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[SHERLOCK]

 

 たとえば6歩の距離があるとしても。【Wonderwall】
 [SHERLOCK:BBC][14,300 文字]

 

 

 

 その日、例によって221Bの冷蔵庫には指や腕が入っていて、住人達は早々にそこから食料を見出して調理する、という過程を放棄した。正確には、一方が扉を開いたまま沈黙し、面倒臭そうに覗き込んできたもう片方が「……外で食べないかジョン」と提案してそういう結論に達したのだった。
 外で食べないかジョン。いいとも誘ったのは君なんだから君の奢りだぞシャーロック、というやりとりは一瞬で、宣言するなり勝利を確信したジョンがじっと同居人を見詰めると、瞬間「理不尽だ!」という顔をしたもののシャーロックは肩を竦め、同時にジョンは笑顔を浮かべて大きく頷き、つまり夕食についての協定はつつがなく合意に至った。
 そもそも買い物やその他こまごま、フラットメイトとして共同生活を営むに当たって決めた当番制が概ねシャーロックのせいで崩壊しているのが原因なのだからジョンとしては幾らでも強気でいられる。冷蔵庫に入っている筈の食材が入っていないだけならまだしも、代わりに人体標本が──目玉と指の他に右腕が増えていた!──入っているのだからジョン以外の人間ならとっくに同居を解消している。
 この共同生活を始めてからおよそ一ヶ月、取りあえずの所、概ね何もかも全てをジョンの側が折れる事で全ては軌道に乗りつつあった。多分、このフラットシェアはそれなりに上手くいっている。
「それなり、か。レストレードは奇跡だと言っていた」
 歩きながら真顔でそう言うシャーロックにジョンは思わず小さく笑った。
 警察に助言をするコンサルタント探偵などという冗談としか思えない職業を自称するシャーロックは、ロンドン警視庁の敏腕刑事とも無論懇意にしている。今では共通の友人にもなったレストレード警部の落ち着いた風貌を思い浮かべて、ジョンは真顔になって大きく頷いた。シャーロックとは五年もの長期間に渡って親交があるらしい、貴重な人間の一人である筈のレストレードの発言には重みがある。
「つまり、彼は君のような変人が、フラットメイトとの生活を維持出来るとは思ってなかったんだろうな」
 さもありなん。なんせシャーロックと来たら、仕事に没頭していると食事も取らず睡眠も取らず、推理の披露を始めれば立て板に水の超絶早口の演説を相手の指摘して欲しくないことまで全部含めて赤裸々に開陳し、骸骨を友達だと紹介し、わけのわからない実験器具でキッチンを占拠し、あまつさえ冷蔵庫には人体標本、本人はハイテンションとローテンションを高速移動する挙げ句、喋らないとなったら二日も三日も沈黙し、重度のニコチン中毒者で禁煙パッチは三つも貼ってまだ足りず、自分以外の殆どの他人を馬鹿だと断言し、気紛れにバイオリンを弾き鳴らし、おまけにたかだかメール一本発信させる為にロンドンの反対側にいた人間を呼びつけたり夜中に退屈だからと銃を発砲ししようとしたりするのだ、なるほど他人との共同生活が営めるとはちょっと思えない。……そうだ、なんで僕は順応出来てしまったのだろう。
 思わずはたと自分自身について疑問を抱いて足を止めたジョンに、シャーロックが振り返って小首を傾げた。
「僕は至って普通にしている。相手がそれを許容すれば良い話だ」
「自分が改めようって気はないんだな?」
 呆れてジョンは目を見開いた。道理でその理屈ならジョンが何を言おうと改まらない筈だ。どう考えても聞こえているだろうに完全に無視するのも、聞く気がないという主張だってわけだ!
 そりゃ確かにシャーロックの事は初対面で変人だと思いながらも妙にチャーミングだと思ったのも事実だし、いきなり巻き込まれたあのピンク色の研究事件で散々引っ掻き回されつつもどこか楽しかったのも事実だし、その結果としてどうにも自分の見たくもない性癖(そうだ、自分はスリルと冒険を求めている。戦場を離れた事がトラウマになるくらいに。そんなのって普通じゃない、とジョンは暗澹たる気分でそれを再認識した) を何故か丸ごと許容してくれたらしい事実に嬉しくなったりもしたが、それにしてもそれを担保に他の全部を許容しろ、というのはちょっと図々し過ぎる。
 ジョンの内心を推理したかどうか、シャーロックは事も無げに言った。
「僕だって、君がフラットを見に来た日、僕の荷物を見てゴミを片付ければ住めると言ったから随分片付けたぞ」
 Um、とジョンは息を詰めた。
「……ええと、あの時はごめん。まさか君の荷物だとは思わなかったんだ」
 思わず耳を触りながらジョンは一瞬だけ急いで笑みを作った。そうだ、フラットメイトを捜していると紹介されたシャーロックに招かれて221Bを初めて訪れた日、ジョンは既に運び込まれていた雑多なシャーロックの荷物をゴミだと言い放ってしまったのだった。だってしょうがないだろう! 誰が紙くずや瓶や缶や丸めた布を含めた雑多に置かれた品々を「置いてある」んであって投げてあるんじゃないと看破出来ると言うんだ。
「ともかく僕らは一応うまくやってるんだ。この話はやめよう」
 首を振るついでに両手も振る。
 とっくに、自分達は友達だった。相手の欠点まで含めて許容出来なければ友達とは言えない。余程の事は主張するにしても──だがしかしこれ以上に酷い悪癖をシャーロックが持っているとは思いたくないのも事実だが──少なくとも、シャーロックが自分の友達だと紹介してくれたあのマントルピースの上の頭蓋骨よりはもう少し親しいと思いたい。
「まあ、確かに、僕らは上手くいっている」
 シャーロックが頷いた。街灯で石畳に伸びる影は長身で細身の探偵を写し取って長い。隣にそれより短くてちょっとだけ幅のある影が駆け寄って、ジョンはそれを意識しないように忘れる事にして目線を上げた。
「そうだよ、ハドソンさんとだって仲良くやれてる」
 唯一困るのは、あの気の良い未亡人である大家がどうやっても何度訂正してもジョンとシャーロックをカップルだと信じて疑っていない事だけだ。
「そういえば、マイクロフトに言われた」
 ちらりと目線だけでジョンを見下ろしてからシャーロックがそう言った。ジョンは首を傾げる。マイクロフト、シャーロックの兄だ。どう贔屓目に見ても仲が良さそうには見えないこの兄弟は、それでも何だかんだと頻繁に連絡を取り合っている。政府筋の人間であるらしいマイクロフトとコンサルティング探偵というのも奇妙な組み合わせだが、当人達がそもそも奇妙極まりないからそこは余り気にならない。
「ん、彼が何を?」
 シャーロックはぴたりと足を止めた。ジョンは蹈鞴を踏んでシャーロックの隣で立ち止まる。往来を歩く人の数は少なく、道の真ん中で立ち止まったところで迷惑ではないが、立ち止まる意味も判らない。
「シャーロック?」
 シャーロックは、苦虫でも噛み潰したような顔になった。小さく息を吐いてから言う。
「『本当に、お前たちは恋人のようだな。式はいつだ? ママも喜ぶ』」
「……」
 ジョンは硬直した。シャーロックが片眉を跳ね上げる。
「聞いてるか、ジョン」
「ああうん、ええと、聞き間違ったかな」
 反射的に答えたのに、シャーロックはつれなかった。即座ににべもなく言い捨てる。
「間違ってない」
「……」
 掌を上にして手を広げたジョンに向かって、更にシャーロックが言った。
「それで、僕がなんと言ったか、君にわかるか、ジョン」
 ジョンは十五センチ頭上にある、世にも賢い頭脳が収まった、おまけに見目もそれなりに整った白皙の探偵の顔を見た。謎掛けか。君が日頃してみせるように、推理を披露し、それを解説しろというわけだ。ああ、シャーロック。君と来たらその優秀な頭脳でどうして一般常識だけがめちゃくちゃなんだろう。極めて残念だ。実に残念だ。意味が判らない。マイクロフトに。シャーロックが。お前たちは恋人のようだといわれて? なんと答えたかって? 君の頭脳が何を受け取って吐き出すまでにどんな化学変化を起こしているかなんて、僕にわかるわけが……いやちょっと待った。
 ジョンの思考は足と同じくそこで完全に停止した。待て。何か重要な事を見落としている。重要な……じゅうよ、
「ちょっと待った」
 声に出た。
「なんだ、こんなもの時間の猶予が必要な問題じゃないぞ」
「いや、違う、シャーロック」
 ジョンは思わずシャーロックの上着を掴んだ。掴んだ直後にそれが実に高級な仕立てである事を思い出して即座に手を離し、一瞬彷徨わせてから留められていないボタンホールの辺りを摘む事にする。シャーロックは白皙の顔を小さく傾けた。
「うん?」
 ジョンは唇を舐める。口内が乾いていた。殆ど囁いているような小声で、しかし語調だけは強くシャーロックに詰め寄った。
「当然否定したんだろうな全力で!!!」
「あぁ凄いじゃないかジョン、正解だ。全力かどうかはともかくな」
 シャーロックの顔に笑みが広がった。ジョンは眉間に皺を寄せる。
「当たり前だろ!? あのな、言っておくけど、もうその手のゴシップはたくさんなんだ、うんざりだ!」
 シャーロックと出会ってからこっち、一日に一度はゲイカップルと誤解されている。大体そもそもシャーロックがきちんと否定の言葉を口にしないのが諸悪の根源じゃないのか。いつもいつも、語気荒く否定しているのは自分ばかりだ! とようやくジョンはそこに思い当たった。別段ゲイカップルに偏見はないが、自分がそうだと思われて、完全な誤解の上にそれが固定されていくのはどう考えても問題だ。事実誤認だ。
「大体、君のお兄さんときたら初対面の時にもう『昨日出会い今日は新居に引越し、そして一緒に事件を解決しているわけか。週末にはおめでたい知らせが聞けそうだな』とか言ってたんだぞ。なんだよおめでたい知らせって! 今更騒ぐ僕も僕だけど。っていうかまさかロンドン中の噂の出所が君のお兄さんって言うんじゃないだろうな? 冗談じゃないぞ、君は他人の評価なんか構わないかもしれないが、僕は構う!」
「知ってる」
「僕は君を気の合うフラットメイトだと思ってるけど、だからこそ君とカップルだなんて、恋人だなんて誤解はされたくない」
「僕も同意だ」
 あっさりとシャーロックは頷いた。カツ、と踵を鳴らして再び歩き出す。シャーロックの上着を掴んだまま、ジョンもつかつかと歩き出した。覗き込むような姿勢でシャーロックを見上げて続ける。
「つまりちゃんと訂正したんだな?」
「ああ、したよ。恋人? 僕は仕事と結婚している。いつも言っている事じゃないか。第一、恋人どころかそれ以前に恋愛なんてものが実にくだらない。僕がそんなものにうつつを抜かすか? まして君とだ」
 恋愛がくだらないというくだりには大いに異論があるが、とりあえずジョンは足を速めてシャーロックの前に回った。立ち止まり、シャーロックの胸を軽く押し留める。眉を上げて立ち止まったシャーロックに強調した。
「ホントに、僕は、そんな誤解はごめんなんだからな、シャーロック」
 oh、と鷹揚にシャーロックは頷いた。
「君は僕と違って社会不適格者ではない。即ち、君が僕に言わせれば何の意味があるのか判らない社会通念とやらを尊重して生きているのは充分承知しているよ。まあ、言わせて貰えばそんなものに縛られたりしているから君は妙なPTSDなんかに悩まされるような事になるんだと思うけどね」
「ご親切に助言をどうも」
 顰めっ面で見上げるジョンを、シャーロックは面白そうに見下ろしている。このやりとりも内容が多少変わるだけでこの一ヶ月飽きるくらい繰り返していた。シャーロックはシャーロックなりに、本当にそう思ってこんな助言をしているのだ。それはジョンにも判っている。この男はいつだって本気だ。人をけなしている時も、自分自身を褒めている時も!
「シャーロック、一つ良いか」
 溜息一つ、肩を落としてジョンは表情を緩めた。
「君がちゃんと僕と同じくらい『違う。僕達は恋人同士ではない』って言って回れば随分と結果は違うと思うんだけど?」
 Hum、とシャーロックは気のない返事を一つ寄越した。そのまま肩を竦める。
「まず第一に、君が必ず主張するのが判っている事柄なら、僕まで口を開く必要はない。非効率的だ。第二に、誤解というのは誤っているから誤解と言うんだ。基本的に誤解なんてものは誤解する方が悪い。まれに意図的に誤解させるように仕向ける人種もいるが、それは騙しているんであって、僕たちは騙そうとは一切していないんだから、結論的に誤解する方が馬鹿だ。つまり僕がそんな主張を行う理由が見当たらない」
「じゃあ僕もお礼に忠告するけど」
「それはどうも」
「君は自分が他の人達より賢いって判ってる。だったら、他の人に判るようにお膳立てしてやれば、つまりほんの少し気を使ってさえいれば、僕や他のみんな以外の友達だって沢山出来ると思う」
 友達? とシャーロックは胡乱な声を出した。
「何で友達が必要なんだ。探していたフラットメイトはもう見付かった。君以外を必要とする理由があるか?」
 まるで何を馬鹿な事を言ってるんだと言わんばかりだ。ジョンは呆気にとられた。
 確かに、シャーロックは人付き合いを好まない。そもそも周囲がまずシャーロックを敬遠するから当然だ。この恐るべき天才は、その頭脳に比して情緒だとか愛情だとか、そういうものが欠落している。いや、欠落しているわけじゃないな、とジョンは自分の脳内を訂正した。あれだけ素晴らしい情感の籠もった音楽を奏でられる──そりゃ真夜中だろうとお構いなしにバイオリンを弾き鳴らすのはやっぱり色々の欠落の一部だが!──そんな人間に情緒や愛情や、つまり豊かな感性がないとは考えがたい。心だってある。本人が知らないだけだ。そうではなく、つまり、シャーロックはそれを求めていない。求める方法も知らない。興味もない。それを得た自分が、どこに辿り着き、どこに立つのか知りもせず知ろうともせず、そんな世界がある事さえ気づいてもいないから、判らないのだ。
「僕だけ?」
「そう、充分だ」
「ハドソン夫人は?」
「大家だろう? だがまあ、そうだな、彼女は最高だ」
「レストレードだって!」
「彼は……たとえば手近な例だが、僕が初対面だったとしても君の寝室には右側に窓があると判るのに、こんな自明の事実でさえ気付くかどうか怪しいような男だぞ? だがまあ確かに、知り得る人種の中ではマシな方だな。優秀な刑事だし、僕の才能をきちんと認めているという意味で」
 あー、と意味もなく口を開いて唸ってからジョンは結局唇を舐めただけで開いた口を閉じた。これ以上誰かの名前を出しても碌な結果にならない気がする。とりあえずシャーロックがジョンを不要だと言わない事に満足しておくべきなのだろう。そう、僕らは上手くやっている。驚く程に。つまりこの問答は、それを確認するだけの意味しかない。
「わかった、判ったもう良い」
 ようやくそれだけ言って、ジョンは苦笑した。
「というか、意外だな。嬉しい事だけど、君が僕をそんなに例外的に扱ってくれてるとは」
「例外?」
 子供が目を丸くするかのようにシャーロックが目を見開いた。
「君はフラットメイトだぞ、ジョン。生活を共にする相手だ」
 ジョンは両手を振る。
「ノーノーノー、文句じゃない。言っただろ? 嬉しいって。僕だって幾らなんでも君が君なりに僕をちゃんと扱ってくれてる事くらいは判ってる。自惚れないように気を付けながらね」
「別に気を付ける必要はないだろう」
 シャーロックは不思議そうだ。
「事実だ」
 あーうん、と視線を逸らしてジョンは耳を触った。指先に熱が伝わる。多分、自分の耳は赤くなっているな、と他人事のように考える。シャーロックのこれは些か反則だ。そう、今なら例えば、こんな事を嬉しがるなんて君はやっぱりゲイなのか? と心底困ったように言われるたらこんなに動揺はさせられずに済んだ。そう、僕らの最初の事件で、独身だと言ったシャーロックにうっかり良かった同じだと答えてしまった時のように。うん、あれは傑作だった。シャーロックでも、自分がこれから同居しようとする相手が自分を口説いているのかと思えば多少はうろたえたりもするのだ。なのに。
「……シャーロック」
「うん?」
「今、ちょっと判った」
「何が」
「君がそんなだからいつまで経っても僕らの関係は誤解されるんだ」
 シャーロックは非論理的な戯言を耳にした、と言わんばかりに顔をしかめた。両手を口元で合わせて口を開き、合わせた手で唇をなぞってから手を下ろす。
「僕のせいだと?」
「大部分ね」
「承伏しがたい意見だな」
「なんで?」
 言葉の応酬がどことなく言葉遊びの様相を孕んでくる。ジョンは意図的に無邪気な笑みを作って見せた。唇を限界まで引き上げて、目を大きく広げる。ちらりと横目でそれを見下ろして、シャーロックも薄く笑みを浮かべた。
「その誤解の前提には、まず僕が君と恋愛関係に陥るような人間である、という僕に対する判断が必要だ」
「まあ、そうだろうな」
「その時点でその馬鹿は、僕の事を全く理解していないという事になる。後は先程言ったとおりだ。誤解は、誤解する馬鹿が悪い」
「なんだそれ」
「僕が、ジョン、君に!」
 片眉を跳ね上げて、シャーロックは大袈裟に溜息を吐いた。それから「そもそも」と続け、不意に実に優雅に肩を竦めて首を傾げる。薄い笑みが再びシャーロックの面に浮かんだ。
「僕は君と恋人になどならない。君に恋などしない」
 一瞬、ジョンの思考は止まった。
 直後、自分がシャーロックの言葉に引っかかった事に驚き、思わず数度瞬いた。シャーロックの言葉がゆっくりと脳に浸透する。ぼくは、きみと、こいびとになど、ならない。ならない? そこまででまた数度瞬いた。うん、何もおかしな所はない。自分達はフラットメイトで友達で、恋人同士ではなく、その誤解は避けるべきだという話をしている。僕はどこに引っ掛かったんだ? 君に恋はしない? されても問題だ。その筈だ!
「僕だってだ」
 ようやく我に返ってそう言った。シャーロックはそうだろう、と一つ頷く。そうだ、と返してジョンは前に向き直った。知らず、眉間に皺が寄る。
 そう、勿論だ。自分は間違ってもシャーロックを相手に恋愛をしようとは思わない。恋というのはもっと……もっと現実的なものだ。シャーロックとの間にあるのは、そもそも殆ど現実的じゃない事柄ばかりだ。第一何よりシャーロック本人が浮世離れして現実感がない。なんたって地動説を知らないくらいだ。
 ジョンの顰めっ面にシャーロックは素っ気無く頷いた。わかっている、と首を振り「本当に、僕は君に恋はしない」と再び口にした。
 ジョンは変に不本意な気分になって困惑する。何もそんなに念を押す事は。いや違う。だがこうまで言われるとまるで僕に魅力がないみたいじゃないか。だがこの希代の変人にとって魅力的なのは事件や、殺人事件の被害者であって、ああ、つまりそれは死体だ。そんなものと同列にされるのも不本意だ。いやいや、そうじゃない、一体これは何の話なんだ?
 ジョンは早足で歩き出した。ここはロンドンで、ベーカー街からはまだ通り一本しか離れていない。それでも、シャーロックと歩く石畳はもうそれだけで少し現実から乖離している。221Bのあの部屋さえ、シャーロックが居るだけで次元が切り替わってしまうのだ。知っている。冒険を求めてやまない自分は(それを単純に冒険と呼んで良ければ!)、だからこそ、この生活に順応している。
「ジョン」
 するりとシャーロックがジョンの隣に並ぶ。ジョンは前を向いたまま小さく息を吐いた。
「なんだよ」
「僕は君に恋はしない」
「もうきいた」
「君が恋愛を随分と大切に考えてるようだから、調べたんだが」
 ……は?
 ジョンの驚愕を余所に、シャーロックは楽しげに顔の前で両手を合わせた。常には冷たい横顔が愉悦に綻んでいる。
「くだらないと断じておきながら、恋愛とは何か、という問いに僕が答えを持たないのはフェアじゃない。そう思って調べた。無論、大抵のくだらない殺人事件に於いて原因は愛である事が多く、愚鈍な大衆が恋愛というものに情熱を傾けるという事実についてなら百も承知なんだが、系統だててその価値を整理する、という事はして来なかったからな。退屈が紛れるほどじゃないが暇潰しにはなった」
 ジョンは口を半開きにしてシャーロックを見詰めた。そう来たか。
「そもそも、恋愛などというものが当然に普遍的な概念であるかのように大手を振って現代社会で持てはやされているのは僕はどうかと思うね。遡って古代ギリシアのプラトンがそれらしき事を論じているのが恐らく最初に恋愛などというものが論じられたケースだと思うんだが」
 プラトン、プラトンってプラトンか、とジョンは瞬きながらそう思った。ギリシアの偉大なる哲学者。美がどうとかイデアがどうとか言っていたらしき巨人だ。そんなのハイスクールで耳にしたっきりだぞ?
「その後のキリスト教的な神が示す無償の愛なんてものの登場で愛と恋は切り離され、中世では既に現在のような恋愛に対する妙な崇拝が確立されている。中世騎士物語なんてのはその最たる物だろう。君が読んだ事があるかはともかく」
 寧ろ、シャーロックの方が一冊も読んでいないんじゃないか? とジョンは疑った。どうもシャーロックの読書遍歴には異様な偏りがある気がする。シャーロックはジョンの眉間の皺などお構いなしに続けた。
「シェイクスピアのロミオとジュリエットが登場するに及んで、これはもう完全に頭の沸いた連中のバイブルになった。恋愛を至高のものと考える悪しき習慣はここに確立されたと言って良い。我が大英帝国の偉大なる歴史にそんなものが刻まれたというのは嘆かわしい事態だが、最終的に、では恋愛とは何かと言えば、まあ愛の国だと標榜する隣国の小説家スタンダールを引くなら、情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛の四種類の総合という事になる。一つずつについては今ここで論じる必要性を認めないので割愛するが、結局の所、恋愛なんて物は」
 シャーロックはパン、と両手を合わせて音を鳴らした。
「終わる物だ。感情を互いに向け合い、それがなくては夜も日も明けないようなのぼせ方をした上で、それは終わりを告げる。それが恋愛だ。そうだろう?」
 そうなのだろうか。
 ジョンにとって、恋愛は一時のスリルと安寧だ。生理的な欲求のはけ口でもある。なるほどそう考えれば、終わらない事は想定していないかもしれない。確かに、恋はいつしかその情熱を失い、穏やかな愛に変わる。そういうものだと自分は考えているような気はする。するが、シャーロックの言い方は余りに酷くないか?
「特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態と恋愛を定義している書籍も存在する」
 ふん、とシャーロックは鼻を鳴らし、軽蔑しきったように虚空を眺めた。視線をぐるりと回してからジョンを見下ろす。
「肉欲を伴って本能に敗北し、コントロールを失ってのぼせ上がるような、そんなものを何故ありがたがるのか、僕は理解に苦しむね」
 冴え冴えと、シャーロックの蒼い瞳はジョンを透徹して小さく煌めいている。足を止め、ただそれを見返したジョンに、そうしてシャーロックは言った。
「ジョン、僕は君に恋はしない。冗談じゃない。終わる前提の事など、君と始める気はさらさらない」
 ジョンはゆっくりと瞬いた。この自分より何倍も、何十倍も、呆れる程賢くて見目麗しい男の声が、全部石畳に落ちて散らばるまで息も止めていた。
 ちょっと待ってくれシャーロック。それは、そんなのは。
「シャーロック」
 ようやくのようにそう言った。シャーロックは涼しい顔を崩さない。余りにもいつも通りだ。予想通りに終わった実験結果を告げる時のように。概要だけで結果のわかってしまった事件の顛末をつまらなそうに語る時のように。
 ジョンは歩き出そうとして一歩を踏み出し、そのまままた立ち止まった。シャーロックが首を傾げて立ち止まる。街灯に照らされてシルエットになった同居人を、ジョンはマジマジと見上げた。
 終わる前提の事など。
 シャーロックはそう言った。ジョンは唇を舐める。
 だったら、フラットシェアは? 終わる前提の事などしないというなら、だとしたら。助手だと、そう言ったのは? 自分が在宅する限り、当然のように同行を求める、その立ち位置は、だとしたら。
「ジョン、君は僕の仕事のパートナーでフラットメイトだ」
 誤解に対して否定なんか必要あるか? とシャーロックは早口で言い捨てて続けた。
「明らかに、僕たちの関係はそんな欺瞞に満ちた愚かしいものではないというのに」
 そんな簡単な事も判らないような馬鹿に、わざわざそれを全部説明してやるのも馬鹿馬鹿しい、とシャーロックは肩を竦めた。レストレードに、何故ジョンの部屋の窓が右側にあるのだと判ったか説明してやらないのを当然だと思っているのと全く同じ調子で。
 ああ、なるほど、とジョンは小さな声で無意識にそう言った。
 シャーロックの事を、判っているつもりだった。随分と、物事を明確に切り分ける男だと知っていた。利用出来る人間、犯罪者を含めた自分に楽しみをもたらす人間、マイクロフトを含めた肉親、そこまでが辛うじてシャーロックの関心の向く相手で、それ以外は全て切り捨てられる。殆ど0か1しかないそれがシャーロックの世界だと知っていた。自分の関心が向く物事と、それ以外。シャーロックの出来すぎたハードディスクには、後者は一つも蓄積されていかない、地動説のように。
 そうだ。そして、自分は。
 ジョンは口を開いた。何かをこの天才に伝えなければと思う。だが、何を言えば?
「……オーケイ。オーケイ、シャーロック」
 小さく両手を上げる。シャーロックが眉を上げた。ジョンは大きく頷いてシャーロックと向かい合う。
「なるほど、僕たちはフラットメイトだ。最高のね」
 納得しました、と顔に大書したような表情を作ってやる。微かに頬を膨らませ、唇を引き結び、真顔でシャーロックの顔を見上げたのだ。シャーロックはそれを真っ直ぐに見下ろし、やがて、どちらともなく噴き出した。
 おかしなものだな、とジョンは思う。
 シャーロックの中で、何がそんなに重視されたのか全く判らない。だが、自分も確かに、この変人と名高い大きな子供を、初対面から好ましいと思う気持ちがあったのだ。波長があった、と言えば確かにそうなのだろう。そしてなるほど、自分がシャーロックに向ける気持ちも、女性達に向けるそれとは少しも重ならない。
「ジョン」
 ようやく笑いを納めてシャーロックが言う。向けられた笑みは子供のように無邪気だ。日向に出て満足した猫がそうするように、シャーロックは目を細めた。
「ジョン、君がまさか知らないとも思えないんだが」
「何?」
 シャーロックが身を屈め、ジョンの視界にはシャーロックの顔が大写しになる。どうかすると目が寄りそうになるのを押し留めて、ジョンはシャーロックの目に映った自分を確認した。
「僕はパーソナルスペースが狭い方じゃない」
「パーソナルスペース?」
 こんな鼻先でそう言われても全く説得力がない。が、ジョンは辛うじて小さく頷いた。確かに、日頃のシャーロックは他人が自分の近くに寄る事を良しとしない。触れられるのも好まない。例外はハドソン夫人にハグをする事くらいだ。
「だが、君は別だ」
 ふっと目元を和ませて、シャーロックはそう宣言した。そのまま身を起こしてジョンを真っ直ぐに見下ろす。
「決めている事がある。僕は君とは距離を取らない。が、君とのこの距離を不作法に越えたりもしない」
 ジョンは何かを言おうとして再び何も言えずに唇を舐めた。右手を上げて耳たぶに触れる。大丈夫だ。冷たい。
「ジョン、僕は」
 シャーロックが言葉を探すように一度唇を引き結んだ。常に淀みなく流れ出す低い声は、そのまま暫く押し留められ、ジョンは黙ったまま、シャーロックのその唇を見ていた。
「僕は」
 あー、と首を振って、シャーロックはようやく囁く程の声で言った。
「僕は、君の他に……君以外に、僕の傍にいられる人間なんていないと、そう思い始めている。驚いた事に」
「シャーロック」
 それは、そうなのだろうとジョンは思う。きっと、これまでの人生で、自分が一番、シャーロックと長く一緒に過ごしている。レストレードの五年の付き合いは、こんなに近い距離じゃない。それは確信出来た。この尊大で子供のような、誰にも理解されない天才が、唯一の友達は骸骨だとマントルピースの上を指さすような男が、他の誰と上手くやっていけるというのだろう。
「ジョン」
 シャーロックが手を伸ばし、ジョンは無表情にその手を見た。ジョンの肩を掴み、無造作にそのまま真横を向いたシャーロックの腕に押されてジョンは再び蹈鞴を踏む。立ち位置が丁度九十度、時計回りに回ったところでシャーロックは手を離した。満足そうに唇を鳴らして、ジョンの反応を窺うように眉を上げたシャーロックが両手を広げる。つい、とそのまま顎を動かして、シャーロックはジョンの目線を誘導した。
 ジョンは素直にそれに従った。ちょっと唇を舐める。二つの影が伸びていた。道の両サイドから照らす街灯で、影は肩の辺りで身を寄せ合っている。僕は、とシャーロックが更に低くそう言った。
「僕は、ここに居る」
 身を寄せ合った影、それを横目に、向かい合った自分達。ジョンはシャーロックを見上げた。シャーロックの目は細められてジョンを映している。
「ここにいようと、居たいと思い始めている。いいだろうか?」
 ジョンは俯いた。互いの靴先が向き合っている。つま先三センチ。しばらくそれを見ていた。ちょっと横を見る。影は寄り添っている。上着のポケットに両手を突っ込んだ。一つ、息を吐く。
「シャーロック」
 名前を呼んで顔を見上げた。シャーロックは酷く切羽詰った顔で自分を凝視している。常の冷静な無表情と良く似た、けれど明らかに緊張した顔だった。
 ジョンは肩を揺らした。片手を出して耳を触る。耳朶は熱かった。こらえ切れずに笑いが漏れた。決めている事があると言ったな。なのに訊くのか? いつも勝手に決めているのに? 出会った日も、そうだった。君は勝手に僕がフラットメイトになるともう決めたような顔で、ウィンクまでして、また明日とそう言った。翌日、君の荷物をゴミだと言った僕を、それでも、もう一緒に住むんだと決めてしまったみたいに、お茶を飲んで待っててと、駆け出した。知っている。この天才は、本当に、たった一人で生きて来たのだ。誰にも理解されず、誰もパーソナルスペースに入れずに、たった一人で。そのシャーロックが、自分の感情の行く先も、そうして行き着いた先の自分の立つ場所の風景も、何一つ知らない無垢で無邪気で愚かな子供が、どうしてだか切実な顔をして、一緒にいてくれるだろうかと困惑した顔で手を広げている。
 どうしようもなく、笑いがこぼれた。俯いた位置のまま、目線だけでシャーロックを見上げる。シャーロックは真顔だ。両手を広げたまま、真剣な顔でジョンを凝視している。ジョンはとうとう噴き出した。
「シャーロック!」
 肩を竦める。上着からもう片方の手を出した。広げたままのシャーロックの手に、自分の両手を叩きつける。高い音が響いた。
「良いに、決まってる!」
 シャーロックが破顔一笑した。通りを行く人々が何事かと振り返る。ジョンは叩き付けた右手を、今度はこぶしを作って宙に上げた。シャーロックが同じようにこぶしを作るのに、どちらともなくぶつけ合う。
「降参だ、シャーロック。ああもう、本当に君には敵わない」
「当然だろう?」
 シャーロックが片目を瞑った。もう一度、こぶしをぶつけてジョンは歩き出す。大股に追って来たシャーロックが、隣に並んで言った。
「インドカレーを、食べに行こう」
 まるで事件の発生を知った時のように声が弾んでいる。
「カレー?」
 随分と唐突だ。
「どうしたんだ。美味しい店でも知ってるのか」
「物凄く今すぐに食べたくなった。軍人はカレーが好きだろう?」
 ジョンは片眉を跳ね上げる。
「それは海軍だろう? ついでに言うけど、あれはビーフシチューだよ。ミルクじゃ日持ちしないから、代わりに香辛料のカレーパウダーを入れるんだ」
「そうなのか? 陸軍では食べない?」
「食べるけど」
「僕のとっておきの店だ。失望はさせない。もうすぐそこだ」
 言葉通り、直後に笑顔を翻してシャーロックが歩み寄ったのは年季の入った重厚な木の扉だった。こじんまりと目立たない店だ。こんなところにインドカレーの店があったなんて初めて知った。
「入ろう」
 シャーロックが勢い良く扉を押した。店内の喧騒が通りに溢れ出す。音楽が聞こえた。エキゾチックな音色。シタールの、独特のミュートのかかった音色だった。生演奏なのかもしれない。一拍の間をおいて、香辛料の強い刺激的な香りが漂った。
「ジョン」
 振り返ったシャーロックが微かに笑う。ジョンは唇の端を持ち上げて笑みを浮かべた。
 シャーロック。君は僕だけが君を許容すると思っているのかもしれない。だけど。
「ジョン、早く!」
「どれだけ食べたいんだよ! 珍しいな」
 本当は、自分こそが、シャーロックに許されたのだと、いつか、この本当は繊細で孤独な天才にわかる日が来るだろうか。
 シャーロックが、店内に向かって手を上げる。行き付けの店なのかもしれない。ジョンは、どこか浮ついた足取りのシャーロックの背中を見ていた。
 笑みが零れて止まらない。何も知らない純粋で大きな子供。辿り着く場所も知らずに、それを何と呼ぶかも知らずに。
「ジョン、ジョン!」
「そんなに呼ばなくても聞こえる!」
 急いで扉を潜った。シタールの音色。やはり、生演奏だ。テーブルと椅子が並ぶ真ん中に小さな舞台がある。後ろ手に扉を閉めた。シャーロックは店員に何かを告げている。それで思い出した、とジョンは一歩を踏み出してシャーロックの袖を引いた。
「なあ、そういえば君、僕のCD知らないか? 昨日から見当たらなくて」
「Oasisの? なら、ダイニングテーブルのラップトップの横、上から四枚目」
 即答だ。
「なんで知ってるんだ、もしかして聴いたのか」
「君が掛けっ放しだったんだ。エンドレス」
「本当に? しまったな、止めてくれたのか、ありがとう」
 シャーロックがふっと滲むような笑みを浮かべた。一瞬それをまじまじと見て、互いにすぐ、視線を戻した。
 こっちに座って! と酷い訛りの英語で呼ばれる。当たり前のように歩いていくシャーロックの背中を見た。偉大なる名探偵。きっとCDの一件があったから、シャーロックはここに来た。そこに意味を篭めたか篭めないか、これは今度こそシャーロックの仕掛けてきた小さな謎掛けなんだろう。探偵からの挑戦状だ。その謎に、僕が選ぶ答えは──。
「ジョン!」
「そんなに呼ぶな!」
 つま先三センチ。並んで歩く、その肩は触れずに影だけが寄り添う。いつか本当に、それは現実になるだろう。今はまだ、隣に並ぶには何もかもが遠くても。そう、たとえば6歩の距離があるとしても。

 なるほど、僕らは、きっとずっと互いに恋はしない。

 

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