02 City of Westminster
スコットランドヤード、即ちロンドン市警本部の所在地は現在ウェストミンスター区のニュー・スコットランドヤードだ。元はといえば官庁街であるホワイトホール・プレイス四番地に存在しており、その場所がスコットランドヤードと呼ばれていた事にちなんで通称として定着したらしいこの愛称は恐らく世界中で最も知られている公的機関の愛称の一つだろう。
しかし、「らしい」というのも曖昧な話だな、とジョンは思う。シャーロックと出会って以降、この世界一有名な市警には頻繁に出入りするようになったが、そもそも北部のスコットランドとは何の関係もないロンドンの一角が何故スコットランドヤードと呼ばれていたのかについて尋ねても、警官は愚かシャーロックでさえ明白な由来は知らなかった。
暇だったのか単に生来親切な性質なのか、ある時ごま塩の短い髪を掻き回しながらレストレードが聞いて来たところによれば、スコットランド王家の所有する邸宅があった場所だから、だとか、スコットなる名前の人物が土地を所有していたことにちなんで通りがスコットランドヤードと呼ばれていたから、だとか諸説入り乱れているのだという。わざわざ調べてくれたのか、と目を丸くしてジョンが尋ねると、強面の殺人及び重大犯罪捜査課警部殿は肩を竦めただけで何も言わなかった。
そのレストレードが部屋を出て行ってから既に五分。SCD1フロアの一角をガラスのパーテーションで区切った小部屋の、黒いフェイクレザーの長椅子にジョンとシャーロックは並んで黙然と座っていた。レストレードの執務室だ。丁度腰から上の部分は目線の高さ近くまで曇りガラスになっている。背後の木製扉の向こうからは署員達の忙しく立ち働く喧騒が漏れ聞こえていた。扱う事件は殺伐として醜悪だが、フロアは清潔で明るく近代的だ。すっかり夜の帳が下りた今は眩しい程の蛍光灯で全てが白い。ソファの前のローテーブルには雑誌、テレビのリモコン、何故かカスタネットと夜間の見回り用なのかフラッシュライトが雑然と置かれていた。シャーロックの指先がそれらを次々になぞっては放り出す。
「退屈だ」
ぽつりとシャーロックが呟いた。ジョンは聞かなかった事にしてそれを黙殺する。シャーロックのそれは口癖に等しい。退屈だ。気に入る依頼や事件がないと、数日も立たない内にシャーロックはそう喚き始める。まさかこんなところで五分待たされただけで発作を起こすとは思わなかった。最早病的だ。否、最初から病的ではあった。判っている。この男は狂人と行動が大差ない。
「逃げた男の行方でも推理しろよ」
「何故僕が」
「君の暇潰しになるしヤードの手間が省ける」
「あの男の行く先を推理するには何もかも材料が足らない。これで推理出来る事など殆どない。ある種の憶測なら幾つかないわけじゃないが、確認する方法がない以上、今それを考えるのは時間の無駄だ」
ジョンはなるほど、と大きく頷いた。納得したわけでも感心したわけでもなく単なる相槌だ。なるほど、つまりシャーロックは退屈している。こんなに目まぐるしい夜なのにか!
「君が昼間何をしてたか知らないが」
「その話なら終わった筈だ。僕が怪我をしたことは君には」
「オーケイ!」
夕食前の一騒動を思い起こして話を遮る。蒸し返す気はジョンにもない。
「君が何をしていたかは知らないが、ともかく君は何かをしていたし、その後で僕らは喧嘩したし、その後は別行動もして、更に夕食を食べ、マイクロフトがやって来て、その上あの男が登場して警察沙汰になり、今はここに来ている、そうだよな?」
「それが?」
「何で今、退屈だなんて言えるんだ?」
「ただ漫然と座っているこの時間の何処が退屈じゃないんだ?」
この男の中には時間の連続性というものは些か欠落しているらしい、とジョンは結論付けて天を仰ぎたい気分を堪えた。この調子では即座に帰ると言い出しかねない。帰ったところで退屈が解消されるわけではないが、何かにつけて突飛な行動に出る事は間違いないから、何を言い出すか知れたものではないという直視したくもない現実だけは確かだった。流石にこの状況でレストレードを抛っておいて雲隠れするわけにはいかない。
「ジョン、事件を出せ」
「あのな、そんなもの気安く出てくるわけないだろ?」
まるきり子供の我儘と同じだ。魔術師でも手品師でもない以上、何もない場所から何かを出す事など出来るわけがない。手品師の手品とて、種も仕掛けもあるからこそ何かが出てくるのだ。魔術なら知らないが。
「あ」
それで思い出した、とジョンは呟いて瞬いた。シャーロックが怪訝な顔になるのに同じように怪訝な顔を作って首を捻る。そう、思い出した。種も仕掛けもない筈の場所で、不可思議な事が起こった事があったのだ。
「君の言う不可思議は単に何かを見落としているだけだ。そうそう不可思議な事など起こるわけがない」
シャーロックの声は冷ややかだった。それでも一抹の期待が目に浮かんでいるのを目敏く見付けてジョンは苦笑する。本当に不可思議なんだ、きっと君でも解けない謎だ、とジョンは肩を竦めた。現地にもし当時シャーロックが居たのなら、あるいはそれは解ける謎だったかもしれないが、如何せんあれから時は経ち過ぎ、現場からこの場所までの距離は4,500マイル余りも離れている。
「4,500マイル? つまりそれはアフガニスタン時代の話か」
「正解」
ドーヴァー海峡を越え、欧州を越え、トルコを越え、イランを越えた先が4,500マイル離れたアフガニスタンという国だった。そこに派兵されていた頃、ジョンは確かに不可思議な事件に遭遇した。たまたま行き会った別の部隊の兵の死。人手が足らないと借り出されて駆けつけた先、爆発物で出た怪我人が呻く臨時の野戦病院と化した天幕内で、ただ一人死者が出た、その死者こそが最大の不可思議だったのだ。
「エイドリアン・マクリーンって男だった。僕がこの目でIDディスクを確認したんだから間違いない」
英国軍人は必ず全員が認識票であるIDディスクを身に着ける。要は戦死ないし意識不明に陥った際の確認に使用される認識タグであるそれは熱硬化性樹脂製で直径1.5インチ足らずの円形をしており、血液型、宗派、氏名、認識番号、階級が刻印されているチップだ。他国軍では上下に折り取れるようになっているものも多いが、英軍の場合は二枚がセットで携行される事になっている。すなわち、戦死した際には一枚だけが回収されて、身元の確認と照合に使用される事になる。
「君にしては、死者への言及が随分と直裁に聞こえるな、ジョン」
「だろうね」
ジョンは苦笑する。
「エイドリアンとは面識がなかった。不思議なくらい全く顔を合わせた事がなくて、至近距離で見たのは彼が死んだのを確認する為に遺体を検分したその時が初めてだった。つまりその、僕にとっては」
「遺体安置所の遺体と差がなかった?」
「そうなんだろうな」
英陸軍は8,000人をアフガニスタンに派兵している。頻繁に入れ替わるそれらの人員は互いに面識がない事も多く、部隊が違えば名前も顔も知らない事などザラだった。
「ともかく、その時の僕は彼を診てくれと言われて即座にトリアージタグを手に取った。始めから優先順位3の待機や2の緊急の札は取らずに、1の即時だけを考えた。エイドリアンは呼吸をしているように見えなかったし、顔色は既に土気色で、脈があるかどうかさえ既に怪しかった」
傷病者を重症度と緊急性によって分別、優先度を決定するトリアージは、フランス軍が始めたと言われ、語源はフランス語だ。治療を要する三段階に、更に優先順位4の死亡を加えた四段階がイギリス軍におけるトリアージの分類で、但し、このレベル4に関しては正式には制定されておらず、実際には使用されない事になっている。少なくともどんな場合であれ、全ての兵士には蘇生を試みられる権利があり、見捨てられる事はあってはならないからだ。
「それで?」
シャーロックが先を促した。ジョンは肩を竦める。
「彼の着衣は既に剥ぎ取られていて、辺りに抛り出してあった。基地のすぐ傍の民家が爆破された、それに巻き込まれたという話だった。お決まりの過激派のテロだ。手段はありふれていたが、勿論、被害はその都度違う人間が被る。エイドリアンは背中に爆発の影響らしい石の欠片を幾つも突き立てられて絶命していた。大小の傷のせいで何が何だか判らないくらい血塗れになって、何をどう手の施しようもないと判断して、僕は首を振った」
「それのどこが不可思議なんだ?」
「彼は防弾衣を着ていたんだ」
ジョンは目の前にエイドリアンの横たわる肉体があるかのようにそっと左手を滑らせた。シャーロックの目線がその動きを追う。ジョンは深く息を吐いた。エイドリアンの血の臭いは既に遠く、ぬるついたその感触も指先にはない。死者は去り、新たな生者の傷に触れて、ジョンの指先は常に新鮮な血液で洗われ、古びるという事がない。
「背面のキャメルバックは完全に引き裂かれていて、それが爆発の影響である事は間違いなかった。防弾衣は当然前面にも背面にも防弾パットを追加する為のプレートポケットがあって、エイドリアンもケプラー製追加防弾パットを入れていた。その周囲を縫うように破片が直接背中に突き刺さって、衣服を剥ぎ取った時にさえ抜けなかった物はそのまま背中に残ってたから、防弾衣を着ていたのは間違いない。防弾衣の問題点は、当然脇や首なんかの、覆えない部分が防御出来ない事だとか、腕から入った貫通力の高い銃弾が胸に到達してしまう事なんかで、その場合はやはり命を落とす事は多い。エイドリアンも、首の頚動脈を掻き切った傷が致命傷になったのだろうと僕は判断した」
「たまたま、場所が悪かった?」
「最初はそう思ってた。ただ、何しろ時間がなくて、検分は酷く簡単だった。ともかく彼が既に死亡しているのは間違いなくて、僕は他のまだ手遅れにならずに生きている兵士の治療をするべきだった。今、君としているような検死より余程おざなりだった事は認める。そうして、僕はエイドリアンを諦め、立ち去ろうとした。だけどその最後に、不可思議なものを見た」
ようやく不可思議な部分に言及するのか、とでも言いたそうなシャーロックの目が細められる。ジョンはここに、と言って自分の胸を指差した。
「射創があった、ように見えた。抱え起こされた彼の裸の胸にね」
シャーロックの目が一瞬見開かれ、直後に眉が寄せられた。
「それが本当なら、その男の死因は爆発じゃない。銃撃だ」
「だから不可思議だって言ってる」
ほうっとジョンは大きく息を吐いた。
「現場でテロは起きた。それは爆発で、その前後に銃撃なんてなかった。死因が銃撃であろうとなかろうと、エイドリアンの胸に射創が残る理由がない。おまけに彼は防弾衣を着けていたんだ。射創ですらなかったとしても、そこに傷は残る筈がない。僕の見間違いでないなら、まるで聖痕も同然、突如現れた事になる」
遥か西暦30年頃、人類の全ての罪を救済する為に身代わりとして磔刑に処されたとされるイエス・キリストの、その十字架に打ち付けられた手足の傷、あるいはロンギヌスの槍によって刺された脇腹の傷を聖痕と呼ぶが、何らかの不可思議な力によって、信者の身体に突如として現れる類似の傷もまた、奇跡の顕現と見做され、聖痕と呼ばれる。確かにエイドリアン・マクリーンの胸に間違いなく射創があったとすれば、聖痕さながら、何らかの不可思議な力で出現したという他はない。
「本当に射創だったのか」
「僕の目が狂ってなければ」
「確かにあった?」
「あった。確かめようとした直後に呼ばれて他の治療をしてる間に、エイドリアンの遺体は運び出されてしまったから確認はしてないが、自信はある」
ふん、と小さく声を洩らしてシャーロックは両手を合わせた。微かに眇められた目が中空を彷徨う。ジョンは見るともなくそれを見ながら、エイドリアンの冷たくなった身体を思い起こした。血塗れの、けれど血の気の失せた白い肌。閉じられた目は落ち窪んで、唇は乾いてひび割れていた。まだ二十代の若者だった事は間違いなく、朧な記憶の中でも、母親が酷く泣くだろうと声を詰まらせた部隊長の言葉は明瞭だった。釈然としない気持ちを抱えたまま、見間違いだったのかもしれないと思いもし、日々のあれこれに紛れて記憶の彼方に抛り出してしまった一人の青年にまつわるそれを、しかし今、思い起こせば確かにやはりそこには傷があったのだと、それが例え射創でなかったにせよ、そこにある筈のない傷があった事だけは揺るがない事実として脳裏にありありと浮かべられるのだとそれだけを再確認して、ジョンは更に暗澹たる気分に襲われた。人の死にまつわるそれを、ただ不可思議な出来事と流してしまえる程度に、あの場所で立ち働いていた自分は酷く冷酷ではあったのかもしれない。
「それが射創であったとして」
シャーロックが呟くように言った。
「撃たれたのは前から、それとも?」
「前からだ」
ジョンは即答した。射創は独特の傷を作る。貫通して肉体に残らなかったとしても、射入口と射出口では出来る傷は違う。確かに検分したわけではない射創ではあったが、形状からは接射による射入口と見えた。射入口の組織欠損部周囲に黒く焦げた創縁が生じるのは銃口が皮膚に接している場合のみだ。あるいは完全に皮膚に押し付けられておらず、皮膚欠損周囲に銃口による表皮剥脱が認められたかもしれないが、そこまでは当時も見なかった。
いずれにせよ、接射である事は間違いなく、胸側が射入口である事も明白だった。射出口ならば形は不整であり、辺縁にも表皮剥脱を伴わない。体内を通過し、射出される弾丸は、弾頭の回転が減弱し、あるいはそのものが変形するからだ。可能性としては、背中からの銃撃であるとして、胸に出来た射出口が、例えば防弾衣のプレートにより圧迫されて射出口縁に表皮剥脱を生じる、というケースは考えられるが、ジョンの一瞬の記憶によれば、組織欠損部周囲には創縁が生じており、それは明らかに銃口の燃焼ガスによる火傷と燃焼煤の付着によるものと考えられた。
シャーロックはそれらを黙然と聞き、ようやく一言なるほどと呟いてそれきりまた沈黙した。きっちりと合わせられた両手の指先がその強さに爪ごと白くなる。思いの他この話題はシャーロックの興味を惹いたらしいと僅かな驚きと共にジョンも口を閉じ、ふと気付いて左手の腕時計を見た。更に五分、これで都合十分以上待った事になる。
「レストレードの奴、遅いな」
思わず呟くと、つい五分前まで退屈だとのたまっていた男は我に返ったように顔を顰めた。
「……いつまで待たせられるんだ?」
苛ついた声でシャーロックが言う。余計な事を思い出させてしまったと自分にうんざりしながらジョンは横目でシャーロックの顔を一瞥し、さぁなと素っ気無く口にした。不満そうなシャーロックの目線が頬に突き刺さるのに天井を仰いでから向き直る。
「仕方ないだろ? 強盗未遂だか殺人未遂だか判らないけど、ともかく調書は作らなきゃならないんだ。お役所仕事ってのは時間が掛かるって相場が決まってる」
「違う、馬鹿がやるから無駄な時間が掛かるんだ。全く気の利かない連中だ、せめて何か持って来れば良いだろう。事件だ、この際くだらなくても良い」
「じゃあ僕の今の話についてでも考えてろよ」
「それについては二三、思うところはあるが、何しろ証拠がない。僕は現場を見ても居ない。これじゃ推理は進まない」
憤然とシャーロックが言った瞬間、「アンタに渡す事件なんかないけど、代わりにコーヒーはどう?」と背後から女性の声が掛かった。いつの間にか扉が開いている。
「ハァイ、変人。今度は何をしたの?」
言いながら現れたのはレストレードの部下だ。白地にブルー系のストライプが入ったブラウスにグレーのタイトなロングスカート。黒のパンプスのヒールは低い。強いウェーブが掛かった長い黒髪が白いブラウスの肩に広がっている。物怖じしない性格なのはその台詞からも明白で、シャーロックを変人だサイコパスだ、いつか犯罪を犯す側に回ると公言して憚らない彼女は、それでも両手に一つずつコーヒーのマグカップを持っていた。
「ありがとう」
ジョンは素直にそう言って手を差し出した。正直に言えばここのコーヒーは旨いとは言い難いが、手持無沙汰を慰めるには無いよりずっとマシだった。少なくともシャーロックの退屈だという癇癪を聞かされるよりは万倍良い。
にこやかに笑んだジョンには笑みを翻らせてカップを手渡した彼女は、今度はシャーロックにもカップを突き出した。ジョンに渡してしまって空いた左手は腰に当てている。
「はい、アンタのもあるわよ、変人」
だがシャーロックは手を出さなかった。胡乱な目でカップを眺め「砂糖」と低く言う。ジョンは呆れてシャーロックに何かを言おうと口を開き掛け、しかしそれより先に親切を無にされた側が苦情を申し立てた。
「砂糖? アンタ砂糖入れないとコーヒー飲めないの? 子供じゃあるまいし」
尊大な態度にふさわしい言い分だ。案の定、シャーロックは不快そうに眉根を寄せた。
「違う、サリー・ドノヴァン巡査部長」
わざとらしくサリーの名を一言ずつ区切って階級まで全部を口にする。
「僕は君と違って肉体労働に励むのでなく頭脳労働を主にしている。糖分は必要なんだ。それから今ここに来ているのは僕が何かをしたからではなく、市民の義務としてまっとうに警察の活動に協力する為だ。君に理解出来るかは知らないが」
「あら、そう」
鼻で笑ってサリーは受け取り手を失ったカップをテーブルに置いた。ほとんど投げ出すような置き方のせいで中身がとぷんと音を立てて跳ねる。
「てっきりアンタが何かしでかして自首して来たんだとばっかり。それからね、人が誰でも自分の指図に従うと思ったら大間違い。砂糖が欲しかったらお願いすんのよ、普通は。ジョン、あなたもこいつをあんまり甘やかさない事ね」
後半はジョンに向けて言い放ち、サリーはくるりと踵を返した。慌ててカップをテーブルに下ろし、ジョンは立ち上がって後を追う。部屋を出、既に廊下を回り込んで自分のデスクの前に戻っていたサリーにようやく追い着いたところで「ごめん、せっかく持って来てくれたのに」と背中に向かって声を掛けると、サリーはデスクチェアを引こうとした手を止めて振り返り、そのまま苦笑を浮かべて上から下まで何か珍しい生き物でも眺めるような目でジョンを見た。
「ホントに、あなたが甘やかしすぎるんじゃないの? ドクター」
「そんなつもりはないんだけど」
ジョンは盛大に吐息を漏らして渋面になった。確かに後先を考えないシャーロックの言動のフォローをして回るのは殆どジョンの役割と化して久しいが、それを甘やかしていると表現するのは妥当だとは思えなかった。単純に相手の不快感を思うと何とかしなくてはと思うだけで、特段シャーロックの為にやっているわけではないというのが理由の一つ、そもそも自分のフォローはシャーロック本人にとっては何程の意味も生じないであろう事が理由の二つ目で、いずれにせよジョンとしては、同居人であり、辛うじて助手のような身分には落ち着いているとしても、シャーロックの面倒を自分が見る、というような意識は欠片も持っていなかった。良い年をした、どころか中年と呼んでも間違いではないだろう年齢の大の男が二人、片方が片方の面倒を見るなどという馬鹿な話はない。
「それで、実際のところ今日は何? 家に押し入られただか襲撃されただかって聞いたけど」
「あーうん」
ジョンはこめかみを掻く。シャーロックの言うところのまっとうな市民の義務という言葉にもかなり無理があるが、レストレードの方もどうやら相当に前後を省略して部下に説明を行ったらしかった。確かに詳細など話している暇もないのかもしれないが、シャーロックに対する誤解は案外あの強面警部の端的に過ぎる説明にも一因があるのではないだろうか。
「正確には、そうだな正確に言うとグランドフロアの廊下に侵入した男に丁度階段を下りた僕が鉢合わせて、驚いた相手がナイフを振り回した、って事なんだけど。まあ幸い僕は避けられて……うん、それだけだ」
我ながらどこが正確なのか判らない。少なくともあの男が驚いてナイフを振り回したのでない事だけは間違いなかった。が、話は既に十二分に簡単には済まなくなっているからこうとでも言っておく他はない。
「一度は捕まえて、その後で通報したんだ。でもレストレードが来る前に窓から逃げられた」
「まあ、幾ら私立探偵って言ったって刃物を持った犯罪者との立ち回りなんて専門なわけじゃないんだから余り無理はしない事ね。ドクターだって軍にいたのも医者としてでしょ? 見たところ、あなたにもアイツにも怪我はないみたいだったけど、下手したら怪我どころじゃ済まないし」
「おかげさまでね。名誉の負傷はハドソンさんの鍋だけだ」
「鍋?」
怪訝な顔になるサリーに苦笑して手を振った。斬り付けられた鍋と丸めてビニール袋に入れられた血塗れのシャツは証拠品として既に押収されている。シャツは階下の廊下に脱ぎ捨てられていた事にした。治療をしただとか、それ以前に一度遭遇したという話をすれば話はこじれるばかりだ。ハドソン夫人にも同じ説明をする予定だった。そうだ、明日は新しい鍋を買いに行かないと。
「アイツに恨みがあるような人間が犯人ってわけじゃないんでしょうね?」
「シャーロックに? いやそんな事はないんじゃないかな。別にシャーロックを狙ってるって風でもなかったし」
それどころか何者だと誰何された。こちらを知っていて行動に及んだ人間の言うことじゃないだろう。シャーロックがハットマンとロビンだと言い出した時は呆気に取られたが、新聞に出たそれさえ知らないのだからこちらの素性を判っていたとは思えない。つまるところシャーロックの発言の意味も恐らくそこにあったという事だ。あの男が221Bを明確に狙って侵入したのか否か。現時点ではそれはNOだ。
「ふぅん。ねぇドクター、あんまりしつこく言いたくはないけど、ホントに危ないと思ったら逃げなさいよ。碌な事にならないと思うから。あれから釣りは試した? 趣味なら他に作った方が健全でしょ」
「ご忠告ありがとう」
苦笑する。サリーにとっては、どこまで行ってもシャーロックは危険人物なのだろう。そういえばシャーロックと出会った直後にアイツとの付き合いは止めた方が良いと警告され、『大いなるゲーム』事件の際には楽しい事ならもっと他に趣味を持った方が良いと釣りを勧められたのだった。あの事件の後、気晴らしに旅行へ出掛けたニュージーランドでは釣りもしたが、ハマる所までは行かなかった。一緒に出掛けた恋人のサラとも旅行後に別れてしまったせいで尚更シャーロックに振り回される時間は増えているのだから何をかは況やというところだった。サリーの期待にはどうやら応えられそうにない。
「ジョン!」
廊下の先からレストレードの声がしてジョンは振り返った。じゃあ私はこれで、と手を挙げたサリーにコーヒーありがとうと声を掛ける。どういたしまして、ドクターがアイツの傍にいるのホントに不思議ねと言い置いて、サリーはデスクに向き直った。それ以上何をどう声を掛けようもなく、ジョンは廊下に戻り、肩を窄めてレストレードがやって来るのを待ち受ける恰好になった。
「なんだ? ドノヴァンがどうかしたのか」
レストレードは開口一番そう言って首を傾げた。そのまま目線だけを部下のいるブースに向けた男にジョンは苦笑して首を振る。レストレードもシャーロックと部下の間に挟まれれば対応に苦慮するのだろう。シャーロックに事件解明の協力を依頼しているのは他ならぬレストレードで、しかしシャーロックが部外者であり民間人である事に変わりは無いのだ。
「コーヒーを持って来てくれたんだ。シャーロックが砂糖が入っていないからって断っちゃって、気を悪くさせたかも」
「アイツが誰かの気を悪くさせずに済む事なんかあるか?」
「それもそうだ」
互いに肩を竦め合う。レストレードは天井を仰ぎ、右手の黒い革表紙のバインダーをバタバタと振った。ノーネクタイの白いシャツと殆ど黒にしか見えないスーツはどうかすれば気取り過ぎて見えるのだろうが、レストレードのそれは着崩しているせいもあって嫌味がない。
「その脇腹を怪我した男、一応手配は掛けた。が、そう簡単に見付かるとは思えんな。被害が鍋一つじゃあ上も捜査人員を割く気にはならんだろう。その刺されたかもしれないって相手の死体でも出りゃ別だが、今日のところはとりあえず住居侵入と傷害未遂、器物破損の被害届って形だけだ。良いか?」
「実際のところ、僕らに被害はないからな」
ジョンは笑みを浮かべる。勿論一歩間違えば殺されていたかもしれないが、可能性の話でしかない。ナイフが脂で濁っていたのは間違いないが、人を刺して来たのだろうというのはジョンの憶測に過ぎない。全て可能性の話でしかなく、可能性だけで動くほどスコットランドヤードは暇ではない筈だった。レストレードと二人、シャーロックの待つ小部屋に戻る。ガラスに映る自分の顔を少し眺め、一歩をずれて木製の扉を開くと、丁度立って何事かを話していたらしいシャーロックがモバイルを切るところだった。
「なんだそいつは、新しいモバイル買ったのか?」
レストレードが目敏く覗き込む。シャーロックが使っているモバイルはスマートフォンだ。アップル社のiPhone4。発売直後から気にしているのは知っていたが、丁度ジョンがニュージーランド旅行へ出掛けて戻った頃に買い換えていたらしかった。発売からは殆ど丸一年、どこでブラックベリーのBold9700から買い換えるタイミングを決めたのかジョンには良く判らない。案外、発売当初には同時発表されなかったホワイトモデルが出るのを待って比較したかったのか。ホワイトモデルは四月にようやく発売になったばかりだった。比較の結果かどうかは知らず、結局、シャーロックのiPhoneはブラックモデルだ。
「俺のモバイルも三年近く使ってて別に不満はないんだが、そいつは人気なんだろ? どうだ、使い勝手は良いのか?」
存外レストレードはミーハーだ。ヒューレット・パッカードの機種を使っていたな、とジョンは思って苦笑する。そのモデルもかなり高額な筈だった。そういう物には金を惜しまない人種なのか、それとも次こそもっと安上がりに済ませようと思っているが故の情報収集なのか。あるいは情報収集に熱心なのは案外刑事としての単なる習性に過ぎないのかもしれない。
「僕には合ってる」
シャーロックは小さく肩を竦めて短くそう言った。さっさと胸ポケットにiPhoneを仕舞い込んで大きく息を吐く。
「そんな事より、調書はどうなった。さっさとサインさせろ、僕は帰る」
唐突だ。ジョンも眉を寄せたが、レストレードの方も大仰に仰け反った。
「何だよ、そんなに急がなくても良いだろうが」
「良くない」
シャーロックの眉根が寄り、皺が刻まれる。ジョンは片眉を跳ね上げた。さっきの今で帰ると言いだす理由になど心当たりはない。ならば。
「何だ? 今の電話か? 何かあった?」
シャーロックはジョンに向き直って頷いた。当然とばかりに顎を上げる。
「行くところが出来た」
「行くところ?」
思わず鸚鵡返しにする。現場検証だ何だと、既に日付が変わりそうな時刻になっている。後は帰って寝る以外に脳内の予定表は空欄だ。同じ事を思ったのだろう、レストレードが素早く腕時計に目を走らせ、大げさに両手を広げた。
「これからか?」
「そう、これから」
事も無げに言ってシャーロックはレストレードの手からバインダーを抜き取った。めくって目を通し始める。ジョンはシャーロックとレストレードを交互に眺め、結局テーブルに放置していたコーヒーに手を伸ばした。ぬるいコーヒーは案の定かなり間の抜けた味で、酸味だけが鈍く舌を刺激する。
「ふん、冗長な文章だが警察の調書なんてこんなものだろう。レストレード、ペンを寄越せ」
「おい、ちゃんと読んだのか? 後から文句言っても書き換えられんぞ?」
「文句など言わない。被害届なんかオンラインで出しても良かった。先にレストレードを呼び出した手前ここまで来ただけだ」
渡されたペンの蓋を行儀悪く唇に挟んでシャーロックはバインダーに目を落とした。ジョンはレストレードと顔を見合わせる。確かにグレーター・ロンドンでは軽微な被害についてはオンライン被害届提出システムが整備されている。シティ・オブ・ロンドンがヤードの管轄外なせいでロンドン中心部のスクエア・マイルについてはまた別だが、少なくとも実害など殆どなかった今日の一件については勿論それで事足りただろう。だが男の逃亡直後にレストレードが到着し、一通りの現場検証が行われた以上は事情聴取に応じる必要はあったし、今も巡回中のパトカーは逃げた男を捜している筈で、当事者である221Bの住人だけが知らん顔というわけにいかないのも確かだった。
「何をそんなに急いでるんだ? シャーロック」
「ジョン、僕はサインをしたぞ、君も早く書け。ぐずぐずするな」
蓋を戻したペンとバインダーを押し付けられてジョンは顎を引く。結局そのままカップを下ろし、左手にペンを握ると顰め面でシャーロックの名前の下にサインを入れた。本文はシャーロックが目を通しているのが判っているから流し読みだ。
「ジョン、せめてアンタはちゃんと読めよ? 後から齟齬があるとか言い出しても何もしてやれんぞ?」
「いや、大丈夫だ。別に僕は……なあレストレード、じゃあこの件については特に捜査班は組まれないんだな?」
調書の最後の一文に目を留めて言うと、レストレードは両手を挙げた。若い頃は美男子だったのだろうと思わせるくっきりした大きな瞳が見開かれ、大仰に吐息を洩らした刑事はうんざりとした声を出した。
「今週だけで五件も帳場が立ってる。俺のところで抱えてる事件はここ二週間で三つ、どれも犯人は既にとっ捕まえてるが、供述が曖昧で裏取りも済んでない。つまり継続捜査中だ。今日のこれは一応俺が初動で見てるからこのままうちで担当するが、そうなるとこれが四つ目になるな。具体的な被害者が、つまり死体が出てない以上、他との兼ね合いを考えりゃ、まあどうしたって優先順位は低い。本腰入れるのは期待しないでくれ」
「ありがとう、充分だ」
スコットランドヤードが暇な方が世の中は平穏なのだろうが、そうもいかないらしい。大なり小なり事件は連日起こり、その大半はつまらない理由で起きたつまらない事件で、それでも捜査は難航し解決には時間が掛かる。シャーロックもどうせ暇だと喚き散らすならその全てに知見を披露してやれとジョンは思うが、シャーロックが求めているのは頭脳活動の限界に挑むような難事件であって、本人が言うところの「見れば判る」事件などに興味はないらしい。そうして、今日も明日もスコットランドヤードはひたすら靴底をすり減らして駆け回る事になる。
「ジョン、書いたならさっさと渡せ」
横からシャーロックの長い腕が伸びて来てジョンが握ったままのバインダーを取った。レストレードの胸にそれを押し付けて踵を返す。扉を開きながら首だけを振り向けた。
「じゃあ僕らはこれで」
「ああ」
頷いたレストレードにジョンは肩を竦めてみせる。悪いね、という目線は同じくいつもの事だ、という目配せで返され、ジョンがシャーロックの後を追うと、レストレードは手を伸ばして扉を支えた。そのまま背中で扉を押さえて顎を振る。
「家まで送らせるか?」
ベーカーストリート方面にやるパトカーがあるが、という申し出に、しかしシャーロックは首を振った。
「いや、いらない」
「もう遅い。タクシーは捕まらんだろう」
全くだ、とジョンもシャーロックを見上げた。歩いて帰るとでも言い出すのか。距離は二マイル少々、確かに歩いても一時間は掛からないが、深夜の散歩にはちょっと長過ぎる。あるいは、行くところが出来たというその場所はここから近いのか。だが、シャーロックの返答はその予想をどちらも裏切った。
「迎えが来る」
ひらりと手を振る。そのまま歩き出した。ジョンはぱちり、と瞬く。迎え? 今からここにか? 誰の? 誰が? 思わずレストレードを振り返る。親切な申し出を断られた警部殿は諦めろ、と目線で告げて扉を閉じた。ジョンは唇を舐める。つまり。
「行くぞ、ジョン」
当然のように呼ばれて思わず目を閉じる。聞いてないぞ、と抗議をするのも諦めて、ジョンは盛大に天井を仰いだ。つまり、そういう事だ。──どうやら今夜は長いらしい。
脇腹の傷にそっと触れた。止血パッドの感触の上から力を篭めてみる。突き上がる様な痛みが全身に走り、しかしそれだけだった。
目を細めて止血パッドを見下ろす。肋骨の真下。今の所は吐き気はせず、血液も止血パッドから溢れ出してはいなかった。なるほどあの医者の言うとおり、骨にも内臓にも達していないのだろう。
医者。
医者だと名乗った。元軍医だとも言ったか。いきなりナイフで襲い掛かってまさか避けられるとは思わなかった。確かに殺す気はなく、単純に巧くすれば脅せるか、との目論見ではあったが、それでも避けられたというそれ自体が驚愕に値した。こちらは訓練を積んでいるのだ。まず一般人であれば避ける事など出来はしない。軍医という職種の人間がそんなに腕が立つとは初耳だった。あるいは、たまたま素質のある人間が医者に成れる程に優秀であり裕福であったのか。可能性はある。そういう人間が行き着く先は常に危険と隣り合わせの生活だろう。例えば軍、例えば諜報部、例えば、裏稼業の闇の世界。
ハンドルに手を戻した。暫く痛みに耐えてじっとしていた。目線だけを油断なく左右に走らせる。街灯の朧な光の中、周囲に人の姿はない。ようやくパーキングに置きっぱなしていた車に辿り着いて五分。上がりきった息を整え、傷を確認しただけでこれだけの時間が掛かった。刺されたのも不覚なら、あの不可思議な二人組のところで短い時間とはいえ意識を失ったのも不覚だった。辛うじて脱出はしたが、そこから人の目のない場所を選び、果てない遠回りをしたせいでここまで来るのにも時間が掛かり過ぎている。窓から飛び降りたのは咄嗟の判断だったが、巧い具合に足を怪我する事も無く逃げ遂せたのだから上出来というべきだろう。だが、もう一度ベーカーストリートに戻るとするならば深夜になるのは間違いなかった。
パーキング手前のフラットハウスで回収した車のキーを手の中に見下ろす。常に万一を考えて動くというのは当然のように身についた習性で、この車も作戦に入る前は使うとは思わずに配置したものだったが、これがなければ更に窮地に陥っていた事は想像に難くなかった。
ベントレー・ミュルザンヌ。ベントレー社の最新高級車モデルであるこの車は私物だった。ミッション用に与えられたフォード・モンデオを使う気にならなかったのは漠然とした予感があったのかもしれない。このミュルザンヌを自分が所有している事はまだ誰も知らない筈だ。いずれ調べられれば判る事だが、現時点で明らかになっていないという事が重要だった。正直に言えば、疑いは余りに漠然としている。長年この国に尽くしてきた自負はあった。申し開きもなしに突如排除されるような真似をした覚えはない。だが、組織が非情である事を嫌という程に知り尽くしているのも確かに自分だった。危険と判断されれば、当人の意図など斟酌されない。それでなければ、この世界は容易く均衡を崩す。既に上は動き出しただろう。定期連絡をこれで三度すっぽかしている。任務を放棄する気はなかったが、報告を入れる気にもなれなかった。無線を搭載し、全地球測位システムで所在地を把握されているモンデオを使えば即座に上に居所が知れる。ボンドカーのアストンマーチンシリーズのように数多の秘密兵器が搭載されている、というわけでもないモンデオを使うメリットは今の所まるで見出せない。
ボンドカーか、と失笑し、キーを捻じ込んでエンジンを掛けた。アイドリング状態のまま、背中を座席に預けて大きく息を吐く。低いエンジンの唸りは微かに身体に振動を伝えて響いたがごく静かなものだった。ロールスロイス・シルヴァーセラフと兄弟車であったアルナージからの正しい後継として、ミュルザンヌは間違いなくベントレーの最高級車に相応しい性能を有している。来年以降公開されると評判の007の最新映画で果たして何がボンドカーと呼ばれる事になるのかは知らないが、架空の世界の諜報員が何を使おうと関係ない。現実は映画ではなく、諜報員はジェームズ・ボンドではないのだ。
ようやく脈拍が落ち着いたのを確認し、身を捩って後部座席の黒い革製アタッシュケースを助手席に移した。バックルを跳ね上げ、中から黒のボタンダウンシャツを取り出す。もう一度周囲に目を配ってから素肌に羽織ったジャケットを脱ぎ、シャツに腕を通した。ジャケットはそのまま助手席に抛り、アタッシュケースから取り出した紙幣をポケットに突っ込む。更にマルボロのホワイトメンソールを手にし掛け、そのままアタッシュケースに戻した。煙草は今や個人特定に容易に繋がる程には稀少になった。吸える場所が限られ過ぎている上に余計なリスクを背負い込むのでは余りに馬鹿馬鹿しい。消毒薬の瓶を突っ込んでいたジャケットの右ポケットは不自然な膨らみで形が付いてしまっていたから水でも掛けて戻すしかなく、そういう意味でも中に煙草を入れるのは止めた方が良いだろう。
そこまで身支度を整えてから、最後にアタッシュケースの奥底からFNファイブセブンを取り出した。鈍い黒の銃身は五インチ少々。ベルギーのFNハースタル社が短機関銃の補助兵器として開発した自動拳銃だった。一般的なモデルはダブルアクションだが、今ここで手にしているのはシングルアクションモデルだ。貫通力の高さを買って申請し与えられた銃だが、今となっては使うのを躊躇う銃でもあった。この銃を所持している英国人は余りに限られている。使えば即座に所有者が特定される。任務の為以外に使用するわけにはいかず、しかし現実には自分の身に危険が差し迫っていると思われる状況で銃を使わずにいられる自信も余りなかった。弾倉を抜き、差し直す。装弾数は20発。予備の弾倉はそのままアタッシュケースに残した。銃撃戦になる可能性は余りに低い。ならば余計なものを持ち歩く必要はない。更に少し考え、スラックスのベルトにホルスターを差し、FNファイブセブンを入れると、もうする事は残っていなかった。
シートベルトを締める。ハンドルを握った。アクセルを踏み込む。車体が滑り出し夜を切り裂いてヘッドライトが進行方向を光の中に浮かび上がらせた。ともあれ、敵を明確にし、危険を明確にし、己の任務を果たす為には、そうする以外に方法がないのだった。期限までは、まだ四日を残している。
遠く、パトカーのライトが夜空に照射された。あの光は何を求めているのか。自分を探しているのかもしれない、という確信めいた予感一つ、腹の傷の痛みが微かにぶり返し、気付かぬ振りでアクセルを踏んだ。
彼女に会うのは何度目かな、とジョンは思った。
助手席で、熱心にモバイルを弄っている女性の後頭部だけがジョンには見えている。艶やかな長い髪は栗色で、彼女が大きな目の理知的な美女である事をジョンは知っていた。
「君の勤務時間って長いんだね」
とりあえず後頭部に向かってそう尋ねてみた。後部座席。高級車のクッションは柔らかく、走る車の振動は殆ど伝わってこない。まるで動くソファの如き様相のそれはしかし間違いなく乗用車であり、窓の外の風景は徐々に移り変わっていく。
「ジョン」
隣から低い声が掛かった。ジョンはそれを即座に聞こえなかったものとして処理し、再び助手席の後頭部に向かって言った。
「君はその、私設秘書って奴なのかな、アンシア」
するりと彼女の名前が口を衝いた事に頭のどこかで安堵した。好みの女性であれば声を掛けないという選択肢は存在しないジョン・H・ワトスンの信条の中には、相手の女性の名を呼び間違わない、という項目も無論入ってはいたが、それこそ隣で不機嫌に唇を引き結んでいる長身の男の頭脳程には優秀でないと自覚している記憶力では、稀に齟齬を起こして大惨事を引き起こしていたから、過たず名前が出てくる、というのは実に良い傾向だった。なるほど僕は彼女を自分で思っている以上に気に入っているらしい。
「こんなに遅くまで、大変だね」
更に続けた言葉は、しかし最前と同じように綺麗に無視され、ジョンは小さく両手を挙げて一つ息を吐き、高級な背凭れに体重を預ける羽目になった。降参だ。簡単になびく女も面白くないが、ここまで相手にされないのも流石に少し堪えた。ジョンの体重が完全にクッションに受け止められるのを確認したのか、待ち構えたように隣から低い声が言う。
「兄は私設秘書を二十四時間体制で雇用している。アンシアもその一人だ。そして彼女達は勤務中に余計な話はしない。というより、一体いつ彼女の名前を聞き出したんだ?」
「いつだって良いだろ」
ジョンは唇をへの字にした。
スコットランドヤードを出ると、見計らったように横付けされたのがこの車だった。黒塗りのジャガーX351。助手席から降り立ったアンシアを見るなりあんぐり口を開けたのは、シャーロックの言う「迎え」がまさか犬猿の仲であるマイクロフトの差し向けたものだなどとは想像だにしていなかったせいで、軽く微笑んだ彼女が「どうぞ」と後部座席のドアを開き、シャーロックがその長身を折ってさっさと身を収めてもまだ衝撃から抜け切らない始末だった。
おまけにマイクロフトの所有車といえば、以前に見た時は先代のX358だった筈で、どうやら買い換えたらしいとは察しがついたが、元より高級車であるジャガーを、モデルチェンジしたからと買い換える発想はジョンには無く、その時点でやはりゴッサムシティの大富豪ウェイン財閥とホームズ家には、日々の暮らしに汲々とする庶民から言わせれば見上げるばかりの貴族の如き生活があるという時点で共通点は多いと再認識する他はなく、唖然として突っ立っているジョンを呆れたように冷たい目で一瞥する彼女の視線に押されるようにしてシャーロックの隣に収まったものの、それから車が滑るように動き出し、交差点を曲がるまでたっぷりとジョンは無言のままだった。ジャガーだ。十万ポンドはする!
つまりアンシアと最初に会ったのはシャーロックと出会った翌日で、その時点では車はX358だった。事件現場でシャーロックに置き去りにされ、一人フラットへ戻ろうと歩いているところをやはり黒塗りのX358が横付けされて、連れて行かれた先がマイクロフトの所だったのだ。その際に案内してくれたのがアンシアで、ジョンはその場で彼女の名前を訊いた。それって本名? という問いには「いいえ」と返って来たから実際のところ、彼女の名前がアンシアなのかどうかは不明なままだが、そんな事は些細な事だろう。そしてその一部始終を、ジョンはシャーロックに語りはしなかったし、シャーロックも尋ねなかった。何もかもを共有しようとは思わない。必要な事は、そんな些細な事ではない筈だった。
シャーロックはジョンの不機嫌を悟ったのか、それ以上の追及をしないまま窓の外を眺めている。ジョンはこめかみを何度か揉み、都度盛大に溜息を洩らしてから、ようやくシャーロックを見た。
「これ、この車、君が呼んだのか」
シャーロックは面白くもなさそうに一つ頷いた。当然だと言わんばかりだ。
「ちょうど良かった。目的は一致している」
「目的って何だよ?」
今に至るまで、行くところが出来たというその行き先を聞かされていない。シャーロックは小さく眉を上げ、ジョンを見詰めて目を細めた。完全に夜の帳が下りたロンドンは暗い。街灯の光だけが頼りの視界はシャーロックの青灰色の瞳をモノクロに染めて色を窺わせなかった。
「バットマンだが」
「何?」
「バットマンだ。バットマンとロビン。マイクロフトと話していただろう」
ジョンは眉を寄せた。二度瞬いてシャーロックを見直す。涼しい顔をして見詰め返す同居人に目を眇め、唇を舐めた。こっちはこれから行くらしい目的地について尋ねているのだ、という当然の抗議は喉元まで出掛かって押し留められる。結局のところ、シャーロックは言いたい事しか言わない。判り切っている。
「バットマンがどうかしたのか?」
一体今から行く先と、何の関係があるというのだ。意味が判らない。但しこの男の言う事は大抵は意味が判らないから今に限った話ではなく、そもそもジョンの問い掛けなど無視されている公算も高い。ジョンの苦り切った顔など見えても居ないかのように、シャーロックは涼しい顔で一つ頷いた。
「ジョン、君はどこでそんなにバットマンに詳しくなったんだ?」
そんな事か、とジョンは再び盛大な溜息を洩らした。結論、この男は人の話など聞いては居ない。良く判った。あれこれ考えるだけ無駄なのだ。ジョンは再び唇を舐めた。要するに、シャーロックには行き先を説明する気が無い。だが経験則として、こういう時にはシャーロックに意図を問い質すより、尋ねられた事に素直に答えて行く方が実は目的の回答には早く辿り着く。そんな事を思い知らされている己の立ち位置一つに疑問を覚えないではないが、少なくとも今この直面している苛立ちは腹の底に沈める以外に対処法も無いのだった。
「子供の頃にカートゥーンチャンネルでアニメを見たし、アフガンで」
「アフガン?」
ジョンは首を竦めた。
「そう、アフガンだ。どうも今日はあの場所に引き戻されるな」
苦笑する。そういえばシャーロックに、あの乾いた土地での出来事は殆ど話した事が無かった。夏は暑く、冬は極寒になるアジアの大地。国土の大半は山岳地帯で、生活は厳しい。イギリスとは浅からぬ因縁で結ばれた、あるいは大英帝国の犠牲になった、というべきかもしれないイスラムの内陸国。大国のパワーゲームに翻弄され続け、現在に至るも国土の平穏を得る事が出来ていない苦汁の国だった。
「僕があのコミックを読んだのはアフガニスタンだ。前にも言ったかもしれないが、僕はイギリス陸軍第五ノーサンバーランド・フュージリアーズ所属で、知ってのとおりアフガン紛争の為に南部のヘルマンドに派兵されてた。あそこがどうなってるかっていうと、基本的には総指揮を米軍が取ってる。何しろ君の言うとおり、あれはアメリカ合衆国が911テロを受けて始めた侵攻だからな」
今更な説明だ。911。21世紀最初の年のその日、二機の航空機が寄りにもよってアメリカ合衆国最大の街であるニューヨークの双子ビルに突っ込んで行った自爆テロは、その後連綿と今尚続く紛争をアフガニスタンにもたらした。
テロの首謀者と目される人物がアフガニスタンのタリバン政権によって匿われている、という大義名分は世界の警察を自認する大国が世界中を巻き込んで彼のアジアの国家を攻撃する理由を容易く成立させた。北大西洋条約機構は集団的自衛権の発動を宣言し、国連軍ではなく、有志連合諸国によるアフガニスタン攻撃を決定した。事実サウジアラビア人であり、テロ組織アルカイーダを組織したオサマ・ビンラディンはアフガニスタンで今年の五月、米軍特殊部隊によって殺害されるに至ったのだが、現在に至るまで、果たしてあの世界中を震撼させたテロが事実アルカイーダによって引き起こされたテロだったのかは判然としていない。
「そう、シャーロック、君がこの紛争を『侵攻』だと呼んだとおりだ」
ジョンは苦く笑う。自分もまた参加していたあのアフガニスタンにおける不朽の自由作戦が、果たして妥当性があったか否かと議論するのは当事者としては出来れば避けたい話題ではあった。しかもその上、オサマ・ビンラディンの死後もまだ、アフガニスタン国内の治安は安定せず、派遣された軍は完全撤退に至っていない。大西洋の向こうの大陸で起きたテロが中東・南アジアに位置するイスラムの共和国に与えた影響は余りに大き過ぎ、巻き込んだ世界各国を含めても余りに強大な力が働いたと言わざるを得ないその紛争について、簡単に纏める事は出来そうになく、挙句端的に言えばそれはただ、大国がその力をして敵対国と見做した国家を蹂躙したと呼ぶ他はない現実を招いているのだった。
「米軍は単独で維持されてるが、僕らは国際治安支援部隊の一部だった。アフガン全体は各国で受け持ちが違って、我が英国陸軍は南部のヘルマンド州が担当だ。ヘルマンドの基地は二つ、英軍基地であるバスティオン基地、それから隣接して米軍のレザーネック基地。つまり、二つの基地は交流があり、無論、兵士である僕らの間にも交流があった」
アフガン最大の航空基地バグラムでは更に各国軍の交流は盛んだ。兵舎を複数の国軍が同時に利用しているからそれも当然だった。ヘルマンドでは明確に基地が分離しているせいでバグラム程ではなかったが、それでも同じように異国に派遣された兵士同士、情報交換を兼ねたやり取りは盛んで、そもそも全ての作戦は米軍主導下に置かれているのだから、関わるなと言われてもその方が無理な話ではあった。
「米軍基地からはコミックを借りたし、こっちからは豆の缶詰を分けてやったりした。缶詰が歓迎されたかは知らないけどな」
シャーロックは一つ頷いた。
「なるほど、そこで君はバットマンを読んだ」
「そういう事」
紛争地帯の基地と言ったところで、四六時中戦闘をやっているわけではなかった。首都であるカブールであれ北部であれ南部であれ、治安は侵攻直後の一時に比べれば激化する一方で沈静化の兆しは見えず、果たしてこの紛争に終わりはあるのかと暗澹たる気分になるのに間違いはなかったが、但しそれは散発的なイスラム過激派によるテロや攻撃が起こった場合に限った話で、無論それが戦争であってさえ長閑な休養日が存在する事を思えば、何も起きないまま過ぎ去る日々は緊張感こそあるものの、いっそ紛争と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいと夢見たくなる程には穏やかだった。
「野戦病院に詰めてる連中は休む暇もなかったかもしれないが、僕は部隊付きで、部隊に怪我人や病人が出なければ、そこにいる兵士と特段代わりはなかった。勿論、階級だけは多少ハシゴが掛かってるから、尚更だ」
基本的に軍医は士官待遇だ。一般兵であるという事は有り得ない。国軍に奉職して数年、気付けば大尉と呼ばれる身分になって、ジョンはあの広大な大地を踏み、しかし基地内のベッドでアメリカのコミックスを読む自由を与えられてはいたのだった。同じ頃、野戦病院詰めになっている軍医連中は全く休養を取る暇もなく人員不足に喘ぎ、血走った目で治療に奔走していた筈だが、それはジョンには遠い世界の話だった。人は基本的に、自分の半径数フィートの世界までしか実感し得ない。
「クラス4の最下層である兵から四クラス、その上に下級下士官が二クラス、その上に軍曹、曹長と来て、准尉が二クラス、その上からようやく士官で、僕は入隊直後、訓練部隊で士官候補生になり、正式に配属されて少尉になり中尉になり大尉になった。軍ってのは階級社会だ。どんなに年下だろうと、医者だからって理由でハシゴが掛かっていようと、上官は上官、僕の下の階級なんて連中は履いて捨てる程居たし、逆に僕より上はそう簡単にその辺をうろうろなんてしちゃいなかった。要するに僕は『良い御身分』って奴だったわけだ」
バットマンのコミックスを貸してくれたのは、米軍の赤毛の青年伍長だった。気さくで明るく、イギリス英語は良く聞き取れなくてと頭を掻きながら笑っていた彼は無事に任期を終えて本国へ戻ったのだろうか。戦死者のニュースには過敏でいたつもりだが、それでも米軍の犠牲者の数は余りに多く、その全てに目を通しては居ない。
「で、それが?」
ジョンはシャーロックに向かって渋面を作って見せた。肩に銃創を負って強制送還され、そのまま除隊する事になった元軍医としては、戦場の思い出は未だ昨日の続きで、それでも口にすれば遠い過去であるかの響きになる事に完全には慣れては居なかった。面白おかしく出来事を語る事は確かに可能だったが、それ以上を求められればどう繕ったところで戦場の記憶など美しいものばかりでは有り得ない。
「土台、イスラム過激派がアメリカを敵視する事も、その報復でアフガニスタンが世界中から攻撃される事も、何故そうなったんだと根本を問い掛けるなら答えなんて出そうもない不可思議な世界の真ん中で、その当事者にされている兵士が、紛争地のど真ん中で寝転がってコミックス読んでるんだからシュールな話だよな。でも、それだけだ。そしてそれは現実だった。それと、今こんな夜中に僕らがどこかへ行こうとしているのと、何の関係があるんだ? シャーロック」
「バタフライ効果だ」
は? と口を開いた形のままでジョンは硬直した。
「ロジスティック写像だ。ローレンツカオス。一九七二年、ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか。あるいはアマゾンを舞う蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる可能性について。エドワード・ノートン・ローレンツの講演だ。知っているだろう」
「ちょ、ちょっと待った」
澱みなく流れ出したシャーロックの言葉を止める。
「カオス理論?」
「そうだ」
シャーロックは頷いた。
「通常類似した、あるいは近似した現象については過程も結果も類似すると予測し、それを以って自然科学実験は誤差を無視出来ると考える。だが、カオス系に於いては決定論的で有限であるのにアトラクターが複雑で、僅かな近似差が無視出来ない差まで拡大する為に長期の予測が事実上不可能になる」
「いや待て、ストップ。そんなの急に言われても全く理解不能だ」
バタフライ効果、という言葉は知っていた。文字通りブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを引き起こす可能性についての理論だった筈だ。だが必ずしもブラジルで蝶が羽ばたけばテキサスでトルネードが引き起こされるわけではなく、その逆もしかり、即ち予測は不可能である、という力学体系の理論である。
「何で今、いきなりバタフライ効果なんだ。何の話をしようとしてる。判るように言ってくれ」
「そのままだ」
シャーロックは口角を吊り上げるような笑みを一瞬浮かべた。
「初期値が近似値であるにも関わらず結果が重大に異なる為に予測不可能に陥る現象は無論、現実的に幾らでもある。だが、直近から直近の予測については近似値はあくまで近似値だ。有意差が生じる程の長期予測でなければ、それはやはり予測可能だ。つまり」
予測を推理と言い換えても良い、とシャーロックは続けた。
「アメリカ大陸で起きたテロがアフガニスタンにもたらした混乱、あるいは、今になってジョン、君がアフガニスタンで遭遇した不可解な死についてを語る事になった偶然性」
「全然判らない!」
「物事には連続性があって逃れられないって事だ。君が聞いた事があるかは知らないが、丁度君の派兵されていた頃、英軍には物資がタリバンに横流しされているという疑惑があった。もし僕が考えるとおりなら、そういう事だ」
それきり、シャーロックは口を噤んだ。ジョンは呆然と隣に座るシャーロックを見詰める。何を言おうとしているのかも、これから何が起こるのかもジョンには何一つ判らない。唇を舐めた。ゆっくり目を閉じ、開いてから背中をクッションに預ける。車がどこに向かっているのかは判らず、アンシアも運転手も何も言わなかった。窓ガラスに映る自分の顔を見る。ヤードでガラスに映った自分の顔を見た時より疲れているように見えた。深夜。行き先も判らないナイトサファリでは疲れもする、と内心に独りごちて、ジョンは無駄と知りつつ口を開いた。
「アンシア」
返事はない。彼女が手元で弄っているブラックベリーのモバイルに爪が当たる小さな音だけが響いている。
「アンシア、この車、どこに向かっているのか訊いても?」
初対面の時、同じ質問をして「聞いても無駄よ」と返された。恐らく今日も同じだろう、という予想はしかし覆され、アンシアはバックミラーの中のジョンをちらりと見上げた。微かな笑みがその頬に浮かぶ。
「もう直ぐ、着くから」
ジョンは瞬いて数秒静止し、それから上体を引き起こした。窓の外に目を凝らす。流れる街灯。酷く見覚えのある風景だった。見間違いではないかと角度を変え、目を細めて夜の街を見詰める。目を眇めて額を窓ガラスに押し付けたジョンに、そうして背後からシャーロックが言った。
「ベーカーストリートだ、ジョン」
ジョンは盛大に眉を寄せる。結局221Bに帰るのか? だが。
「おい、通り過ぎてる」
フラットの前を、そのまま通過して、車は尚停まる気配がない。体ごと向き直ったジョンに、シャーロックが頷いた。
「ベーカー街64番地に行く」
「64番地?」
「ああ」
シャーロックの冷えた眼差しが真っ直ぐに前を向いた。
「特殊作戦執行部の、本部跡地だ」
車は、滑るように路肩に寄せて停車しようとしていた。

