夜更け、エボシと呑み交わしたジコ坊は、ふと幼いころに出会った高貴な男を思う。
[もののけ姫:スタジオジブリ][10,290 文字]
「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」
干した杯を掲げて不意に流れ出した歌に、チリ、と灯火が揺れた。
向かい合っていた結い髪の女がつと目線を挙げる。視線の先に、太い指と赤い杯。
「なんだ」
「なんだ、とは、なんだ」
「そなたのその歌だ、ジコ坊」
言われて杯を掲げた男が目を細めた。赤褐色の丸頭巾と白い錣が動きにつれて揺れる。共に赤褐色の篠懸、丸く突き出た腹を晒してだらしなく着込んだ胡粉色の小袖には土汚れが目立った。短躯だが恰幅が良く、太い足で組んだ胡坐の先、土間の端に一本歯の高下駄が転がっている。
「歌は歌よ」
木で鼻を括る返答に、女の柳眉が跳ねあがった。切れ長の目が半眼になって男のとぼけた顔をねめつける。眉の下のイボも鼻先も常に増して赤くしている男の、申し訳程度に蓄えた貧相な髭も欠けた歯の見える口元も、どうにも風采は上がらないが、奇妙に愛嬌がある。
「おお、コワヤコワヤのエボシ御前よ、人を射殺しそうな目で見るんじゃない」
エボシは鼻を鳴らして己の杯を干した。左手。隻腕のエボシの右肩は羽織った藍の被衣が垂直に落ちている。向かい合った板間は太い柱で区切られた奥まった小部屋で、他に人の姿はない。エボシの物らしい文机に、キッチリと蓋を閉められた文箱。床に直置きした灯明が影を壁に映して揺らめいている。更夜の静けさだった。
「この歌、耳障りかエボシ御前。これはな、天地の間にあるすべてのものを欲した方の、最期の歌よ」
「天地とは、今際の刻の望みとて、それは強欲が過ぎるというものであろう」
「そう思うか。思うわな。だが、欲して当然と育ったお方だ、仕方あるまいて。お前さんが欲張るのとはわけが違う」
エボシの細めた目が底光りする。杯を置いた。ジコ坊が身を乗り出して酒を注ぐ。エボシは赤い舌で己が唇を舐めた。紅をひいた唇が開いて挑むが如き鋭さで言葉を吐き出す。
「天地の間のすべてを得るものなど、何処に在る」
ジコ坊はそれを悠然と受けた。
「在る、事になっとるんだろうさ。至高志尊、この地の全てを束ねるのだと、そういう風に言われとるんだから」
エボシの眉根がきつく寄る。薄く開いた口から呟きが零れる。
「……天朝」
はっは、とジコ坊はその欠けた歯の隙間から押し出した空気で笑った。是とも否とも告げず、杯を舐める。エボシの声が一段低くなった。
「以前より、訊くか訊くまいかと思っていたが、ジコ坊そなた、師匠連を通すどころか、直に出入りが可能なのか」
「ほう、何の話だ。ワシは師匠連に使われる者に過ぎぬぞ。だがエボシタタラの支援もして来た。それだけだ」
ぐるりと辺りを見回す。このたたら場の大屋根が落ちて里の全てが焔に呑まれ、こうして再建するまでに己がどれだけのものを提供したか──それはジコ坊が時折口の端に上らせては釘を刺す事実ではあった。応えぬエボシにジコ坊は畳み掛ける。
「エボシ御前ともあろう者が、それ以上の何を知りたがる。互いに利用出来るからする、それで十分。銀山の話含め、互いに巧くやって来た。お前さんのやる事には、関わりのない事だろうて」
とろとろと、濁り酒が杯に満たされる。ジコ坊の細めた目も鈍く濁っている。その奥に、鋭い小さな光が見え隠れする。
「折角の手打ちの前祝、酒が不味くなる話はするものではないぞ」
「都大路で、そなたを見た者がある」
エボシの目が真っ直ぐにジコ坊の半眼を覗き込む。
「御所の前で見失ったと、聞いた」
「ワシを着けたのか。なんとも無駄な事を」
「無駄と言うか。そなた──一つも本当の事を言わぬな」
ジコ坊は笑んだ。エボシの杯にも尚、酒を注ぐ。注ぎ続けて、それは緋の杯から溢れて零れた。床を伝った酒は土間に落ち、高下駄に滴って吸い込まれる。その流れを視線だけで追って、ジコ坊の大きな口が耳元まで割けて笑みを刻んだ。
「本当の事か。ワシはな、エボシ。嘘は吐かぬ。吐かぬが」
全てをあからさまにもせぬわい。
手を伸ばして高下駄を拾い上げる。それをエボシは見ている。一本歯の高下駄。裏返ったそれに、菊花紋──。エボシの視線が鋭くなり、ジコ坊に刺さる。泰然と受けて、ジコ坊はつるりと、紋を撫でた。
その紋が高貴な印だと子供は知っていた。見下ろした目の前の若く美しい男の手に、十六葉八重表菊の紋が焼き付けられた檜扇が握られている。唐棣色の直衣に雲立涌文の指貫袴といういでたちは如何にも高貴であり、見詰めたまま身動きすらままならなかった。塀になど登るのではなかった、という悔いは今更に過ぎる。
「小童! 何をかせむとこのような!」
怒声に子供の肩が揺れる。男の後ろから駆け付けた狩衣の武士が目を剥いている。子供は長塀の上、両手を衝いて猿の如く屈んだ恰好だった。裸足の指先が瓦を掴んでいるとは言え、猿ではないから油断すれば即座に落ちる。落ちれば己の背丈の倍もある高さだ、只ではすむまい。赤い鼻先が下を向く。足元に目をやり、上目に視線を戻せば、怒鳴った武士が刀に手を掛けている。斬られるのか、と思った瞬間、子供の呼吸が止まった。だが。
「良い。見たところまだ七ツ前の子供であろう。咎はない」
涼やかな声がそれを遮った。檜扇で行く手を阻まれた男の刀が抜かれぬまま戻され、直衣の横に膝を衝いて首を垂れる。目を瞠った子供に、檜扇がゆるりと振られた。招かれる。
「降りて良いぞ。赦す」
いっそ、道の側に降りれば良い。振り返った子供に尚も涼しい声で男は笑った。
「逃げずとも良い。御所の塀を越えようとは、面白き童だ。逃げるのなら、人をやって探させるぞ」
それは、と子供は怯んだ。それは困る。集落の者達を無用に怯えさせる。何より、父親を失望させるだろう。あの塀の向こう、美しい砂が敷かれた静かな庭を維持するが御庭者の誇りぞと訥々と聞かせてくれた父が。
瞬時、逡巡したものの、子供は長く迷わなかった。勢いよく整った砂地に飛び降りる。裸足の足は傷んだ筈だが、意にも介さず仁王立ちした。招いた若者が面白そうに口の端を上げる。傍らの楓の木は赤く色付いている。
「ちこう」
子供は渋面のまま動かない。傍らに膝を衝いた武士が咎める目線をちらと上げてすぐに戻した。子供をねめつける。
「近う、怯えることはない」
「童、殿下が傍にお呼びだッ」
ようやく子供が身じろいだ。渋面は変わらない。小柄故に幼く見えたが、目を見れば幼児ではないと知れる。大きな目と、への字に結ばれた口が利かん気を露わにしている。赤く染まった鼻先がひく、と蠢いた。
「何処から来た」
親し気に若者は言い、つと膝を折った。片膝立ちになって子供と目線を合わせる。後ろで武士が今度は若君を見て目を剥き、更に背後から駈けて来たらしい二、三の武士の足が驚きで止まった。
「ああ、何処からとは応えぬな。探させると言うたら躊躇った。そなたは聡い。では父御の事も、訊くだけ無駄であろうな」
子供は立ち尽くしたまま若者を見詰めていたが、〝父御〟という響きに反応したらしい、ふいと庭先を見た。行き届いているとは言い兼ねる庭の、それでも木々は紅葉し掛けており、その配置の妙も相まって酷く美しいものに子供の目には映った。若者が目を細め、子供の視線を追って頷く。
「そうか、そなたもしや、阿弥衆の子か」
子供の背筋が伸びた。若者の後ろで頷いた武士が一人、駆け出して行く。子供は落ち着かない顔でそれを見送り、若者に視線を戻して所在投げに見上げ、ようやく「てんちょうさまの」と声に出した。
「てんちょうさまの庭が」
「見たかったか」
若者が頷いて微笑った。今度は檜扇でなく指先で子供を招く。
「こちらへ来て見るが良い。よく見える」
子供の躊躇いに若者が小さく笑う。痩躯だが、穏やかな風貌だった。
「殿下」
つと振り返った武士が声を掛ける。場の全員が視線を向けた先、身を低くして駆けてくる男の姿があり、子供の肩が跳ねた。
「カケス!」
押し殺した、それでも地を這って響く怒気が子供の髪を逆立たせた。駆けてくる男は小袖を襷掛けにし、括袴の裾を脛巾脚絆で絞っている。草鞋が脱げそうな勢いだった。
「かち様、大変申し訳ござりませぬ!」
殆ど額づくようにして、男が膝を衝いた若者の足元で平伏する。縫い留められたかに動きを止めた子供と足元の男とを交互に見やって、若者はやはり涼やかな目元を和ませた。
「そなたの子か」
「なにとぞ、なにとぞ」
「良い、罰しはせぬ。七ツに満たぬのであろう」
おとうちゃん、と子供が掠れた声で呟いた。最早鼻先だけでなく耳まで赤い。
若者が手を伸ばし、子供の頬を指先で擦り、頭を撫でた。
「カケスというがそなたの名か」
子供は上目に若者を見たまま口をへの字に結んだ。若者が父親を振り返る。
「もしや秋生まれか」
「左様にござりまする」
畏まって恐縮する父親にも若者は笑う。
「そんなに堅くならずとも良い。御所の庭も、数々の寺の庭も、そなたら御庭衆の手があればこそだ。父御の手入れする庭が見たいとは、成程、子ならさもありなん。私もこの子の立場なら同じ事をしたであろ」
含み笑いで子供の頭を撫でる。細い指先が白い。
「私も秋生まれだ。そなたと揃いだな。秋を告げる鳥の名とは、流石に御庭衆の子よ、美しい名だ」
「飛べない」
「ん」
子供の素っ気ない言葉に若者が首を傾けた。子供の弧を描いた眉が寄る。
「鳥の名だ。でも飛べない」
「なるほどそうであろうな。そなたは飛べぬ、そうか」
一つ頷いて若者は檜扇を僅かに開き、ぱちりと音を立てて閉じた。
「カケスであるのに飛べぬなら、よし、私の前ではそなたは今から〝じこぼう〟でよいなぁ」
はらはらと楓の葉が舞った。子供が呆気にとられて若者を見詰めている。控えた武士も、御庭衆も息を詰めてそれを見ていた。若者はおもしろそうに笑う。
「カケスは過ぎた名であろう。飛べぬのだからな。知っているか、じこぼうと呼ばれる茸がある。汁にすると旨いのだと命婦から聞いたのだ。信濃の方では親しまれるそうでな。先だって持ってこさせた」
子供の鼻先を摘まんだ。
「そなたの鼻先はじこぼうの赤い傘によう似ておる。じこぼうと呼ぼう」
「じ、こぼう」
「これからも此処へ来て私に外の話を聞かせてくれまいか。庭を自由に歩いて良い。そなたも飛べぬが私も飛べぬ。飛べぬ上に、そなたの世界をひとつも知らぬ故」
私の鳥に、なるが良い。
風が渡る。清かなそれに若者の衣に焚きしめられているのだろう香が立った。控え目に過ぎるそれは子供の赤い鼻を擽って消える。どこかしら甘い、けれど清涼な香だった。子供は俯く。俯いてへの字の口を蠢かせ、耳を真っ赤にして、ようやく顔を上げた。
「でも」
吐く息のように声がか細い。
でも飛べない、と子供は続けた。殆ど音にならない声だった。若者が薄く笑う。
「神仏は、ひとを飛べるようには作らなんだ。そなたも私も飛べぬ」
身を引こうとした子供の腕を掴む。
「私は天狗になりたいと僧正に申したことがある」
「天狗?」
子供が怪訝な顔をした。周囲を取り巻く大人達はしわぶき一つ立てられずに若者と子供を見ていた。さらさらと風だけが囁いて楓の葉が散る。
「絵巻をな、見せて戴いたのだよ。天狗は御仏の遣いをするのだ。背に小さな羽根を持っておる」
「はねを」
「聞けば条件を満たすと天狗になるのだそうだ。そなた試すか」
身軽で聡いそなたなら、ありえぬでもないぞ、と囁くと、若者は振り返って「たれか」と声を上げた。明朗な声が響く。「私の高下駄を持て」
「殿下! このような河原者に」
色めき立ったもののふが制すのに、若者は細めた目でそれを遮った。視線一つが強い。
「河原者というは、今上のものであろ。であるなら、私のものでもあろうに」
「それ、は」
子供は腕を掴まれたまま、呆けたように若者を見ていた。この美しい若者が、いったい何を言っているのかは定かでなく、しかし己がそこに絡め捕られていることはわかる。
「そなた腹は減らぬか」
問われて子供は顔を赤くする。ぐぅ、と代わりに子供の腹が応えた。すまぬ、と若者は目を伏せ、またぱちりと檜扇を鳴らす。
「この都の有様は、ひとえに我らが不甲斐なき事の現れぞ。都中を戦で荒廃させながら、己は高見の見物とは、許されることではあるまい。父帝も私も何もままならぬは、神仏がくだされた罰なのであろう」
「かち様」
子供の父親が首を振る。青ざめていた。武士共は聞かぬ顔で目を逸らしている。若者の笑みが淋しげに翳った。
「どうせ罰なら、吾が代にはすべてを私が引き受ける故、そなたらが飢えずとも良い方策を与え給わぬものか──仏が誠、衆生を救い給うのであれば、神罰は私が受ける故……」
若者は檜扇を袂に挿し、代わりに懐から小さな布袋を出した。掌に収まる飴色の絹織物のそれを子供に握らせる。
「このようなものでも、慰めにはなるやもしれぬ。軟落甘という。少しだがあとでお食べ」
微かに笑んだ、その笑みに子供は小さく頷いた。カラコロと木片の打ち合う音が聞こえて、若者は立ち上がる。振り返った先、高下駄を下げて立つ女房に「すまぬな」と声を掛けて受け取った。つと考えて扇の房を外し、紐を下駄の緒の片方ずつに結び付けると、繋ぎ合わされた下駄の紐を子供の首に掛けた。
「天狗はな、高下駄を履いているのだ。そなた、これを履いて飛ぶが良い」
子供は目を丸くして自分の胸元で揺れる高下駄を見下ろす。一本歯のそれは、どう見たところで巧く立つ事さえ難儀なように思われる。しかも大きい。これを履けるようになるまでに幾歳が必要なものであろう。
若者はそれを見てまた小さく笑い、それからようやく子供の腕を掴んだ手を離した。
「また来よ。私の名を出せば表から入れるように触れをしておこう」
「──かちさま」
「そうだ」
若者の白い指先が子供の頭を撫でる。子供は香を嗅ぎ、一瞬躊躇ってから、そのまま踵を返した。駆け出し、にわかに膝を撓めたかと思えば、一度塀を蹴っただけでもう塀の上にその身を翻らせている。武士共の驚嘆の声を貫いて、若者の声が凛と響いた。
「必ず、来よ。私のじこぼう」
子供はうずくまった姿勢のまま振り返る。高下駄の片方を握って眺めた。彫り込まれた十六葉八重表菊の紋。ひらりひらりと楓が舞う。秋の空が──高い。
「おいで、必ずだ」
声の主を一瞥し、その足元で這い蹲る己の父親を見下ろした。一拍。子供は背を見せる。そのまま飛び降りて消えた。カランと下駄が鳴る。
ジコ坊は下駄を揃えて土間に置き直した。エボシは下駄から目を離さぬ。
「これはなァ、さる高貴なお方からワシが下賜いただいたのよ。実は血の繋がりがあってな、ワシの母親は御奉仕していた宮中から厄介払いされた時には既にワシを身籠もっておった。流行病で呆気なく死んでなァ──」
ニィ、と笑んでジコ坊は杯を取った。一息に呷る。
「と、言うてもお主、信じぬであろう」
「信じると思うてか」
ハッハ、とジコ坊は声を上げて笑った。柔和な満面の笑みで酒を注ぐ。
「信じられてもコトだわい。マァ下賜は真よ、河原者のワシなんぞにな。やんごとない方のお考えはワシにはチィとも分からん。裏切るなよとの枷代わり、それとも戯れ。どっちだったところで同じ事よ、ワシはワシの思うようにしか動かんわい」
「だがその紋、天朝様の他に許される物ではあるまい」
「ほーう、流石に知っておるか。そらそうだわな。まあ、かち様がこれを下すったは、気紛れだったろうが……お陰でワシは腹に消えぬ傷まで拵えたわい」
「かちさま」
「身罷られたのよ」
飄々とジコ坊は言って左の脇腹を撫でさすった。もう片手はまたもや酒を注いでいる。
「先の歌はな、かち様の歌よ。御父上の御葬送もひと月以上も出来なんだ貧しい貧しいやんごとなきお家、というのも実に侘しいものだぞ。かち様は先の乱以降、何もかもがままならぬとお嘆きだった。お主のように出来たなら、あの方も少しは愉快に生きたやもしれんが」
「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ──」
エボシの声にタン、と音を立ててジコ坊は杯を置いた。酒で濁った目をぎょろりと蠢かせてエボシを見、歯の欠けた洞穴の大口で辺りを呑んだ。灯明が揺れる。
「西の古い神の首を望んで、結局はなぁんにもなりゃせんだったのだと、罪だけを見てそれを嘆くはかち様の御勝手だが」
ワシはなぁんにもなりゃせん事になぞ命掛ける気はサラサラない。
「だが死んだのだろう」
エボシの声は冷えている。ようやくジコ坊が溢れさせた杯を取った。指先が濡れる。口をつけ、片眉を跳ね上げて杯を掲げた。
「死しては何を成すもない。身の罪を覚悟の上であったは天晴れとでも言うべきか? 馬鹿馬鹿しい」
「かち様は信心深い方でな」
ジコ坊がエボシの目を覗き込む。神も仏も何ほどもないと口にして憚らぬ女傑の目は、ジコ坊の記憶の中の貴人とはやはりまるで違う。
「そうでなけりゃぁ大陸から押し寄せた師匠連の師匠達が取り入る隙間もありゃしなかったろうが、呆れた事に本気で衆生の救済を思う方だったのよ」
「それが何をどうしてシシ神の首を欲しがる」
エボシの声は更に冷えた。掲げた杯を干して身を乗り出し、ジコ坊を睨めつける。ジコ坊が笑みを深くした。
「ホォ。エボシ御前ともあろう御仁が知らぬと言うか。おぬし、石火矢衆から二人ばかり唆したろうに。てっきり彼奴らからおぬしの耳にも入ったとばかり」
エボシは眉をひそめた。素知らぬ顔で杯に酒を満たし、そのまま煽る。
「良い良い、咎めているわけじゃぁない。ワシにとってはどうでもいい。石火矢衆なんぞ、あれは師匠連からの借り物で、ワシの手駒というわけじゃないからな。おぬしの配下として草になったとて、ワシには何ら関わりないことよ」
見抜けぬ師匠達が間の抜けた事だとは思うがな。
エボシは目を眇める。部屋の隅、文箱の中に重ねた書状の中に、確かに心当たりがある。持ち戻ったそれを差し出した石火矢衆の男は、涼しい目元の縁を赤くして詫びた。師匠連は、半島の古い国の末裔が主だった構成の、仏の教えをと掲げる怪しげな連中であると、結局のところ分かったのはそれだけで、それ以上でも以下でもない。ただ、製鉄にも石火矢にも精通しているようだと、それだけが確かだった。
──貴女の理想に力を貸したい。
聡明な目をしてそう申し出て来た石火矢衆の男は、アシタカに命を救われた男と二人、実に良い働きをするが、その彼らをして自分達を動かしていた物の正体を知らずに居る。大きな世界とは、それこそ物の怪と魑魅魍魎の世界だ。帝が神仏に傾倒するは分からぬでもないがしかし。
──アシタカ殿は、不思議な方だ。神仏というなら、あの御仁こそがそうであるように思われます。
アシタカに命を救われた者が言えば確かに説得力はあった。奇妙に澄んだ目をした、北から来たのだという青年。山犬の娘を連れ出さんとたたら場を去ろうとした際には、大の男が十人掛かりで上げる大門を片手で押し上げたのだと、もう一人も感嘆した。
──師匠連より帝より、アシタカ様こそが神通力をお持ちなのでは。
かもしれぬし、そうではないかもしれぬ。エボシにとっては、それこそどちらでも良い。ただ、アシタカは利害では動くまい。ジコ坊とも、周防とも出雲とも違う──。
エボシの視線は彷徨った。書状というならもう一通。成る程確かに周防の大内が寄越した知らせには先帝の崩御と、それに伴う新帝の践祚が記されてはいた。ジコ坊は、御所に出入りが可能なのだろう。でなければどこからそれを知る。しかも。
──身の罪を 写すかがみは
「天朝様の罪で衆生が病み、貧しき生活をすると仰せか」
「少なくとも、かち様はそうお考えだったろうよ。疫病が蔓延するは吾が罪ぞと仰せになって御自ら写経をなすったと言うからな」
シシ神の首を欲されたはその前触れの頃よ、とジコ坊は片眉を跳ね上げた。御自分の余命も御存知だったかもしれんなァ。
ジコ坊の目は灯明の先の何かを見ている。何かは分からぬその闇から、懐かしき清かな声がする。
ジコ坊、と変わらず涼やかな、しかしゆたりと重くなった声が呼ぶ。もう飛べるようになったか。羽根は生えたか。──ジコ坊、民はいつまで苦しむのであろ。私が──私が一切を引き受ける故、永劫に、引き受ける故──
「永久の命が欲しかったかち様の、本当に欲したはそれではなかったとワシは思うが」
「では何だ」
エボシが低く投げ掛けた問いに、ジコ坊はぴしゃりと己の脇腹を叩く。
「かち様が身罷られて、践祚なすったさと様がな、ジコ坊、ジコ坊とワシに言う。二代引き続いて葬送もままならぬは、やはり神罰だろうかとな」
「さと、様」
「幼き頃よりかち様によう似て、涼やかで聡明なおのこよ。ワシの事を気に入っておいででな。そうなりゃワシとてまんざらでもない。かち様のように、即位礼まで二十年も待たせるような事はあってはならんとくらいは思うわい。周防の大内には、金を出させねばならん」
「そなたが大森の銀山の話に乗ったは、さと様とやらの為だったか」
ぴしゃり、とジコ坊は己の額を手で叩いた。「さァてこれもそれも、ワシが言うたとてそなた信じるか」と嗤う。エボシは全ての興味を失ったように、するりと肩から力を抜き、杯を取った。
「神も仏もあるものか、結局のところはそなたのような、ああ、そなたのような何者でもないものが、かち様とやらもさと様とやらも」
救うのではないか、という言葉が零れ落ちる前に、ジコ坊は立ち上がって下駄を履いている。脇腹をさすりさすり、ニィ、と笑んだ。
「ワシもおぬしも、ばかには勝てん」
おぬしも同じではないか、あの赤シシに乗る若者に、何を見ておる。
ゆらゆらと左右に短躯を揺らしてジコ坊がくぐもった笑い声を漏らす。エボシが杯を干す。音を立てて置かれた杯と同時に、ジコ坊がひょいと跳んだ。高下駄が大きな音を立てる。エボシの視線の先、既にジコ坊の姿は気配さえ消えている。
「──さもあらばあれ」
カラン、と下駄が鳴った。
子供は慌てて高下駄を拾い上げた。突き飛ばされた弾みで打ち付けた左の脇腹が酷く傷む。破れた板戸に叩き付けられた脇腹は、折れた板で抉れたに違いなかったが、それより高下駄を奪われる事の方が問題だった。
「お前のような子供が持っていて何になる」
「寄越せ」
取り囲まれて、子供は俯く。襤褸を纏った男達の顔は薄汚れて生気がなく、しかし目ばかりが異様なまでに熱を持っている。身を固くしながら、子供は耳朶の奥で涼やかな声を聴く。
──そなた、これを履いて飛ぶが良い。
あの高貴な若者はばかだ。ひとは飛べぬと自分でも言いながら、そんな事を言ってこれを寄越した。何がじこぼうか。勝手に名を付け、勝手に己の物だとのたまえるのは、己がただ人ではない事を知っているからではないか。
「おい、懐に入れているそれも出せ」
小袖の襟を掴まれて引き摺られる。都大路を、しかし止めに入る者は誰もない。子供は身を丸める。かちさまがくだすった下駄と美しい小袋を、奪われるのは嫌だった。ああ、だがやはりかちさまはばかだ。こんなものを自分のような子供が抱えて歩けば、どうなるかわかりもせぬのは、なるほどひとつも、本当にひとつもあの方は、この世界を御存知ない。荒れた都を嘆きながら、本当には何ひとつ御存知ない。
「強情な小童めが」
蹴り飛ばされる。目が回り、足元が消失した。天地が逆さになり、戻り、背中から強かに転がり落ちる。悲鳴さえ出ない。引き起こされ、懐から引き出された小袋に咄嗟に飛びついて奪い返す。脇腹が痛い。ちらと見えた衣は己の血で染まりつつある。
「この」
叩き落そうとする男達の手に噛みつき、闇雲に暴れた。これは自分の物だった。かちさまが──強い目をした、真っ直ぐな高貴な方が、ばかなあの方が、くだすったものだった。
どのくらい、そうしていたかわからぬ。
ふと気付けば、夕闇を仰いで呆けていた。カラン、と耳元で風に煽られた下駄が鳴る。路地の片隅、仰向けで大の字のまま、身動きも出来ずに天を仰いでいる。あべこべに空に落ちていく心持ちに身を竦めた。
──飛ぶが良い。
視界がぼやけた。伸ばした手に、何かが触れて痛む首を振り向ける。甘美な香りが瞬間立ち昇って消えた。美しい絹織りの小袋。口が開いて、白い何かのかたまりが零れている。
──軟落甘という。少しだがあとでお食べ。
土に塗れたそれを血と泥で汚れた手で握った。粉を固められているらしいそれを口に運ぶ。切れて腫れた唇をようやく開いて口の中に押し込んだ。……なんの味もせぬ、思った瞬間、じわりと甘みが広がった。ほろほろと、粉が解れて口の中で溶ける。……甘い。口を蠢かせる。じゃり、と砂と共に噛んだ。眦からつと零れ落ちたものがある。
天が高い。どこまでも、高い秋の空だった。己はこの空を、何処までも落ちて行くのだろう。その先に、神も仏も一切の何も、ない事を知りながら、行くのだろう。美しい庭も、美しいひとも、何もかもが遠い遠い果てにある。
どこかでカケスがジャー、ジャーと喧しく啼いて──消えた。
《了》
【後柏原天皇】
大永6年(1526年)4月7日、崩御。享年63。諱は勝仁(かつひと)。
応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかったという。

