それは221Bのどこかに落ちているかもしれない

[SHERLOCK]

 

 世界で一番有名な名探偵は、自分には心がないと言う。【The heartless】
 [SHERLOCK:BBC][9,500 文字]

 

 

 

 心なんてないと、そう君は言う。



 221B、というのが新しい自宅の住所表記になってからまだそんなに時間は経っていなかった。ロンドンはベーカー街の、ハドソン夫人が大家をしているフラットだ。
「ジョン」
 低い声で名前を呼ばれてジョンはふと目線を上げた。抱え込んだユニオンジャックのクッションに顎を預けたまま、目線だけを中空に据える。ソファの前、突っ立って見下ろしてくるのは長身のフラットメイトで、珍しい事に、彼はどこか困ったような微妙な顔をしていた。時刻は正午前。部屋は外からの光で明るく、リビングの空気は温んで穏やかだ。
「どうした、シャーロック」
 また退屈で死にそうだとでも言い出すのだろうか、とジョンは思う。
 この新しい同居人は自称コンサルタント探偵とやらで、勝手にジョンを助手に据えて同僚扱いし、その割にはジョンの事などお構いなしに勝手気ままに行動するような男で、平たく言えば奇人変人、もっと短絡的には狂人だった。
 自分以外の大抵の人間は馬鹿だと断じて、実際彼のように賢い人間は滅多にいないだろうが、ともかくそれ故に常に自信に満ちあふれ、傲岸で尊大で身勝手なのが特徴で、つまるところ、こんな風に曖昧な表情を見せる事は珍しい。ロンドンで死人が、それも殺人事件で死人が出るのを心待ちにしているこの男は、事件が起きていない時は大抵「退屈が僕を殺す!」と喚いているのが常で、それもとことんまでエスカレートすると、不意に押し黙って虚ろな顔になる事があって、ジョンは今のこの同居人の表情を、それに近いと判断したのだった。が。
「その無駄な思考はそろそろ止めると良い」
「は? 無駄? 何が? え? 思考?」
 シャーロックの言葉が唐突で理解出来ないのは今に始まった話ではないのだが、今回もいつも通り、ジョンは混乱した。無駄? 思考?
「待ってくれ、僕に判るように言ってくれないかシャーロック」
 思わずクッションを抛り投げそうになりながら、激しく瞬いたジョンに、シャーロックは小さく首を傾げた。
「ジョン」
「うん、何」
「君は気付いていないのか、気付かない振りをしているのか知らないが、今朝から四度、僕の言葉を無視した」
「は?」
 呆気にとられ、ぽかんと口が開いた。投げ出しそうになっていたクッションを思わず抱えなおして唇を舐める。なんだって?
「え、僕が?」
「そうだ」
「君の言葉を無視した?」
「そうだ。四度」
 そうだっただろうか。全く心当たりがない。いや、心当たりがあればそれは故意という事になるから、心当たりがあっては拙いのだが、いやしかし。
「えっと、その……ごめん」
「それについては構わない」
 珍しく、シャーロックは寛大だった。自分を蔑ろにされる事など一切許さないように見える同居人が実に寛容である事にジョンは輪を掛けて呆気にとられた。どういう事だ?
「それより、そんな陰気な顔でぼんやりされると僕の気まで滅入ってくる。くだらない思考は放棄すべきだ。たださえ何の事件もなくて退屈してるんだぞ」
 なんだその身勝手な理屈は、と思ったものの、ジョンは微かに眉を寄せるに留めた。陰気な顔でぼんやり。確かにそれが事実であるなら、同居人としては苦情の一つも言いたくなるだろう。もっとも、シャーロックと来たら陰気からとんでもないハイテンションまでをめまぐるしい勢いで往復しているのだから、本当なら人のことなどとやかく言える筈はないのだ。が、そんな理屈はこの男には通じない。通じさせる気も、ジョンには初めからあまりなかった。
 ジョンは大人しくシャーロックを見上げて言う。
「僕が、そんなに?」
「ああ、霧に沈むロンドンより暗い顔だ」
 なるほど、と一つ頷いて、ジョンはちょっと耳を触った。物思いに耽りがちなのは事実だったから、これ以上強くシャーロックの言葉を否定出来ない。そもそもシャーロックに反論するなどという事は無謀を絵に描くような所業だから尚更だ。事実そんなに沈んだ顔を自分がしていたというのなら、確かにリビングに降りてなど来ないで階上の自室に閉じこもっておくべきだったのだろう。
「それは、悪かった。だけど」
 クッションを力任せに抱き潰す。
「どうしてくだらない思考だなんて君に判るんだシャーロック」
 シャーロックはまだ小さく首を傾けたままだ。ぱちりと一つ瞬きをして両手を顎の下で合わせた。
「君が不意に表情を曇らせたのは昨夜の21時42分だった」
「……へ?」
「21時42分、君が何をしていたかと言えば、その数分前、僕に『今日も面白いニュースは一つもなかった』と言われてラップトップを広げ、インターネットでニュースサイトを閲覧しているところだった」
 そうだったかもしれない。
「僕は君が何か嬉しくないニュースを目撃したのだろうと即座に思った」
 シャーロックが言うのだからそうなのだろう。
「更に君は、暫く考えてから何かを検索し始めたようだった」
 その通りだ。
「やがて、君は沈鬱な顔で溜息を吐いて、僕らが出会った最初の日のように硬い表情で立ち上がった。そして一晩が経過して朝になり、僕を四度も無視して今に至る」
 四度。またそれか。よほど根に持っている。割にはそれは良いとか言う。全然良いと思ってないだろシャーロック。ていうか、シャーロックと最初に会った日、僕はそんなに硬い表情をしていただろうか、とジョンは思ったが口には出さなかった。シャーロックがそういうのならそうだったのだろう。記憶力でシャーロックに勝てるとはとても思えない。
「それで、シャーロック? 君は僕がそのニュースと検索の結果、物思いに耽っているのが気に入らないし、自分が四度も無視された事は許さないでもないけどきっちり覚えてるし、そうなる原因になった僕の思考の内容をくだらないと断じている?」
「四度だぞ」
 と低い声で言い放ってから、「くだらない? 当然だ」とシャーロックは言葉通りの表情でそう言った。
「実際、君のその思考はくだらない」
 さすがにジョンも顔をしかめた。人が何を考えているか知りもしないでくだらないと断定するのはあんまりだ。
「根拠があるんだろうな?」
 不機嫌にそう口にしたジョンに、シャーロックは片眉を跳ね上げた。一度両手を離し、またぺたりと合わせる。根拠? と鸚鵡返しにして、ジョンの親愛なる同居人氏は「当然だ」とまた繰り返した。
「当然だろう? ジョン。この僕が、根拠もなく物事を判断していると? 本気で言ってるのか。どこまで君の脳味噌は役立たずなんだ?」
「だったら僕が何を考えているか、正確に君は把握しているんだろうな!?」
 ジョンの語尾を攫うように、シャーロックは「簡単な事だ」と宣言した。
「昨日の21時42分、君はニュースサイトを見た。その時、視線は一度画面の右端で固定され、暫くそこに留まった。写真を見ているにしては小さく左右に動いていた視線は、文字を読んでいるにしてはストロークが短かった。君がいつも最初に見るニュースサイトは決まっていて、その右端には常に最新ニュースから五本がピックアップされて動画として流されている。テレビのニュースをそのまま動画にして流しているんだ。君が見たのはこれだろう」
 とてつもない早口でまくし立てられてジョンは半開きの口のままそれを聞いた。シャーロックはお構いなしに続ける。
「昨夜21時42分の時点で最新トピックスだったニュースを五本、というなら特定は容易だ。しかも君はその直後にサイトを移動し、何かを検索し始めた。つまり君が気にするようなニュースだったのだろうし、しかし現在、調べなければ手に入らないような情報に関する事柄であるのは明白だ。電話をするのではなく検索をした、という事はそれはネット上に流れるような情報であるのだし、そもそもニュースからの連続性を考えれば、公共性の高い事柄なんだろう。そんな事は僕じゃなくても簡単に推理出来る」
「……なるほど、素晴らしい」
 思わず相槌を打ったジョンに、シャーロックは少しだけ目を上げた。顎を引いて多少の上目になるのはこの男の癖で、そのアイスブルーの瞳が微かに細められる。唇の両端が小さく上がって、シャーロックの頬に一瞬だけ笑みが翻った。直後、その笑みを滑り落としてシャーロックは続ける。
「君が見たのはサー・デビッド・リチャーズ陸軍大将の映像だな? ジョン」
 ジョンは無言でシャーロックを見詰める。その通りだった。ニュースで、リチャーズ大将が何かを語っていたのだ。内容は特に覚えていない。
「リチャーズはイギリス陸軍のアフガニスタン司令官だ。アフガニスタン。君が軍医として派遣されていた戦場だ」
「……戦場じゃない、紛争地帯だ」
「どっちでも同じだ」
 やっている事は変わらない。それは君も認めた筈だぞジョン、とシャーロックは言って目を細めた。猫のような目だ、とジョンは思う。色も形もめまぐるしく変わる。本人の脳内のめまぐるしさを追い掛けているようだ。そういえば確かに、「こんな馬鹿な事は初めてやった」と言った日、シャーロックには「アフガニスタンに侵攻したじゃないか」とからかわれたのだった。自分はそれを否定せず、あまつさえ「それは僕だけじゃない」と切り返した。なるほど、認めたといわれればその通りだ。
「まぁいい、続きを?」
 ごまかすように唇を引き結び、眉を上げてジョンはシャーロックに顎をしゃくった。シャーロックはゆるく首を振る。
「リチャーズは2006年5月4日から2007年2月4日までISAF、すなわち国際治安支援部隊、要は例のアメリカのビルに飛行機が突っ込んだ事でアフガニスタン侵攻に大義名分を見出した米国と一緒になって国連安保理決議が派遣を決めた軍隊の、持ち回りの司令官でもあった。君は直接か間接かはともかく、リチャーズを見知っていた可能性が高い」
 澱みなく流れ出すシャーロックの言葉にジョンは呆れる。そんなに正確な日時や名称など、軍医であった自分ですら覚えてなど居ない。シャーロックのハードディスクは相当どうかしている。言い回しが恐ろしく皮肉っぽいのはともかく、調べればきっとその日時は正確無比なのだろう。
「君は自分が軍医であった事を久しぶりに思い出した筈だ。忘れた事はないと言っても、日常的に意識なんかしているわけがないから、それは自然な想起だ。そうして君はふと思い立って、自分が軍を離れてからのアフガニスタンについて思いを馳せた」
 見てきたように言う。実際、ジョンの表情はつぶさに見ていたのだろう。
「だが君はアフガニスタンの現状ではなく、英国陸軍について検索した。自分が居なくなってからのそこが、どんな状況になっているかを調べようとしたんだ。そもそもアフガンの現状なら、今迄だって頻繁にニュースで耳にしていたし、君はそこまで注意を払っていたようには見えなかった。あるいは、敢えて注意を払わないようにしているように見えていた。今更ちょっと調べてみる、というなら、アフガンそのものを避けるのは如何にも当然だし自然だ。だが、慎重に避けた、無意識にだろうと避けた筈のそれは、君にとってうまい結果を招かなかった。そうだな」
「ああ、シャーロック」
 ジョンは大きく息を吐き出した。
「その通りだ。僕はアーカイブスを見た」
「一昨年の6月16日のBBCニュース。君が見たのはそれだな?」
 イエス、と短く言ってジョンは片手で顔を拭った。2009年6月。その頃、自分はまだ軍医だった。
「君が知っているか判らないけど、英陸軍の軍医は足らないんだ。定員の三分の一が空席で、看護師だって全然足りてない。アフガンのヘルマンドでは殆どのスタッフが予備役で、どうやったって充分な働きは期待出来ない。元々、軍医はずっと不足してて、僕が軍に入った時もびっくりする程に歓迎されたものだった。なのに、給与は普通に本国で医療スタッフをやるより安いし、交代制の筈の派遣は間隔がどんどん短くなってるし、前線の野戦病院に送り込まれる頻度も高かった。正直、士気が高い状況とは言えなかったんだ」
「君はその中に居た」
「そう、僕はそこに居た。前線行きを拒んだ事なんか一度もないし、再配備の間隔が短いのなんて少しも問題にしなかった。僕は他の医師達とは違って、そういうものを忌避はしなかった。寧ろ、」
「ジョン」
 シャーロックが眉間に小さな皺を刻んで少し身体を折った。言葉尻を遮られ、いつの間にか俯いていた顔を上げたジョンはシャーロックの少しだけ近くなった顔を見る。
「ジョン、君は巧妙に、そう、巧妙に自分が戦場に戻る事を考えずに済みそうな情報を検索したつもりで、失敗したんだ。そうだな?」
「そうだ」
 巧妙に。そうだ。アメリカの大統領が初の黒人大統領に代わった後、彼はアフガン情勢を重視した。瞬く間にアフガンの米軍と、その頃にはNATOが率いる事になったISAFは膨れ上がった。そのさなか、ジョンは現場に居たのだ。そして英陸軍の司令官が「NATOが敗退すれば世界各地の過激派を『劇的に活性化させる影響』をもたらすであろう」と強調したのを知っていた。
 昨夜見たニュース映像は、その発言の際の映像が用いられていたのだ。だから。
「僕は一瞬でアフガンの、あの乾いた大地に立っていた。医師として薬と注射器とメスを持っている他に、自分の身を守り、相手を殺す為の銃を握り締めてね」
 Operation Enduring Freedom – Afghanistan.
 アフガン情勢は、最初こそ紛争の原因となった武装集団である反政府組織タリバンの縮小に向かうように見えていたが、2009年には例年にも増して反撃が大きくなり、攻勢は過酷を極めていた。米兵の死者だけで二百人を超え、そこらじゅうが血の匂いに染まっていた。いつどこの建物が爆発するか判らず、いつどこで銃が乱射されるかも判らなかった。いつもどこかで硝煙がたなびき、砲弾で吹き飛ばされた腕を抱えた男がよろめき、血の流れる頭を包帯で雁字搦めにされて横たわる兵士がいる、そんな場所だった。虚ろな目をした小さな子供が寄り添って路傍に蹲り、彼ら彼女らは多かれ少なかれ、どこかから血を流しているのが日常だった。
 第5ノーサンバーランド・フュージリアーズ連隊は、栄光ある古い歩兵連隊だ。揃いのハックル──ベレー帽に着ける羽飾りだ──が風に揺れる、それはそのまま栄誉の象徴だった。全ての歩兵連隊がアフガンに派遣されたわけでは無論なく、しかしその一部にジョンは含まれていた。
 そしてその只中で。
「君に言われたな、シャーロック。僕は怪我人や酷い死体をたくさん見て、うんざりする程、一生分、それ以上見て、それでももっと見たいんだって」
「ジョン」
 ジョンは肩を竦める。シャーロックには最初から見抜かれていた。動かない足はPTSDで、それも心的外傷後ストレス障害というなら撃たれたショックだというのが普通なのだろうに、よりによって自分は、戦場に立ち続けられなかった、戦場にこれ以上居られないのだという事実にこそショックを受けていたのだと。それは、そんなのは。
 膝の上のクッションが滑り落ちそうになるのを左手で止めて抱えなおす。
「僕はニュースの映像を見て、一瞬であの場所に戻った。軍医が足らない事は身に染みて判ってる。僕は」
「そこに戻りたい自分に気付いたんだろう? ジョン」
 ジョンはシャーロックを見上げた。シャーロックは声を掛けてきた時と同じ実に微妙であいまいな表情を浮かべてジョンを見下ろしている。自分は、またシャーロックと出会った日のような硬い顔をしているだろうか、とジョンは考えた。首を振る。
「シャーロック」
「君は自覚してかせずにか、そうだ、後者だったんだろうな、ともかく戦場に戻りたがっている自分に気付いた。気付いて気付かない振りをするために、巧妙に、そうだ、無意識のうちに巧妙にそれを選び取って、遠回りに、かつての同僚の事を気にかけているような自己暗示で、アーカイブスを見たんだ。そうして、軍医不足に喘ぐ英軍という記事に遭遇し、愕然とした」
「はは、シャーロック。まるでそれじゃ君の方が僕のことを判っているみたいだ」
「間違っているか?」
 ジョンは唇の端を限界まで持ち上げて笑みを浮かべた。時折シャーロックがやってみせるぎこちない作り笑いとそれは同じ方法で、だが自分のそれが全く不自然でなく笑顔に見える事をジョンは知っていた。
「シャーロック。最高だよ、君は。素晴らしい」
「合ってるんだな?」
 一度目に思わず素晴らしいと洩らした時、一瞬とは言え笑みを翻らせた筈のシャーロックは今度は表情を変えなかった。冴え冴えと冷たい視線が真っ直ぐにジョンを射抜いている。
「君は軍医不足の英国陸軍の現実をまざまざと思い出した。そしてそこに自分が戻る大義名分を見付けてしまったんだ。だから、ずっと考え込んでいる。僕の言葉を四度も無視してだ」
「話が戻ってきたな」
 ぷっと思わず吹き出しながら、ジョンはクッションを力任せに抱き締めた。そうだ、自分はまた、死体と硝煙と熱と砂の大地に行く事が出来るのだと気付いてしまった。シャーロックは「戻りたい自分に気付いた」と言った。正確には「戻れる自分に気付いた」のだ。
 シャーロックに引き摺る足が心因性だと即座に見抜かれたとは言え、少なくとも少し前まで、ジョンは間違いなく傷痍軍人で、現場復帰など有り得ない話だった。だが今はどうだ。シャーロックとロンドン中を駆け回っている! 自惚れでなく、自分は腕の良い医者の筈だった。戻ると言えば現場は歓迎してくれるだろう。障害はもう何もない。一つも。
「ジョン、そんな風に笑うのは止せ」
「……なんだって?」
 シャーロックはどこかが痛むように顔を顰めている。
「どうしたんだ、シャーロック」
「言っただろうジョン、その思考はくだらないから止せ」
「……くだらないか?」
「くだらない」
 シャーロックは乱暴にジョンの手元からクッションを取った。手持ち無沙汰になってジョンはソファに背中を預ける。ふんぞり返るようにして見上げる同居人の顔は、彼の背が高いせいで随分と遠い。自分より十五センチも背の高い人間を、しかもソファから見上げているのだ。遠いに決まっている。お陰で表情は良く見えなくなった。
「僕には君が考えている事はこの通りお見通しだ」
「まあね」
「だから言ってる。その思考はくだらないから止すんだ」
 自分は今日、四度シャーロックを無視したらしい、とジョンは思った。今、これで何度シャーロックにくだらないと言われただろう? どう考えてもこれでとっくにチャラだ。おつりが出そうだ。
「よくもそんなに人が真剣に考えている事をくだらないくだらないって」
「本当の事だろう。君は馬鹿か」
「全くシャーロック! 君は本当にあれだな、そりゃサイコパスって言われてもしょうがないよ!」
「ソシオパスだ」
 憮然としてシャーロックが訂正する。ソシオパス。なるほどソシオパス。確かに出会った最初にもそう聞いた。反社会的人格の精神病質者であるサイコパスに対して、反社会的人格でも社会病質者のソシオパスは社会不適合者としての側面が強い。シャーロックの場合は確かに他人の事など全部お見通しの癖に、いや、だからこそなのか、他人に何一つ構わないし相手がどう思うかに思い至れない時点で見事なまでの社会不適合者には違いなかった。
「ソシオパスでも良いけどな、シャーロック」
「僕には心がないと言うんだろう? 聞き飽きた」
 クッションを握り締めたままで素っ気無く言って、シャーロックはその猫の瞳を細める。
「そうだ、僕には心なんてないんだろう。僕は僕を退屈させないものの事しか考えない。だから言ってるんだ、君のその思考はくだらないからやめろってね。僕の言葉を四度も無視するほどの価値など絶対にない」
「へぇそう!」
「……君は、そんな事を考える必要はないんだ、ジョン」
 押し殺すように、シャーロックがそう呟いた。思わず瞬き一つ、確認するように見上げた同居人の顔は伏せられたせいで翳になってわからない。
「君は僕と一緒にロンドンで、殺人犯を追いかける仕事をすれば良い。僕の助手なんだから。戦場など、もう必要ないだろう? 刺激的で面白いものなら、この僕が幾らでも見せてやる。だからジョン」
 シャーロックの腕が伸びてクッションが胸に押し付けられる。受け止めながら、ジョンは何かを言おうとして何度も口を開いて閉じた。唇を舐める。何も思い浮かばなかった。
「君はここに居るんだ。221Bに。つまり君が昨夜から考えている事なんて、実現しない。考えるだけ無駄だ。必要ないんだ」
 シャーロックの長い指が更にクッションを押し付けてくる。
「判ったら、その陰気な顔は止めるんだジョン。そのくだらない思考ごとどっかにやってくれればそれで解決だ」
 ジョンはようやく身じろいだ。クッションを押し付けるために随分と近くなった同居人の顔は、何故か酷く切実に見えた。
「シャーロック」
「判ったら午後から出掛けよう。君が僕を四度無視する間に、幾つか出掛ける用事が出来た」
「……僕が一緒に行くのか?」
「他に誰が行くんだ? ついでにどこかで食事もすれば良い。なんなら僕がレストランを紹介しよう」
 さっさと身を起こしてシャツの襟を直し、上着を取りに自室に戻ろうとするシャーロックをまじまじと見詰める。
 待てよシャーロック、とジョンは思ってもう一度唇を舐める。何で僕じゃなくて、君がそんな顔をする必要があるんだ! まるで、痛みを我慢しているみたいな、泣きたいのに泣けないみたいな!
 唐突に思い当たった。この会話の始め、シャーロックは実に微妙な表情をしていた。それは退屈が極まって辛くてたまらない時の彼の顔ととても良く似ていて、つまり、シャーロックは自分が思い悩んでいるなどという、その事にこそ辛い顔をしていたのだ。驚いた事に! あのシャーロックが! 誰の事も気になどしない、誰の心も理解しないシャーロックが!
「シャーロック」
 戦場を、血を、死体を、もっとそれを見たいと、その真ん中に立ちたいと、そう思う自分にこそ慄いて、それを直視出来ずに考え込んでいた自分を、本当は全部判っていて、誰が判らなくてもきっと君は全部見抜いていて、それでも、君は、シャーロック。
「早くしろ、僕は空腹だ」
 ひらり、シャーロックの手が翻る。ジョンはクッションを抱えたまま立ち上がった。ソシオパス? 心がない?
「シャーロック!」
 勢い良くクッションを投げ付けた。振り返り、目をいっぱいに見開いたシャーロックがそれを受け止める。
「何するんだジョン!」
 ジョンは笑い出した。晴れやかな気分だった。何なら、歌い出しても良い。何が良いだろう。オアシスのラストシングル? The Shock Of The Lightning。雷の衝撃。ぴったりだ!
「行くなら早く行こうシャーロック! 気がついたら僕も腹ペコだ!」
 クッションを片手に、シャーロックが肩を竦めて笑みを浮かべる。ジョンは片手を上げて歩み寄り、シャーロックの腕を叩いた。



 心なんてないと、そう君は言う。
 心なんて、ないと。

 

 

 

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