に住んでいましたから」
言ってロベルトは目を細めた。上官と同じ灰色の制服に身を包む事には疾うに慣れ、社会主義の理想に向かって邁進する国家への忠誠は当然の事として身に染みている。西の資本主義に染まり切った同胞達をいずれ救い出し、再びドイツ一国として再統一を遂げるに至るまで、二つの国家の片割れとして、東は完全な社会主義国家を実現しなければならない。だが。
「ミリヤム・ベーレンスへの嫌疑の詳細は。担当官でなく私にとおっしゃるなら、何か特殊な事情があると拝察しますが」
「そのとおりだ。君は将校であり、本来ならばこのような指示を与えられる立場にない。良いだろう、君の疑問は当然のものだ。君にはこれを閲覧する権利がある」
いつの間に手にしたのか、ごわついた上質とは言い難い硬い紙質の大判封筒一つが更にデスクに投げ出された。ブリーフケースが開かれている以上、そこから取り出されたものだろう。ロベルトは一瞬目を眇めて手を伸ばす。
「君には弟が居たな」
「は? ……いえ、はい」
唐突な上官の言葉に頬骨の辺りを強張らせながら辛うじて頷くと、ミリヤム・ベーレンスへの接触は弟にさせれば良い、と上官の言葉は機械的な正確さで続いた。
「カールと言ったか。監視対象と年齢が近い筈だな? 今は何をしている」
「……設計技師です。工場用の機械の設計を」
「素晴らしい。それこそが国家の未来に必要な才能だ」
驚きもせず声色一つ変わらない。既に調べ上げ、知り尽くしている事を確認する無感動さで並べられる言葉は空虚でありながら重量を持って床に落ち足元に響いた。窓からの光が揺らぐ。静寂の一拍。ロベルトは口を開き、一度閉じてからもう一度開き直した。
「弟を、IMにせよ、という事ですか」
上官は目を細めた。同意の言葉はなく、だが不意にまたロベルトに背を向けた上官の後姿は疑問の提示を拒んで冷ややかだった。
「方法は問わない」
繰り返された言葉にロベルトは唇を引き結ぶ。封筒は手にずしりと重かった。
青年はリノリウムの床に後ろ手をついて座り込んだ彼の手を取った。早くしろと叱責した声は低く、それは一瞬だけ彼の息を止めさせた。彼の眼前に伸びる廊下には未だ何者の姿もなく、しかし間遠な乏しい照明に浮かぶ濁った川に似た直線の向こう、遠く怒号と足音が響いている。早くしろ、という青年の二度目の叱責。背後の重い金属の扉を軋ませて男が飛び出し、巨大な男の影が二人を覆うのと、身体ごと反射的に振り返った青年の足が振り上げられるのとは殆ど同時だった。
彼は見る。見た直後、視界は染まる。
赤。
飛沫。世界が塗り潰される。あかく、あかく、飛び散る──長く尾を引く犬の遠吠えじみた悲鳴まで。
黒い。
街灯に浮かぶ全てが濃い黒に染まっている。
暗がりに浮かぶのは巨大なコンベアーでありねじを巻いて回転を始める歯車だ。全ては歯車の上に乗っている。国家の、その連綿と縛られた計画経済と同じく正確無比に重ねられゆく国家体制と秩序という歯車。この国に生きる以上、そこに否やはない。
あってはならないそれから視線を逸らして細く開いた窓を慎重に閉めた。何もない。少なくとも話は出来る。
「つまり?」
ベッドサイドの椅子に腰掛けたカールの表情はこわばっている。
「俺に密告をしろって」
既に夜は深かった。繰り返し窓の外を確かめる──監視の車、盗聴器、昨日無かった筈の何か──何もない。手は窓に鈍く光る金属の取っ手を握ったままロベルトは見下ろしたカールの目の縁ばかりを見る。弟はまだ一度も硬い表情を崩していなかった。強張りは消えない。
「……どんな会話をしたか報告するだけで良い。他には、彼女の家に盗聴器を仕掛けて来るだけだ」
カールの視線がロベルトに向き、次いで部屋を横切り、扉を窺った。ロベルトも扉を見詰める。静寂。どこからも物音は聞こえて来ない。カールの手が伸びてサイドテーブルの上の写真立てを持ち上げた。家族写真。まだ学生だった頃の兄弟と両親が納まっているそれを伏せた。ロベルトは窓枠を視線で辿る。取っ手を握った指先は白かった。
もう一度、窺うように扉を見詰めてからカールは目線を上げ、口を開いた。
「俺を非公式協力員にするわけ」
インオフィツィエル・ミットアルバイター、と一音ずつを区切るように発音したカールに何も気付かなかった素振りでロベルトは小さく頷く。
「お前が望むなら、正規の局員にする事も出来る。俺には権限がある」
少佐様だからな、と呟くように言ってカールは左右非対称に唇を歪めた。笑みに似た表情の、だが冷えた目のまま続ける。
「兄貴はシュタージだ。兄貴が選んだ事だからそれは良い。だけど俺には無理だ。判ってるんだろう? だから兄貴だって家を出る時はまるでその辺の会社に出勤するみたいな恰好をしてる。シュタージは恐れられてる。もっと言うなら嫌悪されてる」
「滅多な事を言うなよ」
低く言ったロベルトにカールは眉を跳ね上げた。
「俺の事も報告する? 無理だよな、そうなれば兄貴も降格だ。どうかすれば二人そろって留置場だぜ? 知ってるか、通り向こうの十五歳の女の子がデモの煽動罪で逮捕された。『自由に思った事はいいましょう』って書かれたポスター貼って回っただけでだぜ? あの子は無事に帰って来られるのか? なぁ、十五歳の正義感を恐れたんだ、この国は」
「カール」
ロベルトは首を振った。カールの真っ直ぐな視線はロベルトを捕らえたまま揺るがない。窓を細く開いた。キィと高く蝶番が啼く。深い夜。冷えた空気を吸い込んで閉じる。
「聞きたくなくても事実だよ、兄貴。確かに余計な事に首をつっこまず、体制に疑問があっても一切口にせず、壁に近づいたり国境を越えようとしたりせずに暮らしてる分には何も起こらないだろうさ、これだけ監視の目がはびこってりゃ当然だが犯罪だって少ない。悪い国じゃないんだろう、だけど、良い国でもねぇよな。逮捕されて投獄された十五の女の子にシュタージは何をする? なぁ、言ってみろよ。言えるのか? 同じ事を、ミリヤムにするのか? たった二十歳になるかならないかの女の子に、俺達が?」
「カール」
呼び掛けは窓ガラスに当たって乾いた音を立てた。視線を街路に落とす。黒い。何もない。増えてもいない。監視の車、盗聴器、最前まで無かった筈の何か──。ただ、黒い。
「命令なんだ」
「ミールケの?」
とカールは囁くような声でそう言った。国家保安相エーリッヒ・ミールケ。彼の方針は明快だ。疑わしきには、死を与える事も厭わない。
「命令だ。国家の治安維持の為に必要とされている」
「大義の為と言われても、俺には無理だ。兄さんとは違う」
カールは俯き、両手の指を組むと沈黙した。ロベルトは窓から離れる。握っていた金属片の形のままの拳を指の一本ずつをはがすように開きながら、俯いたカールのつむじを見ていた。
渦が巻いている。歯車が音を立てて回る。噛み合わされた隙間から黒い砂がさらさらと零れて床に山を作るのを同時に見ていた。
カールが深く息を吐いた。ロベルトは弟の表情を注意深く見守る。やがて肩を竦めたカールは「具体的に何をすれば良いのか教えてくれよ」と吐き出す息と共にそう言った。
たった一個のボールを追って走る。コートは狭く、時間は有限であり、ルールは厳格だ。
走る青年を男は見ている。まだ試合終了の音色は響かない。
「過ぎた事を考えるのは不毛だな」
テレックス端末の前、暗号化したデータテープを手に立った瞬間、思わず唇から零れ落ちた声に自身で驚いてロベルトは目を見開いた。傍らのデスクでデータ整理をしていた部下が年齢の分だけ刻まれたような目元の皺を深くして見上げるのに「なんでもない」と手を挙げる。
薄暗い室内はありふれた集合住宅の一室だったが、内実はまるでありふれていなかった。壁際に並べられたテレックス端末、デスク、それを埋め尽くす電話、録音機、録音テープ、その再生機、書類、ヘッドフォン、うねるコード類。無垢板の張られた床を配線が這い回り、しかし片隅には几帳面に積み上げられた用紙類が取り澄ましている。完璧な仕事場。隣室への扉は閉ざされている。
「送信を?」
半ば腰を浮かせ、木製の椅子が床を擦る音を立てると同時にデータテープに手を差し出した部下に一つ首を振った。
「いい、私がやる」
「しかし、少佐殿にしていただくような仕事では」
慇懃に言い募る壮年の男の実直な声を遮った。
「そもそもお前一人に任せないことが異例だろう。休憩がまだだったな、食事をして来い」
男は一瞬ロベルトを見詰め、しかしヤヴォール、と手本じみた諒解の返答を寄越した。そのまま立ち上がった部下を横目で見送る。隣室への扉が開かれ、明るい調度の応接室が目に入る。音を立てて閉まるそれの向こう、もう一つ扉の閉まる音が響くのを待ち、手早くデータテープをセットした。データを消去しながら傍らに盗聴テープから書き起こされた暗号化前の原本を並べて読み始める。
──私、出来たらスペイン語も学びたいのよ、ママ。
──スペイン語? そりゃ素敵だと思うけどミリヤム、またどうして?
──私は語学が得意だもの。ねぇ、アメリカと、もしもソビエト連邦が本当に戦争になるなんて事になったら嫌でしょう。外国語が使えれば、私たちの国について話せるわ。共産主義をとても悪い制度のように思っている西側の人たちに、そんなに悪いわけじゃないって説明したいの。
思わず口元に笑みが浮かんだ。意気込み、弾むような口ぶりでそう話すミリヤムの姿が易々と脳裏に浮かぶ。ペンを手にし、一連の会話の最初と最後に見えるか見えないかの小さな印を書き込んだ。既にロベルトの口元から笑みは消えている。
ロベルトの閉じた瞼の裏で上官から渡された封筒の中身が天井から舞って辺りに散らばった。ミリヤム・ベーレンス。西側各国語に堪能、イタリア人、イギリス人と文通、両親はプロテスタント、母方の祖父は西ドイツ在住の牧師、自由ドイツ青年団には所属せず──。
彼女を監視する理由、彼女が監視される理由。ミリヤム・ベーレンスには国家の敵の烙印が押された。烙印は二度と剥がされる事はない。
──ここには失業もホームレスもないじゃない。ドラッグが蔓延したりもしない。西は自由かもしれないけど、怖いところでもあるでしょう? もっと、この国を知ってくれたら、きっと認めてもらえるのに。
ミリヤムが認められる日は永遠に来ない。
兄貴、とカールは昨夜ロベルトの部屋に来るなり押し殺した声でそう言った。
兄貴、ミリヤムが大学に行けないのは、シュタージのせいか。
ロベルトは答えなかった。ミリヤム・ベーレンス、西側各国語に堪能──。調査書の文字が眼前に散らばる。フンボルト大学哲学部にて語学を希望、要審査。我が党の厳格なる教育にはそぐわないため却下。
やはりそうなんだな、とカールは拳を握って唇を震わせた。理由はなんだ、と言い募り、自ら外国語を学びたがるからか? と呟くと畳み掛けるように言葉を重ねた。それとも両親がプロテスタントだからか? 祖父が西で牧師をしているからか。でなけりゃ西側の人間と手紙のやりとりをしてるから?
ロベルトは黙ってカールを見ていた。弟の目に浮かぶ冴えた色の激情を受け止める。
そんな事で? そんな事でミリヤムの未来は奪われるのか。
カールは握った拳を開き、両手を差し出した。
兄貴、あの子はただ、広い世界を知りたかっただけだ。西側資本主義に傾倒しようだなんて思っていない。社会主義は神を否定したが、だからと言って信仰の自由は保障されている筈だ。家族がプロテスタントだから何だ、そんなものはミリヤムには関係ない、彼女は洗礼さえ受けていないんだぞ! 自由ドイツ青年団への所属なんて、ミリヤムには時間が惜しかっただけだ、体制に反抗するつもりなんて、あの子にはないんだよ、兄貴!
ロベルトは静かに首を振った。カールの目に絶望の色が広がる。
シュタージは国民を統制する、とロベルトは口にした。ミリヤムは『統制』の対象になった。
どういう基準で選ぶんだ、と言ったカールの声は、恐らく半ば以上は兄の返答を予測していた。あるいは初めから知っていて投げられた諦念が滲んでいた。どうやって、『統制』の対象者を選ぶんだ。
敵だ、と答えたロベルトの声は掠れた。ならばどうしてミリヤムを敵だと判断したんだと重ねられたカールの声に視線を逸らした。
監視対象として選択されるのは、敵対者として疑われるという事だ。
答えたロベルトに向かって馬鹿な、と呟いたカールの表情には、最早何の感情も窺えなかった。監視している、つまりお前は我々の敵だ? 滅茶苦茶じゃないか! ──その通りだった。
何故、俺と兄貴なんだ、とカールは呟いた。あの子が幼い頃、俺達はあの子を随分と可愛がった。それがいけなかったのか? それとも親父同士が親しいからか? 俺達は、あの子に青と黄色の縞模様の囚人服を着せるのか。
カール! と無邪気にはしゃいだミリヤムの声が脳裏に響く。偶然の再会を酷く喜んだ彼女の声を、ロベルトはカールの上着に仕込まれたマイク越し、ヘッドフォンから流れ出す雑音と共に聞いた。
手元の文章を注意深く暗号化する。小さく印を付けた箇所は慎重に省いて会話を繋ぐ。テレックスの向こう、長く伸びた赤い糸の先には灰色のシュタージ本部が繋がっている。膨大なその情報群は、リヒテンベルク郊外のノルマンネン街に聳え立つ巨大な灰の塔に積み上がり澱んでベルリンの空を覆っていく。
ふと扉を振り返った。物音は聞こえない。
──カール、今でも本を読むのが好き? 私、あなたから本を借りるのが大好きだった。最近はね、ハイネが好きなの。私たちは、こんな世界に生きているでしょう、だから、余計に強く思い起こされるのよ。
カールが答えて言う、ハイネか、そう、特にどういうところ? ミリヤムは澄んだ声で暗誦する。
──わたしたちが思想を掴むことはない。むしろ思想が私達を捕まえる。
高く低く、ミリヤムの声は通りに響いた。
──そして虜にし、鞭打ち、わたしたちが思想の為に戦う剣闘士にならざるを得ない領域に追いやるのだ。
ロベルトは慎重に見返したデータをテレックス端末にセットした。扉の向こう、明るい光に溢れた部屋は遠い。扉は閉ざされている。カールの強い視線が常に背中を突き刺す。出来る事はするとカールに向かって言った、それだけは守らなければならない。
血に塗れながら男は腕を上げた。白い世界、染められ行く赤。リノリウムの床に這い蹲った男の首から領土を広げるように赤い血が辺りを侵食していく。遠ざかろうとする二つの背を見る。それさえも赤い。赤くなければならない。
この中に裏切り者がいたとして、とミールケが語るのは日常茶飯事だった。続く言葉は決まっている。
「裏切り者が無事に明日の朝日を見る事はない。死刑に賛成か反対か? くだらん、死刑にすれば良いのだ。場合によっては裁判さえ不要だ!」
ロベルト・リヒテル少佐についての調査報告書、という書面を受け取ったのも、丁度ミールケが党本部で開かれた会合でそうぶち上げたのを耳にした直後のことだった。裏切りには死を。ロベルトが裏切り?
「クラウス・ネアンダー大佐、時間です」
言われてクラウスは顔を上げる。シュタージ本部、自分の執務室だ。曇天のベルリンは薄暗く澱んでいる。微かに眉根を寄せた若い部下の表情も沈んで見えた。
「もうか」
思わず呟いて眉を寄せる。だが、灰色の壁に掛けられた粗悪な時計の短針は確かに角度を大きく変えている。
「リヒテル少佐と、その実弟でIMのカール・リヒテルの拘束と移送は完了しています」
「わかった、行こう」
僅かに緩めていた首元を留め直して立ち上がる。書類鞄一つを手に大股に執務室を出た。灰色の建物、灰色の壁、灰色の軍服、灰色の空、全てに色彩が乏しい中、横目にした会議室の厚い絨毯だけが鮮明に赤い。
制帽を脇に抱えて早足で階段を降りる。リノリウムの床は鈍く明かりを反射して茫洋としている。
「大佐」
控え目に呼び掛けて来た背後の部下の声に僅かに首を振り向けた。潜めた声はそれでもくっきりと届く。
「リヒテル少佐が、何故?」
制帽を脇に挟んだまま、その手を軽く上げて部下の疑問を押し留めた。咄嗟に何かを言い募ろうとした青年は、直後、階段下から書類を抱えた女性職員が上がってくるのを見下ろして唇を引き結び、顎を引いた。やがて再び身を乗り出すようにして言う。
「自分は、……何かの間違いではないかと」
「それを確認しに行くのだろう」
「誰かの姦計に嵌ったのでは」
首を振った。そのまま制帽を深く被り、用意された運転手付の公用車に乗り込む。黒い革鞄を手に隣に乗り込んで来た部下を含め、車内で口を開く者はいない。車の後ろ、茶褐色のシュタージ本部の威容が窓一杯に広がって圧し掛かった。
「尋問は」
クラウスの独り言めいた呟きに即座に傍らの部下が反応した。鞄を開き、取り出した書類を眺めながら言う。
「独房です。八号房、十二号房となっていますね」
「少佐を三号房に移せ」
腕を組んでクラウスは目を細めた。隣で戸惑ったように頭を起こした部下が「リヒテル少佐を、ですか」と問うのに頷く。
「八号はこの時間、日差しが入り過ぎる。三号へ」
部下が動きを一瞬完全に止める。直後、窓越しに空を見上げるのを横目にクラウスは沈黙を守った。曇天。日差しは見えない。だが、一拍の間をおいて彼は承諾の「ヤー」を口にした。運転手がバックミラーを視線だけで窺っている。クラウスは細めた目を運転席のバイザーより嵩のある助手席のそれに向けてから目を閉じた。沈黙。エンジンと路面の振動だけが不規則に唸っている。それきり、クラウスはロベルトの独房に入るまで無言を貫いた。
──入局して、クラブ・ディナモでプレイ出来れば、それは光栄な事ですね。
シュタージに入局する直前のロベルトのはにかんだ笑みと口にした言葉が不意に独房の天井に浮かび上がって消えた。狭い三号房にはマットレス一つと運び込まれたデスク以外には何もない。窓の鉄格子の向こうは変わらず曇天で光は余りに乏しかった。
「サッカーは、もう辞めたのか」
言うとロベルトは思い掛けない事を聞いたと言わんばかりに眉を上げてクラウスを見詰めた。
「ディナモをいつの間にか退部していた」
「靭帯を痛めて」
ロベルトが掠れた声を出す。それが、再会したロベルトの第一声だった。精悍な顔立ちは変わらないがやつれている。少佐位が考慮されたか、服装だけは制服のままだが、ボタンが飛んで肌蹴られたままの上着の内側、シャツの襟には血痕が滲んでいた。良く見れば、唇の端が切れて頬が腫れている。
「ベルリナー・ディナモでプレイしたのは、そうですね、一番、光の中を走った時期でしょうね」
貴方に声を掛けられてシュタージに入局した果てに、まさかこんな風に再会するとは思いませんでしたが、と続いた声には自嘲が滲んでいた。腫れた頬のせいか唇に浮かんだ笑みは歪んでいる。
「やつれたな」
一瞬、ロベルトが笑みを消してクラウスを見据えた。ゆるりと外された視線が床に向く。
「収監される際の身体検査で丸裸にされた上に冷水のバスタブに沈められましたからね。口から耳から穴という穴全部を裏返しにされた。収監されれば必ずそうなる。ご存知でしょう?」
同意も否定もしなかった。クラウスはデスク上で両手を合わせる。
「ロベルト、ここでは盗聴はされない」
ロベルトの視線が僅かに色を含んでクラウスに向けられた。クラウスは一つ頷く。
「ここは三号房だ。ここには盗聴設備はない。政治取引を行う為の房だからな」
ロベルトの瞳に僅かに力が篭った。
「まさか俺を助けるとでも? 監視対象者を『西』に逃がした重罪人の俺を?」
クラウスはロベルトを見詰めた。ロベルト・リヒテル少佐についての調査報告書。文字はロベルトの頬に浮かんで流れる。嫌疑、監視対象の国外逃亡幇助。監視対象者ミリヤム・ベーレンスは壁を越えて西ベルリンに逃亡。かねてからの綿密な計画の疑い。ベーレンス家とリヒテル家には親世代からの交流あり。
「本当なのか」
「調べたんじゃないんですか」
「……お前の口から聞きたい」
「もう俺は敵対者として拘束されている。疑われるという事は俺が国家の敵だからだ。違いますか」
薄く笑みさえ翻したロベルトは、注意深くクラウスの表情を窺っている。
「これは尋問じゃない、ロベルト」
クラウスは人差し指で机を一つ叩いた。
「お前は昇進が早い。妬んだ誰かに仕組まれる事も有り得る。ここは」
確かに密告社会ではあるのだ、と押し殺した声で続けてクラウスはロベルトを見詰めた。ロベルトの表情は変わらない。凍り付いた湖面のようにクラウスを見返している。
「お前を推挙したのは私だ。何もかも、話しては呉れないか」
その為に今、三号房にいるのだ、と落とした声で言ってもロベルトの表情は変わらなかった。弟は、と短い問いが投げかけられる。
「拘束されている。この後、話を聞く事になるだろうな」
「俺を尋問しないあなたは、だけど弟には尋問を行うんでしょう」
あるいはあなたが手掛けないとしても、誰かがする。あなたならば取らない苛烈で野蛮な方法も採用するでしょう。そう、睡眠の剥脱、暴行、兄は既に全てを認めたのだと騙し、脅し、あらゆる手を使って何もかもを暴き立てる。本当のことも、そうでないことも。
淡々とそれだけ告げてロベルトは口を噤んだ。クラウスは眉を寄せる。ロベルト、と口にしてから少しの沈黙の間を何もかもが灰色に塗り潰されたシュタージ本部のその色彩のなさを思い浮かべて重ねた。
「……盗聴記録に手を入れていたな?」
ロベルトは微かに目を開き、すぐに元の表情に戻した。参ったな、と呟いた声は無論ひび割れている。
「最初から、知っていたんですか」
「今回の調査記録には記載がない」
ロベルトの部下から連絡が入った時の事をクラウスは良く覚えていた。緊張した声がお目に掛かりたいと、電話では話せないのだと告げた。誰に聞かれているか判らない、と言うのに同意して公園で会った。リヒテル少佐は、と上官を売る後ろめたさと報告を怠って自分が罰され国家の敵となる事とを天秤に掛けたらしい男の酷く左右非対称に落ち着かず捩れた面持ちは今でもはっきりと思い浮かべられる。
──監視対象者のデータを改竄して送信しているのではないかと思います。
理由はわかりませんし、確たる証拠はありません、と呻くように言った彼は、通常その場で破棄される筈の暗号化前の文書を持ち出していた。クラウスは文書を受け取り、受け取った以上は調べないわけにはいかなくなった。
本部のファイルと、男が差し出した文書と突合せを行うのはクラウスの立場では容易だ。なるほど不都合と思われる箇所が削られている事も、その内容も見て取った以上、密告者にはしかるべく処理すると連絡する他はなく、当人には異動の便宜を図ると確約し、他言無用を言い含めた。それだけで安心したらしい男が口を閉ざしたのを幸い、クラウスはそのままロベルトへの嫌疑を我が手に握り潰して今日までを来た。
印象深いフレーズが脳裏に浮かぶ。詩人ハイネの言葉だ。ロベルトは、ミリヤムの口にした詩人の言葉を報告から削っていた。思想が私達を捕まえる。
「記載はないんだ、ロベルト」
盗聴器がなくとも、リノリウムの廊下には局員が行き来し、クラウスの部下が立っている。背後に視線を飛ばす大げさな仕草一つでロベルトにそれを示してから、クラウスは再びロベルトに向かって身を乗り出した。
「報告は、俺のところで全て止めていた。意味がわかるだろう、ロベルト」
ロベルトが息を呑み、唇を舐めて俯いたのにクラウスは続けた。
「本当に壁を」
越えさせたのか、と囁いたそれに、ロベルトは一つ瞬きを返した。やがて「裏切り者には死、ですよね」とミールケの口癖を持ち出して今度こそはっきりと唇に笑みを刻む。クラウスが何かを言い掛けて口を開き、何も言えないまま閉じる間をそうして笑んでいたロベルトは、しかし直後、全ての表情を滑り落とし、クラウスに向かって言った。
「カールは……弟は何も知らない。あなたは俺に有利に事を運んで呉れたのだという。そんな事に縋れるものかは知りませんが、俺のことは良い、カールを助けてやっては貰えませんか」
「それでは、お前が……!」
それはロベルトの死の確定を意味している。
珍しく青空が広がった日、男は日が沈む前にグラウンドに足を伸ばした。
広いグラウンドにはボールが高く蹴り上げられ、蒼天の向こうへと放物線を描き、やがて落下する音ばかりが響いている。青年以外の人の姿はなく、男は黙って青年の背中を見続けた。
空の青が徐々に消え、赤く染まったそれさえも滲んで夜が訪れる頃、青年はボールを抱えて男の前に立った。
ボールを蹴るのは好きかと男は問い、青年はボールを足元に落としてサッカーは、と言った。サッカーは、誰のものでもない、そうでしょう? そうだなと頷いた男に青年は背を向けた。青年の頬を伝った小さな雫が汗なのか涙なのか、男にはわからない。
ミリヤム、と声を掛けそうになるのを辛うじて堪えていた。口の形がミリヤムと紡ぐのは止められなかった。
傍らの兄が低くカール、と呼び、拙いなと呟くのに血の気が引いた。強張った顔を兄に向け、再びミリヤムに向けて唇を舐める。
ミリヤムの歩調は緩まない。壁が近かった。カールは周囲に視線を走らせる。夕闇。ベルリンの街を東西に分断した壁は、住宅地を貫き、通りを跨ぎ、地下鉄を跨いでうねっている。
「兄貴」
呟いた声が喉に引っ掛かった。ロベルトは制服姿だ。灰色の制服。
「ミリヤムは、何をする気なんだ」
「わからん。だが、可能性はある」
可能性、とカールは繰り返して再び背筋を這い上がった震えに戦慄いた。ミリヤムは壁沿いを歩いている。線路沿いの壁は金網と鉄条網だ。その向こうには何もない地面が広がり、更に先にまた壁が見えている。
「監視が増えたからか?」
言ったカールにロベルトは「かもしれない」とだけ返してきた。ロベルトの腕を掴む。
「もう十日以上だ。露骨に過ぎるんだよ。あれじゃミリヤムを追い詰めるためにやってるとしか思えない。通りの角に停車した車、無造作に隣家の前に立って新聞を読んでいる男。バス停でたむろしてる連中もだ。あいつら何なんだよ!」
ロベルトは振り返り、カールを一瞥しただけでミリヤムに視線を戻した。
「俺は何も知らない。本部からの命令だろうということしか言えない」
「大層なところだよな、シュタージ。局員同士でさえ監視する」
ロベルトの腕を放し、道路脇に唾を吐いた。ミリヤムは頭が良い、と呟いて拳を握る。
「尾行、盗聴、監視、気付かないわけがない。あのイタリアからの手紙以降なんだ、ミリヤムでなくたってここまで続けば嫌でも気付く」
一度封を切られた事が明白な『破損のお詫び』のスタンプが押された封書を受け取った時の、ミリヤムの蒼白な顔が浮かんだ。何食わぬ顔をして翌日、元気ないなと声を掛けたカールに、ミリヤムは力なく笑った。
──イタリア人のペンパルから手紙が来たの。『あなたが自由を得てイタリアに住むことが出来たらどんなに良いか』って書いてあった。私には、自由がないと思う?
それきり、カールの前でさえ、彼女の笑みは消えた。
「どうするんだ、兄貴。もうミリヤムが家を出てきてから二時間は経つんだぞ」
ミリヤムは何気ない足取りで壁沿いを延々と歩き続けている。彼女の足元は砂地だ。足音は響かなかった。カールは周囲を見回す。灰色の何かがゆれている気がしては背筋を竦み上がらせた。
「警備隊ってどのくらいの間隔で巡回してるんだ」
国境警備の任に就く隊員は国家保安省の所属だ。ロベルトの制服が不意に国境警備隊のそれに摩り替わって銃を撃つ幻を見る。
「戻ってくるまでそう時間はない」
ロベルトの声が低く尖った。カールは強く唇を噛んで俯く。指先が震えた。
不意にロベルトがカールの腕を強く掴んで引いた。視線を上げてカールは息を呑む。
ミリヤムは、金網に手を掛けていた。そのまま、それをよじ登り始める。夕闇は夜に呑み込まれようとしていた。周囲を闇雲に見回す。不思議なほど、誰の姿もなかった。
「感謝します!」
思わず呟いた。何? と鋭く聞き咎めた兄に「奇跡だ」と口走る。神を否定する国で弟が祈るように両手を組むのを見たロベルトは一瞬押し黙り、細く息を吐いて首を振った。カールに向かって掌を水平に動かし、身を低くする。そのままミリヤムを追って駆け出した。
カールは背後を振り返る。もう世界は夜に侵食されていた。まだ、何者の姿も見えない。身を低くして兄を追った。前を行くロベルトが、しきりに何かを指差すのに気付いて眉を寄せる。指先を視線で辿った。何もない。連綿と続く鉄条網。平行して等間隔に並ぶ天へ向かって伸びる柱。
不意に柱が白く光った。声を上げかけて息を呑む。照明灯だった。一列に並んだそれが辺りを一斉に照らし出す。眩さに目を細めた。白く射抜かれた視界にミリヤムの姿を探す。
ミリヤムは既に金網を越えた先の無人地帯に立っていた。一度も振り返らない。光を縫って歩き、無造作に国境に辿り着こうとしていた。国境! カールは息を呑む。彼女と西の間には、まだもう一つの金網と監視用道路、鉄条網があり、更に壁がある。何重にも彼女の行く手を阻むものがあり、しかしたったそれだけでもあった。
呆然と立ち竦み、見守るカールの前で、金網の向こうのミリヤムが腹這いになった。何もない無人地帯を照らし出される光を避けるようにそろりと前へ進む。
「行くのか」
呆然とロベルトが呟くのを聞いた。カールは一つ頷く。
「行くんだろう。もう決めたんだ、きっと」
金網の手前、草むらで二人、身を屈めてミリヤムを見ていた。時間にすれば何十秒もなかったに違いない。やがて、弾かれたようにロベルトが立ち上がった。
「犬が」
言ってカールの腕を引く。
「来い、あそこには警備の為のジャーマンシェパードが繋がれている。ミリヤムに気付けば吼える」
身が竦んだ。ミリヤムは小さな影になって西へ向かっている。昼間のように照らされた国境地帯の、しかし未だ誰一人としてミリヤムに気付いた者はない。
走り出した兄の背を追った。だが視線はミリヤムの小さな背中から逸らせなかった。こっちだ、と一声投げ掛けて来たロベルトが、金網を抜ける柵を開こうとしている。シュタージの将校。兄がそういう人間である事を今更目の当たりにする。
「ミリヤム」
呟いた。兄が足早に金網を抜けてミリヤムを追う。犬はまだ吼えない。後を追ったカールは、ジャーマンシェパードが緩く尾を振って兄を見詰めるのを確認した。その遥か向こうを、ミリヤムがじりじりと進んでいく。もう、次の鉄条網は目の前だった。線路との境界になっている壁の上には、鉄条網から一歩しかない。壁を越えた先には手摺があり、もう、それだけだという事をカールは兄から聞いて知っていた。
「カール」
小声で呼んだ兄の声に我に返った。駆け寄った足元でシェパードは尾を振っている。ここにいろ、と兄が言うのに目を瞠った。
「どうするんだ」
「ミリヤムを追う」
「捕まえるのか」
思わず兄の軍服の袖を掴んだ。ロベルトが首を振る。
「壁の向こうの手摺の手前に仕掛け線がある」
弾かれたようにミリヤムを見遣った。もう幾らもしないうちに、彼女は壁に辿り着く。
「壁を越えて走り出せば必ず引っ掛かる。そうなればサイレンが鳴り、サーチライトが灯る。それでも走ろうとすれば、国境警備隊は発砲する」
口早に言ってロベルトはカールの手を振り払った。カールは兄の背に上擦った声を投げた。
「ミリヤムを、行かせるのか」
ロベルトは一瞬だけ振り返った。
「お前の誇れない兄にはなりたくない」
そうして駆け出した。カールはその背に臙脂のユニフォームが重なるのを幻視する。ボールを追い、フリードリッヒ・ヤーン・シュポルトパークのスタジアムを駆ける兄はカールの自慢だった。シュタージに入ろうと思う、と笑った兄を覚えていた。ベルリナー・ディナモでプレイするからな、見てろよ。
「兄貴」
へたり込んだ。耳元にシェパードの息遣いだけが響いている。
青年は既に青年ではなかった。男は彼を見、彼は男を見た。互いに全てを赤く染めながら、ただ見ていた。彼の傍らに、血に塗れた誰かが横たわっている。全てが赤い。空は見えなかった。
引っ掛かったの、とミリヤムは言って自嘲するように小さく笑った。
「仕掛け線よ。全然見えなかった。もう私には目の前の手摺を越えれば西だって事しか頭になかったから。これで自由だ、監視される事もなくなるって」
「どう、なったんです?」
ノイマンは慎重にミリヤムの表情を窺った。ミリヤムが窓の外に視線を投げる。穏やかな晴天。二十数年前を思い起こす女性の横顔には、確かに歳月の分だけ苦悩が刻まれている。
「サイレンが響いて、サーチライトで照らされたわ。腰が抜けちゃって、座り込んでしまって動けなくなった。あと少し、あと少しなのに、あと四歩なのにって、そればかり頭をぐるぐるして」
「だが、あなたは逃げ遂せた。あなたが西へ亡命したのは二十年以上も前だ」
「ええ。ロベルトが助けてくれたの」
不意に腕を掴まれて引き起こされた。耳元で「行け!」と怒鳴る声はサイレンを凌駕した。最初に目に入ったのはシュタージの制服だ。捕まった、と混乱した頭で思った横から再び「行くんだ!」と怒鳴られてようやくミリヤムはそれがロベルトである事に気付いた。
「転げるみたいに走ったわ。手摺を越えて、西側から、人が走ってくるのを見た。ああもう私は西にいるんだと思ったら涙が溢れて、誰かが抱き止めてくれたのにしがみ付いて、ようやく振り返ったの」
ロベルトが数名の国境警備隊員にもみくちゃにされ引き摺られているのが見えた。壁の上からカールが飛び降りるのが目に入る。そのカールに向かって銃の台座が振り下ろされた。カール! と叫んだ自分の声が彼に届いたかどうか、ミリヤムは判らないとそう言う。カールもロベルトも酷く殴られていた。銃声は聞こえなかった筈だ。
「それきりよ」
「それきり」
「ええ、私は西の人達に連れ出されたし、その後の事は判らない。どうしてあそこにロベルトやカールがいたのか……後から思ったの、二人は私を監視していた人達の一部だったんじゃないかって。だとしたらあの時もきっと私を尾行してたんだろうに、何故助けてくれたのかもわからない。こっちに来て落ち着いてから、手を尽くして彼らと連絡を取ろうとしたの。でも、最終的に彼らは死んだと知らせが来て……」
殺されたのよ、とミリヤムは呟いた。
「だって私を助けてくれた日、間違いなく彼らは生きていたのに、知らせにはその半年も前に二人揃って事故で死んだと書かれていたの」
そんな事ってある筈がないでしょう!
ミリヤムの言葉にノイマンは頷いた。ミリヤム・エッカートの言う事は正しい。そんな事は起こる筈がない。
「あなたに提供いただいた情報で、こちらも調査をしました。まず、間違いないとは思われたのですがね」
ゆっくりとノイマンは口火を切る。壁は崩壊した。激動の時代に翻弄されたドイツという国の、これはほんの一面でしかない。これから先がどうなるかも判らない。それでも、言える事はある。
「ロベルト・リヒテル少佐ならびに弟のカール・リヒテル氏、二人は確かに死亡しています」
ミリヤムが眉を寄せ、目を閉じて天井を仰いだ。ノイマンは一つ息を吐き、スーツのうちポケットから一枚の書状を取り出して視線を落とした。
「ロベルトは拘束され、独房に拘留された。だが、弟カールを脱獄させようと係官を殴り倒して独房を脱出、カールの審問中であった上官を殴り倒し、彼を房から脱出させ、更に止めようと追った上官を蹴り上げて顎を砕き重傷を負わせた上で、弟と揃って灰色の監獄を飛び出す寸前に」
言葉を切ってノイマンは書状を折り畳み、内ポケットに戻した。目を開いたミリヤムを見詰めたまま続ける。
「射殺されました」
ミリヤムが目を見開いた。震える白い手が彼女の口元を覆う。ノイマンは首を振った。
「裏切りには死を。シュタージとはそういう組織だ。シュタージの任務を知っていますか? 党を守り、体制を守る為に西側諸国と自国民を監視し、統制する」
少し、首を傾けた。戦慄くミリヤムの姿に目を眇めた。
「ロベルトは、ミリヤム・ベーレンスを逃がしたのは自分の上官であるクラウス・ネアンダー大佐の指示によると証言していた。その為に尋問は広範囲に及び、関係者は酷い取調べを連日受けていた。クラウス・ネアンダー大佐は幸いというべきか人望があり、庇う将校も多く、その為にロベルトへの証言への疑心暗鬼で内部は混乱した。ロベルトはその機に乗じて逃亡を図ったのです」
「射殺……」
呆然とミリヤムが呟くのにノイマンは頷く。立ち上がって窓辺に立ち、手を伸ばして窓を細く開いた。冷たい風が吹き込み、遠く犬の吠える声が聞こえる。
「許されてカールの審問に当たっていたクラウス・ネアンダー大佐自らが射殺した。自分に不利な証言をした部下を口封じに殺したのではないかという嫌疑が晴れるのに半年以上も掛かっている。これは随分と骨の折れる事でした。実際、サッカー選手であったロベルトの脚で砕かれた顎から頬に掛けての骨も粉々でね、こちらの骨は結局人工物で補う事になったわけですが」
ノイマンは窓を閉めた。カチリと機械的な音が響いて室内に静寂が戻った。途絶えた犬の遠吠えの残響だけが漂う。
ミリヤムの眉が不審そうに顰められた。ノイマンは小さく笑みを浮かべる。
「ロベルトやカールは満足だったでしょう。ともかく貴女を守り抜く事は出来た。それが彼らにとってどんな意味があったのかは、想像する事しか出来ませんが。純粋な正義感だったのか、それとも、美しく知的な貴女に魅了されたのか」
「ノイマンさん?」
「貴女が間違いなく貴女であると確認するのにもそれなりに骨が折れましたよ、ミリヤム。万に一つも間違えるわけにはいかない。おや、随分と不思議そうに見ておられる。何を言っているのか判りませんか、聡明な貴女が?」
言ってノイマンはゆるりと微笑んだ。
「今日、貴女はどうやってここにお出でになりましたか?」
「どうって」
ミリヤムは怪訝な顔のままで助けを求めるようにノイマンの背後、壁際に立った男達に目を向けた。いつの間にか、一人はドアの前に移動している。
「我々の差し向けた車でお出でになった。そうですね?」
「ええ」
「ここがどこだかお分かりですか」
初めて、はっきりとミリヤムの顔に恐怖が張り付いた。弾かれるように立ち上がったミリヤムが窓に駆け寄る。空は青い。壁は見えなかった。
「壁は崩壊した。だがまだドイツ民主共和国は存在する。ベルリンは」
二つに分かれたままです、再統一まではね、と口にしてノイマンは立ち上がった。ミリヤムが狂ったように窓を叩く。窓は開かない。音さえ響かなかった。
「ベルリン中央、そう、ここは『東』だ」
ゆっくりと、ノイマンは懐に手を入れる。取り出された鈍い光を放つそれを見てミリヤムが悲鳴を上げた。
「裏切り者には死を。ああ、私のノイマンという姓は、先祖がギリシャ語に読み替えたものをドイツ語に戻したものでね。ご存知ですか、我が国では中世に姓をギリシャ語読みに変更する事が流行ったんです。それを元に戻してね、この頃はそう名乗っているんですよ。改めて自己紹介させていただこうエッカート夫人」
私の名前はクラウス・ネアンダー、と言ってノイマンは笑みを深めた。ミリヤムの唇からは絶叫が迸っている。まるでそれが響くかのように、ノイマンは自身の頬に走る無残な傷を撫でた。
「ホーネッカーもミールケも方法を誤った。だが、我々の理想は潰えてなどは居ない。いずれ、再びドイツ民主共和国は再建される、今度は完全な国家として」
ミリヤムの目から大粒の涙が溢れた。その美しいブロンドが揺れる。
「わたしたちが思想を掴むことはない。むしろ思想が私達を捕まえる。そして虜にし、鞭打ち、わたしたちが思想の為に戦う剣闘士にならざるを得ない領域に追いやる」
あなたの好きなリルケだ、とノイマンは囁いた。ミリヤムが天を仰いで目を閉じる。ノイマンは右手を上げた。銃口は真っ直ぐにミリヤムを向いている。
撃鉄の起こされる音が灰色と青の境界で小さく響いた。
了

