世事浮雲何ぞ問うに足らん

[陳情令]

 

 私がいけないのです、と言った思追スージュイの声が、果たしてこの館の主に届いているかはわからなかった。閉ざされた静室の扉である引き戸は微動だにせず、強い気を纏っているお陰で主の在室は明白だったが、その名のままに静寂に過ぎて思追スージュイの前には果てなく遠い。
「含光君、ウェイ先輩シェンベイは」
 声が掠れて音にならない。ともすればこみ上げる不安に涙腺を刺激されて、思追スージュイの目が潤んだ。魏无羡ウェイ・ウーシェンは大切な人だ。自分にとって、育ててくれた含光君──藍忘機ラン・ワンジーと同じか、もしかしたらそれ以上に、大切な人の筈だった。なのに。守れない。いつも守られるばかりで、当たり前のように彼の人は自分を守ろうとばかりしてくれて。
「含光君──!」
 啜り上げながら呼んだ、その瞬間に、目の前の扉が僅かに開いた。思追スージュイは目を瞠り、飛びついて扉を両手で開け放つ。
「含光──」
 扉の正面、常には藍忘機ラン・ワンジーが座し、琴を爪弾いている部屋に人の姿はない。拒絶の気配がない事を確認し、思追スージュイは後ろ手に引き戸を閉めた。途端に静室全体が硬く閉ざされた空間と化し、静謐が辺りを支配する。
 小さく息を呑み、思追スージュイは右手に身体を向けた。仕切りに掛けられた淡い藍色の薄布越し、臥牀の傍らに腰を下ろしている藍忘機ラン・ワンジーの影が見える。
「含光君」
 丁寧に拱手したが、藍忘機ラン・ワンジーは立ち上がる事も振り返る事もしない。俯き、思追スージュイは眉を寄せる。何しに行くんだよこういう時に含光君の邪魔すると酷い目に遭うぞと言い募った景儀ジンイーの声が脳裏を過ったが、彼と自分では立場が違う。少なくとも、自分は彼ら二人の養い子である筈で、そう思い上がって良ければ、愛されている子であるとさえ思う。だから。
 意を決して顔を上げ、歩を進める。そっと薄布を回り込むと、臥牀に横たわる魏无羡ウェイ・ウーシェンの姿が目に入った。この部屋のもうひとりの主の気配はさやかだ。眠っているそのひとは、印象的な大きな瞳を閉じ、蒼白のまま横たわって生気の一切を感じさせなかった。白い寝具に広がった黒髪に絡む、紅蓮の髪紐だけが目に鮮やかで、胸に力なく投げだされた血の気のない左手を藍忘機ラン・ワンジーの右手が握っている。
 そっと臥牀の手前に立つ。一歩の距離を置いて見下ろした眠る人は、どこか作り物めいて現実感に乏しかった。
ウェイ先輩シェンベイ……」
 何を口にすれば正しいのか、わからずに口籠る。ごめんなさいもありがとうございますも含光君の前では憚られて言葉が喉でつかえた。少しだけ癖のある長い黒髪が寝具に散っているのが絵画に似て、眠るその人の顔に苦痛は見えない。よく動く口も目も、この部屋のように静寂に満ちて、どうしようもなく胸が痛かった。
「含光君」
 ぽつりと言葉が唇から零れ落ちた。
ウェイ先輩シェンベイには……」
 声がひりついて喉が痛む。魏无羡ウェイ・ウーシェンの精悍さとあどけなさの同居した静かな寝顔が余りにも静かに過ぎて、思追スージュイの思考の表面をざらざらと撫でる。わけもなく不安がこみ上げ、わけもなく哀しみが全身を浸して、その感情を持て余して思追スージュイの言葉を奪った。押し潰された胸の奥で何度も逡巡し、唇を開いては閉じ、ようやく言葉が形になる。
ウェイ先輩シェンベイには──笑っていて欲しいのです」
 口にしてしまえば余りに他愛ないそれが、自分でも驚くほどに自分の胸に突き立って思追スージュイは喘ぐ。霊剣が心の臓を貫いたらきっとこんな痛みだろう。咄嗟に胸を強く抑えた。笑っていて欲しいなどと、こんな事を言う為に来たのではなく、何故自分が今こんな事を言い募ろうとしているのかもわからず、けれど思追スージュイの唇からは言葉が溢れ出す。
「いつもいつも、笑っていて欲しいのです。このひとの不羈ふきを、このひとが何も気兼ねなく享受する、そういう日々であって欲しいのです」
 藍忘機ラン・ワンジーは微動だにしない。思追スージュイは天井を仰ぎ、目を閉じた。
「……誰かの為に、何でもない事みたいに、このひとが傷つくのは嫌なのです」
思追スージュイ
 深い声が届いて思追スージュイはそっと目を開く。ゆっくり視線を落とした先、藍忘機ラン・ワンジーは変わらず魏无羡ウェイ・ウーシェンを見詰めたまま、それでも言葉を継ぐ。
「それが魏嬰ウェイ・インなのだ」
 静かな声だった。冷泉から溢れ出した清水が真っ直ぐに滴る、そういう声音だった。辺り一帯を浸して吸い込まれゆくそれを、思追スージュイは音楽のように聴き、深く吸い込んでゆるく首を振る。
「どうして」
 思い詰めた声に、藍忘機ラン・ワンジーがそっと顔を上げる。常に表情を変えないこの美しい男の、それでも視線が柔らかに思追スージュイを案じている。揺らめく瞳の中に、しかし同時に絶望に似た哀しみが広がっているのを見てとって、思追スージュイは絶句した。ようやく声を絞り出す。
「含光君……」
 藍忘機ラン・ワンジーが目を伏せた。滴り落ちる哀しみに包まれて尚、何処までも気高く美しいひとの、その哀しみに溺れて思追スージュイは拳を握り締める。光のひとである含光君にも、その光が眩しさに目を細める金烏の如き魏无羡ウェイ・ウーシェンにも、誰にもこんな顔をさせたくはなく、して欲しくもなく、だというのにその哀しみの底には必ず思追スージュイの血族の罪が横たわっていると知っていた。
「このひとは、私の一族を救ってくれた……含光君、あなたも孤児になった私を育ててくださった。何故そう出来るのですか。どうしたら、そんなにも気高くいられるのですか」
 なのに何故、あなたたちはいつも哀しみを抱きしめているのだろう。
 藍忘機ラン・ワンジーは答えず、握った魏无羡ウェイ・ウーシェンの指をそっと撫でた。何度も形を確かめるように撫で、微かな息を零してその手を伸ばし、そろりと魏无羡ウェイ・ウーシェンの頬を包む。
 琴を爪弾き、剣を揮うその手は繊細ではあっても大きい。包み込まれた魏无羡ウェイ・ウーシェンに何かが伝わるのか否か、眠るその人に変化は何もない。
魏嬰ウェイ・インと、昔誓ったのだ」
 ひそやかな声で言って、藍忘機ラン・ワンジーはゆっくりと瞬いた。伏せた目を眠るひとから離さないまま、玲瓏と声が流れる。
「義を為すのだと」
 微かに笑んで、藍忘機ラン・ワンジーは過去を懐かしむ顔をする。
「誓ったのだ、二人で。誰に恥じる事なき、誰より己に恥じぬ生き方をすると」
 私は、と呟いて、不意に藍忘機ラン・ワンジーがすべての表情を滑り落した。
「ただ……魏嬰ウェイ・インを想っただけだ。お前の事も、何もかも、ただ……ただ魏嬰ウェイ・インならそうすると……私は……」
 低い声が刃となって辺りに突き立つ。深い水底に一息で沈められた世界が喘いでいる。息を吸う事も吐く事も出来ずに目を見開いた思追スージュイは、そうして次の瞬間、魏无羡ウェイ・ウーシェンの頬に零れ落ちて弾ける水滴を目の当たりにする事になった。
 幾つも幾つも、絶え間なく透明な雫が降り注いで魏无羡ウェイ・ウーシェンの頬で跳ねる。堰をきって溢れ出した、藍忘機ラン・ワンジーの涙だった。
「含光君──」
 後から後から、溢れ出す雫は絶え間なく滴り落ちる。魏无羡ウェイ・ウーシェンの頬が濡れては藍忘機ラン・ワンジーが指で拭い、しかし新しい雫が零れ落ちてはまたその頬を濡らす。琴の音が滴るのに似て、それは永遠だった。
 藍湛ラン・ジャンには言うな、と言い切った魏无羨ウェイ・ウーシェンを思って思追スージュイは唇を噛み締める。信号弾を撃ちましょうと言った時にも、魏无羡ウェイ・ウーシェンは「藍湛ラン・ジャンは呼ぶな」と厳命した。日頃の人懐っこい明るさをすべてかなぐり捨てた真剣な声だった。
 感情を窺わせる事の殆どない藍忘機ラン・ワンジーの、けれどそうと知れば雄弁な瞳から溢れ続ける感情の渦に、思追スージュイの感情までが塗り潰される。溢れても溢れても尽きぬこの激情が、誰もが知る冷静沈着の代名詞たる含光君の中に渦巻く事を知っているのはきっと眠るこの人だけだった。それを知っていながら尚も、何故あなたはこの美しく激しい男を置き去りにしようとするのだろう。ねぇ魏无羨ウェイ・ウーシェン、どうして。
 魏无羨ウェイ・ウーシェンの瞼の奥で、小さな漣が立って睫が震える。やがて細く開かれた瞼がそのまま数瞬停止し、徐々に光を宿して茫洋と開かれた。藍湛ラン・ジャン……? と声にはならないまま唇だけで紡がれた名と同時に、そっと魏无羨ウェイ・ウーシェンの唇が弧を描く。そろりと持ち上げられた手が何度も頬を拭って濡れた藍忘機ラン・ワンジーの指先に触れ、そのまま今度は藍忘機ラン・ワンジーの頬に辿り着いた。
藍湛ラン・ジャン
 囁いて魏无羨ウェイ・ウーシェンの瞳は一つ瞬き、細められて不思議そうに首が傾げられる。髪紐の朱が枕を滑り落ちてわだかまる。
「どうした……?」
 幼子に語り掛けるも同然の柔らかさでその問いは零れ落ち、声と同時にまた藍忘機ラン・ワンジーの頬から大粒のきらめきが滑り落ちて魏无羨ウェイ・ウーシェンの頬を濡らした。
藍湛ラン・ジャン
 小さく目を瞠った魏无羨ウェイ・ウーシェンの眉尻が下がる。囁く声が柔らかに響いた。
「泣くなよ」
 藍湛ラン・ジャンの頬から雫を指先で掬い上げて魏无羨ウェイ・ウーシェンは困った顔のまま微笑う。
「泣くな。お前が泣くとどうして良いかわかんないだろ」
「──お前が」
 また溢れ出す雫をそのままに藍忘機ラン・ワンジーが低く言った。お前が私を呼ばぬからだ、魏嬰ウェイ・イン
藍湛ラン・ジャン
 魏无羨ウェイ・ウーシェンが強く藍忘機ラン・ワンジーの頬を拭う。
藍湛ラン・ジャン、何度でも幾らでも、呼んでやる。なぁ、だから──泣くな」
「──お前には、わからぬ」
 不意に魏无羨ウェイ・ウーシェンは道を見失った幼子の顔になった。途方に暮れた瞳が彷徨い、思追スージュイを見付けて泣き出しそうに歪む。
思追スージュイ
 弱り切った声だった。
「お前の含光君はどうしたんだ」
 私のではない、と思追スージュイは首を振る。すべての仙師を統べる仙督は、きっと本当はたったひとりを守る為にその地位を選んだ。誰にも夷陵老祖ラオズーを否定させぬ為に、世界のすべてから、この誰より優しく強く、耀く眩き金烏を守る為に。
ウェイ先輩シェンベイ……」
 涙腺が緩んで思追スージュイはまたゆるゆると首を振る。魏无羨ウェイ・ウーシェンの頬には、変わらず煌めく雫が滴って、藍忘機ラン・ワンジーは声もなく、だが慟哭している。感情を表に出す事を頑なに己に禁じるひとの、それは身の内のすべてを絞り出す発露に違いなかった。
「含光君は……」
 最前、自分はなんと言っただろう。このひとに笑っていて欲しいのだと、このひとを苦しめたくないのだと、強請ったそれは、含光君が誰より望む事であった筈なのに。
「含光君は、あなたが」
 大切なのです、何よりも、御自分よりも、大切なのに、あなたはあなたをいつでも容易く義に捧げてしまう。
「……俺……?」
 茫洋と魏无羨ウェイ・ウーシェンが呟いて、藍忘機ラン・ワンジーの頬を拭う手が止まった。指先が躊躇って空を掻き、そのまま握り込まれて何度も握り締められる。途方に暮れる迷子は、思追スージュイを見、藍忘機ラン・ワンジーを見、頑是無く首を振って唇を引き結んだ。窺うように藍忘機ラン・ワンジーをそっと見上げる。
藍湛ラン・ジャン──俺の、せいか」
 藍忘機ラン・ワンジーが微かに首を傾ける。額に掛かる長い前髪が揺れて、つ、と頬を伝った雫が落ちた。頬で跳ねたそれを拭いもせず、魏无羨ウェイ・ウーシェンはゆるりと瞬き、藍忘機ラン・ワンジーを見詰めたままでそっと息を吐いた。
藍湛ラン・ジャン──もう、お前を泣かせたくなかったのに……ごめんな」
 吐息と共に囁かれたそれに、藍忘機ラン・ワンジーの眉根が寄る。魏无羨ウェイ・ウーシェンの視線がゆるゆると彷徨い、「お前の手を、振り切ってごめんな……お前が何度も口にした忠告を、否定するばかりで何一つ信じられるようにしてやれなくてごめんな……藍湛ラン・ジャン、探させてごめんな、だから」と訥々と口にするのを最後に固く閉ざされた。苦し気に胸が上下する。
「もう……絶対に俺のことでお前を煩わせないって決めてたのに──!」
 藍忘機ラン・ワンジーは何も言わなかった。思追スージュイの瞳からとうとう涙が溢れ出す。魏无羨ウェイ・ウーシェンは、夷陵老祖ラオズーとして一度死んでいる。幼かった自分の知らぬ場所で、たった一人を除いて思追スージュイの一族は死に絶え、その一族を守ろうとした魏无羨ウェイ・ウーシェンは何もかもを失った。欲望のままに人を糾弾し殺し合った人々の狂乱の只中で、すべての罪を押し付けられて絶望の果てに崖から身を投げたそのひとを、誰より救いたかった含光君へ、それでもまだ、このひとは──
 大勢を、と口にして思追スージュイの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「大勢を殺した人間が非業の死を遂げ、悪霊となった時」
 藍忘機ラン・ワンジーが身を固くしたのを感じて思追スージュイの声に嗚咽が混じった。
「その悪霊を祓う為に、殺された人々の怨念を呼び出し対峙させたなら、一番邪悪なのは誰かと」
 藍忘機ラン・ワンジーが息を詰める。魏无羨ウェイ・ウーシェンは目を開かない。呼吸はまた穏やかになったようだった。その頬に落ちた藍忘機ラン・ワンジーの涙が乾き始めている。
ウェイ先輩シェンベイが、そうおっしゃったんです。我らが、至らず……まるで夷陵老祖ラオズーを……」
思追スージュイ
 藍忘機ラン・ワンジーが振り返り、首を振る。そのまままた顔を伏せ、そっと魏无羨ウェイ・ウーシェンの頬を撫でた。余りにかそけき笑みがその唇を彩って、繰り返し撫でる指先は琴に触れるとき以上に繊細に優しかった。思追スージュイは乱暴に自分の顔を拭う。深く、拱手して一歩を下がり、そのまま二人に背を向けた。
 足早に退出する。静室の静謐は深まったまま解かれない。微かな風に藍色の薄布が舞い上がって翻った。いつしか引き戸は開いている。
 思追スージュイが見上げた空に、煌々と月が浮かんでいる。含光君の流す涙と同じく清涼な光が静かに降り注ぎ、降り積もっていく。知らぬ間に一雨が到来し、去ったのだろう。回廊の床が濡れて光っている。
 不意に、藍忘機ラン・ワンジーの琴の音に合わせる魏无羨ウェイ・ウーシェンの愛笛──陳情の音を聴きたいと思った。二人が時折爪弾く、柔らかで美しい音色の曲の名を、思追スージュイは知らない。
 向き直ってそっと引き戸を閉めた。更夜にタン、と建具の澄んだ音が響いて消える。
 
 魏嬰ウェイ・イン──
 
 含光君の深い声が、静寂しじまを渡り、眠る人へと染み入って消えた。

 

 

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