観客の居ない、真夜中のサーカス小屋。目隠しをして空中ブランコに挑むピエロは、誘導してくれる誰の姿も信じられずに、無様に落下する。 [4,100 字]
それは終わりを意味しているのだ。
夏休み、というものに抱くイメージは人それぞれだろう。
とりあえず、学生という身分にいる人間に限定すれば一年で一番長い休暇であり、ラジオ体操だとか蝉の声だとかカキ氷だとか海だとか扇風機だとか、妙にノスタルジックなイメージを喚起させる言葉でもある。
その学生の中でも運動部に所属する人間の大半にとって、夏という季節は勝負の季節であり、結果の季節になる。運動競技のシーズンは夏に集中している。
中でも。
野球部、それも高等学校においてのそれは夏の選抜高校野球選手権、いわゆる夏の甲子園と等記号で結ばれているに違いなかった。
つまり、甲子園出場を賭けた予選大会は、全ての高校球児にとっての「夏の決戦」である事はほぼ疑いない。甲子園に行く事が夏のメインイベントだ。予選大会の敗退は、その時点での夏の終了を意味する。特に引退する最上級生にとっては。
だから、と彼は呆然とテレビを見詰めたまま、思った。
そのくらいは、判る。中学生に過ぎない自分でも判る。同じように野球が好きで好きでたまらず、野球ばかりに思いを馳せる毎日を過ごしているからには。
手にしたグラスに満たされた麦茶が温くなるほどの時間、口も利けずにテレビを凝視した後だった。「だから」と思わず更に口をついて独り言をもらし、続かずに口を閉じる。
だから、甲子園に出場出来た球児は、予選敗退を余儀なくされた大多数の球児よりも少しは幸せだ。少なくとも、甲子園に出場した、という人生でも大きな誇りを手に入れられた。
ぽたり、とテーブルに水滴が落ちる。まだ冷たかった麦茶によってグラスの外側に無数に付いた水滴が、重力に逆らえずに落下した音だった。
彼の前にはテレビがある。既に番組は恐ろしいくらいに無表情のアナウンサーが無感動に読み上げるニュースの時間に切り替わっている。日本経済がどうとかこうとか、という話題は、大きく捉えれば勿論、中学生の彼にも関係するのだろう。しかし今はそんなものは耳に入らなかった。
夏の甲子園が開幕して二日目。一回戦のゲームを彼は見ていたのだった。この日の第一戦。
ニュースが終わる。画面が切り替わり、そこにはまた、甲子園球場の土と芝生の対比が鮮やかなグラウンドが映し出される。
実況のアナウンサーの声が入り、今日の第一戦の結果を述べて「それでも、敗れた商高の球児達にとって、この試合は一生の宝物になることでしょう」と朗らかに結んだ。
そう、その通りだ、と彼も思う。その筈だ。甲子園に出場した。あのグラウンドの土を踏み、精一杯のプレイをした。それは何よりの勲章だ。そんな事は当たり前だ。
勿論判っている。判っているがしかし。
やはり、甲子園での敗退は、それは夏の終わりを意味しているのだ。
翌日のロッカールームは、当然のように前日の高校野球の話題に終始した。
注目されている試合だった。対戦校が決定し、発表されるや否や、事実上の決勝戦が一回戦で行なわれる、と誰もが思った試合だった。
昨年の春夏を制し、今年の春をも制した超の付く強豪校である商業高校と、一昨年の覇者であり、春こそ逃したものの、今回の優勝の最有力候補と見做されている工業高校の一戦。
どちらもエースピッチャーの能力が図抜けており、形としては守りの野球をするチームだが、予選を全て二桁得点で制した強力打線は守りの野球という言葉を躊躇わせる、そんな一見非の打ち所のないチームだった。良く似たチーム同士の対戦という事になる。
結果は。
「幾らなんでも四大会連続優勝はないだろ」
判ったような顔でショートが言う。ファーストは目を上げただけでそれを黙殺し、サードは「凄い試合だったよなあ」とピントのずれたコメントをした。彼は自分の隣に視線を流す。結果は工業高校のサヨナラ勝ちだった。たった一点差の、息詰まる攻防を制したのは春の覇者、商高ではなかった。
野球部の狭い部室には、今は二年生メンバーしか居ない。窓は開けているが風がなく、真夏の太陽が容赦なく地面を焦がして室内は暑い。練習を終えたばかりとあって当然のように汗のにおいが充満している筈だが、麻痺しているのか慣れてしまったのか不快感はさしてなく、ただ、それぞれにロッカーに向かったまま、背中合わせで話をしている。
彼の隣はピッチャーだ。
「お前らはどっちが勝つと思ってたんだよ、そこのバッテリー」
ショートがえらそうにふんぞり返った。彼が「ああ」と不明瞭な返事をしても、彼の相棒はまるで頓着する事無く頭から黒いTシャツを被ってロッカーの扉を閉めた。長い指先がスチールを押し、その指から放たれる白球を受けるべき彼は、テレビ画面で見た試合の最後を脳裏に浮かべている。
運動部の夏休みは、ひたすら練習に明け暮れるという意味で、授業がなくなった分いっそ過酷だ。まるで「休み」にはならない。
「でも、良い試合だったぜ」
ぽつりと、ファーストがそう漏らした。
彼は目の前のピッチャーの顔を見る。
なあ。
お前は、どんな気持ちで昨日試合を見たんだ。
相棒を世界一のピッチャーだ、と彼は信じている。この球を受けた事のあるキャッチャーは幸運だ。とんでもない球威のストレートは、まるで投げる本人の性格を現すように苛烈で美しい。
敗れた商高のエースの球は、テレビで見ている限り驚くほど相棒の球に似ていた。
「なあ」
並んで歩きながら、やはり昨日の一戦が頭から離れずに彼はふと呼び掛ける。
「商高のエースは、なんで……」
言葉が続かない。
サヨナラの場面は悲壮だった。サヨナラになる、と恐らく試合を見守った全ての人間が予感しただろう。工業側の応援者は期待をもって、商業側の応援者は悲痛な気持ちで。傍観者である大多数は、他人事の興味で。
それまで完璧な投球を続けていた商高のエースは、よりによって九回、同点で迎えたそのマウンドで大乱調を引き起こした。四球で歩かせ、暴投で歩かせ、アウトカウントは一つきりのまま、あっという間に満塁になった。迎えた四番バッター。
空が高い。
昨日の甲子園の空も、今日のこの青空のように澄んで高かった。遠く入道雲が湧き上がり形を変えていく。
ここは田舎町だ。見渡す限りの田園風景。そこかしこで鳴く蝉の声は、重なり合い、増幅して最早どこから聞こえているのかすら曖昧だ。
汗が流れた。
相棒はちらりと横目で彼を見、「さあ」と素っ気無い返事を寄越した。
同じくピッチャーだ。恐らく商高のエースの気持ちを想像出来るだろう。たった一人、マウンド上で、全てを背負って投げ続ける孤高の存在。世界中でただ一箇所、ピッチャーという存在にとって意味を持つ場所。光降り注ぐ、唯一絶対の場所に立つ者の気持ちなど、ピッチャーにしか判らない。
九回。
それを失点なしで乗り切ったとして、次の回に打線が奮起しなければまた同じ事が繰り返される。ひたすら打線を信じ抜くだけの重圧。
野球は一人では出来ない。夢舞台でのたった一人の戦いは、たった一人であるにも関わらず、野手の支援がなければ成立しない。
彼は感嘆の溜息を漏らした。
そうだ。ピッチャーとは、なんというポジションだろう。野手とて当然、ピッチャーが打たれない事を信じている。打たれたら、その分自分達が取り返してやろうと思う。それでも。
ピッチャーの孤独と重圧は恐ろしい位だ。比較にならない。
「なあ」
繰り返された呼び掛けに、涼しい瞳が彼を見る。強い意志の宿った切れ長の目は何を見ているのか。知りたくて彼は息を呑む。
「あの場面で、お前なら、あんな風に崩れたら、もし」
「もし、はない」
彼の言葉を遮って切り捨てるように言葉が放たれた。
「俺は打たれない。俺は負けない」
白球が放物線を描く。鋭く風を切り、ミットに重く沈む。
「そう……だな」
「お前は」
言ってから苛立った気配で眉を寄せたピッチャーの顔はマウンドでのそれとはいささか違った。彼はそれに気付き僅かに頬を強張らせた。どこかで何かが割れる気配がする。
「お前はどうなの」
「うん? どういう意味」
「お前は、ピッチャーのせいだと思うんだろ。ピッチャーが崩れるのが悪いんだ」
「あ」
彼の呆気にとられた顔を見たらしいピッチャーの眉間の皺が深まった。そのままふいと視線を逸らす。何かを言わねばと唇を舐め、口を開きかけた彼の機先を制して再び言葉が放たれる。
「あたしたち、りこんのききね」
抑揚のない言葉。肩を竦めてそう言うピッチャーに彼は目を白黒させた。離婚の危機。バッテリーは夫婦関係になぞらえられる。女房役。そう言われるのは本来はキャッチャーで、あたしたち、という揶揄は多分に嫌味だ。
「なん、なん?」
「夫婦関係、冷え切ったわ、今」
「ちょ!」
「離婚しましょう」
「ちょっ、ちょっと待て、何のはなし」
思わず腕を伸ばし右腕を掴んだ。引き寄せられた肩が胸にぶつかり、それに構わず彼は声を上げる。
「俺はお前のせいにはしねぇよ!」
ピッチャーが目を瞠った。
「わ、悪い。いや、そうじゃなくて、ええと、変な事訊いて悪かった。あ、いや、腕どうもないか?」
ふ、とピッチャーは笑んだ。うん、と頷き、軽くこぶしを握って彼の胸を叩く。
「真夜中に、真っ暗なサーカス小屋で空中ブランコの練習をするピエロみたいなんだ」
「は?」
「多分、あいつはそうだった。だから、乱れたんだ」
商高のエースの事だ、と分かるまでに数瞬の間が空いた。
観客の居ない、真夜中のサーカス小屋。目隠しをして空中ブランコに挑むピエロは、誘導してくれる誰の姿も信じられずに、無様に落下する。
「ピエロは、泣き顔で笑う。俺は、そんな事はしない」
正直言ってよく判らない、と彼は思い、そのままそれを口にしようとして止めた。素っ気無い言葉は彼の胸に落ちる。意味など判らないのに、その重みだけがずしりと圧し掛かる。
「なあ」
不意に晴れやかにピッチャーは笑った。
「投げたくなった。付き合えよ」
「今からか」
練習でくたくただ。やっと家に帰れると思ったのに。だが。
「当然」
彼の大切なピエロが不遜に笑う。
夏が終わらない。自分達の夏は、投げ続け、捕り続ける限り、終わらずに続いていく。


