祖父の親友は、死んだときの年齢のままでオレの傍にいる。 [8,000 字]
三月の中旬が彼岸である、という知識を、彼はそれまで持っては居なかった。だが、否応なく覚えざるを得ない騒ぎに巻き込まれたからには、どうやらこれからは忘れようとしても忘れられないらしい。
「……有り得ない」
「何か言ったか、夏貴」
傍らを歩く長身の男から訊き返されて、夏貴は大げさに肩を竦めた。
春うらら、散歩には程よい温んだ昼間の空気は、墓地に続く坂になった未舗装の道さえ気持ち良く歩かせたが、夏貴の脳内では目の前の風景より別の事が大勢を占めているのだった。
「彼岸には帰って来るって! なんだよそれ」
「嬉しくないのか」
「嬉しいとか嬉しくないとかじゃなくて、やっぱり冷静に考えたら有り得ないだろ!」
言ってから、夏貴は自分が果てなく愚かな発言をしている事にようやく思い当たった。更におおげさに溜め息が漏れる。
「ていうか、お前の存在がそもそも有り得ないんだよな、和泉」
「有り得ないと言われてもな、現実に存在するものを否定するのに『有り得ない』はおかしいだろう。有り得てるんだから」
「だから、それがおかしいって話だろ」
二度目の嘆息でようやく少し気が逸れた。気付けば郊外の長閑さは、喧騒のある駅前とも、電車の中とも、住宅街の空気だけは賑やかな静けさともまるで違って、随分と遠くまで来てしまったような気になる。ここへ来るのは祖父の納骨以来だったし、それ以前にせよ、いつ来るのも上の空だったから、こんな場所だったのかと思うのは仕方のない事ではあった。
「ていうか、そもそも墓参りなんて彼岸にするんじゃないのか」
「彼岸がいつかも知らなかった癖に何を言ってるんだ」
呆れたように和泉が溜息を吐いた。
「柊一郎も、そんな常識くらい教えておくべきだったろうにな」
「和泉が常識だって言うくらいなら、柊一郎さんにも常識だったんだろ」
常識だと認識している事を、相手が知らないなどとは大抵の人間は思わないものだ。特にそれがジェネレーションギャップというのもどうかという程に年の離れた孫であれば尚更想像もつかないに違いない。
「東雲の宗家がそれでいいのか」
「オレは早瀬の人間だから良いんだよ。一人娘を出したんだから、柊一郎さんだって別に跡目の事なんか気にしてなかったと思うし」
「何かと物知らずが増えているんだな。言われなければ彼岸の墓参もしないところだったわけだろう」
嘆かわしい事だ、と見た目だけは自分も現代の若者である和泉はしみじみと嘆息した。
確かに、祖父の従弟が彼岸の墓参の話をしなければ、夏貴はあっさりと彼岸を無視したに違いない。
「啓太郎先生はそういうの、煩いからなあ」
現代っ子が彼岸とか知るわけ無いだろと夏貴は言い放った。
御年八十を数えて従兄から宗家を継ぐ羽目になった啓太郎翁の言葉でなければ、そもそも夏貴が従ったかどうかも怪しい。馬術を含めた弓術を継承してきた東雲流は、この街ではそれなりに知名度があり、祖父や啓太郎の下で学んで来た夏貴としては、二大逆らえない大賞がこの二人だ。
流石に直系の孫が墓参りもしない、というわけにはいかないだろう、そのくらいは自分で進んでやりなさいと電話をしてきた啓太郎は、彼岸って何とのたまった従兄弟の孫に心底呆れた吐息を零したものだった。
一門としての祭礼はつつがなく東雲流総出で行われ、夏貴も当然それに参列したが、それとは別に墓参をしなさいと言われれば、確かにそれはやるべきだろうと納得もし、こうして出向いてきたわけだが。
「だけど、反則だろう。帰って来るなんて!」
話はまた振り出しに戻った。面白そうに夏貴を見下ろす和泉に指を突きつける。
「盆ならわかる! まだわかる! なんで彼岸なんだよ 」
「たまたまだろうな」
言い出しておいて、夏貴は呆気に取られた顔になった。和泉は苦笑して先を行く。手に提げているのは年季の入った木の桶と柄杓で、桶には大輪の牡丹の花が揺れている。家を出てここに至るまで、ずっとこの豪奢な花は和泉の傍で揺れて来た。日差しが花弁に溜まっては零れ落ちて、風が馥郁と香っている。すん、と鼻を鳴らし、夏貴は和泉の頭の天辺をちらりと見る。夏貴では似合わない服が容易く着こなせる長身は、当たり前だが夏貴よりずっと太陽との距離が短い。
「たまたまって何だよ?」
ようやく追い着いて並びながら夏貴は和泉の顔を見上げた。夏貴の方は手ぶらだ。
「そもそも、東雲の人間が帰って来られるのは、東雲の人間だからだ」
「それは聞いた。和泉は例外なんだろ」
「例外も例外、それこそ本来なら『有り得ない』らしいな」
「そういうの、誰から聞くわけ」
「彼岸の住人」
あっさり言って、和泉は夏貴を見下ろして笑った。
そもそも「彼岸」という言葉は仏教用語だ。それも夏貴はつい先日初めて知った。何でも煩悩を脱して悟りを開いた状態の事を言うらしい。普通は「あの世」の事だと思われている。対するこの世は「此岸」だ。
「あの世の人達か」
「的確な言葉がないから便宜上そう呼んでいるだけで、それが本当に『あの世』なのかは俺は知らないが」
「でも、和泉だって」
死んでいる。
そう、和泉は死んでいる。本当なら祖父と同じ年齢の筈の和泉が、外見だけなら若者の姿をしているのはそのせいだ。
「まあ、そうだな。死んだ人間が集まっている場所を全て『あの世』と呼ぶならそのとおりだ」
和泉は飄々としている。死んだのは二十になるかならない頃だと聞いた。つまり和泉の外見年齢はそこで止まっている。大学の同期だったという祖父が大往生しても、和泉はその頃の姿のままでいる。
「だが、必ずしも全員がいるわけじゃない」
「それも聞いたけど、どういう法則なわけ」
死者の全てが存在する世界があったとしたら、確かに地球上の人口過密どころの騒ぎではないだろうが。
「知らん」
あっけなくそう言った和泉に夏貴は憤慨した。
「知らんて事ないだろ!」
「じゃあ、夏貴はこの世の事なら何でも知ってるのか」
「……」
思い切り言葉につまった。確かにそうだ。彼岸さえ知らない自分が、この世の何を知っているというのか。何故この世に生まれたのか、どういう仕組みかと問われても、受精だの分化だのの説明は出来ても、それ以上の事など何一つ判らない。
「つまり、基本的にはこっちと同じ?」
「そうだな。強いて言えば、明日が来ないくらいだ」
和泉に言わせると、「彼岸」では時の意味がないらしい。誰も年を取らず、ただ穏やかに笑い、楽しみ、ただただ好きに過ごしている。過ごした分だけ時間は過ぎるが、いつまで過ごしたところで何が起こるわけでもない。それを気にするものも存在しない。
桃源郷なのだろうと思うと和泉は言った。中国思想における理想郷である桃源郷では、遥か昔に滅んだ時代の人々が、当時のままの生活を営み、現世で何が起こっているのかを一切知らなかったという。
確かに和泉の語る彼岸に似ている。
その彼岸の住人から見ても、和泉の存在は特異であるらしい。
「つまり、どういう事になるんだ」
夏貴は眉を寄せた。
「どうもこうも」
和泉は苦笑を崩さない。
「言ったろう。俺は彼岸と此岸の間に落ちたんだ。多分な」
和泉は実体を持っている。だからこそ、こうして連れ立って出掛ける事が出来るわけだが、かと言って、完全にこの世界に実存はしていない。何の法則か、東雲の敷地と、東雲の人間のいる場所にしか存在できないのである。加えて和泉が散々過去に柊一郎と二人、試したところによれば、柊一郎の所有物を身に帯びていれば、一人でも東雲の敷地外を歩く事が出来るらしい。
「幽霊ってみんな和泉みたいなのかな」
「そうとばかりも言えないだろう」
幽霊という響きに心底嫌そうな顔をして、和泉はそれを否定した。
そもそも夏貴がここ数ヶ月で彼岸を嫌と言うほど覚え込まされたのも、幽霊だとか妖怪だとか、いわゆるアヤカシと呼ばれる物のせいだった。それらが全て和泉のように狭間に囚われている存在かといえば、確かに違う。
「あーもう、ややこしいな。ていうか、どうなってんだよ」
「だから、そんな事が判っている人間はいない」
「誰か研究とかしとけよ!」
「……まあ、していないわけではないだろうが」
目の前で観察が容易な存在でない以上、そうそう大々的な何かが出来るわけもない。
「でも、和泉はいるし」
「そう、柊一郎も冬湖も帰ってくる」
「変すぎる!」
東雲の人間は彼岸に帰って来る。研究するなら、東雲に住み込むのが一番早い。早いがしかし、そんな話は夏貴の周囲の何処からも聞いたためしがない。第一何より、実際に東雲の人間が帰って来るのを見た事だとてなかったのだ。
「帰らないだろ普通! 胡瓜の馬も茄子の牛もなしで!」
盆ならまだ判る、と夏貴が言うのはそのせいだった。盆といえば、祖先の霊が帰って来て子孫と交流すると言われる古くからの季節行事だから、まだ理解がし易い。し易いだけで、本当に当人が帰って来たら仰天するわけだが、それにしても、何となく納得するだけの余地はある。
だが、彼岸。
何故彼岸。
現実に、既に過ぎた彼岸の間、夏貴は東雲の家で祖父と母を迎えた。あんぐりと口を開けて玄関の戸を開いた夏貴を、祖父も母も最後まで笑いものにしたが、夏貴としては笑われるような事では無いと断固抗議したい。帰ってくる方が非常識なのであって、幾ら東雲の人間はそうなのだといわれても、はいそうですかとすんなり納得出来るわけもない。
挙句、何故東雲の人間だけが帰って来られるのかという最重要事項の説明は為されなかった。和泉も含めた三人が口を揃えて「知らん」と言うばかりである。本気で有り得ない。
「強いて言えば」
和泉が考え込むように言った。
「恐らく、彼岸と此岸は重なっているんだ」
「重なっている?」
夏貴は首を傾げた。のろのろと歩くせいで、墓所はまだ見えない。山と呼ぶには小さく、丘と呼ぶには少々小高すぎるこの場所の、殆ど頂上に墓所はあるから、まだ暫く歩かなくてはならない。
「此岸の上に、薄く膜のように彼岸が重なっているんだ」
「ミルフィーユかよ」
「ミルフィーユとは、洋菓子の名前じゃなかったか?」
「あー、そうなんだけど、なんだっけ、ミルフィーユってパイみたいに層が何層も重なってるだろ。もともとのフランス語の意味は千枚の葉っぱなんだってさ」
「そういう事か」
頷いて和泉は先を続けた。全く、何十年も前に死んだ男と話すのは一々面倒臭くていけない。
「それで、間に挟まっている俺は、彼岸にも此岸にも存在して、その曖昧さが制約になっている」
「それで?」
「東雲の人間は、何らかの理由で彼岸と此岸を行き来する能力があるんだろう。その為に、層が最も近付き、殆ど完全に重なった状態になる彼岸の時期には、帰って来る事が出来る」
「へえ」
夏貴は目を見開いた。
「そういう理屈なのか。早く言えよ」
「いや、単なる臆測だ」
和泉は肩を竦めた。
「お前があんまり煩いから、考えてみただけだ」
「あ、そう」
煩くて悪かったな、とばかり夏貴は口を噤んだ。
和泉も黙って先を歩く。歩き続けているせいで少しだけ汗ばんでいた。
東雲の人間も、必ずしも彼岸に帰って来るわけではないという。現に、祖父と母以外の人間は帰って来なかった。逢いたい人も居ないのに、帰って来たって意味が無いだろうとは和泉の弁だ。確かに、もし自分が死後、この世に戻りたいと思うとしたなら、自分を知る人間達に逢いたいからだろう。だが、普通は死者が訪ねて等来るわけがないのであり、よほど柔軟な頭を持っているのでなければ、せいぜいが肉親に会う位で、まさか他人のところに行けば化けて出たと思われるのがオチだ。
母が亡くなったのは三年前で、しかし今回祖父と共に帰って来るまでは一度も現れた事がなかったのだが、それについては「だって上手く説明できる自信なかったし、泣かれたら嫌だし」というのが母の説明だった。
祖父に言わせれば「亮くんと離れたくなかっただけじゃないのか」という事になるが、自分が幼稚園の頃に病死した父と「あの世」で再会した母が、ようやく夫婦水入らずで過ごせていたというのなら、それはそれで夏貴は全く構わない。父は東雲の血を引いていないから、当然、此方に来る事は出来ないという事になる。
ただ、少なくとも。
母と父は再会出来たのだ。必ずしも彼岸に全ての人間が来るわけではないのだという説明からすれば、恐らくそれは僥倖と呼ぶべき事なのだろう。
和泉は、と夏貴は思う。
和泉は、彼岸の人間でも、此岸の人間でもないまま此処に居る。どちらへも行き来出来るが、どちらでも何らかの制限があるという和泉にとって、今、こうして此岸に居るのは果たしてどんな気持ちゆえなのだろう。
「和泉、さ」
「うん?」
沈黙を破って和泉に声を掛ける。和泉は何事もなかったように穏やかに返答を寄越した。
いつもそうだな、と夏貴は思う。
祖父が亡くなってからの僅か数ヶ月。幼い頃に祖父の部屋で何度か顔を合わせたきりだった和泉が再び夏貴の前に姿を現してからでも、半年には満たない。
和泉は、夏貴が何をしても、すべて受け入れた。何故、と訊きたくて訊けずにいる。
それは和泉が祖父の友人であり、見た目と違って長い歳月を過ごして来た人間であるからこその、夏貴への寛大さなのかも知れず、あるいは別の勘定なのかも知れず、夏貴にはまるで窺い知れない。
和泉は、病床の祖父に頼まれて夏貴の前に姿を現した。自分の死後、たった一人になる夏貴を案じた祖父が、後を頼むと和泉に言ったからこそ、和泉は此処にいる。
判っているのに、頻繁に忘れる自分を、夏貴は彼岸明けにようやく自覚した。祖父と母が手を振って消えて、和泉と二人の生活に戻ったその瞬間に。
和泉にとって、自分はどういう存在なのか。ただ、親友の頼みだから面倒を見ているだけの子供なのか。それは嫌だ、と唐突に思い、思って以来、和泉の事ばかりが気になる。
「何で、オレと一緒に居てくれてんの」
「は?」
藪から棒になんだ、と言って和泉は夏貴を振り返った。いつの間にか、夏貴の方が遅れがちになっている。
「和泉の知っている人は……逢いたいと思う人は柊一郎さんだけだったんじゃないのか」
和泉は僅かに沈黙し、直ぐに頷いた。
「そうだと言えば、そうだな」
夏貴はわけもなく泣きたくなって早足になった。和泉を追い越しながら言う。
「柊一郎さんの頼みだからって、聞かなくたって良かったんだ。オレは一人でも良い。元々、一人になる筈だったんだから」
「夏貴?」
どうしたんだ? と和泉の声が負い掛けて来る。自分でも何を言い出したのか良く判らなかった。
似たような質問は、つい先日もした。和泉が此処にいるのは、柊一郎さんに頼まれたからだよなと、そう訊いて肯定された。当たり前だ。それ以外に理由など無い。
だが。
母は、父との時間を大切にして、今年まで夏貴に逢いには来なかった。もし、夏貴がいなければ、母にとって此岸は去った場所に過ぎず、わざわざ訪ねて来る場所ではないという事だ。
祖父は、どうだろう。夏貴に逢いには来てくれるだろう。その後は?
ならば、和泉はどうなのだ。
和泉は此岸にも彼岸にも存在出来る。無理に此岸に居る必要などないのだ。
「夏貴!」
後ろから腕を掴まれた。立ち止まって夏貴は振り返り、黙って和泉を見上げた。判っている。自分はただ、子供なだけだ。愚かな子供。和泉を困らせるとわかっていて取り繕う事も出来ない。
「本当に、一人で良いなんて思ってるのか」
和泉の声は低かった。表情が険しい。怒らせたのだと気付いたが、どうにもならなかった。
「一人ったって」
夏貴は目を伏せる。
「学校に行けば三上達もいるし、弓道場に行けば門下の人達だっている。どうやら彼岸には柊一郎さんも母さんも来てくれるみたいだし、普通よりは、恵まれてると思う、オレは」
何一つ普通じゃない、それが夏貴の普通になりつつある。
「だったら」
和泉は深く溜息を零した。
「俺の存在は、夏貴には意味がないのか」
夏貴は答えなかった。意味が無いと、本当にそんな事を思っていたらこんな事は言い出さない。子供の癇癪と同じだ。もういらないと、わざと投げ捨てて壊しておいて、死ぬほど後悔する。目に見えているのに、何も言えない。
「夏貴」
和泉の声が穏やかになった。夏貴は和泉を見上げる。小さく笑って、和泉が言った。
「どうした。言いたい事があるなら言えば良い。確かに柊一郎に頼まれたから此処に居る。でもな」
俺にとっても、夏貴は大切な存在だよ、と続けられた声に、夏貴は思わず首を振った。
「それは、オレがオレだからじゃなくて、柊一郎さんの孫だからだろう」
「当たり前だ」
和泉は呆れたような顔をした。
「あいつの孫でなかったら、何で俺がわざわざ構わなきゃならん」
「だから!」
「ばぁか」
不意に聞き慣れない単語が飛び出して、夏貴は思わず目を瞬いた。和泉が夏貴の腕を掴んだままで歩き出す。
「思ってたより、馬鹿だな、夏貴」
「何だよ、いきなり!」
「確かに俺はお前の顔を眺めるのが好きだけどな」
「はあ? 何それ初耳」
「柊一郎に似てるよな、夏貴。見てて飽きないのは確かだ。確かだが、それだけじゃないし、あいつに頼まれたからだけで、嫌々子供のお守をするような出来た人間でもない」
「オレは!」
腕を振り解いて立ち止まった。和泉が振り返る。黙って夏貴を見る和泉に、夏貴は俯いた。影が掛かる。和泉は夏貴より太陽に近い。
「オレ、は」
「お前は?」
「オレは、一人なんかじゃいられない。そうだよ、大嘘だ。今、一人でも平気なのは和泉がいるからだ。でも」
和泉が自分の本位でなく此処に居るのなら、それは嫌だ。
ふわりと、頭の上に和泉の手が乗せられて、夏貴はようやく顔を上げた。和泉が苦笑している。困った顔をしていた。
「……ごめん」
「いや」
和泉が首を振り、ぽんぽんと頭が叩かれる。
「牡丹」
「え?」
これ、と桶を持ち上げて、和泉が言う。
「牡丹が花の王だって知ってるか」
「……知らない」
「ホントに、今時の子供は物を知らんな」
「……それがどうかしたのかよ」
「獅子に牡丹という言葉がある」
「は?」
夏貴は面食らって首を傾げた。突然なんだ。
「獅子は百獣の王、牡丹は百花の王、その両方を組み合わせた、つまりは最高だという事だが」
ニヤリと和泉が笑みの質を変える。
「牡丹は美人の代名詞でもあってな」
「……はあ?」
益々もって、夏貴は唖然とした。全く話の先が見えない。
「参ったな」
「一体何の話をしてんだよ、和泉は!」
言った瞬間、不意に頭の上の和泉の手が、そのまま頬に滑り降りた。目を瞠った夏貴の目の前に、和泉の端正な顔がある。するりと撫でられた。
「いず」
み、という言葉尻が、そのまま和泉の笑みに吸い込まれて消える。細めた男の目の奥に凝った何かを見詰めたまま夏貴は息を止めた。
身を起こした和泉が、罰の悪い顔でまた夏貴の頭を叩く。
「そんなにぼけっとするな」
「だ、だって、和泉」
和泉が背を向ける。
「夏貴。お前は俺の牡丹だよ」
夏貴は唇を噛み締めた。意味が、──意味がよくわからない。和泉の揺らす牡丹の花弁が揺れている。
「うそ臭い!」
「どうかな」
「クソ爺!」
「そういう事言うか」
夏貴は駆け出した。和泉を追い越して先に行く。世界の何もかもがわからない。全部わからない。たったひとつをわかるようになるまでに、時間はどのくらい残っているのだろう。
「夏貴、置いて行くな」
空を見上げる。太陽が遠い。彼岸も此岸も、全部が遠い。遠過ぎて──置いて行かれる。
獅子は、牡丹の花から滴る朝露で、その身に巣食う虫から身を護ると言う。夏貴がそれを知ったのは、数日後の事だった。

