鉄塔

鉄塔 Short story

 

 夏のおとない [2,150 文字]

 
 
 
 畑のトマトを収穫し、常日頃から何くれと世話を焼いてくれる三軒となりの若い夫婦の家の玄関先に籠一杯分を届け、残りの籠を抱えて帰りついたのは昼食前の一際暑い時間帯だった。木造の我が家は夏の日差しにゆらりゆらりと揺れている。
 畑にいる間ずっと曲げていた腰を今はじめて伸ばした心地がし、にわかに自分が酷く老いたような気持ちになる。それでもまだ六十になったばかりだと思いなおし、男やもめの自分を心配する三軒となりには我が身がどう見えているものか、とまで思考が巡ったところで不意に庭の方に人の気配を感じた。
 狭い庭だ。
 それは文字通りの猫の額ほどの狭さで、癖のある曲線を描いて境界線の向こうは空だった。この場所は幾らか小高い場所にあり、家はその端の端に位置して、庭の先はゆるやかに下る崖とも呼びがたい斜面になっている。僅かばかりの庭木と申し訳程度に境界を主張する低い木柵があるばかりの、そんな場所に用がある者がいる筈もなく、夏休みといったところで子供が入り込んで楽しい場所でなく、首をかしげつつも庭へと足を向けた。
 ゆらり。
 庭の先の空も揺れている。遠く見えている鉄塔が揺らめいているのを見遣る。庭には一人の男が佇んで、同じくその遠い鉄塔を眺めているように見えた。
 誰何の声は喉元で引っ掛かってうまく出ない。黙ってトマトの籠を抱えなおし、男の視線を辿るように彼方を見たまま、申し訳程度に存在している縁側に腰を下ろした。古びた板がぎぃとなく。目の前の男の背は逞しかった。ぽたりと縁側に汗が滴る。それは白茶けた古い板を濃く染めて瞬時に乾いて痕跡を消した。揺れる鉄塔の向こうに湧き上がる入道雲を認めて大きく息を吐く。空が濃く青い。
 思いつき、傍らの籠からひとつ、トマトを手に取った。手の中でくるりと回した赤い玉には傷一つない。形が多少歪であるそれを親指でひとなでし、艶消しめいた赤に目を細めて、籠に掛けていた手ぬぐいで丁寧にそれを拭った。鮮やかさを増した手の中の玉と目の前の男の背を交互に眺め、しかしなおも声を出す気はせず唇を舐めて逡巡する。だが結局おもむろに男の隣に立ってそれを突き出した。
 
 男は驚いたらしかった。初めて彼を認め、目を瞬かせて口を小さく開いたまま身じろぎさえしない。彼は思わず眉を寄せ、無言のままでなおもトマトを突き出した。男の着衣は白い清潔なシャツに濃い紺色のスラックスで、隣に立ってみれば彼より幾分背が高く、そうして酷く若かった。胸に一包みをさも大切そうに抱いている。
 黙ったまま、彼はトマトを差し出した格好で動かず、やがて男は微かに眉尻を下げて目元を和ませ、片手で荷を抱きなおして空いた片手を差し出した。長い指の広い掌にトマトをのせてやる。
 男がその赤に見入ったまま片手で抱えた荷を揺するのを彼はぼんやりと眺めた。荷は口が紐で閉じられるようになっている丈夫そうな布袋で、特徴的な碇と桜の文様と「應召袋」の字とが墨で大書されていた。さほどの大きさではないものの随分と存在感がある。布袋は男が抱えなおす都度ぐるりとまわり、丁度文様の裏側にあたるのだろう場所には何やらの文字列が直線で囲まれて並んでいるのが見えた。更にその左下に同じく線が引かれ氏名とあって丁寧な楷書で四字がしたためられている。佐和正一。
 彼は首をめぐらせ、粗末な縁側の軒下で沈黙を守る青い陶器製の風鈴を見、その先に続く硝子戸の向こうの和室を見遣った。鴨居の上は暗がりに沈んで何一つ認められず、並ぶ写真額の形さえ判然としない。また首をめぐらせて男に視線を戻した。遠い鉄塔が揺れている。
 男はまだ己の手に収まった赤に見入っているらしかった。表情という表情は特になく、ただ一心に見ている。時の流れが滞って男の周囲だけ静止していた。
 彼の耳奥で、あなたはトマトが好きねと笑った涼やかな女の声が響き、ミニトマト二つを白く抜いて描いた風鈴を軒先に下げた手つきがともに思い起こされ、伯父貴の血らしいと答えた自分の声までをも脳裏にめぐらせて彼はまた一つ息を吐いた。何にともなく大きく頷く。それを気配で察したか、男がつと顔を上げほころぶように笑みを浮かべた。
 小脇に「應召袋」を挟み、両手でトマトを包んで擦った男は、そうして目を伏せ、白い歯を見せてそれにかぶりついた。
 りん、と風鈴が鳴る。
 彼は今の今まで沈黙を守っていた筈の風鈴を見上げた。風に揺れたらしい短冊が微かに振れてまた静止する。視線を戻すと男の姿はなく、彼は無言で男の立っていた場所を見詰めた。
 佐和さぁん、と若い娘のような、聞き覚えのある女の声が表から彼を呼び、振り返るまでもなく背に追い被せるようにトマトすみませんこれ良かったら夕食にでも、娘さんいつ帰省されるんですかお盆ですねぇ、と弾む声が次々と当たり、彼はゆるりと瞬いて彼方の鉄塔を見た。目線を上げれば湧き上がる入道雲がそびえ、下げたそこには立ち並ぶ家々が一望できる。ゆらめく鉄塔がなかった頃のここからの眺めを思い浮かべようとして失敗し、それは黒い平原になった。平原はうねり、荒れる海面になり、全てを飲み込んで漆黒のまま丘を駆け上り彼の足元を濡らした。天を仰ぐ。青い。抜けるように、青い。
 佐和さぁん、と再び声がした。彼は首を振り、鉄塔を見る。
 風鈴が鳴った。
 
 
 

タイトルとURLをコピーしました