マイクロフトに人探しを頼まれた221Bは──
謎は巡りジョンのアフガン時代の死者に辿り着き、現代のロンドンに帰り咲く。
「僕の武器は、君だ」
[SHERLOCK:BBC][135,000文字]
00 Hyde Park
指の間から液体が滲み出た。
失敗した、と思った瞬間に屈辱で顔が歪みそうになる。辛うじて無表情を保ち、僅かに足を速めた。
右手に木立が広がっている。時折、リスが大きく膨らませた尾を振って駆けるのが見えた。左手には芝生の丘が広がり、思い思いに寛ぐ人々が点在している。このまま歩けば芝生の先には更にサーペンタイン・レイクの水面が煌めくのが見える筈だった。空はまだ明るく、日射しの強さ以外は日中と変わらず何もかもがあからさまだ。
夕方のハイドパークはそれなりに人の目が多い。午後七時半。日没にはまだ間があった。八月のロンドンの日没は午後八時を過ぎる。夕食前、あるいは夕食後、勤務終了後、長い夏の一日を有意義に過ごす為だろう、散策、ジョギング、サイクリング……市民はこぞってハイドパークを訪れる。元より、ロンドン市民の憩いの場である王立公園は、呆れた事に午前五時から深夜零時まで無料で開放されて、真冬でもなければ人が絶える時間は殆ど無い。
一つ、息を吐いて木立の方へ足を向けた。
何気ない風を装って左の脇腹を強く押さえている。濃い青のシャツに黒いスラックス、腕に掛けた黒のレザージャケットという恰好のお陰で恐らく手元は見えない。その右手に徐々に濡れた感触が広がりつつあった。滲み出す液体はいずれジャケットを伝って地面に幾らかの痕跡を残す事になるだろうが、幸いな事にここは舗装されているわけではない。すぐに土に染み込み、無数の靴に踏み躙られて正体を無くす筈だった。
失敗した、と再び同じ言葉が脳裏を過ぎる。こんな筈ではなかった。まさか明るい内、それもこんな場所で真正面から鉢合わせるとは。
どこで間違ったのか、と考えるのは後回しにする。ともかく一度引き上げ、態勢を整え直さなければならない。何より、顔を見られた。
舌打ちが漏れそうになってこれも辛うじて踏み止まる。思考が散漫になりつつあった。集中していられない。ぬるつく右手がどんな状態かは見たくもなかった。脇腹は脈拍に連動して鈍く痛んでいる。
木立の陰にあの男の姿を見付けたのは偶然だった。そもそも標的である男を捜していたわけではない。ハイドパークはバッキンガム宮殿の西に位置する広大な公園だが、まさかここから男が目的を果たすと考えていたわけですらなかった。漠然と、あらゆる可能性を考慮し、この場所も検めておくべきだと、万全の為の下見であるに過ぎなかった筈なのだ。
だが、結果はどうだ。
薄く唇に笑みが浮かんだ。見る者があれば血の気の失せた唇に不審を覚えるかもしれない。ザマはない。下見で本命にぶち当たるなど、プロとしては最低の展開だ。
顔は知っていた。背格好も知っていた。当然だ。標的として追っている。これは任務であり仕事だった。標的の排除。何度もやって来た。国家の為? それは判らない。いずれにせよ、標的の行動範囲を予測し、探し出し、排除する。疑問の入り込む余地すらないシンプルなその任務の端緒で、まさか偶然真正面から標的に遭遇するなどと。
銃は携行していなかった。相手も同じだったのがせめてもの僥倖か。木立から現れた男は、目線が交錯したその一瞬でヒップポケットからタクティカルナイフを抜いた。その刃が閃いたのを殆ど条件反射で避け得たのは、単純にこちらが先に相手を視認していたからに過ぎない。
突き出されたナイフを右に避け、腕を取りに来た相手の左腕を左手を引いて叩き落とすのに一秒。ツーステップで体勢を変え、こちらも太股にセットしていたナイフを抜くのに更に一秒。一閃目を外したのは相手が足を払って来たせいで、その時点で相手に軍隊格闘の心得がある事、最低でもナイフ術を習得している事は間違いなかった。
技量は互角。あしらう事は出来ない。殺しに掛からねば、殺される。元の通りに向かい合って佇む。互いに目を細めて相手を観察した時間が果たして何秒あったか。
ロンドンのど真ん中だ。市民の憩いの場として名高いハイドパーク。まさか向かい合った男が二人、命懸けでナイフを向け合っているとは、周囲の市民の誰一人として気付く事はあるまい。ただのチンピラなら不用意にナイフを振り回すところだろうが、どうやらプロ同士、動きは無駄なく流麗で、人に注意を向けさせるような違和感は覚えさせない筈だった。
お互いの呼吸を測る。こちらが相手を判別出来るのは当然として、何故相手がこちらを見知っているのか。そんな事がようやく気になり始めた。何故、何もせず擦れ違うという選択肢がなかったのか? 自分を排除しに来るエージェントだと、見抜かれるような歩き方をした覚えも恰好をしている覚えもなかった。
無言。
不意に男が前に出た。絶妙の間合い。今度は避けなかった。互いにぶつかるように行き違う。微かなコロンの香りが鼻腔をくすぐり、直後、脇腹に灼熱の痛みが走った。
手応えは、あった筈だ。
互いに、狙った急所は同じだった。相手のナイフを避ける為に身体をひねったのも恐らく同じ。ならば、傷の位置もほぼ同じだろうか?
その一撃のみ、と考えたのも互いに同じだったのだろう。二撃目はなかった。一撃でどちらかが勝利したのでない限り、格闘は長引き人目を引く事になる。殺してしまえば遺体の始末が必要になるが、死力を尽くして戦ってしまえばそれもままならないどころか当局の世話になるのが関の山だ。そんな愚は冒さない。故の、一撃のみの離別だった。
僅かに息が上がる。少なくとも、例え目撃者が居たところで男二人が擦れ違いざまにぶつかった以上の印象は与えていない。ならば一刻も早くこの場から撤退する以外になすべき事はなく、よもやこの場で倒れるわけには絶対にいかなかった。
ハイドパークは広い。
元々貴族の荘園だ。その面積が一ハイドであった、というのがそのままハイドパークの名の由来で、知った時には馬鹿馬鹿しさに呆れたが、今のハイドパークは一ハイドどころかその三倍はある。おおよそ350エーカーにもなる広大な都市型公園はさながらロンドン中央のオアシスと言って良かったが、脇腹の刺し傷を庇って歩くには如何にも広大に過ぎた。正門を含めて幾つかあるゲートまでが果てしない距離に感じられて目眩を覚える。
人通りの多い場所に出るつもりだった。
北側の、マーブル・アーチからベイズウォーター・ロードに出て人混みに紛れる。あるいはオックスフォード・ストリートに。
足を速める。路地裏に紛れたら、傷の状態を確かめる事も出来るだろう。標的の男がどこへ向かったかは、ともあれひとまず置いておく他はなかった。視界が霞む。ただ、足を前に運び続けた。

