佐毘売山登山録(「佐毘売山異聞」に寄せて) [鮎]

Impressions

 

 

佐毘売山異聞もののけ姫 2020/10/18 09:24

 

※この記事は「佐毘売山異聞」、そして当然ながら「もののけ姫」のネタバレを大いに含みます。

かじ。さん著の、「もののけ姫」二次創作小説「佐毘売山異聞」を拝読(登頂)して、心と頭が森の中から帰って来られなくなった。一言、感無量。

「彼らは後世の人には神話となり、かの地では地名となって密やかに語り継がれている」という胸熱すぎる導入部には、心を鷲掴みにされると同時に深い納得感がある。そのように「草に埋もれて」なお語り継がれてきた、正史に残らなかった英雄一人一人によって、この社会はなんとか保たれているものと信じるからだ。

オボフ(突然の号泣)

著者様ご本人へのDMで書き連ねようかと思っていたのですが、こちらのツイートに賛同し、noteでの感想文という形にさせていただきました。緊張する。

 

行きて帰りし物語

読み手の案内役となる主人公はしかし、「もののけ姫」本編の世界のどこにも属さない、「大東亜戦争」の時代を生きる青年である。この思慮深い青年の人物造形が、出過ぎずかつ透明にならず、大変好ましいと思った。「佐毘売山異聞」全体が、この主人公が時間を超えた旅をして戻ってくる円環構造を取っており、「ナルニア国物語」や「指輪物語」も含む「行きて帰りし物語」のひとつとなっている。だから読みやすい。しかも行った先で次々に出てくるのが、わたしたちが「知ったつもりでいた彼ら」が地に足つけて生きている姿なのだから、一粒で二度三度おいしい!この「大東亜戦争」ということも、彼が「もののけ姫」の時代から連れて帰ってくるメッセージが必要とされる、重大な要素だ。

彼は、まるでアシタカのように聡い「傍観者」であり、読み手を置いてきぼりにしない速度で、持てる知識を、彼らの世界とわたしたちが見る風景の中に吹き込んでいきつつ、主題の「神話」に影響を与える重要な助言を忘れない。わたしたちは、「もののけ姫」の登場人物は知っているけれどもこの青年のことは知らない。最後まで名前が明かされないこの「おれ」の器に自分を容れて、徐々にベールが剥がれていく「いかにして彼らは神話となったのか」を目撃することになる。歴史ミステリの映画を観ているような感覚に包まれ、知的好奇心がくすぐられる。

山犬のカムナの言葉にうなった。

“──吾等モロの一族は、過去に在り、現在に在り、全ての時に常に在る。”

「もののけ姫」は、古と現代、穢と浄、生と死、神と人間、あらゆる「境界」を描く物語であり、アシタカとサンは、抗えない運命としてその境界に立つ、どこにも所属できない孤独な存在として物語が始まり、結びには、主体的に境界に立ち続けることを選択し、孤独が転じて自由な存在となる。山犬が「過去、現在、未来」という時間の境界を超える存在であっても、なんら不思議ではない。そして主人公が「もののけ姫」の時代へタイムスリップできたのは、彼もまた境界に立つ存在たる資格があったということだ。だから、この主人公にはじめから「もののけ姫の世界を覗くにふさわしい存在」として、好感を抱くことができる。

 

エボシさまの掌の上

いきなり(微弱ながら)解釈違いから入ってまことに恐縮ですが、わたしは「佐毘売山異聞」の中のシシ神の森とタタラ場、そこで暮らす皆の姿は、本編後少なくとも10年は経っていそうだと思った。実際には(実際とは)設定として「数年後」とのことなので、わたしの頭の中の想像よりも、この世界は進みが早い。まぁみんなわたしよりも有能で聡明だからな、物事を進めるのもわたしみたいな凡人が思うより速いんだろう。うん。あと、現代日本で震災のあとの復興の進まなさなどを見ているからかもしれない。でも、もののけ姫世界での指導者は、今の日本の政治家ではなくてエボシさまなのである。考えたら、現代日本が参考になるわけない。うらやま。。。。。。。。!

さて、主人公が「過去に立って」からの情景だが、ここからパーーーっと色がついたようにビジュアルが鮮やかに立ち上がる。萌える緑色と、人々の営みの匂い。フレームの中に自分もいるみたいだ。VRもののけ姫。おキヨさんに意外な才能があったのも嬉しすぎるし(あのまま殺人未遂犯で終わらない!)、おトキさんがめっちゃおトキさん。

“まあ板踏むのか土踏むのかの違いだもの、あの人には苦でもない。”

おトキさんは、仮に本編でエボシが腕だけで済んでいなかったとしたら、新たに指導者として立つ度量を持つ女だろう。畑仕事の音頭を取っている姿、あまりにも納得感がある。そして颯爽と登場する、おれたちのエボシさまである!

肉声が聞こえる。一つ二つ、いや十以上も先を読みながら、胸の内を明かさずに主人公を試すエボシさまの肉声が。わたしはエボシが自らの経験や「失敗」を主人公に語る場面、はじめは「スラスラと言葉に出しすぎなのではないだろうか。エボシはこんなに饒舌だったかしら?」とふと思ったのだ。しかしその後、主人公はエボシが明かす一つ一つに対するリアクションを観察されており、試されていたことが明らかになる。

“試されていたのか、と思い、思ってから苦笑が漏れた。”

ミートゥー、主人公、ミートゥー。「や、やられた」ってなりましたよ。まんまとエボシの、そして著者様の掌の上でコロコロコロコロ。

“荒ぶる海を抱き込んで、穏やかな湖面を維持できるのだ、という印象”

一文でこれほど的確にエボシを表してくれたと感じたことは、わたしは今までに一度もない。そして、ここでの主人公の返しが、めっちゃアシタカネス。

“──己の耳目で、すべてを確かめる”

やはり彼はこの物語の「客人(まれびと)」としてふさわしい人物だ、と知らしめる、鮮やかなオマージュ台詞。

 

ヤックルさんのターン 甲六のターン

甲六の「ヤックルさん」呼びは伝染する。ふたりのコンビもっと見たいです!!!甲六が「佐毘売山」の伝承に非常に大きな役割を担っているところがとても嬉しい。甲六には、「あのおトキさんが選んだ男」という凄まじいアドバンテージがあるじゃないですか。それに見合うだけの男であるという描写がなされていたのがとても「正しい」と思った。ここでの正しいは、誠実であるという意味です。

おトキさん、よそ者のアシタカをドーンと受け容れるし、皆が避ける病者の方ともすんなり友達ぽくなってて食べ物を躊躇なく受け取って食べているし、何より「生きてりゃなんとかなる」と、「生きろ」というアシタカの台詞に匹敵する超重要ワードを出す女だ。その彼女が選んだ夫である甲六はそりゃあ、恩ある獣をさん付けで呼ぶだろうし、「もののけ姫」という蔑称にも他の人より敏感にためらいを感じるだろう。

“シシ神殺しの晩に、あの山犬の姫と一緒に、シシ神を宥める為に命賭けてくれたってんで、もう俺ぁとてもじゃねぇが、もののけだなんて言えなくなっちまいましたよ”

わたしは自分の「もののけ姫」への「思いの丈」で(評論とか呼べるような整ったものではない)、「本編後、タタラ場の人はサンのことをもののけ姫と蔑称で呼ぶのをやめてほしい」と書いた。サンのことを「さひめ」と呼び始めたのが甲六だったという「佐毘売山異聞」は、サン大好きなわたしのこの願いを叶えてくれました。本当にありがとうございます。そして、サンがどういう存在か、について皆一様に「アシタカ様が大切にしている方」という、受け取り手が自身の中で膨らませ育てられる表現がされているところが非常に品があって良いと思った。

一旦CMです。わたしの「思いの丈」はこちらです、重いです、長いです。

 

アシタカさまーーーーー!!!

ついにアシタカが登場する。やんや。文章を吹き抜けている風の色が変わる。深い森の色。

“ 青年は湖面を渡るも同然に真っ直ぐ滑らかに歩み寄って来た。水の抵抗も、空気の抵抗も、時の抵抗さえ受けぬ確乎たる一本の若木が姿を取っている。肩口より少しだけ長い髪は無雑作に切られて蓬髪めいており、しかし乱れた印象はなかった。頭上から千々に差し込む細い光の束が青年を金色に浮かび上がらせている。”

アシタカに限らないけれど、新たに誰か登場するたびに「あ、風が吹いた」と感じさせる文章。iPadの裏から誰かブロワーでも吹かしてるのか?どんな演出?

わたしが「アシタカはこういう人かな」と思ったよりもだいぶ、神さびているアシタカがそこにいる。まさしく境界に立つ人。だいぶ向こう側に行ってない?と思う瞬間があるが、周りの人からはそりゃそう見えるだろう。彼こそが「せっ記」なのだから。わたしはすぐに「人間を神格化すること」の危うさを感じてブレーキをかけてしまうのだけど(「大東亜戦争」を生きる主人公も、そのことは重々承知だろう)、「佐毘売山異聞」のアシタカはわたしの心配をものともせず、その立場を主体的に選んだ者として、決然とそこに存在した。そしてわたしにとっては何より大切なことだが、サンに対する距離感が丁度いい。サンにとっては安心できる存在で、心を許し合っていることは伝わるが、気安すぎず、ある一線で尊重されて、踏み込まない領域があることも感じさせる。まさに「大切にしている」。皆、しかと見届けよ。「大切にする」がいかなるものか!

 

何が神を神たらしめるのか

“シシ神とは、何だ”

主人公の問いかけから始まるアシタカとの問答が、主人公の生きる「現代」である「大東亜戦争」の時代へ持ち帰るメッセージに繋がってゆく。

“彼らを神にするものがあるとしたら、それはわたしたちなのだろうと思う”

人の共同体にそぐわない「異なる者」を、神と捉えるか、もののけと捉えるか。あるいは「あれも我々の一部」として捉えるのか。主人公に、そしてその先の時代を生きるわたしたちに委ねられた問題。

“人が神を捨て、山の太古の神々をもののけと呼ぶのならば、シシ神の役目は終わったのだろう。命そのものを、人がどう扱うのか、きっとそれを見ている。わたしたちが何をし、何をしないのか──”

すべては人の、主体的な選択によるものである。「大東亜戦争」において「現人神」とされた存在を思う。誰もこの選択から逃れることはできない。その選択は、「人の社会」の輪郭を形作るものだから。主人公が「移ろいゆく時代」「選択が重大な道を分ける時代」として、「大東亜戦争」の時代からやってきて、この問答を行う意味が、ここにあると思った。

但し、“熊野の眷属を貰い受けてその命を繋いだと言うモロ一族”の部分に関してここだけは、わたし向けではないなと感じました。どうしても、血を継ぐために誰かが献身する、という事象そのものに、抵抗を覚えてしまうからだろうと思います。その「貰われる側」の人生とか気持ちを考えてしまって。じゃあどうやって生き残るんだと言われたら、むむむ。ですが。それでもカムナが堂々と神梛のもとにいてくれるのは胸が熱いですが。

 

「燦然」の語源

“命が──人の姿をとったような子だ”

ここからはひたすら感動、感動、感無量。サン大好きなわたしにとって、彼女の美しさの根源である「生」そのもの、という表現をなんと的確に、「佐毘売山異聞」のアシタカは言葉にしてくれたことか!サンは命であり、命は美しいのだ!

余談だが、「生命力が服着て歩いてる」系女優としてわたしはリリー・ジェームズを挙げてます。サンより百倍天真爛漫なタイプですが。

「佐毘売山」のその方、さひめは、「美しい山犬」として颯爽と現れ、そして。

“ひとつ瞬いて、山犬は不意に何一つ変わらぬまま、鮮やかに変じて人の姿をとった。”

うなって、そして喝采した。わたしも例の「思いの丈」で、サンのアイデンティティは一つでなくていい、と熱く語っているんですよぉ。自分の文章を引用します。

“もしいつか、サンが「山犬か、人間か」の二択ごと蹴り飛ばして、「私はそのどちらでもなく、またその全てである。モロ一族を継ぎ、また森と人の境界に立つ庇護者である」等とたとえば開き直ってレリゴーできた時、サンが「モロの君」の称号を自ら襲名する可能性もあると考えている(「モロの君」は、モロ一族の長という意味であって、サンたちの母の固有名ではないだろう)。デナーリス・カリーシ・“竜の母“ターガリエンみたいに、二つ名がいくつあってもいいじゃないですか。(出典:「ゲーム・オブ・スローンズ」)”

この姿をしかと、具現化していただいて、涙ちょちょぎれるというものだ。山犬の姿も、人の姿も、シームレスに自分のものにしている!!!わたしが「たどり着いてほしい」と願ったサンの姿そのものなんですよ!!!(注:佐毘売山のサンは必ずしも「モロの君」を襲名してはいません。)

先ほどの繰り返しで恐縮ですが、わたしの中ではサンがここにたどり着くまでには、揺り戻しや苦しみや、あらゆるフェーズがあってのことだと思っていて、これもあって「佐毘売山」は、本編から少なくとも10年は経っている印象、と言ったのだけど、このサンはわたしが思ったよりも相当、元から覚悟が決まっている。悲しみも苦しみも背負う覚悟で、モロの娘として生きていくことを主体的に選択した、気高き「尾生いたる人」だった。それでもやっぱりこの話自体が、アシタカもサンも30歳を過ぎていたとしても、全く遜色なく感慨深いと個人的には思いますが。単にわたしが壮年、中年の二人が見たい、ということかもしれない。(それならそれは自分で書くべきなんだろう。。ハイ。)

モロもまた、時を超え、サンとその系譜(「系譜」という言葉がいい。血縁に依らない表現)とともにあった、という救いが訪れて、感動でグラグラになってしまう。なんと壮大な、愛の物語。愛は時空を超える、、これ、インターステラーですか。あの五次元空間ですか、この最終章。

胸打ち震えて語彙がないんですけど、サンの生きた運命が明かされる瞬間、これは一生わたしの中に刻まれることになるだろう。

“憑かれるように撫で、捲った、しかしその最後の一枚で手が止まった。息さえも止まる。ひゅ、と喉が鳴った。たった一字、掠れかけた墨跡の、その布だけが、織物だった。細く長い、白布。書かれているのは──『饌』。”

打ち捨てられた命。饌。それが、“山犬神モロによって、その意を違えた──モロの愛娘、サン。”

号泣です。そもそもわたしは、負の意味を持つものが、物語の結びで誰かの主体的な選択として肯定的な意味合いに転じる、という展開が大好きなんですよ。それこそが、生命の強さ、優しさだと思うから。文字は呪いになる、主人公がそれをアシタカとサンに見せないようにするのも優しさだ。「おトキが今、文字を習っている」という、何章か前の甲六の言葉がここでサスペンスとして効いてくる構図でもある。そのままにしていたら、遅かれ早かれアシタカは、その文字の意味を知ってしまう。

“「モロ一族は森の、山の為に戦う。諦めはしない。アシタカは、アシタカの故郷では、全てを語り継ぐのだと言った。わたしにも、同じ事が出来る。それも戦う事だと教えてくれた」
 わたしにはことばがあるから。
 言ったサンの声が強い。
「わたしはことばを持っているから。母さんと同じように、ことばを」”

モロ一族の継承者であり、かつアシタカと同じ姿をしている自分の使命を、サンが自ら掴み取った、それも、自分の身体をすり減らさない方法で。よかった、本当によかった(ずっと泣いています)。アシタカの寄与は計り知れないが、やはり、サンがサンであったこと、気高く強く、慈悲深く美しい、モロの娘だったからこそ辿り着けた結論だろうと思う。わたしが会いたかったサン、そのものだった。

作中、「燦爛」という言葉が、その命を表すために使われる。そう、「燦」の字こそ、彼女の命を祝福するにふさわしい。見捨てられた命、饌は、転じてモロの愛娘、サンとなり、モロ一族の継承者としてアシタカと共に生き、人の子の祈りを聞く存在となることを主体的に選び取ることで「燦」となる。わたしにはもはや、逆に「燦然」という日本語の語源が、サンその人な気すらしてきた。それでいい。それがいい。「燦然」とは、「サンのような」という意味だ。「サンのような」。「サン然」、転じて燦然。やっぱりサンは、わたしのヒーローだ。これまでも、これからも。

サンの口から、「語り継ぐこと」が誓われて、主人公は時代の坩堝へと引き戻され、物語は閉じる。移ろう時代の分岐点、日本人が犯した大いなる過ちの「大東亜戦争」の時代に主人公が持ち帰り、生きていた友(これは「希望」だろう)と誓い合う結びの言葉は、さらにその先の時代で、今まさに移ろう時代の分岐点、個人個人の主体的選択ひとつひとつが国を良くも悪くも変えることができてしまう、令和の時代を生きるわたしたちへの宿題だろう。

“ この国は、まだ死なない。神は隠れても、誰もが──全てが──生きている。”

結びつつも終わらない、「もののけ姫」の物語を継承し、またさせてくださって、ありがとうございましたと、いち読者として受け取り手として、著者様には厚くお礼申し上げます。

 

 

鮎さん:映画とご飯と佐渡ヶ島が大好きな才媛さん @KellyPaaBio

 

 

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