ひとひら

Short

 

 幸せでいてくれて嬉しいと、そう伝えて欲しい。 [6,500 字]

 

   *

 その日は薄曇りで、随分と寒い日だった。朝から真っ白に霜が降りて、祖母が慌てたように畑に出て行った、そんな日だった。前日の雨が冷気を呼んだのかもしれない。
「咲希、道が凍ったら危なかけん、用心して行きなっせよ」
 出掛けてくる時に背中から追いかけてきた祖母の声に頷いて、凍った水溜まりを避けて歩いた、そのくらいに寒い日だった。
 試験明けの秋休み、どうせすぐに冬休みになるのだがと思いはした。それでも九州から東京の大学に進学して初めての冬休みはアルバイトと恋人と過ごすクリスマスと友人達との初詣という予定に塗りつぶされていて本当に時間が取れるのか未確定であったし、お正月なのに帰らないのかとしょんぼりした声を電話口で漏らした祖母に罪悪感がこみ上げて、急遽帰省する事にしたのだった。
 咲希はおばあちゃん子だ。
 一人っ子で甘えたがりの咲希の両親は共働きで、勢い、咲希は祖母にくっついて歩く事になった。それは二十歳を目の前にした今でも変わらない。咲希の祖母にしては随分と老いている彼女は、ちょうど咲希から五回分の干支をさかのぼった年の生まれだった。
 古い時代の話を、祖母は問わず語りに良く咲希に聞かせてくれたものだ。今はコンクリートジャングルである東京の、世界で一番過密で勢いのある大都市の話は、総じて田舎をイメージされる九州でも本当に呆れるほど田舎である阿蘇の小さな農村育ちの咲希には夢の国の話だった。
 元は東京の出である祖母に聞かされる東京の話が咲希を東京の大学に進学させたと言っても良い。
(ああもう、東京なら電車すぐ来るのに)
 既に十分以上を無人駅の小さな駅舎の古いベンチで過ごして咲希は溜息を漏らした。
 借りているアパートからも、大学からも、行きたい時に何も考えずに駅に行きさえすれば電車が来る生活にすっかり慣れてしまって、一時間に数本のローカル線の悠長さは長閑に過ぎた。
 せかせかしなくて良いよね、と思いはしても、足元から這い上がる冷気がどうしても咲希に溜息を吐かせる。こうやって、都会に出た人間は特有の感覚を身に着けて田舎から乖離していくのかもしれない。
 まだ予定の時刻までは十五分もあった。高校は県庁所在地の私立校だったせいで、帰省すると友人たちに会うのにどうしても電車を使うようになる。数分おきの都会の電車に比べると、故郷の交通機関はどれもこれも実に暢気なのだった。
(さむいなあ)
 マフラーは巻いて来たが手袋をしていなかった。無意識に両手をこすり合わせて、咲希はベンチから立ち上がり、意味もなくホームに出た。
 コンクリートの短いホームはひっそりとただそこにあるだけで、見渡す限り、伸びるレールのどこにも列車の来る気配はない。レールの先はどこまでも緑が広がっていて、紅葉もそろそろ終わり、冬山に変わりかけている山の色彩は常緑樹のそれでも少しだけ暗くなった緑色で重い。
 なだらかに続く稜線は、世界的に知られる阿蘇の景観の一部である筈だったが、生活する視点から見ればただひたすらありふれた故郷の田舎であるに過ぎず、東京で見る風景とのあまりの違いに苦笑が漏れた。
 咲希の小さな頃には、この駅はまだ無人ではなかった。その名残の駅舎と、小さな花壇とには、今でも地元の婦人会が世話をして、小さな花が風に揺られている。咲希と同じに寒さに震えるように見えるそれらに微笑んで、それから咲希はふと動きを止めた。
(音……?)
 ゆっくりと振り返る。
 列車が来るのはまだ先の筈だった。だが、僅かに聞こえてくる音に聞き覚えがある。
(振動が……)
 伸びるレールから伝わる振動が規則正しいリズムを刻んでいる。それはつい先年まで馴染みの響きで、だが今は聞こえる筈のない音だった。
(SL……?)
 阿蘇では二〇〇五年までSLが走っていた。地元民にこよなく愛されていたその雄姿は、だが既に無く、しかも一日一往復だったそれがこの時間に阿蘇に向かって走る事など考えられない。幸いにも二〇〇九年に復活するらしいと聞いていたが、まだ二年も先の話で、老朽化した車体のせいで引退したものが、試運転でも走っていればもっと話題になるはずだ。
(でも、SLだ)
 咲希はホームに立ち尽くしたまま音の方向を見詰めていた。遠く、接近を知らせる汽笛が響く。
(なんで)
 SLの復活など聞いていない。ニュースにもなっていなかった。混乱する咲希の目に、だが遂にSLの黒光りする力強い車体がうつった。
 ゴトン、という重い響きが身体を震わせる。この感覚は久し振りだった。間違いない、SLだ。鉄道に詳しくない咲希にはその機関車がどんな形式なのかまるで判らないが、見覚えのある機関車とは僅かに違って見えた。
 目を瞠ったままの咲希の前で、SLはゆっくりホームに滑り込んで来る。煙と石炭の匂いが充満し、ずしりと響く音が身体に直接なだれ込んで、咲希は知らず、一歩を下がって黒い車体を見上げた。
 客車は映像でしか見た事のない古い形をしていて、鉄道マニアなら夢中でシャッターを切るのに違いない。
 呆気にとられる咲希の前で、そうして客車の扉ががたんと音を立てて開かれた。
 声も出せない咲希の前に、東京でも九州でも見た事のない制服を着た男が一人、立っていた。
「あれ」
 車掌らしい男が一瞬目を瞠り、それから柔らかい笑顔になった。まだ若い。咲希より幾つか年上だろうか。切れ長の一重の涼しい瞳をしたその人は、穏やかな笑顔で言った。
「サキさん?」
 咲希は反射的に頷いてから驚愕した。何故この人が私の名前を知っているのだろう!
 ところが、驚愕に目を見開いたのは咲希だけでなく男の方も同じで、咲希は今度はそれに驚かされる事になった。
「え、本当にサキさん?」
「本当にって」
 咲希は目を瞬く。
「あたしは、咲希ですけど、あの、車掌さんどうしてあたしの名前……」
「どうしてって、ああ、覚えていない? そう」
 不思議そうに言った男に咲希は眉を寄せる。どうしよう。この人は私を知ってるんだ。
 その時、再び汽笛が鳴った。男が白い手袋の手を挙げて被った制帽のツバを僅かに持ち上げる。それから咲希に手を伸ばした。
「せっかくだから、乗っていきませんか」
「え?」
「早く!」
 ゴトン、と音が響いた。汽車が身体を震わせる。
「ほら、サキさん早く!」
 男の笑顔に釣り込まれるように、思わずその手を取った。力強く手を引かれる。咲希がタラップを踏むと同時に、機関車は力強く走り始めた。
「こっちに」
 手を引かれて客車に入る。粗末といえば粗末な、簡素な四人掛けの客席が並んでいる。乗っているのは咲希と男だけで、他に人の姿はない。
「好きなところに座って」
 言われるままに腰を下ろす。窓の外には見慣れた阿蘇の風景が流れていく。振動はやはり規則正しいリズムで、時折灰色の煙と煤が流れてくるのが見えた。
「セーラー服では、ないんだね」
 言われて咲希は車掌を見上げた。首を傾げる。
「セーラー服?」
 他に乗客がいない事も、SLが走っている事も何もかもが不可解だったが、不思議と怖いとは思わなかった。揺れる汽車は奇妙に懐かしく、振動の一定のリズムが心地良い。
「ああ、敵性語だね」
 苦笑して、車掌は咲希の向かい側の座席の背に手を置いた。
 てきせいご、と口の中で鸚鵡返しにして咲希はまた首を傾げる。
 てきせいご。
 敵性語、だろうか。それは書籍や映像の中でしか接した事のない言葉で、日常会話の中に飛び出す言葉とは思えない。
「似合っていたのに」
 続けて言われて、咲希は首を振った。
「だって、あたしもう大学生だし」
「大學?」
 今度は男の方が目を瞠った。咲希は頷く。
「東京の大学に進学したんです。ねぇ、車掌さんはどうして私を知っているんですか。このSL、なに」
「え」
 しばらくぽかんと咲希を見詰めていた男は、暫くそうしてから滲むように笑みを浮かべた。
「ああ、そうなのか」
「え?」
「君は、サキさんじゃないんだね」
「?」
 すまない、人違いをしたみたいだ、とそう言って男は困ったように眉を下げた。ゆっくりと制帽を取り、頭を下げる。
「申し訳ない」
「え、だって、咲希って」
「僕の知っている人も、サキさんと言うんだよ」
「人違い?」
 そう、と頷いて、何が可笑しいのか不意に吹き出し、男は「失礼ついでに、座っても良いだろうか」と首を傾げた。咲希は混乱したまま頷いて、え、でもと声を上げる。
「車掌さん、お仕事は」
「いいんだ」
 ゆるく首を振って、腰掛けた男は膝の上に制帽を置いた。
「乗っているのは、サキさんだけだから」
「あたしだけ……」
 そんな気はした。それでもまだ怖いと思わないのは、目の前の男がどこか懐かしく感じられるせいだった。鉄道員に知り合いなどいない。間違いなく知らない人で、なのに違和感がない事こそが、違和感といえば違和感だった。
「一度、阿蘇を走ってみたかったんだよ」
 男は言って手を伸ばし、窓を指先でこつこつと叩いた。
「どこまでも広がる草原の丘を走るコイツを想像すると愉快だろう? どこまでも行ける気がする」
 咲希は頷いた。SLの力強い姿は阿蘇には良く似合った。SLが走っていた頃、一日に二度その姿を見るのは楽しみだった。
「東京は好き?」
「たぶん」
「そう。僕は良く判らない」
 当たり前にそこにあるもので、失くすなんて思ってもみない事は、失くしてしまってもまだ、茫洋としてつかみ所がないんだと呟くように言って、刻んだ笑みはどこか苦く見えた。
「車掌さんは、東京のひと?」
「そう」
 頷いて下町だ、と続ける。
「ごみごみして、細い路地が走っていてね。サキさんというのは、お隣の家のお嬢さんだ。最後に会った時には女学生だった」
 だから、セーラー服だったのか、と咲希は思う。セーラー服の良く似合うサキさん。自分と同じ名前のその人を想像しようとしてふと首を傾げる。
「あたしと似ているの?」
 そうだ。見るなりサキさんと呼ばれた。男は頷いて笑い、肩を竦めた。
「とてもよく似ている」
「凄い偶然だね」
 まったくだと笑って、男は再び視線を窓の外に向けた。
「僕の知っているサキさんは、気が強いお転婆な女の子だった。僕には兄弟がないから、妹のように思っていたな」
 最後にあった時には、とそう言われた事を思い返して咲希は目を伏せる。そのサキさんは、どうしたのだろう。
 男は咲希の思いなど知らぬ気に楽しそうに続ける。
「うちの庭に、大きな桜の木があってね」
 春になるとそれは見事な満開の桜が咲き誇って、その桜の下で一緒にお茶を飲むのが恒例行事だったのだと笑う。
「最後にその桜を一緒に見た時は、驚いた事に桜の下にはいなくって」
「え?」
「呆れちゃったよ。桜に登ってね」
 年頃の女の子が何て事をと声を掛けた。赤いセーラー服のスカーフを握って、桜の舞い散る中で彼女は僕を見下ろして言った。
「忘れられないなあ」
 何を言われたの、と聞こうとして咲希は結局口を噤んだ。どういういきさつであれ、今この人はそのサキさんの消息を知らないのだろう。懐かしがる顔をしていた。まるで遠い昔の事のように。
「車掌になったのもね」
 サキさんのせいだと男は笑った。
「僕は子供の頃から汽車が好きで。本当は機関士になりたかったんだけど」
 母親に反対されて、ならばと車掌になった。隣家の勝気な少女に「お兄さんが乗っている汽車なら、私も必ず乗りに行く」と無邪気にそう言われた事が背中を押した。
「結局一度も、彼女の切符を僕は見なかったけれどね」
「そうなんだ」
「そう。デゴイチじゃなくて、貴婦人がいいななんてね、知ったような事を言っていたのを覚えているよ」
「デゴイチ?」
「機関車の形式で、そう呼ぶんだよ」
 言って、胸ポケットから小さな手帳を取り出し、男は鉛筆を握って几帳面な字を書きつけた。
「D五一形蒸気機関車だから、デゴイチ」
「貴婦人は?」
「貴婦人はC五七形蒸気機関車。旅客用テンダー式蒸気機関車だ」
「どこにも貴婦人なんて付かないよね?」
 笑って頷いて、男は書き付けたC五七の下にラインを引いた。
「他の蒸気機関車と比べると全長に対してボイラが細く見えてね、凄くスマートでスタイルが美しいって言うんで貴婦人っていう愛称が付いたんだよ」
「へえ。ねえ、今乗っているコレは?」
「これはデゴイチ」
 窓の外を指差す。
「こんな風に勾配のきつい路線を走るにはデゴイチの方が良いんだ。強いからね。デゴイチは元々は、貨物用なんだよ」
「初めて知った」
 微笑して男は窓を押し上げた。そこから空を見上げる。薄曇の空は雲の厚みを増して、まるで冬の空のように見えた。
「この風景の中を走ってみたかった。出来ればサキさんを乗せて。僕がここへ、サキさんを連れて来たかったんだ」
「サキさんと、会えないの?」
 振り返った男は淡い笑みで暫く黙ってからそっと目を伏せて呟くように言った。
「サキさんは、東京からこっちに嫁いだんだよ。手紙でそう知らせてきた。妹のように思っていた彼女のお嫁に行く姿が見られなかった事が寂しかったな」
 桜が舞う中、その真ん中で足を揺らせて笑った彼女を覚えていると、そう言って彼は再び視線を空に戻した。
「雪が降りそうだ」
 咲希も空を見上げた。確かにこのまま、初雪になりそうな空だった。どこか目の前のこの人の泣き出す前の心のように見えて、何を言うか迷っているうちに、静かな声が続いた。
「その桜の木の上で」
 少女は言った。
 いつまででも待っているから、私はずっとお兄さんの妹だから、きっと戻って来て、必ず汽車に乗せてと。
 セーラー服の真っ赤なリボンは、当時もう貴重品だった絹で、それを堅く淡い花の枝に結び付けて、これが目印だからと、ここへ戻って来てこれを持って、必ず私に渡しに来てと、目にいっぱいに溜めた涙を零さないように必死で瞬きを堪えながら、そう言った。
「私はどこへ行っても、誰かのところにお嫁に行っても、お兄さんの妹だからってね、何度も何度も繰り返して」
 そうして、あんなに乗りたがった汽車で、僕が出て行くときには遠く遠く、川を挟んだ対岸から手を振るだけで見送って。
「それが最後。その後で、九州にお嫁に行くんだと一度、手紙を貰って、それきりだ」
 咲希は息を呑んでそれを聞いていた。言葉が出ず、ただ、脳裏を桜が舞って、その真ん中で赤いシルクが揺れていた。
 小さく微笑して、男はするりと立ち上がった。
「サキさん。もう一人のサキさんに、どうかよろしく。幸せでいてくれて嬉しいと、そう伝えて」
 咲希は眩暈を覚えて目を閉じた。胸が締め付けられるように苦しくて大きく息を吐く。
 そして、目を開いた。

「咲希ちゃん、降りんとかね」
 覗き込んで来る見慣れた顔に目を瞠った。
「どうした、ぼーっとして。居眠りしとったんだろ」
 いつもの電車の、顔馴染みの車掌だった。もう初老と言って良いその人の人の良い笑顔がくしゃりと歪んで、弾ける笑い声と共に肩を叩かれた。
「はよ帰らんと、もう遅かぞ」
「ありがとう! 降ります!」
 勢い良く立ち上がり、電車を駆け下りた。手を振る車掌が笑っているのが見えた。
 咲希は握り締めて皺の寄った切符を握って駅舎を潜る。いつもどおりの村の駅で、どこにもSLの姿はなかった。
 聞いた事があった。
 祖母の早紀江の初恋の人は、お隣の家の年上のお兄さんだったと。国鉄の車掌だったその人は、一人っ子だからと招集を免れていたものの、終戦間際に結局召集されて戦争へ行き、そのまま帰らなかったのだと。
「おばあちゃん」
 呟いて咲希は駆け出した。
 涙が零れそうで、空を見上げた。
 どこまでも続く草原は、今は枯れ野原で、取り残されたススキが揺れていた。
「おばあちゃん、セーラー服のリボン、貰ったよ」
 何も持たない右手を握り締めて、咲希は目を閉じる。
 頬にひとひら、雪が舞い降りた。
「もらったよ……」
 桜舞う時でも、粉雪舞う時でも、きっと赤いリボンは見えるからと、そう言った少女の声が聞こえる気がした。
 あのひとは、まだどこかへ向かって旅を続けるのだろう。
 いつか。
 いつかまた、どこかですれ違ったなら、今日のように手を差し出して乗せてくれるだろうか。
「サキさん」
 そう呼んで、笑って。
「乗っていきませんか」

 

 

 

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