鈍色の標的

[SHERLOCK]

 

03 Baker Street

 アンシアの細い指が一枚のカードとキーホルダーを差し出した。シャーロックがそれを受け取るのをジョンは顰め面で見守る。手持ち無沙汰に腕を組み、背後の建物を見上げた。周囲と同じく五層、あるいは六層に積み木が重ねられたような規則正しい直線の連なり。左右に視線を振るとゆるやかに高さを変えながら似たような建物が連綿と続く。どれも古くからあるゴシック様式と現在の無機質さを融合させて如何にもロンドンの表通りらしい風景といえた。
 リージェンツ・パークの南に位置するパーク・ロードとの交差点が北端になっているベーカー通りは、ウィグモア通りとの交差点を境にオーチャード通りに切り替わり、オックスフォード通りで終点になっている。ロンドン随一の繁華街であるオックスフォード通りから続いている事からも判るように数多の商業施設がひしめき合う華やかな通りだ。221Bに居住している事から見慣れたこの通りの、しかし六四番地には今まで足を踏み入れた事はなかった。
 ジョンが見上げたのはその六四番地の建物だ。グランドフロアに「The Lighting Store」という照明器具の店舗が入っている建物は、見上げて数えた限りでは五階建てで、住所表記を見る限りは六二番地から六四番地までを有している。
「じゃあ」
 アンシアの声に振り返った。謎めいた美女は艶やかな笑みを残して車に戻って行く。シャーロックを見上げると、既にアンシアを見てもいない探偵は渡されたプラスチック製に見えるユニオンジャックカラーをした名刺サイズのカードを目の高さで確認していた。
「何のカードだ?」
「セキュリティ」
 短い返答に肩を竦める。背後では、役目は終わったとばかりアンシアを乗せたジャガーが滑り出て行くところだった。滑らかな動きは最早車というより確かにしなやかな猫科の獣を思わせ、確かにあれはジャガーという名に相応しい乗り物だ、という感想一つ、ジョンは闇に溶け込む黒塗りの高級車を見送った。
「行くぞ、ジョン」
「待て」
 既に周囲の店舗は全て営業を終了している。街灯と、少なくなった車のヘッドライトだけが夜を照らす街中で、シャーロックは狩りを始めようとしている。だがジョンには獲物が何なのか、フィールドが何処なのかさえ判然としていない。挙句自分の得物も手の内にないとなれば、ナイトサファリの随行は御免被りたかった。
「行く前に、説明しろ。僕は何をすれば良い? 今から何がある」
 夕方以降、余りにも目まぐるし過ぎる。シャーロックに見えているらしい何もかもが一つも見えない自分に、出来る事があるとは思えなかった。
 シャーロックが振り返る。小さく笑みを翻らせた。
「中で話す。行こう」

 

 兄の依頼を引き受けた、とシャーロックは言った。
 「The Lighting Store」の向かって左横、建物への白い扉は周囲を磨き上げた石のアーチで囲まれている。その右手側に、濃い緑の円形のプレートが掲げられていた。
特殊作戦執行部SOEの記念プレートだ」
 ジョンは街灯の明かりを頼りに目を眇める。プレートの最下部、ポートマンエステイトの名が見えた。どうやら所有はポートマン財団らしい。ロンドンの一等地を統べる四大家のうちの一つだ。確かにオックスフォード通りやベーカー通りの大半はポートマン子爵が所有し、開発している。歴史的な事実をプレートに刻んで残すのも、彼ら名家の務めではあるかもしれない。
「一九四〇─一九四六……ここは特殊作戦執行部Special Operations Executiveだった、か」
 読み上げたジョンにシャーロックが重ねる。
「第二次世界大戦下、ドイツ軍を筆頭にした枢軸国家によって欧州は占領され、大英帝国の誇る対外秘密情報部、君の拘るところのMI6の欧州支部は壊滅状態だった。そこで新設されたのがSOEで、ここにはその本部が設置されていた」
「存在は知ってたけど、こんな身近にあったとはね」
 軍に所属していたところで、流石に第二次世界大戦当時の内情についてまで知識を豊富に与えられるわけじゃない、とジョンは内心に思う。シャーロックのこの知識はどこで得られているのか。彼の兄、あるいは両親。英国政府そのものだというマイクロフト・ホームズならば、確かに英国の長い歴史の全てを把握し、記憶しているかもしれない。
「SOEはそれまでの情報部同様、強力な情報収集を行ったが、同時に地下闘争を遂行する為の初めての国家組織だった。全く新しい形の情報部門だったと言って良い」
 澱みなくシャーロックの言葉が続く。枢軸国家の支配に抵抗するレジスタンス・グループへの支援を含めた工作を行い続けたSOEは大戦の終結と共にその役目を終え、同時にSOE本部は速やかに解体された。プレートに刻まれているのはその端的な説明だ。
「通常時に戻ってしまえば、情報局秘密情報部SISないし情報局保安部MI5で事は足りるからな」
 シャーロックの言葉にジョンはプレートを見詰めたまま頷いた。要するにここに存在した組織は、戦時下の臨時的な存在だったというわけだ。
「それは判ったけど、で、こんな所で僕らは何を?」
「兄の依頼を引き受けた、と言っただろう」
 シャーロックはウィンク一つ、手にした鍵で事もなげにエントランスの扉を開いた。白く美しい扉は主人を迎える恭しさで開かれ、奥の重厚なオークの扉に向けて即座に眩い明かりが灯る。
「上階へ」
 言ってシャーロックは大股にエントランスを抜けた。光に溢れるエントランスは何もかもが白い。地中海の白亜の建物というなら優雅だが、人工の光のせいか、どこか病的な印象を受けてジョンは首を竦めた。こんなエントランスに迎えられる建物には余り住みたいとは思えない。慌てて後を追うジョンの背後、白い扉がカチリと音を立てた。オートロックになっているらしい。
「ジョン」
 奥の扉を押し開きながらシャーロックが振り返る。大股に追い着いて扉を潜ると、その先は長い廊下になっていた。石造りの豪奢な壁に点々と明かりが灯っている。足元はやや毛足の長い重厚な暖色の絨毯が敷かれ、足音は響かない。古い建物だが、最近になって手が入れられていると一目で判る作りだった。
「上って?」
「最上階だ」
 シャーロックが指先で鍵を振る。ごくありふれた真鍮の鍵だ。その鍵で入る事の出来る場所がこの建物の中にあるという事だ。その位は推理以前の問題でジョンにも容易く判る。だが最上階だ。五階まであったな、と思い返して一瞬うんざりしたが、廊下の最奥はリフトホールになっていた。助かった。階段を上がれと言われるのはぞっとしない。
 シャーロックがリフトの呼び出しボタンを押すのを横目にしながら、ジョンは「それで何だ、依頼を引き受けたって、どうして」と強引に話を引き戻した。微かにリフトの動き出したらしいモーター音が響く中、ジョンは声を潜める。
「話だって聞かなかった癖にどんな風の吹き回しなんだ?」
 マイクロフトは喜んだかもしれないが、と頭の片隅で考える。だからこそ、スコットランドヤードに迎えの車を回すなどという事もしたのだろう。最も、彼が弟に施すのはいつだって破格の扱いではある。弟の側がそれを望まないどころか頑なに拒否しているだけだ。それが普段とはあべこべに要求して来たのだから、兄がそれを拒む理由など一つもあるまい。
「まあ、聞かないって言った割には僕がお兄さんの話を聞くのは止めなかった。つまり君もつべこべ言いながら聞いてはいたんだろうが」
 言いながらジョンはリフトの扉の上部を見る。普通ならそこに階数表示があり、現在リフトが何階を通過しているのかが見て取れるようになっている。だが、どうやらこのリフトホールにはそんな親切な設計はないらしかった。確かにグランドフロアを含めて六層しかない建物には不必要なのかもしれない。一基しかないリフトでは、いずれにせよ目の前で扉が開くまでは乗り込む事は不可能だ。大人しく待っている他はない。
「兄の依頼はなんだった、ジョン」
 シャーロックがジョンの言葉の切れ目に差し挟んだ声にジョンは視線を戻した。少し考える事になったのは、ここ数時間の出来事が多過ぎたせいだ。マイクロフトの言葉など、随分昔に聞いたきりのような気さえしてくる。
「ええと、行方不明の諜報員を探して欲しいっていうんじゃなかったか? 名前は……あー」
「イアン・モーム」
 シャーロックが言うと同時にホールに一つ明かりが増えた。階数表示はないが、リフトの上部中央に正方形の明かりが点っている。リフトが到着した事を知らせるパネルだった。静まり返ったホールに僅かな音が響き、リフトの扉が開く。思った以上に広いリフトに少し驚いた。これなら少々の大きさの家具があっても容易に上階まで運び上げられるに違いなく、無論その為にこそこのリフトの大きさは選択されたのだろう。リフトに乗り込み、シャーロックが最上階のボタンを押す。滑らかに扉が閉まった。
「イアン・モームは任務遂行中だったが定時連絡が途絶えた。使用している筈の車輛も全く動かない。それで兄は僕に探せと言って来た」
 動き出したリフトと同時にシャーロックが説明を再開する。ジョンは頷いた。
「なんで急に引き受ける事にしたんだ?」
 シャーロックは横目でジョンを見下ろした。何かを確認する目だ。つまり自分が何かを見落としているのだろう、とジョンは瞬時に理解したが、何を見落としているのかは判らなかった。少なくともジョン自身は探偵ではなく天才でもない。
「シャーロック、僕は千里眼じゃないし君の心も読めない」
 シャーロックは面白くもなさそうに肩を竦めた。素っ気無く言う。
「君がサリーを追い掛けてレストレードの執務室から出た直後、思い出したんだ。ああ、僕とした事がもっと早くに気付くべきだった。こんなに簡単な事を見落とすとは、どうやら退屈が過ぎて僕のこの優秀な頭脳も錆び付き掛けていたんだろう。全く馬鹿な話だ。即座に気付いてしかるべきだった。何で急に兄の依頼を引き受けたか? 簡単な事だ。本人に会った。理由なんてそれだけで充分だろう。探せと言われて見付けた以上、知らせるくらいは僕だってする。マイクロフトに恩を売っておくのは悪くない」
 ジョンは目を見開いた。マイクロフトに恩を売ろうというのは如何にもシャーロックらしいが問題はそこじゃない。本人に会った?
「いつ!」
「君も会っただろう」
 当然のようにシャーロックはそう言った。思わず息を呑む。ちょっと待ってくれ。
「まさか」
「そのまさかだ」
 リフトが停止した。開いた扉からジャケットを翻して出て行くシャーロックの後に慌てて続く。グランドフロアと同じくカーペットの敷かれた廊下は天井の淡い間接照明と足元のフットランプだけで酷く暗い。壁はコンクリートで塗り固められただけの打ちっ放しで、ここがかなり最近手を入れられた場所だというのは明白だった。ゴシック調の時代にこんなモダンな建築技法はない。シャーロックはその壁に挟まれた廊下を大股に歩いた。最奥まで突き当たると右に更に廊下が伸びて、その壁に三つ、重厚な黒い扉が見える。恐らくは金属製なのだろう重々しい扉は細い銀のラインが刻まれた如何にも洒落たデザインだった。何処にも部屋番号などの表示はなく、かと言って店や事務所の看板が掲げられているわけでもないそれは高級ホテルの廊下を歩いた時に受ける印象に良く似ている。深夜である事も手伝って一切の物音が聞こえないのもその印象を強調して、この建物は他の階もこの調子なのか? という疑問一つをジョンに抱かせた。
「シャーロック、ここは?」
「ああ、心配するな、誰も住んでない。以前に兄のオフィスのデータをハッキングした時にここの事を知った。水を向ければ案の定、あっさりと認めたからそれほどの情報レベルじゃないんだろうが、限りなく最高機密に近い。ここにそうそう人は入れない」
 限界まで声を潜めたジョンにシャーロックはさらりとそう告げた。何をどこまで承知の上で行動しているのかジョンには見当も付かないが、少なくともシャーロック自身はこの場所を見知っているらしい。動きに迷いはなく、そのままつかつかと歩み寄ると真ん中の扉を仔細に眺め始めた。四隅を確認し、隙間を確認し、鍵穴を除き、ドアノブを眺めてから一つ頷く。そのまま手元の鍵で開錠した。深夜に誰かを訪ねるような態度ではないから無人であるという言葉には納得したが、いずれにせよここに何の用があるのか、マイクロフトの依頼と何の関係があるのかは不明なままだった。
「シャーロック、頼むから僕にも判るように説明しろよ」
 シャーロックは答えない。まるで勝手知ったる我が家のように室内に踏み込み、そのまま奥へと歩いて行く。ともかくジョンは疑問を抱えたままシャーロックの後ろに続く他はなく、中へ入ってみれば、そこはやはり豪奢な高級ホテルのスイートルームを思わせる造りをしていた。自動的に灯るよう設計されているのか明かりが即座に点った。抑えた照明が年代物のキャビネットや磨き上げられたカウンター、その背後のバーカウンターなどを照らしている。足元は毛足の長い絨毯、入るなり置かれているのは大きなテーブルで、それには純白のクロスが掛かっていた。その奥にソファセット、その向こうは天井まである窓で今は濃紺の豊かなドレープが広がるカーテンで覆われて外の様子は見えない。位置関係的には眼下を見下ろせばはベーカーストリートの筈だ。左手の短い廊下の先には壁には扉があるからまだ先に部屋があるらしい。右手のガラス扉の先はどうやらバスルーム。それだけを即座に見て取って、ジョンはいぶかしげに瞬いた。
「なんだ? ここ」
 マイクロフトの別邸だ、と言われたら即座に納得出来るような部屋だった。全ての調度品が高級である事を控え目に主張して、こんなところで生活すれば王侯貴族の気分を味わえるに違いない。だが、シャーロックは足を止め、振り返って「ジョン」と呼ぶと「消すぞ」と宣言していきなり照明を落とした。壁にスイッチがあったのか。ジョンは思わず暗闇で立ち尽くす。ややしてシャーロックがいつの間に用意したのかフラッシュライトを取り出して点灯した。わざと手で覆って光が拡散し過ぎないように調整しているシャーロックの下にジョンは歩み寄る。
「どういう事だ、何で消す? 誰もいないんじゃなかったのか」
「誰も居ないが誰か来る可能性はある」
 思わず背後を振り返った。来る? 何が、誰が。思わず声を潜めた。
「今から何が起こるんだ」
「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」
 全く判らない。仕方なく具体的な質問に切り替えた。シャーロックの手の中の黒い高級フラッシュライトをを覗き込む。眩しい。軍や警察で採用されているものだ。長さは手指を一杯に広げた程度、ボディ径は一インチ程度しかないが100ルーメン以上の明るさを誇る。シュアファイア社の物が知られているが、今シャーロックの手元にあるそれがそうかは判らない。
「それもマイクロフトに用意して貰ったのか」
「いや、さっきレストレードのところから失敬して来た」
「は?」
 いつの間に。どういう事だと言いそうになってジョンは口を噤む。そういえばレストレードの執務室、座らされたソファの前のローテーブルに確かにフラッシュライトが置かれていた。そう、何故かカスタネットと、テレビのリモコンと一緒にだ。シャーロックの手癖は悪い。レストレードの名刺や身分証明書を「腹いせに掏った」と言ってこの男が何枚も所持しているのを思い出して天井を仰いだ。途端にシャーロックがふんと鼻を鳴らし、ジョンの目の前に手帳のような物が突き出された。
「なんだ?」
「君は今、僕の事を手癖が悪く、レストレードの身分証明書を掏ったりするのは日常茶飯事だが、こんなものまで、と思っただろう」
「思ったからどうしたって……これまさか」
 シャーロックは面白そうに片眉を上げた。ジョンのポケットに手の中の物を捻じ込む。
「僕は沢山持っている。君に進呈しよう」
「レストレードの身分証かコレ!」
 慌ててポケットから引っ張り出した。広げたそれにレストレードの顔写真を見付けて虚しく口を開閉する。僕は沢山持っている? こんなものコレクションするな!
「おいシャーロック!」
「返したければ君が返すと良い。僕を退屈させた腹いせだ」
 何かを更に言おうとして諦めた。言うだけ無駄、とはこの男の為にあるような言葉だ。身分証にせよライトにせよ、まあ少なくとも高性能懐中電灯の一本や二本を盗まれる程度でスコットランドヤードが傾く事はないだろう。高いものなら千ポンド以上の値段がするなどという事は今は気にしない事にするべきだった。
「……クソ、とやかくは言わないけどなシャーロック。別に僕はそれを許容してるわけでもましてや褒めたりなんか絶対しないからな?」
「それは残念だ」
 褒められると思っていたのか? 脱力して肩が落ちる。一つ息を吐いて、それでもジョンは気を取り直して手を振った。
「シャーロック、その手のフラッシュライトなら、多分調光出来るはずだ。出来ないか?」
 手で覆って調整しているシャーロックに言うと、やがて手元で何らかの操作が行われたらしい、強い光は弱まり、シャーロックが「ほう」と感嘆の声を上げた。
「こういうものに関してはやはり君は詳しいな」
「医者だし、軍人だったからね」
 ジョンは首を竦める。フラッシュライトは軍では必需品であり、医者としても頻繁にお世話になる。探偵もそうなのではないかとは思うが、この手の機器については知らなければどうしようもない機能が沢山あるから、シャーロックが気付かなくても無理はなかった。しかもたった先程掏ってきたというなら、試してみる暇もなかったに違いない。
 シャーロックはフラッシュライトを構え、部屋の調度になど委細構わず真っ直ぐにその広い部屋を突っ切った。左手の厚い木の扉に手を掛ける。そのまま無造作に扉を開くと同時に口も開いた。
「先程の君の質問だが」
「うん?」
「ここが何処で何なのかという質問だ。君は答えを既に見ている」
 ジョンは眉を寄せた。ここはベイカー通り64番地だ。そして元SOE本部、現在は照明の店舗。他に何かあったか? 考えた通りそのままを口にしたジョンに、シャーロックは「それだ」と言った。
「それって?」
「SOE」
 短く言う。ジョンはへぇ、と頷き掛けて限界まで眉を寄せた。SOE?
「待て、それは一九四四年に解散したんじゃなかったのか?」
 たったさっきそう説明を聞いたばかりだ。プレートにもそう刻まれていた。
 シャーロックは扉を抜けて次の部屋に踏み込んでいる。その癖毛が揺れて、探偵は僅かに振り返った。細められた目は暗にそんな事まで説明させるのかという非難の気配を帯びていたがジョンは気付かなかった事にする。僕はシャーロック・ホームズじゃない。一からはせいぜい二か三しか判らないのだ。それが普通だろう。
「それは表向きだ」
「裏がある?」
「あるから、ここがある」
「こんな、まるでホテルのスイートルームみたいな場所が軍の秘密情報部?」
「普段は文字通りスイートルームのような使われ方をするらしいからな。秘密裏にロンドン入りした要人の一時避難、あるいは保護対象の情報提供者の為のシェルター」
 踏み込んだ部屋はベッドルームになっていた。クイーンサイズの──それも大きさから見て大陸サイズだ。イギリスの規格ならこれより三インチくらいは小さい──ベッドが二つ並んでいる。寝心地は良さそうだった。さぞかし良い夢が見られるに違いない。ああ、もう深夜も深夜、ここで眠れたならどんなにか、というささやかな願いは無論叶えられる筈もなく、シャーロックはベッド脇、クローゼットの最奥を開けた。呆れた事に、中に扉がある。
 ジョンは脳内にこの部屋の見取り図を描いた。入って正面が応接間のような部屋とバーカウンター、右手がバスルーム、目の前にはテーブルがあった。なるほどつまり、あの短い廊下の向こう側がこのクローゼットの扉から入る事の出来る部屋か。短いと言ったって10フィートくらいはあったぞ? 何もかもが桁が違うから短くは感じたが。
 シャーロックがカードを取り出し、扉の横のカードリーダらしきスリットに差し込んだ。一拍の間を空けてカチリと音が響き、扉がスライドして開く。中に踏み込んで、ようやくジョンは呆れたように言った。
「なるほど、秘密情報部みたいだ」
「みたいなんじゃない、そのものだ」
 部屋はそれほど広くは感じなかった。所狭しと機器や書類棚で埋め尽くされているせいだ。それでも恐らくは221Bのキッチンくらいの広さはある。まるで軍の作戦本部、あるいは電算室、でなければ移動指揮車内の様子をそのまま部屋に引き写したようだ、というのがジョンの率直な感想だった。壁にならぶモニタの画面や並んだデスクの機器類がそう思わせるのだろう。
 左手には窓、こちらはカーテンは掛かっておらず、木製のブラインドが半端に上半分だけ下ろされていた。街灯と通過する車のものらしき明かりが下からぼんやりと照らし上げて向かい側の建物の壁が浮かんでいる。それを見てようやく把握した。つまり、表の扉が並んでいるのはフェイクで、この階はワンフロア全てが内部で繋がっている。でなければこの広さは確保出来まい。
 シャーロックは当たり前のように一台のモニタの前に腰を下ろした。仕方なくジョンもその背後のチェアを引いて座る。シャーロックの手元から無造作に抛り出されたフラッシュライトを取り、窓から光が漏れないよう床に向けた。これも暗黙の呼吸と言うのだろうか。ジョン・H・ワトスンの今の役割はとりあえずシャーロック・ホームズの助手なのだろうが、探偵は具体的な指示を一つも出さない。いつもの事だ。
 横目でシャーロックの背中を見る。部屋は暗い。この距離だから見えているが、少し離れればどこに誰がいるのかなど即座に判らなくなるだろう。それでもフラッシュライトの光が巧く間接照明状態になり、シャーロックの手元は完全な闇にはならずに済んでいる筈だった。今はこのくらいしかしてやれる事もない。
 シャーロックが電源を入れてコンピューターは息を吹き返し、再びアンシアから渡されたカードをスリットに差し込んで、シャーロックは何事かをキーボードに叩き込み始めた。モニタの明かりでシャーロックの顔が青白く浮かび上がっている。タイピング音だけが響く。余りの速度に何を入力しているのかジョンにはまるで判らない。ブログを書く時ですら両手の指は一本ずつしか使わないジョンには遠い世界だ。これじゃ探偵か間諜スパイみたいだ! ……勿論冗談だ。
「シャーロック」
 邪魔だろうか、と一瞬考えたが直ぐにその遠慮を投げ捨てる事にしてジョンは身を乗り出した。どうせシャーロックは言いたい事しか言わず、自分の世界に没入すれば返事一つ寄越さない。耳障りならば即座に黙れと言われるだろう。
「なぁ、つまりその、マイクロフトが探してるイアン・モームは窓から逃げたアイツだって事?」
「他にない」
 シャーロックにはどうやらまだジョンの声が届いたらしかった。モニタから視線を動かさないまま言って、それだけでは足らないと珍しく考えたのか、そのまま続ける。
「ナイフを使っていた。銃でなくナイフなのは一般的に考えれば銃規制のお陰で銃が持てないという単純な理由だろうが、あの身のこなしから考えてもナイフの種類を考えても訓練された人間だとしか考えられない。だとすれば、敢えて銃ではなくナイフを使っていると考えた方がしっくり来る。では何故銃を使わないか、物音を立てられないからだ。ナイフなら巧く使えば無音のまま人を殺せる。そしてそんな訓練を受けている人間は気軽にその辺を歩いていたりしない。兄は諜報員が任務中に姿を消したと言った。ベーカーストリートに現れた人を殺す訓練を受けた人間。こんな偶然を僕は信じない。つまり彼はイアン・モームだ」
 その可能性は始めから提示されていたんだ、とシャーロックは言って小さく息を吐いた。
「が、まあレストレードも呼んでいたし、僕がそれ以上考える必要はないと判断したせいで完全に思考が完成しなかった。思い当たったのは君にも言ったとおり、君がサリーを追ってあの部屋を出てからだ」
「それでお兄さんに連絡したのか、君が、珍しく」
 言うと苦虫を噛み潰したようにシャーロックは顰め面になった。
「兄に協力するなんてのは実に気に入らないが仕方がない。マイクロフトが困るなんてのは僕はちっとも構わないが、君にナイフを向けた人間を放置するのも我慢ならない。もう一度捕まえようと思うなら、僕が動くのが一番早い」
「いやまあ僕は別にどうもなかったからそれは良いけど」
「良くない」
 うちの窓だってマイクロフトに弁償させてやる、元はといえばアイツの監督不行き届きが原因だ、とかなり無理のある屁理屈を堂々と言い放ってシャーロックはタン、と高くキーを叩いた。
「見ろジョン、これがイアン・モームだ。間違いない」
 モニタに写真が浮かび上がっていた。生真面目に正面を向いた顔は刈り込まれた短い髪の無表情で一見するとナイフを持ったあの男とは結び付かなかったが、確かに言われてみれば良く似ている。似ているも何も、本人なのだろうが。
「つまり、あの男はMI6の人間だって事」
「そうなるな。正確にどこの所属かと言われたらSOEかもしれないし今はそれもSOEとは呼ばれていないんだろうが」
「……つまり?」
「表には出せないような組織が秘密裏に存在するという事だ。マイクロフト自身がそうであるように」
 ジョンは唇を舐めた。モニタとシャーロックの顔を交互に眺める。007ダブルオーセブンのような世界は存在するのかと訊いた。フィクションと現実は違うとシャーロックは言い、しかし今、ジョンが直面している現実はどうにもフィクションじみている。自分は三大陸を見聞したが、やはりどう考えても世界を知っているとは言い難い。
「ここは閉鎖されなかったって事か」
「表向きは閉鎖され、秘密裏に規模を縮小して存続した。本部はなくなった事になり、しかし今もこのフロアは丸ごと全部英国政府の管理下にある。そういう事だ」
 かつてここにあったものならば、表向き消滅させておいて密やかに存続させる事も確かに容易いのかもしれない。新しく作り出して設置するより簡単なのだろう事だけはジョンにも想像が付いた。何かを新しく始めるのは難しくても、あるものを無くす事は酷く簡単で、その逆もしかりだ。
「イアン・モームはここに来るつもりだった筈だ」
 シャーロックは言って椅子ごとジョンに向き直った。モニタにはイアン・モームの写真の他、どうやらこのフロアの見取り図、ロンドンの幾つかの箇所に光点が灯った地図などが表示されている。なるほどやはりこのフロアは全体で一続き、出入り口は入って来た扉の他には、突き当たりの非常階段しかないらしい。ロンドンの地図の光点の意味は判らなかった。満遍なくあらゆる場所に散った光点は、しかしランダムであって何らかの法則があるとは思えない。
「怪我人で、諜報員である男が、たまたまベイカー街に迷い込んで来て君を襲った、と考えるよりは、ここへ来る途中だった、と考えた方が自然だ。出血が酷くて歩けなくなったか、倒れそうだったのかもしれない。221Bに入ったのは偶然だろうが目的地はベイカー街と考えた方がすっきりする。つまり、ここだ。何かの確認、あるいは物資の補充、意図的に消息を断っていたのでないのなら、今度こそ定期連絡の為かもしれないし、あるいは安全な場所というのにここを思い付いたか、そうでなければ一つの賭け。いずれにせよ、彼がここに現れる可能性はそれなりにある」
「だから来た? それ、マイクロフトには?」
「手掛かりになりそうだから鍵を寄越せとしか言ってない。確証はないし、兄にここを張り込ませるような人員を用意させるとイアン・モームは僕らの知らない間に消されるかもしれない」
「消される!?」
「声が大きい。今夜はここで張り込みだ。巧くすればイアン・モームは捕まえられる。ここはホテル代わりにもなると言っただろ。彼らはこのフロアに立ち入る鍵は持っている。但し、この隠し部屋に入るキーはイアンには渡されていないから、ここには入れない。覚えておいてくれジョン。つまり、僕らは外の部屋で待機、もし危険なようならここへ」
「いや、ちょっと待てよシャーロック」
 ジョンは慌てて手を振り回そうとし、必然的に取り落としそうになったフラッシュライトに我に返った。一つ大きく息を吐いて声を潜める。
「消されるってどういう事だ」
「何がだ。現状、イアン・モームは任務を放棄している。理由が兄にとって望ましいものでなかった場合、混乱を招かない為に処分される可能性はある」
「そんな非人間的な」
「君は『表に出ない世界はあるか』と言った。つまりそういう事だ。同じ事を何度も言わせるな」
 慄然とした。007ダブルオーセブンの世界。フィクションより現実の方が過酷で苛烈だと思い知った筈の戦場を経てさえ、自分はどこまでも想像力に欠けている。処分? 人間を? マイクロフトが?
 氷のようなマイクロフトの目を思い出した。冷ややかな目。冷酷、冷徹、どこまでもマイクロフトの視線は氷点下だ。それを自分は知っている筈だった。初対面のあの時、マイクロフトは自分を人知れず呼び出して対峙した。怖くはなかった。だが彼が彼のルールに従わない者に対してどこまでも非情になれる事は感覚的に理解していた筈だった。あの目はそういう目だ。少なくとも自分が知る限りは。
「だからって、ここで張り込むって、じゃあナイフ持ったあの男が来るかもしれないって事だよな?」
「そう言ってる」
「あいつが本当にMI6の人間だとして、人を殺す訓練も受けてるってそういう話?」
「厳密にはMI6ではないと言っているだろう。流石にMI6の人間は合法的な殺人なんて許可されてない。兄が僕の知らない間に法律を書き換えているなら知らないが」
「冗談言ってる場合か。だからこそ表に出ない世界って事だろ、そうじゃなくて!」
 そんなものを待ち受けるのか、ここで? 二人で? 丸腰で? 冗談じゃない。急激に冷えていく頭の一点を凝視してジョンは立ち上がった。フラッシュライトのスイッチを切る。シャーロックの前のモニタはまだ明るい光を放っており、それでも一つ明かりが減れば視界は半減した。怪訝な顔のシャーロックは白いモニタの光の中でたださえ白い顔を更に青白く染めて目を細める。ジョンはそれを無表情に見下ろした。
「まだそれ使うのか」
 それ、と言われた対象が自分の前のモニタに広がる文字列や写真だと即座に理解したらしいシャーロックが緩く首を振る。「いや、もう見るべきは見た」という言葉と同時に押し被せるようにジョンは「消せ」と押し殺した声を投げた。何者かの襲撃を予想している側がわざわざ目印になる光を灯す程に馬鹿馬鹿しい話は他にない。ましてや相手がその道のプロだというなら尚更だ。アフガニスタンでは、何の訓練も受けていないような人間が不意に一個の武器あるいは兵器と化して自分の命一つを捧げて米軍を、あるいは国際治安支援部隊ISAPを攻撃した。
「ジョン」
 殆ど吐息と大差ないような掠れた声でシャーロックが言ってキーボードに手を伸ばした。幾つかの操作が行われ、モニタを文字列が流れ始めると同時に「怖いのか」と尋ねられてジョンは失笑する。怖い。戦場が怖くない人間がいるだろうか。怖がらない人間はそれだけで死に近付く。今の所、ジョンに自分の人生を終わらせる予定などない。今夜のぐっすりベッドで眠るという予定はすっかり狂わされてしまったが。
「勇敢である事と無鉄砲は違うんだシャーロック。僕は不必要に自分や君を危険に晒したいとは考えない」
 小さく息を吐いた。唇を舐め、少し考えてから言う。
「ここに来たのがそういう目的だというなら、もう少し早くそれを説明しろよ。今更何も準備出来ない」
「準備? 何が必要だ。キーは僕が持っている」
「シャーロック、僕らは丸腰なんだぞ」
 逃げる男に咄嗟に向けた拳銃の重みが左手に甦った。あの重さが今こそ必要だった。だがそんな物はありはしない。221Bに置いて来た。何の為の拳銃だ。
「一言教えておいてくれればフラットに寄るなり出来ただろ」
 ああ、なるほどとシャーロックが頷いた。鷹揚なその仕草にジョンは眉を寄せる。銃規制の厳しいこの国で、それでも銃を保持しているのは身を守る為だ。こんな時に持ち出さずに何の為の銃か判らない。逃げる男に向かって発砲しなかったのも、直後に警察の人間が来ると判っている状況で銃の使用を知られるわけにはいかないと考えた為だった。殺されそうになっているというのでもない状況なら、足止めの為だけに苦労して所持している銃を手放す気はないのだ。そしてだからこそ、レストレードが到着すると同時に愛銃は再び引き出しに戻された。そこに銃がある事を知っているのは221Bの人間だけで良い。
 SIG SAUER P226。スイスのシグ社とドイツのザウエル&ゾーン社が合併したシグ・ザウエル&ゾーン社の最高傑作と謳われる拳銃だった。過酷な状況下でも確実に動作する精密さが売りで、各国の特殊部隊が制式採用している。当然アメリカなどで流通している銃やロシアやアジアのごろつきが所持しているトカレフに代表される粗悪銃に比べればとんでもなく高価な銃で、アメリカと違って規制が厳しく原則的に銃の所持が認められないこの国では一生お目に掛かる事がない銃の筈だった。だがジョンはそのP226を所持している。今のような場面で持ち出さずにいつ持ち出すというのだ。
「せめて身を守る為の準備は必要だって言ってるんだ」
 Ah、と感心したようにシャーロックは頷いた。
「君のP226」
 そうだ、と言おうとした瞬間、シャーロックの前でモニタが消える。処理が終わったらしい。一瞬の残光と共に、辺りは闇に包まれた。目が慣れずに、ジョンは手を伸ばしてシャーロックの腕を掴み、額を寄せる。目の前に、燐光を宿したようなシャーロックの瞳があった。
「あれがあれば、少なくとも僕は」
 守る事が出来る。どちらかを。自分か、シャーロックのどちらかを。最低でも、死なせずに済む。この手に銃があるのなら。
 だが、言葉はそこまでで中断される事になった。シャーロックが表情を変える。外部からの微かな光のみで殆ど見えないその表情を、気配だけで察してジョンは口を閉じた。息を殺す。音。微かな。
 シャーロックがジョンの握った手を振り解いた。そっとクローゼットに戻る。意味もなく目を凝らしてジョンはそれを追った。音。余りに微かな、軋むような音。扉の開閉。空気が流れる。伝わる筈のない振動が足元に触れる錯覚。誰かが、ここへ踏み込んだ。誰か。想定される対象は余りに限られている。
 シャーロックがクローゼットを背にして立った。ジョンはその隣で膝を衝く。敢えてクローゼットの扉は閉めない。物音を立てるわけにはいかなかった。クローゼット内の扉は闇に沈んで見えない。明かりさえ入らなければそのまま闇に溶け込んでいるだろう。
 毛足の長いカーペットは靴音を伝えない。だが、気配はあった。あるいは錯覚。だがシャーロックが同じ気配を相手に神経を集中しているのは判る。二人揃って錯覚に陥っているとは考え難い。誰かがいる。それは間違いがなかった。明かりが灯される様子がない事も神経を尖らせる。何かを警戒しているのでなければ、堂々と明かりを灯す筈だった。偶然こんな夜に限って盗みに入った悪党がいるとは思えない。ならばやはり、この気配の持ち主がイアン・モームである可能性は限りなく高かった。
 窓から差し込んでくる光は乏しい。街灯はこの階よりずっと低く、向かいのビルのライトアップは控え目だ。窓を背にして立てば影が天井に映るだろうが、無論そんな愚は冒さない。
 ジョンは目を細めた。シャーロックは気負いなくただジョンの右手に立っている。何らかの目算があるのかないのか。目を凝らして周囲を確認する。クローゼットの前はベッドだ。左手がこの寝室に入ってくる為の廊下で、何事もなければ侵入者はそこから現れる。通常、部屋に侵入する人間は当然ながら進行方向に注意を向けている。今のジョンやシャーロックの位置は死角になる筈で、間違いなく先に相手を視認出来るのはこちらだ。
 目が闇に慣れた。完全な闇でないからこそ、目が慣れる。室内の配置がぼんやりと浮かび上がる。ベッドの向こう、サイドチェア、テーブル、壁に付けられたシステムデスク、置かれた鏡、電気スタンド、花瓶、数冊の詰まれた書籍。壁に沿って更にくぼみがあるのは、あの向こうに非常階段に続くごく狭いホールがあるからだ、というのはイアン・モームの写真と共に確認済みだった。シャーロックは気配を殺して立っている。ああ、とジョンは思う。これは戦場の空気だ。肌が粟立ち、アドレナリンが体内を巡る。熱量の上がった頭の奥で、芯だけが酷く冷えている。
 最初に見えたのは窓からの僅かな光で作られた淡い陰影だった。それなりに大柄な男の影。目を細める。表情は見えず、しかし男が油断なく辺りを覗っているのは間違いなかった。動くか。捕えようとするならシャーロックと挟み撃ちにする必要があったが、この位置取りではジョンが男の背後に回らない限りそんな配置にはならない。
 だが、直後そんな目算は吹き飛んだ。不意に男が身を屈める様に引いてクローゼット方向に向き直った。目を瞠る。様子を見る、などという余裕は瞬時に消し飛んだ。咄嗟に身構える。男の姿が沈み、いきなり弾丸のように飛び掛られた。大きい。そのまま体当たりされれば押し負ける。
 シャーロックを背にする形になって、ジョンはともかく男に掴み掛かる体勢を取った。最低でも、自分が男を押し留めなければ話にならない。男がイアン・モームかどうかは判らなかった。だが。
「ジョン!」
 シャーロックが鋭く声を発し、ジョンは伸ばした両腕を男の手が叩き落すのに顔を顰めた。即座に逆手に取られ、そのまま足裏を狙って鋭い蹴りが叩き込まれる。一瞬の差で避けられずに激痛が走り、次に息を呑んだ時には床に頭を押し付けられて呻く羽目になった。
「誰だ」
 押し殺した、しかし冷静な声が低く問うて来るのに首を振る。無理矢理捻った頭で背後からシャーロックの姿が消えている事だけは確認した。どこに行った?
「SOEの人間か」
 落ち着き払って問いが重ねられるのに、ジョンは内心の焦燥を呑み込んで「そっちこそ」と言葉を搾り出した。相手の声には特徴がない。抑揚のなさは男の冷静さをそのまま形にしたような冷ややかさで、せめて男の顔を確認したいジョンの無理に上げた目に見えたのはわだかまる黒い影のみだった。足を足で封じられ、逆手に捻り上げられた腕がまるで動かせない状況ではそれ以上何をどうする事も出来ず、ジョンは唇を噛んで髪を床に擦り付けた。カーペットの厚みが柔らかいのだけが救いだ。
「そっちのアンタも、下手な動き方をするなよ」
 男は部屋のどこかにいるシャーロックにもそう牽制を忘れず、捻り上げたジョンの腕に力を篭めた。
「イアン・モームが応援を呼んだのか? 奴はどこだ?」
 イアン・モームじゃない? とジョンは目を眇めた。自分達はイアン・モームではないし、この男もイアン・モームではない。ならば、誰だ? イアン・モームと敵対している人間? だがSOEの人間でもないとなれば、マイクロフトの側でもない。
「僕は、ただの、医者、だ」
 無理に顔を上げて言った。捻り上げられた腕が痛い。軋んでいる。
「アンタこそ、どこの誰だ。何をしに来た」
 言い募った。返事は期待していない。単純に呻き声を上げない為の方策だった。口を動かしていれば無様な悲鳴や呻き声は上げる余地がない。多分。
「イアン・モームを探してるのか? 何故だ?」
 更に言った。相手がどこの誰とも知れない以上、余りこちらの情報を与えるわけには行かないだろうという冷静な判断一つ、だが相手の情報を得ようとすれば何かしらをぶつけるしかない当然の結論一つ、せめぎあったそれは実に半端な問いになって口から飛び出した。聞いているだろうシャーロックには失笑物かもしれない。というより、シャーロックが口を開かないのは何故だ? 自分の位置を悟られない為だろうか。
「アンタに僕が敵だって何で判断出来る。手を放してくれないか、結構痛いんだ」
 返事はなかった。代わりに腕を曲がるべきでない方向へと更に捻る行動に出た男にジョンは内心でありったけの呪詛を吐き掛けたが、ともかく歯を食いしばって口から何かしらが飛び出すのだけは辛うじて回避し、しかし反射的に身体が強張るのだけはどうしようもなく額に脂汗が滲むのに屈辱を感じて沸騰しそうな脳内を持て余した。どうにかしてこの体勢から逃れなくてはならない。
「人の、話、きけ、よ!」
「イアン・モームは何処だ?」
 知るわけがない! と怒鳴りたい気持ちがついに沸点を越えて、ジョンは後先も考えずに腹に力を入れた。それでも相手の両手が自分を押さえつける為に塞がっており刃物を持ち出すとしても時間差が生じるというささやかな計算だけは瞬時に働き、全身をバネにして跳ね起きたジョンは、直後に「左の腹だ!」と叫んだシャーロックの声を耳にして反射的に左腕の肘を後ろに叩き込んだ。手応えと同時に転がるように目の前のベッドに身を投げ出し、そのままベッドを滑り降りて中腰で振り返る。癖で腰に左手をやろうとして拳銃がない事を思い出し、天を仰ぎたい気分で身構えた。追撃はない。
「シャーロック! 何処だ」
 闇に目を凝らし、男の姿を探しながら怒鳴ると、思いがけず近い場所から「左半身、不自然に庇っている」と聞き慣れた低い声が頭上に降り注いだ。
「怪我でもしてるんだろう。フン、左の脇腹か。その部位に怪我をしている人間はこれで二人目だ。偶然か? まさか。そんな偶然は僕は信じない」
 ジョンは眉を寄せた。左の脇腹に怪我? こいつも?
「ジョン、無事か?」
「あ、ああ」
 僕はどこもどうも、と言いながら腕を擦って立ち上がる。男はクローゼットの前から動いていなかった。人型の闇が微動だにせずその場所にわだかまっている。シャーロックの言葉をどう受け止めたか受け止めなかったか、何一つ反応がないのはそれもまた訓練された人間を思わせる事だけは確かだった。こういう掴みどころのない反応を知っている。捕えられたゲリラのリーダー、あるいは米軍英軍を問わず、特殊部隊に所属する青年達。
「僕達は君に用はないんだが」
 シャーロックは言ってジョンの右肩を叩いた。ジョンは黙って引き下がる。シャーロックに何かの意図があるなら、ジョンに出来るのはそれを黙って聞く事だけだ。
「君の方がどう思っているかは現時点で判らないな。イアン・モームを探しているのか」
「答えるつもりはない」
「そうだろうな」
 男の言葉にあっさり同意してシャーロックは一つ頷いた。目は既に闇に慣れ、ジョンの視界は暗視スコープを通した映像に少し似て見える。ざらついた視界。全てがクリアにはならないが、全てが溶け込みもしていない。
「イアン・モームについてはともかく、こっちは正当な許可を得てここに居る。君はそうじゃないだろう。さて今から僕らが警察なりSOEの人間を呼べば君に逃げ場はないわけだが、そうなると君は目的を達成出来ない。つまり、君は僕らを出し抜いて逃亡するか、あるいは僕らを始末する以外に選択肢がない」
 言うなりシャーロックは不意にフラッシュライトを点灯した。眩い光が真っ直ぐに男を射抜き、男が反射的に片手を挙げて腕で目を覆う。ジョンも咄嗟に光に対応出来ず、強く目を閉じてから薄目を開いた。強過ぎる光は全ての陰影を吹き飛ばして男の顔は良く見えない。光は輪を作り、スポットライトのように男は円に収まっている。
 ふん、とシャーロックが鼻を鳴らした。面白くもなさそうに肩を竦めて口を開く。
「君は左脇腹を怪我している。恐らくタクティカルナイフによる刃傷。刃の長さは六インチ程度、グリップまで含めれば十インチ以上。リカーブド・スタイルで幅広のブレード、半分以上が両刃。互いに擦れ違うと同時に刺し、離脱した。簡易な手当てのみで病院には行っていない。否、行けないんだろうな。刺した相手はイアン・モーム。そうして君はイアン・モームを追っている」
 ジョンは些かならず驚いてシャーロックの横顔を盗み見た。何を言い出したのだ、と思ったのも一瞬、少なくともシャーロックの推理が間違っているとは考えられないのだ、と思い直して改めて目を凝らす。そういえばこのスペックには覚えがあった。他でもないイアン・モームと目される男が所持していたナイフだ。ジョンにも向けられた鋭い刃。脂を纏ったあの刃が、この男を刺した物だと、そういう事か?
「君の出身地は恐らく北。僅かだがアイルランド訛りがある。アメリカ人の発音にも似ているが南アイルランドやアメリカならもっとしつこく響く。スコットランドの可能性もあるがスコットランド訛りほどには特徴が顕著じゃない。つまり北アイルランドの可能性が一番高い。さて僕に今、判る事はそれだけだ。それだけだが、少ない情報ではないだろうな。ここから類推出来る事もまだあるが、だからと言ってこの状況に変化はないだろう。ふん、それでどうする? 君は何らかの理由でイアン・モームを追っている。生きたまま捕える気なのか殺す気なのかは知らないが今の所、僕らは敵でも味方でもない。状況を転がすのは君の次の行動に掛かっているというわけだ」
 男は無言だった。ジョンは男の数少ない発言を脳裏に浮かべる。アイルランド訛り? 確かにrが発音される喋り方ではあった。だがジョンなら北アイルランドとまでは特定出来ない。そんなに特徴的な発言があっただろうか? それとも、ジョンが見落としただけでシャーロックは他に何か材料を手にしているのか。
 ようやく目が強い光と暗い室内の落差に慣れて、ジョンはしかし光に陰影を失った男の、目ばかりが爛々と強いその顔を見詰めた。口を開く様子も、かと言って何かしらの行動を起こす様子も見せずに蹲る人型の何か、でしかないそれは、遠くアフガニスタンで見慣れた筈の、自分達よそ者の、姿格好も言葉も異なる正しく異物でしかない集団を遠巻きに眺めて身動ぎさえしない、その土地で生きる人々の姿を思い起こさせた。敵意もない代わりに、一切の受容もなく、ただ見返すその瞳は命のない硝子も同然で、しかし僅かに濡れ、揺れ、確かにそれが自分と同じ人体であり、生き物である事を主張して、その断絶に些かならず絶望というものが形になった瞬間を目撃した気分を味わったものだった。
「やれやれ、ここで睨み合っているのは時間の無駄だ」
 不意にシャーロックがうんざりした様にそう言った。停滞していた空気がシャーロックの呼気によって動き出す流れを目で追う風情でジョンは視線を彷徨わせ、脳裏のアフガニスタンの乾いた空気を押しやった。アフガニスタンの国民は、無論この作戦に従事した外国の兵士達を歓迎もした。ただ、全てがそうであったというわけではないという事だ。イギリス国内の全ての人間が派兵に必ずしも賛成でないように。
「先程尋ねた時に君はイアン・モームを探しているのかどうかを答えるつもりはないと答えたな。だが、もし君も我々も同じ人間を探しているのだとすれば、協力した方が当然ながら効率は良い筈だ」
 シャーロックは平然とそう言った。なるほど互いにイアン・モームを追っているのだとすれば、その提案はもっともではあった。だが今のこの状況で、そんな提案に男が頷くとは思えない。
 そもそも男が何者なのかさえ判らない状況で、協力も何もないだろう、とジョンは思う。男の動きを見逃さないよう視線を据えたまま、気配だけでシャーロックを覗う。どういうつもりなのか、今ここで訊ける筈もなかったが、少なくともジョンの不満の気配はシャーロックにも届くだろう。それをこの男が斟酌するかどうかは全く別の話だが。
「イアン・モームが姿を消した理由は君か?」
 シャーロックが小さく首を傾げた。男はシャーロックを見据えたまま微動だにしていなかった。無論、口を開く気配など微塵もない。この男は銃を持っているだろうか、とジョンは目を眇めたが、元より明かりのない部屋で、フラッシュライトの強い光に明暗を吹き飛ばされた男のシルエットから何かを探り出すのは難しかった。
「たとえばこんな話は考えられる」
 シャーロックが淀みなく話し始める。抑揚のない低い声は降り積もるように床に蟠った。
「君は何かの目的の為にロンドンに来た。そうしてイアン・モームが目的の遂行の為に邪魔になると考えた。よって、彼を排除する必要に駆られ、それを察知したイアン・モームは身の危険を察して逃亡を開始した。どうだ?」
 ジョンは注意深く男を見守った。男は無表情のまま、不気味に陰影のない頬を晒している。シャーロックの言うとおりこの男が北アイルランドの人間だったとして、そもそもロンドンに何をしに来たのか。目的が何なのか、単なる観光や仕事ではないだろうというのはイアン・モームを探しているだけでも推測の理由には充分だろう。ましてや北アイルランドから来たというのなら、と短絡的に考えてしまうのは、この国の長い北アイルランドとの抗争の歴史からの必然的な連想だった。栄光の大英帝国。七つの海の覇者は、未だ至近距離に火薬庫を抱えたままだ。イアン・モームをこの男が探す理由は何だ。旧来の知己である、という以外に、普通は政府のエージェントであるらしいイアン・モームに用がある人間はそうそう居るまい。
「来年にはオリンピックが開かれるロンドンで、さて今のうちに北の人間がやっておきたい事、というのは何だろうな」
 シャーロックの物言いは多分に揶揄を含んでいた。相手を怒らせようとしているのか、と思いながらジョンは眉を寄せる。こういう時のシャーロックの口調は、それとわかっていても腹立たしい。人を怒らせるのが巧い男だとは身に染みて知っているが、素なのか計算なのかの境界線も実に曖昧だ。
「今時その若さで王族と勘違いするようなキングス・イングリッシュで喋る男に何が判る」
 思わず反応した、という風情で男が口を開いた。恐らくは開く筈のなかった口で、その動揺に逆に動揺させられる心持で目を見開いたジョンにその声は酷く抑揚がなく機械じみて聞こえた。注意深く向けていた筈の視線がごく一瞬逸れたタイミングを男が見逃す筈もなく、直後、空気が動く。押し寄せた殺気に近い何かに弾かれたように視線を据え直したときには既に遅く、ジョンは自分の軍人にあるまじき失敗に気付かされる事になった。
「シャーロック!」
 叫んだのと身を投げ出したのは殆ど同時だった。素早く動いた男の右手が懐から何かを取り出す仕種は携帯した銃を取り出すものに他ならず、腕の振りと消音装置に押し殺された発砲音は完全に重なった。放たれた弾丸は狙いを付けるには急だったのか、あるいは初めからそのつもりだったのか天井で火花を散らせて沈黙する。咄嗟にシャーロックに覆い被さって倒れたジョンはベッド二台の間の狭い空間で強かに腰を打ち付けた上にシャーロックの肘で力の限り胸部を殴られる格好になったが、引き倒される格好になったシャーロックの方もよりによって怪我をした右足の方を強かに打ち付けたらしく、互いに呻き声を漏らす事になった。フラッシュライトはシャーロックの手を離れ、壁を煌々と照らして無意味にその白さを際立たせている。
 じっとしていては即座にまた狙い撃ちにされる。
 転がるように隙間から飛び出し、身構えて男と相対する一瞬、ようやく詰めていた息を吐いて吸ったジョンは、そのまま目の前に突き付けられた銃口に両手を挙げて眉を下げた。オーケイ。ともかく今のところ呻いてはいるとしてもシャーロックは無事だ。
「動くな」
 至極当然の要求を口にして男が一歩を動いた。銃を構える右手に注意を向けつつジョンは男の左手が腹を庇っている事を確認する。手負いの男一人と、こちらは二人。せめて自分の手に銃があればどうにでも切り抜けられる筈のこの状況で、むざむざ両手を挙げている自分が情けなかった。かと言って四六時中を銃と共に過ごす事が許されていない現状、外出の都度ずっと銃を持ち歩くわけにもいかない。目と鼻の先の221Bに愛銃SIG SAUER P226があると思えばもどかしいが、まさか念じて飛んでくる物でもないから諦める他はないのが腹立たしい。
「本当にイアン・モームを追っているのか」
 男の問いにジョンは唇を舐めた。シャーロックは無言だ。そろりと身体を動かし、立ち上がってジョンと並び、小さく手を上げただけでまだ何も言わない。足が痛むのかどうかはその様子からは判らなかった。むざむざ男に自分の負傷を知らせる愚は犯さないだろうから、いずれにせよ後から診てやる必要はありそうだった。最低でも、包帯は巻きなおす必要が生じているだろう。シャーロックという男は平気なものを平気でないと言い、看過出来ないものを放っておけと言い出す人種だ。シャーロックがそのままにしたせいでフラッシュライトは床に転がったままだ。明かりは間接照明よろしく壁を照らしている。その光を横に、男は眉根を寄せていた。
外務・英連邦省FCOとも無関係か」
 男の問いが重ねられて思わずジョンはシャーロックの顔を見る。外務省? 何故ここで外務省が出てくる? 呆気にとられた顔は暗さのせいで男には確認出来なかったらしい。意に介さず男は言葉を続けた。
「一体どれだけの人間がイアン・モームを追っている? そんな話は聞いていない」
 男の声は冷静だったが、微かに怒りと動揺が含まれていた。嘘は言っていないらしい、とジョンは判断し、しかし男の発言の意味は不明なままで、自然と眉が寄った。どうやらイアン・モームを巡って何かが起きている。何なのかはまるで判らないにしてもだ。
「こっちもイアン・モームが誰かに追われている、なんて事は知りもしなかったさ」
 シャーロックが肩を竦めた。男が銃をシャーロックに向ける。そのまま壁伝いにそろそろと動き出したのをジョンは視線だけで追った。シャーロックは無造作に身体の向きを変えて男と正対する。思わずその前に出て庇うように立ち塞がったジョンは、自分の頭越しにシャーロックが「君の仕事はイアン・モームを殺す事か」と言い放つのを聞いた。
「僕らの事も始末する? まあそれは簡単だろうな。だが、ここに死体が二つ転がれば英国政府が黙っては居ない。これは冗談じゃないんだ、残念ながら」
「お前達は政府の人間なのか」
「とんでもない。最初にジョンが言っただろう。彼は医者だ。聞いていなかったのか? それともこの短時間でもう忘れたのか」
 シャーロックが何のつもりで再び挑発めいた発言を始めたのか、ジョンは困惑したまま息を詰める。政府が黙っていない。無論その通りだ。この場所でシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの死体が仲良く並べば、あるいはこの場所を最後に消息を絶つ様な事が起これば必然的にマイクロフト・ホームズが動き出す。それは英国政府が動くのと同義なのだろう。しかも今回のこれは、他ならぬマイクロフトの依頼がきっかけだ。
「政府なんてものと同一視されるのはごめんだ。が、少なくとも僕らはこの場所に正攻法で入る手段を持っている事だけは確かだ。君もここに来た以上、まさかここがどんな場所か知らずに来た、筈はないだろう?」
 それで察しろ、とばかりに傲然と顎を上げて、シャーロックは一つ息を吐いた。
「既に僕らは君の顔を見てしまったし、君も僕らを覚えた。さてこれからどうする?」
 選択肢は余り多くないな、と頷いて、シャーロックはふん、と鼻を鳴らした。
「この場はこのままにして、後日に持ち越すか? それとも危険を冒して死体を並べるか」
 男が更に動いた。少しずつ壁伝いに動くその先に何があったか。ジョンは不意に理解した。その先の突き当りには、直接外に出る階段への扉がある。では、男は逃亡する気でいるのか。それとも、直前にこちらを撃つのか。既に一発は発砲している。銃弾という物証は動かない。それを男がどう判断するか。
 撃たれた時、自分はシャーロックを守れるのか。
 脳裏に浮かんだ一番大きな懸念はそれだった。『大いなるゲーム』と名付けたあの事件で一つ決めた事がある。少なくとも今後一切、自分はシャーロックの命の危険に手をこまねく事はしない。それだけだ。だがそれが一番重要だった。シャーロックは右足を怪我している。酷い怪我ではないが、知られればそれは簡単に最大の弱点になる。知られないまま庇い通し、命の危険から遠ざけねばならない。そう決めたのだから。
「シャーロック」
 殆ど吐息だけでそう囁く。背後のシャーロックに聞こえているかは判らない。だが聞こえる筈だ、と勝手に決め付ける。注意さえ促せれば良い。この、世にも賢い名探偵は、一つの言葉から数百の物事を見抜いて紡ぎ上げる。
「なんで」
 男は銃を向けたまま扉に辿り着こうとしている。ただ逃亡するというなら一旦は見逃しても良い。いずれその選択権はこちらにはないのだが。
「なんで僕らは丸腰なんだ?」
 返事はない。ジョンは後ろ手にシャーロックの腕を掴んだ。いざとなったら投げ飛ばせば良い。そのくらいの事は出来る筈だった。だが。
「誰だ!」
 突如として男が叫んだ。同時に消音装置を通した掠れた銃声が響く。咄嗟にシャーロックを押し退けた。ジョンが伏せろ、と叫ぶのとそれのどちらが早かったかは判らない。少なくともジョンは怪我をしなかった。シャーロックも同じだろう。
 代わりのように、不意に男が弾き飛ばされて転がった。転がりざまに跳ね起きたその肉体が開かれた扉に向かって身構えるのをジョンは見た。開かれた扉。そこに外階段の光に照らされたシルエットが滲んで浮かんでいる。
 影が再び発砲するより男が銃を構える方が早かった。影が不意に消えたのは身を屈めたからだ。発砲音と同時に影と男の位置が入れ替わる。外階段に出た男は銃を構えたまま背後に一歩、二歩を下がり、それから階段を駆け下り始めた。最早足音になど構う気はないらしい、高い踵の音が響く。影が立ち上がって銃を構えるのをジョンは間違いなくその目で確認し、だが男は何かに引き摺られでもしたようにそのまま腰を落とした。
 思わずシャーロックをその場に置いて飛び出した。身を低くしたまま扉に向かう。転がったフラッシュライトをつま先が引っ掛け、弾かれたそれは壁に当たって光を消した。室内が闇に沈み、外階段の明るさが眩く視界に広がる。蹲った影が低く呻くのを耳にして、ジョンは至近距離で息を殺した。男だ。だが、この不意に現れた男は何者なのか。
 男が腹を手で押さえている事に気が付いた。怪我をしているのか、と思った瞬間、男は立ち上がった。外階段の手すりに身を乗り出すようにして階下を見下ろす。逃げた男の姿を確認したのか、後を追うように一歩を踏み出した男は、しかしそこで初めて気が付いたように振り返った。ジョンは息を殺し、身を縮める。だが男はそれを見逃さなかったらしい。
「誰かいるのか」
 誰何の声は酷く冷淡に響いた。ジョンは天を仰ぐ気分で唇を舐める。あるいは、動きさえしなければ見付からずにやり過ごせていた可能性はあった。今更だ。どうする、と瞬間的に巡った思考が出した結論は単純で早かった。少なくとも今、シャーロックの存在に気付かれていないのだとすれば、たとえばジョン一人が撃たれて転がれば、この男は逃げた男を追ってこの場を去るだろう。
 それで良い。あるいはそれしかない。
 ジョンはそろりと両手を上げた。ゆっくりと立ち上がる間も、男の意識は路上に向いている。突きつけられたままの銃口を見詰めて、ジョンは自分が出来るだけ怯えている様に見えれば良い、と願った。どうにも、自分に演技力があるとは過去に一度も思った事がなく、シャーロックのように自在に相手を騙す術など持ち合わせても居ないが、流石に銃口を前に平然としている、と思われれば本気で撃ち殺される羽目になる。偶然を装って避ければ、せいぜい致命傷にならない場所に敢えて銃弾を受けて倒れた振りくらいは出来るという計算は、相手に確実に仕留めるという意思を抱かせた時点で霧散してしまう。少なくとも銃の構え方が素人離れしている男を前にそれだけを考えたジョンに、しかし男はいぶかしむように言った。
「……アンタ……何でここに居る?」
 ジョンは目を見開いた。男が自分を知っている? 驚愕に撃たれたように硬直した刹那、しかし路上からバイクのエンジン音が高く響いた。男がジョンを振り返り、何かを一瞬躊躇った後に階段を駆け下り出した。咄嗟に後を追って外階段に飛び出し、ジョンは喚いた。
「クソ、何でここに銃がない!」
「ジョン!」
 思い掛けない近さでシャーロックの声が響いた。直後に何かが放物線を描いて飛来し、ジョンは慌てて両手でそれを受け止める。ずしりとした金属の重さに目を見開いた刹那、掠めるようにしてシャーロックがジョンを追い越し、階段に飛び出した。
「追うぞジョン!」
「ちょ、シャーロック!」
「今のはイアン・モームだ!」
 驚愕に目を見開いた。確かに腹を怪我している。言われてみれば声にも聞き覚えがある気がし始めた。自分の迂闊さに眩暈がする。何故そんな簡単な事が即座に判らなかったのだ。
「早く!」
 シャーロックの怒声に急かされて駆け出した。階段は暗い。縺れそうになる足を宥めてシャーロックを追うのは酷く骨が折れた。これでは直ぐに息が上がる。手の中の銃の重みにわけもなく腹が立った。SIG SAUER P226。221Bにある筈の、自分の愛銃が何故ここにある! 土台自分などにシャーロックの全てが見通せる筈もないが、持ち出したなら持ち出したと一言! 第一いつの間に!
「丸腰じゃない」
 前方というべきか階下と言うべきか、離れた場所からシャーロックの声が届いた。ジョンは眉を跳ね上げる。
「何!?」
 踊り場を回ったところでシャーロックの後姿を確認する。今どうでもいい会話をしている場合か!
「僕を見くびるなよ、ジョン」
 いっそ朗らかにさえ聞こえる弾んだ声でシャーロックが言って振り返った。
「丸腰でなどこの僕がこんな所に来るか? 僕の武器は」
 にやりと笑ってシャーロックは再び駆け出した。
「君だ」
 一瞬足を止めかけてジョンは大きく口を開ける。手の中の銃を僅かに持ち上げ、それから天を仰いで走る事に集中した。

 

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