告解を、神父様。 [11,340文字]
時が降り積もっている。
使徒ペトロ以来連綿と続く聖座、ヴァティカーノ丘陵に広がる聖ペテロ大聖堂を中心とした建築群には、時と祈りと嘆きと赦しが満ちて積み上がっている。
アヴィニョン捕囚以前、あるいはクイリナーレ宮殿を居所とした時代を除けば、およそローマ教皇と呼ばれた神の僕は常にこの場所に起居して来た。ロマヌス・ポンティフェクス──ローマ司教は全ての信徒を導く者であり、神の子の代理人であり、同時にもっとも聖なる君主として、教皇の称号を冠されて君臨する。
全ての信徒は、聖座から神の子の代理人の声を聞き、その声に従って祈りを捧げてきた。それは繰り返され、積み重ねられ、幾重にも薄いヴェールとなって丘を覆い、不可視の海となってヴァチカンを満たし、今も尚、静かにその水位を増している。
海はヴァチカンを包み込み、ヴァチカンを囲むローマを、そして古のローマ帝国の正当な後継を自称しヴァチカンによって認められた神聖ローマ帝国をもひたしている。水は帝国皇帝の足をも濡らし、いかに皇帝とて、教皇の前に嵐を齎す事は叶わない。
海は凪いでいる。丘は静謐であり、嵐はヴァチカンの前に消えて何者にも脅かされはしないのだ。
その海の底を、仰ぎ見るばかりの高い天井から光が射し込んで照らしていた。磨き込まれた石の床を叩いて冷えた靴音が高く響く。
音は。
音は海に吸い込まれて消える。光はローマにあってまだ柔らかく、早朝の清浄をまとって柔らかな影を作った。長身に枢機卿の赤を羽織った影は頭上のビレタを深く被り直し、独特の角帽の膨らみに濃い褐色の巻き毛が沈むのを確認して歩を進めた。足首までを覆った司祭服と豪奢な深い緋の外衣の重なりがもたらす衣擦れはさざめきのように海面を渡る。
カメルレンゴ、と密やかな音の連なりが耳朶を打って、靴音は一瞬だけその音を止めた。直後に再開された規則正しい響きに声が重なる。聖下は、教皇聖下のご様子は。問いは既に確認でしかなく、カメルレンゴと呼ばれた男は再びその歩みを止めた。足元を、ひたひたと満ちた不可視の水が洗っている。
教皇が病臥したと発表されたのは一昨夜の事だ。まだ老いたというには余りに若い教皇の病臥に、聖座は以来落ち着きのない慌しさに包まれたが、それでもなお、不可視の海は凪いでいる。
振り返った先、僅かに膝を屈めて見詰める白頭に黒衣の司教の姿を認めてカメルレンゴは僅かに目を細めた。壮年と呼ぶべき男の若さと落ち着きを奇妙に同居させた静謐な表情には何一つが浮かび上がる事もなく、その静けさに司教は眉を下げ、目を伏せる。それを確認したゆえか否か、カメルレンゴはそのまま視線を逸らし、再び衣擦れの音を置き去りに歩み始めた。取り残された司教は頭を垂れたまま動かない。投げかけられた問いもまた、不可視の海に溶けて消えた。
ヴァチカン宮殿へ繋がる階段、スカラ・レージャを渡りながら、カメルレンゴは足元の海を見る。静かにたゆたう水面の、そのあわいに浮き沈みする全てが薄いヴェールの可憐さと儚さで交じり合い溶け合いながら形を崩さない、その強かさこそがヴァチカンを形成している。祈りは感情で、祈りは弱さであり、そうして祈りは強さだ。海は強さで縛られて堅い。
目に見えるものが全てではない、というのは実感としても聖書の教えとしても恐らくはヴァチカンの、全世界の教会に属する司祭の共通の認識には違いなかったが、まさに今、カメルレンゴの目には二重にも三重にも重なって流れ行く世界が映っており、それは確かにそこにありながらどこにもない曖昧さで世界を構築しているのだった。
美しい庭園に光が溢れている。それを囲む回廊は歳月に磨かれ、あるいは僅かに朽ちて独特の重厚感で光に沈む。どこからから流れてくる花の香りに風が甘い。
回廊を歩みながら、そうしてカメルレンゴの視線が捕らえたのはまだ「カメルレンゴ」ではなかった頃の青年の自分であり、「教皇聖下」ではなかった頃の若い彼だった。二つの人影は肩を並べて歩きながら、何事かを秘めやかに話し合っている。
あなたに、と自分の唇が紡ぐのをカメルレンゴは見詰めた。
あなたに告解をしたいんだけど、今お願いしても良いだろうか。
互いに黒の司祭服に緋の腰帯を長く垂らした姿で、ただ日常の風景の一つとして歩み行く二人の間に、そうして僅かな緊張が生まれたのを、確かにあの日の自分は知覚しており、改めてこうして眺めれば、自分の実感以上に、場の空気は冴えてひりつく感触であったのを目撃して、カメルレンゴはそっと眉を寄せる。
告解を、神父様。
それは常に自分達に課せられた義務であり務めである筈で、信徒から日々もたらされるそれらを受け止め、神の名の下に赦しを与える事は繰り返される無数の祈りを産み、それもまた積み重なって海になる、その過程こそが重要なのだと認識して世界は回ってゆく筈だった。だが。
それを聞くのは今はやめておこう。
返されたのはそんな言葉で、自分より拳一つ背の高いその人を見上げながら、青年は数瞬、真意を探るようにその人の淡い瞳を覗き込み続けたものだった。
ヴァチカンに於いて、告解とそれに伴う赦しは神の見えざる恩寵、即ちサクラメントゥムの一つに挙げられている。それを拒否する神父など存在してはならぬ筈であり、しかし現に今、彼は静かに年下の親しい友のそれを拒否したのだった。
何故、とは問わなかった。
問わなかった理由を、彼も何故とは問わなかった。
生まれた張り詰めた空気が小さく震える。それが全てだった。
今は、と彼は言う。ならばいつか、その時は来るのか、否か。
随分と、と彼は覗き込む青年からそっと視線を外し、低い声でそう言った。既に最前のやりとりは失われ、過去になって足元でそっと溶けようとしている。積み上がる時の一片は、こうしてまた僅かに嵩を増す。
随分と歩いて来たものだ。
独り言めいたその呟きに、青年は真っ直ぐに見詰め続けていた彼の顔をゆるりとした瞬き二度で視界から遠ざけた。向き直った行く手には積み上がった時に揺蕩うヴァチカンの美しい石畳が続いている。
初めてここを歩いたのは少年の頃だった。そこで出会った彼と、今も並んでこの場所を歩いている。歩き続けたその場所で、踏み付けてきた無数の何かは、全て溶け合って大海になる。足を浸す不可視の水は、今も同じように足元を洗っている。
あなたと歩いた道だ、と青年は答えて小さく笑った。彼が僅かに首を傾けて青年を見る。それを気配で感じながら、青年は続けた。これからもきっと、俺はあなたと歩く。
告解を、と望んだ意味を、その内容を、恐らく彼は既に知っている。告解を。貴方に。それはある種の卑怯さではあった。拒まれる可能性を、無論青年は知っており、だからこそ、それでも望む。告解を。ならばそれは罪かと問われれば、誰もが罪ではないと答えるだろう。それでも自身が罪だと僅かでも感じるのであれば、罪は罪になり告解は──毒になって貴方に廻る。
宗教改革を、宗教戦争の時代を越えてさえなお権力と腐敗とを指摘され続けた聖なる総本山の、この美しい丘で繰り返される嘆きと祈りの上に、積み上げるべきものが罪でない事は明白で、それでも捨てられない何かがあるのなら、それ自体が罪だと思うのは欺瞞か、否か。
お前が居て良かったよ。
さらりと一陣の風に乗せて彼がそう言った。青年はその声に笑みを消す。歩き出した彼に一歩を遅れて付き従いながら、俺もあなたと居られて良かったと僅かに軸をずらした応えを零すと、彼は足を止めて首だけを振り向けた。
お前は告解をする必要はない。お前に罪などないのだから。
ふ、と青年は笑んだ。ならばあなたにこそ、罪が? 告げた言葉は、あるいはエデンでアダムとイヴをそそのかした蛇に似て、ちろりと赤い舌を覗かせて彼に絡み付いた筈だった。振り返った姿勢のまま、静かに見返す色素の薄い瞳に自分が映っているのを青年は見詰め、流れた沈黙は何かを生み、何かになってやはり足元に降り積もった。
そうかもしれない。だが、まだ今は、それは罪にはならない。
殆ど謎掛け同然の互いのやりとりはそのまま駆け引きに他ならなかった。迷える子羊を導く為の、司祭はしかし、やはり迷える子羊でしかない。
それきり、会話は途切れた。以来一度も、この話をした事はない。
「カメルレンゴ」
不意に至近距離から呼ばれて男は我に返った。歩み去る彼と青年とを目の端で見送ったまま、「ああ」と返事をする。
「お疲れのようだ」
言われて首を振った。ようやく視線を真っ直ぐに声を掛けてきた男に向ける。同じく枢機卿の緋を纏った同年代の男は手先でその緋を捌き、衣擦れの音と共に首を傾けた。
「浮かない顔だ」
カメルレンゴは視線を伏せる。何も口にしないのを見て取って、枢機卿は声を潜めた。
「聖下のお加減は、かなり悪いのか」
尚も無言でいるカメルレンゴの腕を掴む。
「俺にも言えないのか。治療はどうなった。医師団は? 教皇聖下はお前以外を部屋に入れないと聞いたぞ。何がどうなっている」
矢継ぎ早の言葉が強い。カメルレンゴは微かに眉を寄せ、腕を掴んだ枢機卿の袖を引いた。
「お前にだから、言えない事もある」
「どういう意味だ。何を隠している。教皇聖下は高潔な方だ。あの方が教皇になってから息苦しさを感じていた者達が不穏な動きをしている。皇帝派は教皇聖下を排除したいのだろう。彼らにとっては聖下が病に倒れたなどというのは格好の機会だ。お前がそれに気付かない筈がない。なぁ、お前は聖下を守らなければ。俺だとて、そう思っている。味方は多い方が」
言い募って不意に言葉が途切れた。精悍な顔立ちを僅かに歪めてカメルレンゴの目を覗き込む。
「まさか、反教皇派の動きを待っていたのか」
カメルレンゴは尚も無言だった。表情らしい表情を浮かべる事無く見返す透明な瞳に枢機卿の眉間に皺が刻まれた。数瞬の沈黙の上に枢機卿は口を開き、一度思い直したように閉じてからようやく押し殺した声を漏らした。
「我々は友、だろう」
「……そうだな」
カメルレンゴの返答は短い。枢機卿は眉間の皺を深くして額を寄せた。
「俺を信用出来ないのか」
「そんな事はない」
「お前も……俺が前教皇の寵愛によって枢機卿にまで取り立てられた学も家名もないガニュメデスだと?」
「以前、市井に流れた中傷詩か。また懐かしいものを。詩人の言いそうな事だ。ガニュメデス。神々の給仕の為にゼウスに攫われた美しい王子。ギリシャ神話の世界に、お前と似た境遇の登場人物がいたとはな」
「パロマの街中で前教皇に見出されてヴァチカンへ連れ出された俺は最高神に攫われた王子と同じか。生憎ガニュメデスと違って俺は王子ではなく乞食の子だがな」
カメルレンゴは静かに枢機卿を見る。見返した枢機卿は首を振り、再びカメルレンゴの腕を掴んで握り締めた。
「お前と聖下だけが、俺を蔑まなかった。お前は俺を友として扱った。俺は」
お前と聖下の助けになりたいだけだ、と強く囁く男をカメルレンゴは見詰める。枢機卿の緋を纏った人間が二人、向かい合って立っている、その向こうにやはり、出会った頃の、まだ少年と青年のあわいにあった二人の人影を認めて目を細めた。輝くばかりに明朗で快活な男と、それに向き合って笑うばかりの自分とが、酷く遠い陽炎のように揺らめいている。
「私は」
言い掛けたカメルレンゴを、しかし直後に枢機卿が押し留めた。背後に据えられた視線につられる様に振り返った先、目礼して歩み去る司祭の姿を見送る。やがて詰めるようにしていたらしい息を吐いた枢機卿は掴んだままのカメルレンゴの腕に一つ視線を落とすとそのまま踵を返した。腕を引かれてカメルレンゴは無言で従う。回廊脇、並んだ幾つもの扉の向こう、それぞれ用途の違う部屋や廊下が無数に続く、そのうちの一部屋に殆ど引き摺られるようにして踏み込むと、ようやく枢機卿はカメルレンゴの腕を解放した。
小部屋だ。
装飾もさほどないその部屋は、隣の広間の応接の為にあり、小さなテーブルと、それでも重厚な布張りの椅子とが数脚並ぶだけの簡素な部屋だった。ぐるりとそれを見回すカメルレンゴを置き去りに、枢機卿は入って来た扉を閉じ、そっと外を窺うように耳をそばだててからようやく振り返って言った。
「聖下のお加減は、悪いのだな」
最早それは確信を篭めた一言ではあった。
カメルレンゴは無言のまま小さく首を傾ける。肯定とも否定ともつかないそれに、枢機卿は緋の外衣を翻して歩み寄った。
「ここなら人に聞かれる心配はない」
「私は人に聞かれて困るような話をする気はない」
いっそ冷ややかなまでのそれに、しかし枢機卿は頓着しない。器用に片眉を跳ね上げて目を細めた。
「何故、お前が今、聖下のお傍を離れている。お前以外はけっして近寄らせるなと厳命されたと聞いた。なのにお前がこうして外をうろついているのは、それは」
「しなければならない用務を片付けて来ただけだ」
「何をして来た?」
それは、反教皇派を押し留める為の何かの方策なのだろう、と、これも既に確信めいて言い切ってから、枢機卿は大きく息を吐いた。
「何故、俺にまで秘す? 俺を信じられないというのなら仕方がない、だが」
「お前は友だ」
声を遮ってカメルレンゴは視線を上げた。真っ直ぐに枢機卿を見る。
「お前の事は信じている」
枢機卿は黙ってその視線を受け止めた。沈黙は雄弁であり、互いにそれを判っていながら何も口にしなかった。やがて枢機卿が先に視線を外し、吐息と共に言った。
「告解を聞いてくれないか」
カメルレンゴは目線だけで枢機卿の口元を見返した。その唇が何を紡ごうとしているのか測ろうとする視線が一巡する。在りし日の前教皇が、この男の肩を抱くようにして歩く後姿が滲んで浮かんだ。まだ少年と呼ぶべき年齢の男の輝くばかりの笑みを受けて僅かに笑んだその顔を、首を一つ振って霧散させる。
告解を。私の罪を、お聞き届けください。
カメルレンゴが是とも否とも口にする前に、枢機卿は膝を折って頭を垂れた。その頭上のビレタを取り、胸に押し当てて深く一つ息を吐く。
「本来なら、私はあなたに敬意を表して、このように改まった言葉づかいをすべきでしょう。ですが、私を友と呼んだ、その心に甘えて普段通りに話をしたい」
構わないか、と続けられた言葉が揺れた。カメルレンゴはやはり是とも否とも答えず、枢機卿は目線を上げて唇の端を持ち上げた。
「知ってのとおり、俺は前教皇に拾われた。ああ、文字通り拾われた。物乞いの子だ。生活は最悪で、何一つを持たなかった俺を、なんの気まぐれか目にとめた当時の枢機卿は、俺を連れ帰り、自分の兄弟の子として傍に置き、司祭になるよう取り計らった。のちに枢機卿は教皇となり、その座につくとすぐに俺を枢機卿に叙任した。口さがない人々の、俺を男娼と罵る声を聴きながら、俺は内心で笑っていた。笑っていたんだ」
浮かべた笑みが深くなる。カメルレンゴは身動ぎさえせずにただ枢機卿を見下ろし続けた。
「聖職者は禁欲の誓いを立てる。だが、俺の前に広がる光景はその真逆だった。誓いを守らない聖職者の中で、ならば俺がその恩恵を受けて何が悪い。何も持たない俺がこの身で利益を得るなら、それも神の思し召しというものだろう」
枢機卿の背後に、屈託なく笑う青年が立っている。目を細めて笑う青年は、その腕を別の男に引かれて笑みの種類を変えた。嫣然と笑う、その青年は視線で全てを睥睨し、男の腕に絡み付くようにして立ち去って行く。
「俺は禁欲の誓いを守った事はない。ないんだよ」
嘆きの海は、枢機卿の首までを浸してたゆたっている。祈りは嘆きであり、嘆きは悲しみであり、悲しみは救いになり、救いは祈りの形で積み重なって海になる。
「ひとを」
そっとカメルレンゴは口にした。
「想う事は罪ではない。欲に、溺れる事が罪だ」
「俺は、あの方に想いなど抱いた事はなかった。ただ、そうして得られる自分の生活の為に自身を差し出した。それが告解だ」
「何故」
「何故? 何が」
「何故、今この時に私にそれを聞かせる」
赦す、と言わねばならない筈の告解を聞き届けた司祭としてあるまじき問いを口にしたカメルレンゴに、枢機卿はゆらりと立ち上がった。握ったままの緋のビレタに視線を落とす。
「罪に塗れても、俺がこうして枢機卿なんて大層な身分でここに居られる事も、お前にこうして告解をして赦しを得られる事も、お前に知っておいて欲しかったからさ」
ふ、と笑みを浮かべる、その顔は青年の頃と変わらない。カメルレンゴは唇を引き結んだままそれを見た。
「お前と聖下は、俺の知る限り唯一の清廉潔白な正しい神の僕だ、カメルレンゴ」
衣擦れの音がさざめいて広がり、枢機卿はカメルレンゴの至近距離までその身を寄せた。
「想いを抱く事は罪じゃない。そう、たった今お前はそう言った」
顎を引いてカメルレンゴは眉を寄せた。鼻が触れる程の距離から見詰めて来る枢機卿の目を間近に覗き込んでゆるりと瞬く。足元で海が揺れている。足首を浸した水が小さく跳ねる。
「ならば、お前のそれも罪じゃない」
カメルレンゴは小さく目を瞠った。枢機卿は真っ直ぐに視線を逸らさない。
「罪じゃない。そうだろう?」
「何の、話をしている」
「判らない筈がない」
閉ざされて開く筈のない広間へと続く扉が開き、一人の枢機卿と連れだって一人の司祭が歩み寄って来るのをカメルレンゴは見詰めた。それは過去だ。過去が歩み寄って来る。彼と自分。何事かを話す彼に、自分は小さく笑っている。そのままこの控えの間にいたらしい別の司祭と話を始めた彼から、数歩を下がって控えた自分は彼をただ見詰めている。表情はなく、ただ細められた視線だけが揺るがない。
「教皇聖下はお前をカメルレンゴに任じた。教皇の死を看取るのがカメルレンゴだ。そうだろう。それをお前にと望んだ、聖下のそれも、もちろん罪じゃない」
「黙れ」
カメルレンゴは首を振る。至近距離で揺れる瞳に枢機卿の顔が映る。
教皇の死に際し、カメルレンゴはその死の確認を行う役目を負っている。前教皇の昇天の際のその儀式が眼前に広がって辺りは闇に沈む。
燭台の明かりに囲まれて、眠る教皇の名が三度繰り返し呼ばれる。時のカメルレンゴはその後に、銀の槌でその額を三度叩く。静まり返ったその部屋で、厳かに教皇の昇天が告げられる。
祈りの声が満ち、海は嵩を増す。僅かに波を立てた海は、しかしやがてまた穏やかに凪ぐ。
「聖下が昇天されるのなら、お前がそれをするんだろう」
「黙れ」
「黙らない。お前は聖下の昇天以後、空位となった教皇の座を守り、全てを取り仕切って、次代の教皇を選定する為のコンクラーヴェを開催する。前代の教皇の一切を受け止めるのはカメルレンゴだ。だからこそ、聖下はお前をカメルレンゴに任じた」
「あの人は、ただ」
「お前を一番信頼されている。違う、お前だけを信頼されている。だからなのだろう? だから、お前は俺にさえ全てを話さない」
枢機卿はカメルレンゴの肩を掴んでそっと揺する。
「お前を誰より何より信じている、聖下は、お前だけを見ている。お前は聖下の傍に居なければ。ほかの些末な事など、俺に任せてしまえば良い。俺が全部してやるよ。それが贖罪になるとは思わないが、お前の為に、俺はそうしたいんだ」
カメルレンゴは目を閉じた。ゆるく首を振る。
不可視の海に積み重なった祈りが薄い膜になって足元に絡み付く。それは自分の祈りだ。そして彼の祈りでもある。白く、蒼く、あるいは赤く、膜はいつしか紙片になり、あらゆる色に染まって流れ去る。
昇天の際に名を呼ばれるのなら、と彼はそっと口にした。教皇としての名でなく、生まれ出でたその時に、両親から授かった名を呼ばれるのなら、お前が良い。
三度、それは繰り返され、繰り返された数だけ、死は確定する。
だからお前にしようと思う。
教皇として最初の祝福を、聖ピエトロ大聖堂のバルコニーで「ローマと世界へ」と、ウルビ・エト・オルビを口にしたその直後に、彼は純白の教皇衣に包まれて戻ってくるとそう言った。
お前以外の、誰にもその役目は負わせない。
「カメルレンゴ」
促すように強く囁く枢機卿に、一つ、カメルレンゴは息を吐いた。そっと肩を掴んだ枢機卿の手を握って押し戻し、口を開く。
「もう、為すべき事は全てした」
「全て? ならば、俺に出来る事は?」
カメルレンゴは顔を上げる。枢機卿を押し退けるようにして背を向け、低く呟いた。
「近くに──友として、近くに居てくれ」
カメルレンゴは外衣を掴んで歩き出した。扉を押し、回廊に戻る。背中に枢機卿の声が広がった。
想いは罪じゃない、お前のそれも、そして多分、俺がお前に抱くそれも。
振り返ったカメルレンゴの前で扉が閉まる。風に乗った枢機卿の声は、花の甘さに淡く溶けた。
──罪ばかりを抱えた俺の、唯一美しいものを、全部お前にやるよ。
カメルレンゴは視線を落とす。足元で水が音を立てて跳ねている。外衣は水を吸って重く、歩き出した足はその流れに押されて酷く緩慢だった。空が高い。既にローマの日差しは強く、眩いばかりの光に満ちて、丘は静謐を湛えて祈りを満たしている。
光の中央に、立ち尽くす青年を見た。微動だにせず、一点を見詰めるその視線が余りに強い。視線の先は、確認するまでもなかった。彼が何かに気付いたように振り返る。瞬間、青年に浮かんだ滲むような色にカメルレンゴは目を閉じた。
想いは罪ではない。
友に告げたそれが回廊を巡る。拳を握り、外衣の裾を引き摺って、カメルレンゴは目を開く。
道は、まだ僅かに続いている。彼と歩んだそれが、まだ目の前に真っ直ぐに伸びている。水は道を浸し、どこまでも流れて行く。歩み出したカメルレンゴの足元で、何度も跳ねて外衣を濡らした。
彼と自分とが、そこかしこで佇んでいる。つかず離れず並んで歩く、その姿ばかりが目の端を横切る。枢機卿の緋と司祭の黒衣とは、いつしか純白の教皇衣と枢機卿の緋に代わり、歩んだその軌跡に、積み重なり積み上がっていく全てが交じり合って溶けだしていくその様は、確かにこの丘にふさわしい風の色をして、巡り行く全てに滲んで消える。
カツ、と靴音が響いてカメルレンゴは足を止めた。控えの間、息苦しいまでの静寂に満ちた枢機卿団の視線を受けてそっと拳を握る。教皇の寝所へ立ち入る許可は、カメルレンゴにしか与えられてはいない。
「カメルレンゴ」
掛けられた主席枢機卿の声を背に、何も答えずにカメルレンゴは扉を押した。踏み込み、背後で閉ざされる扉を確認して寝所へと続く小部屋を横切る。簡素を好んだ教皇の指示で、寝所は酷く質素であり、それでも長く権力を掌握して来た宮殿は、それ自体が優美であり華美であり、差し込む光を遮る紗さえ煌めいて美しかった。
「教皇聖下」
そっとカメルレンゴはそう口にした。寝所の手前、最後の扉を押し開き、踏み込んで数瞬、足を止める。
寝台に横たわるその人は、眠っているようだった。歴代の教皇の中でも若い教皇だと言って良い。整った顔立ちのせいで尚更、それはただ眠りについている美しい人の彫像めいて見えた。
寝台の周囲に明かりはない。紗に遮られた陽の光だけが穏やかに満ちた温かい部屋の、その中央で昏々と眠る人を見詰めて、数歩近づき、そのまましばらく立ち尽くしていた。
倒れたその人を、この寝台に運んだのは他でもない自分だった。頼まれた書面を届けて戻り、食事を済ませた彼に帰所を告げた直後、酷く白い顔をして彼は立ち上がり、人払いを告げて寝所へと戻った。付き従ったのは自分一人で、何を命じられたわけではなかったが、ただ彼が強く、余りに強く自分の袖をつかんで離さずに、ただそれゆえに寝所までを従っただけだった。もう長らく踏み込んだ事のなかった彼の寝所の、しかし寝台を目前にして彼は不意に力を失って崩れ落ちた。
悲鳴を上げる事もなく、ただ目を見開いて彼を抱き起した自分の蒼い顔を見下ろしてカメルレンゴはビレタを取った。握り潰さんばかりの力でそれを掴んだまま、倒れた彼を抱え上げ、寝台に横たわらせる自分の挙措を見詰める。さざなみが聞こえた。足元の海は微かに波だって、彼の寝台に向けて渚を作っている。
聖下!
強く呼んだ声に、彼は薄く目を開いた。額に浮いた汗は瞬く間に玉のように流れ出して枕を濡らした。
医師を、と踵を返そうとした自分を、しかし彼は押し留めた。夕食を、と切れ切れの声が言う。お前は、夕食を、口にしてはならない。毒が。
凍り付いて動きを止めた自分に、彼は手を伸ばして目を閉じた。
ここに、ここに居なさい。医師は、無駄だろう。
脳裏に幾つかの顔が瞬時に浮かんだ。反教皇派と呼ばれる枢機卿、司祭。今夜の料理人は、恐らく今頃物言わぬ躯だ。人の好い赤ら顔の料理人が家畜小屋で首を吊る光景に息を詰める。
聖下。
ほかに何一つ思い浮かばずに手を握り締めて寝台の横に跪いた。落ちたビレタを押し流すように緋の外衣が床に蟠る。
告解を。
掠れた声で彼がそう言った。
あなたに、聞いて欲しい。聞いていただけますか。
首を振った。いいえ聞きませんと、突き返して顔が歪んだ。苦しい息の下、僅かに笑んで、彼はそうかと頷き、昔、と囁くように続けた。
昔、お前の告解を聞かなかった。
そうだ、あなたは俺の告解を聞いてはくれなかった。おあいこでしょう?
彼の笑みが深くなる。僅かに目を開いて、彼はゆるりと自分に視線を向けた。
お前に、後を託す。嵐は、起きてはならない。
頷いた。彼らが既にそこまで謀略を進めていた事に気付けなくて申し訳ありませんと謝罪を口にしながら彼の手を額に押し当てる。彼らは既に次代の教皇の選定の為に枢機卿を抱き込み始めているでしょう。止めてみせます。次代は、中立を。
頼む、と短い返答と共に握った手に力が篭った。
お前が、居てくれて良かった。
ぽつりとつぶやきが落ちて、彼の唇には薄く笑みが広がる。
告解を、聞いては貰えなかったが。
こふ、と小さく咳が漏れた。濃厚に立ち上がった血の香りに目を瞠った一瞬、彼の唇が言葉を紡ぐ。
……私は、お前を。
それきり、言葉は絶えた。手を握ったまま、まだ握り締めたまま、微動だにせずに待っていた。だが。
聖下?
問いに、二度と応えは返らず、それで、全てが終わった。
一晩を、そのまま過ごした。ただ、その顔を見詰めていた。立ち上がり、人払いを厳命したまま、宮殿を出たのは昨日の事だ。そして今、自分は再びこの場所に戻って彼の顔を見詰めている。
波が足元で砕けて散る。歩み寄り、跪いて、眠るその人の額に自分のそれを押し当ててカメルレンゴは目を閉じた。
「あなたの道は、ここからどこへ続いていますか」
唇が触れ合う程の至近距離から見詰めた彼の、穏やかな頬をそっと撫でる。
罪は。
罪があったとするのなら、互いに告解を聞き届けなかった、彼と自分の罪はそのまま背負う事が出来るのだろうか。
誰もに清廉潔白と評された、美しいあなたの魂は天の門を潜るだろう。その先に、あなたの罪は昇華する。
「俺は……俺も──」
呟いて、控室に響く呼び鈴を手に取った。
海が満ちる。
部屋に満ちて、溢れ出して丘に満ちる。
悲鳴のように満ちた祈りの声と共に、寝所に慌ただしく緋が踏み込み声が飛び交う。教皇昇天。声は海を揺らし、海は波を立てて散る。
時が積み上がっている。
連綿と繰り返された、一つの区切りがまた積み重ねられる。海に手を浸す。跳ねる水は、しかしすぐに凪ぐだろう。
罪は。
罪も同じように、溶けていつしか凪ぐだろうか。
名を三度呼ぶ。銀の槌を手に、彼の額に三度それを打ち下ろす。
あなたに。
あなたに告げたくて告げられなかった言葉がある。
時が、降り積もって行く。
祈りの声が満ちて重なった。
────全能の神たる父と子と聖霊の祝福が諸君らに下らんことを、そして常に留まらんことを。

