陳情令を見ました。原作、アニメは未履修です。最終回後の雲深不知処[9,000文字]
酌酒與君君自寛 酒を酌んで君に與う 君自ら寛うせよ
人情飜覆似波瀾 人情の翻覆 波瀾に似たり
白首相知猶按劒 白首の相知 猶劍を按じ
朱門先達笑彈冠 朱門の先達 彈冠を笑う
草色全經細雨濕 草色全く 細雨を經て濕い
花枝欲動春風寒 花枝動かんと欲して 春風寒し
世事浮雲何足問 世事浮雲 何ぞ問うに足らん
不如高臥且加飡 如かず高臥して 且つ餐を加えんには
月に叢雲が掛かっている。
一瞥、見上げた青年仙師が眉を寄せる。まだ雨の気配はないが、雲深不知処に戻るまで天候が持つかは甚だ心許ない。揃いの白い道服が夜道で風に翻る。春の風は柔らかく、しかし天候の不安定さもまた春の気紛れだ。街道を行く、僅か十人に満たない白衣の集団に、しかしたった一人、黒衣の男が紛れている。
「魏先輩、大丈夫ですか」
青年仙師は自分が肩を貸している黒衣の男の顔を覗き込む。長い黒髪を頭上で結い、細い飾り紐を額に巻いて背に長く垂らしているせいで、さらさらと肩口を零れ落ちるそれが胸に落ちた。飾り紐の、ごく小さな雲を象った銀板が微かな月光に鈍く光る。周囲の白衣の若者は揃いで同じ恰好だ。見る者があれば、即座に姑蘇藍氏の子弟たちだと囁き交わす筈だった。
まだ幼い顔立ちの仙師の目は不安に泳いでいる。男を反対側から支えている同じ年頃の仙師が「思追」と呼んで首を振った。
「魏先輩が素直にもう駄目だとか言わないだろ」
言った端から、黒衣の男が呻くように「大丈夫だ」と掠れた声を出した。こちらは深紅の髪紐だけが目を射て、他は長い艶やかな黒髪を含めて何もかもが黒い。
「わるい、な。こんなザマで」
「そんな! 私たちが至らないせいです!」
夜狩で魏无羡に同行を依頼する事は多いが、ここ数度はさほど手を煩わせずに済んでいた。その慢心が今夜の失態を招いたと藍思追には自覚がある。自分のせいだ。自分が判断を誤ったせいで、この人が全員を庇って負傷した。
背後からは気遣わしげな子弟達の気配が届く。怯えた気が混じるのは、含光君の叱責を懼れているのだろう。思追とて、養父の鋭い眼光を思い浮かべれば身は竦むが、今はそれよりも魏無羨の容態への心配が勝っていた。このもう一人の養父は、他人を守る為に平気で自分の命を疎かにすると思追は泣きたくなる程に良く知っている。
「なぁ、阿苑」
弱い声に小さな苦笑いが混じった。
「藍湛には言うな」
ゆらりと顔を上げて笑って見せる、その人の榛の瞳の縁が朱い。常には好奇心に輝く大きく印象的な瞳が、今は僅かに潤んで細められているのが奇妙に美しい、そんな人だ。世人に比すれば年齢を重ねても老いの遅い仙師である事を差し引いたとしても、この男は生気に溢れて若者にしか見えず、その抗いがたい眩さがひとを惹きつけてやまないのだと思追は知っていたが、しかし今はどこか危うげに見えて動悸が早まった。
「私たちにとって含光君は師です。言わないわけには」
眉を下げてそっと口にした思追の声に、反対側から「そうだよ」と呆れた声が重なった。
「魏先輩に関して黙ってたりなんかしたら、どんな目に遭わされるか」
「景儀」
思追が慌てて窘める声を上げるのに、二人に抱えられている黒衣が揺れて不満げな声が落ちる。
「ったく、どいつもこいつも藍湛に従順過ぎる」
「当たり前だろ、みんな姑蘇藍氏の子弟だぞ? お前が例外なだけだっての」
盛大に呆れた声で言う藍景儀は片眉を跳ね上げる。魏无羡が唇を尖らせるのに肩を竦め、「それこそ含光君はお前に甘過ぎる」と嘆息した。
「そもそも、お前が飛び出して来なきゃこんな事にはなってないだろ。含光君にはお前だけ叱られろよ」
「景儀、魏先輩が庇ってくださらなかったら!」
悲鳴じみて思追が声を張り上げ、背後の子弟たちの気配にそこで口を噤んで首を振った。そうだ、魏无羡が飛び出して来てくれなければ負傷者が出ていた筈だ。それも深い傷を負った筈で、自分たちだけで対処できたとはとても思えない。
魏無羨は言い争う二人を交互にゆるりと見渡し、息だけで笑って「なぁ」と声を上げた。
「妖・魔・鬼・怪の違いは?」
「はぁ?」
目を瞠る思追と顔を見合わせてから景儀が顰め面になった。
「急になんだよ。座学か? そんなの帰り着いてからで良いだろ、魏先輩」
「良いから答えろよ」
言う魏无羡の額には汗が浮いている。それがこめかみを伝って顎へと流れるのを確認し、思追が青褪めた。
「魏先輩……無理をなさらないでください」
泣き出しそうな声だ。魏无羡が唇だけを歪めて笑う。
「ば、か。喋らせろ、よ」
昔、俺がお前らくらいだった頃さ、と殆ど吐息で続けて魏无羡は目を細める。懐かしむ顔が一瞬だけ翳り、思追の胸を刺した。ああ、このひとはいつもこんな顔をする。もう何処にもない、このひとの中にしかない、遠い記憶を思っては、このひとはもうこの世界に居たくはないのじゃないかと自分を不安にさせるのだ。
「俺たちの頃も、勿論、姑蘇藍氏の座学は必修だった。藍先生の講義で、同じ質問をされたんだ」
「魏先輩が?」
景儀は素朴に話に乗っている。おう、と答えた魏无羡が大きく息を吐いて景儀をちらりと見上げた。
「お前なら、なんて答える景儀」
「なんてって……」
景儀は完全に顰めっ面だ。
「妖は……」
思追がそっと横から口を挟んだ。控えめに考え込みながら言葉を選ぶ。
「人以外の生き物が化けますし、魔は人が化けます。鬼は死者が化けて、怪は人以外の死骸が化ける……」
満足そうに魏无羡の顔が綻んで頷かれる。笑むと殆ど少年のような男だが、滲むように微笑う様はどこか遠い慈愛に満ちて、思追には目の前の男の正体が判らなくなる。それこそ、この男こそが魔ではないのか、否、そうじゃない、確かにこのひとは夷陵老祖と呼ばれた詭道の始祖ではあっても、でもそうじゃなくて。
「さっきの、何だと思った」
呟くような問いに、不意に思追は我に返る。「さっきの?」と問い返して真顔になった。絶対に祓えると確信した筈が、膨れ上がる様に妖力を増して襲い掛かられた、あれは。
「え、ただの邪崇だろ。こっちがちょっと油断しただけで。違うのか」
景儀の声が上擦った。魏无羡が目を伏せる。またこめかみを汗が一筋伝って顎から滴り落ちた。長い睫が震えて、ゆるく振られた首元で深紅の髪紐が流れる。
「いや、ああ、どうだろうな」
曖昧な呟きを残して黙り込み、どこかを見詰めたまま黙考している。月は完全に雲に隠れ、風の湿度が増して、空模様は如何にも危うい。早く雲深不知処に戻ろうと思うのなら、御剣の術を使うべきだった。だが、乏しい霊力を使い果たし、怪我を負っている魏无羡の身には、抱えるとしても霊剣に立ち飛行するのは負担が大き過ぎて躊躇われる。何処かで少し休むべきだとの提案は、当の本人の「大丈夫だ」に封じられてしまい、思追ではもう打つ手が思い付かない。
「それで、そういうお前は藍先生に何て答えたんだよ」
景儀が首を傾げた。思追の答えは完璧な筈だ。それは姑蘇藍氏で学べば余りにも答えられて当然の問いでもある。
「大勢を……」
どこか空虚な呟きで魏无羡が応じた。思追は思わず魏无羡の顔を覗き込む。男の彷徨う視線は熱を孕んで、此処ではない何処かを見ている。
「魏先輩」
「大勢を殺した人間が、非業の死を遂げたとして……その怨念が悪霊となり凶行に及んだとする」
魏无羡の途切れがちな言葉は、それでも紡がれて行く。
「そいつを祓う為に、そいつに殺された連中の怨念を呼び出して……対峙させたら、一番邪悪なのは、誰だと思う」
背後で一斉に息を呑むひそやかな音が立った。思追は絶句し、景儀が喘ぐように口を開く。
「どう、いう……どういう意味だよ。まさか答えずにそんな質問をしたのか、魏先輩」
ふ、と魏无羡の茫洋とした瞳に光が戻り、横目に景儀を見た。美しい榛の目が細められて、不意に合点し、くっと喉の奥で笑う。
「ああ、そうか。みんな夷陵老祖を思ったのか」
さも愉快そうに呟いて天を仰ぐ。そうか、確かにこれじゃ、俺の事だよな、そうだな、大勢を殺した詭道の創始者にして、正法ではなく邪法に溺れた──くつくつと喉の奥で尚も笑い声をくぐもらせて、やがて大きく息を吐いた。
「そう、だな。忘れてくれ」
言うなり激しく咳き込んだ。身を二つに折って咳き込み続け、その唇の端から鮮血が滴り落ちる。
「魏先輩!」
「おい!」
慌てた二人に抱えられたまま、尚も苦しげに己を抱き込んだ魏无羡が、切れ切れの声を漏らす。
「けど、言っておくが、俺は、悪霊になんざ……なら、ない」
「喋らないでください!」
「喋って、ないと、意識飛ぶ、だろ」
思追の喉がひゅ、と音を立てた。支える為に触れた魏无羡の首元が火をつけたかに熱い。崩れ落ちた魏无羡が膝を衝くのに、「誰か!」悲鳴の代わりに怒鳴った。
「誰か信号弾を撃て! 含光君を、含光君を──!」
呼ばなければ、このひとが──! 弾かれたように門弟の一人が慌てて懐に手を入れる。その、刹那。
雲が途切れて月光が射した。
魏无羡がゆらりと頭をもたげる。つ、と滴り落ちた鮮血に濡れた蒼白な唇が、花開いて笑みを形作った。
月を振り仰いだ門弟たちが、一斉に拱手の姿勢を取る。遅れて見上げた思追と景儀は魏无羡の傍らで目を瞠った。
「含光君──!」
月光がそのまま姿を取ったかの白い衣を翻して、男は過たず魏无羡の目前に舞い降りる。高く結った髪の銀の前冠が月光を集めて鈍く光った。玲瓏な顔面を蒼白にして、それでも静かな表情を激情を孕んだ鋭い眼だけが裏切っている、その視線が魏无羡のみを見詰め、射抜いた。
「……藍湛」
殆ど吐息だけの、魏无羡の囁きに男が両手を差し出す。
「魏嬰」
あどけない笑みを浮かべて、魏无羡はその腕の中に倒れ込み、そのまま意識を手放した。

