00-2 Sociopath
空を見ていた。
日没が訪れたロンドンの空は、黒と紫紺と朱との不可思議な文様を描き出している。通りに面して立ち並ぶ建物に切り取られた空はさながら細くて長いフレームで、天の絵筆は気まぐれにキャンバスを染め変えている。日中は三十度になった気温は、今は嘘のように下がって肌寒い。ジャケットを羽織っているお陰で肌が粟立つほどではないが、どうやら今夜は冷えそうだ。
視線を空から地上へ戻した。パブの硝子窓に映る自分の顔と対面する。左手にグラスを持ち、短いアッシュブロンドの下で微かに眉を寄せて唇を引き結んだ三十代後半の男。とりたてて特徴があるわけでもない平凡なイギリス人の顔だ。
意識して表情を緩めた。眉間の皺は出掛けに階下に住む大家のハドソン夫人から指摘されたばかりだった。あらジョン、そんなに難しい顔をしていたら貴方のチャーミングさが台無しよ! あの気の良いご婦人は案外物事を良く見ていて、ついでに屈託なく指摘して悪びれない。
ぬるいオールド・エールを一口啜った。酸味が舌を刺す。パブの表、道沿いに並べられた幾つかのテーブルにはそれなりの数の人間がいた。首を巡らせる。細い路地。サセックス・ガーデンズとサセックス・スクエアに挟まれたこの地区は、幾つかのミューズが点在して複雑な石畳の路地を形成している。ミューズ──馬小屋広場──古き良き時代の名残だ。無論今は厩舎など殆ど残っては居ないし、それを世話する職員達の住居はただのフラットだ。それでも稀には乗馬学校の厩舎などが残っていて、風に乗って馬の嘶く声が聞こえる事もある。
耳を澄ませた。今はどうやらそんなものは聞こえない。
この場所から直線距離にして230ヤードも南へ行けば、ハイドパークの有名なイタリア噴水に行き着く。ベイズウォーター・ロードに出れば水の匂いがする筈だった。だが流石にここまでは、その水の匂いも届かない。代わりに、乾いた土埃の匂いがしている。
更に一口エールを啜った。見るともなく見遣る周囲のテーブルはどれも賑やかだ。カップルと思しき若い男女、やや年配の夫婦、学生の男友達数人で騒いでいるのは、何かのゲームに興じているところ。漠然と観察をする癖はここ半年で身に付いた物で、控え目に言っても明らかに同居人の影響だった。見るだけでなく観察しろ、と事ある毎に言われていればそうもなる。但し、流石に同居人程の詳細な観察眼は持ち得なかったし、そもそも持つつもりも毛頭ない。
グラスをテーブルに戻し、右手で左の袖口を少し捲った。これだけは奮発したタグ・ホイヤーの腕時計に視線を滑らせる。角形ケースの中にクロノグラフが並ぶ黒い盤面で、針は午後八時台を示していた。ちらりと辺りを見回す。まだ暫くは明るいだろう。典型的なロンドンの夏の夜だ。微かな風がアルコールで僅かに火照った頬を撫でる。
一つ息を吐いて立ち上がった。フラットに帰るには良い頃合いだ 。いい加減、流石の同居人も、と思ったところでポケットから振動が響いた。モバイルだ、と眉を寄せて手を突っ込む。黒いそれを引っ張り出した。姉のお古のノキア、N97。このスマートフォンのモデルは、シルバーと銘打たれているが外観は全体的に黒い。液晶画面をタップすると素っ気ない一文が浮かび上がった。
《どこに居る? SH 》
すばらしいタイミングだ。今まさに君の事を考えていた、と返信のショートメールを送るべきか半秒考えてやめた。相手は可愛い女の子でも理知的な美女でもない。片眉を上げてもう一度文面を見てから表示をオフにし、モバイルをポケットに戻した。どうせ今から帰るのだ。抛っておけば良い。相手は一人で留守番をしている幼子でもない。子供じみた大人ではあるかもしれないが。
「ジョン!」
呼ばれて振り返った。立ち上がったのを目敏く見付けたのだろう。斜め後ろの男性二人組が立ったテーブルからビターのグラスを二つ回収して、パブのオーナーが大股に歩み寄ってくるところだった。
この顔中に髭を生やした大男とは顔馴染みだ。五フィートに足らないジョンより一.五フィートも大きい彼と目を合わせようとすれば殆ど真上を向く勢いで見上げる必要がある。肩を竦めると、「もう帰るのか」と熊のような手で肩を叩かれた。
「元々夕食前の散歩のつもりだった」
「食べていけば良い」
「そうしても良いんだけど、フラットで同居人がどうせ何も食べずにいるだろうから」
もう一つ肩を竦めた。豪快に笑い声を上げたオーナーが「なるほど例のシェアメイト」と口にするのに眉を上げて返事の代わりにする。例の。まさに。
「探偵だろ? あー、シェ……違うな、シャー……?」
「シャーロック」
「そう、シャーロック・ホームズ。そうだった。ジョンのブログを読んだぜ。名探偵だ」
「その通り」
口角を引き上げて笑みを作る。その通り。同居人はシャーロック・ホームズという名の探偵だ。本人が言うには『諮問探偵』。年の初めに出会い、ベイカー街221Bでフラットシェアをする事になった。季節が冬から春を経て夏になった今、ジョンがブログで彼の解決した事件を公開している為に徐々にロンドンでの知名度は高まりつつある。
「『Dr.ジョン・H・ワトスンのブログ』、大した人気だぜ? 時折アクセス過多で読み込めない」
「ホントに? 嬉しいな」
今やタイトル詐欺の様相を呈して、医者であるジョンのブログというよりは完全に同居人との事件記録及び公開簿と化しているブログだが、既にこれだけ広まってしまえばおいそれと変える気にもならなかった。そう、タイトルなど些細な事だ。それは記号であるに過ぎない。
「事件も面白いが、俺ぁジョンとあの探偵がコメント欄でやり合ってるのを読むのが好きなんだ。面白くてな」
くつくつと店主は喉の奥で笑った。ジョンは眉だけを上げてみせる。ブログのコメント欄にシャーロックが何かを書き込むとすれば決まって文句だ。曰く表現が陳腐だ、余計な修飾詞を入れるな、感嘆符が多過ぎる! 最終的にそれが口頭でやれば良いような応酬になるのは日常茶飯事で、それについてブログの読者から揶揄されるのはこれが初めてではなかった。
「アンタのパートナーは随分と変わってるよ、ジョン。変人だ」
「どうも。その通り」
とてもじゃないが否定は出来ない。何しろ本人ですら自身を『高機能社会不適合者』と称している始末だ。
「一度くらい、連れて来てくれよ」
「機会があったらね」
軽くあしらって手を振った。シャーロックを連れて来る? ここにか? ささやかな逃避場所を台無しにされるのは避けたい。下手をすると二度と出入り出来なくなりかねないのだ。シャーロックと同行すると大抵の場所では騒動が起こる。ここが例外になる保証はなく、だとしたら分の悪い賭けだ。勝てないと判っている賭けはしたくない。賭けなんて物は、五分五分か多少の分の悪さを覆すのが楽しいんじゃないか。多少でなくなったらただの自殺行為だ。
「残念だな、ジョンがうちに来るのは機嫌の悪い時だ。どうやら俺に名探偵とお目に掛かる機会はないらしい」
「……なんだって?」
「また何か揉めたんだろ? だからうちに来て飲んでる。なあジョン、どうせ夕食の心配をしてやって帰るんだ、喧嘩もほどほどにしとけよ。ブログ読む限り、変人だが良い彼氏じゃないか、ジョンを理解してる」
思わず棒を飲んだような顔で突っ立ってオーナーの顔を見詰めた。端から端まで全部間違っていれば反論のしようもあるが、何故ごく一部だけが誤っているのか。
「いや、僕とシャーロックは」
「まあ仲良くな!」
判っていると言わんばかりのオーナーのウィンクにジョンは言葉を呑み込む。これは何を言ったところで無駄なのだ、という諦めの早さもこの半年で拍車が掛かりつつあった。ジョンとシャーロックの関係は、何故か基本的に誤解されるのだ。そしてその誤解は概ね解けないままになる。
それでもジョンが何かを言おうと口を開き掛けた瞬間、またポケットでモバイルが震えた。うんざりと目を閉じてポケットからノキアを取り出す。オーナーはわざとグラス二つをぶつけてカチンと音を鳴らすとパブの中へと戻って行った。それを横目に再び液晶画面を見る。
《一秒でも早く戻れ SH 》
盛大な吐息を置き土産にして路地を歩き出した。ベイズウォーター・ロードに出て、ハイドパーク沿いを歩こう、と決める。乱暴にモバイルの表示を切ってポケットに突っ込み直した。恐らく眉間の皺は最初より深くなっている。誰が一秒でも早くなど帰ってやるか、と内心に堅く決意して、ジョンは大股に石畳を踏み締めた。
それで? と言った声は冷ややかに低かった。
ジョンは肩を竦めて唇を舐める。221B。帰り着いたフラットのグランドフロアで大家のハドソン夫人が「作り過ぎたビーフシチューで良かったら食べる?」と渡してくれたプロクックのステンレス製両手鍋のお陰で手は塞がったままだった。
ジョンとシャーロックが彼女から借りているのはファーストフロアだ。グランドフロアは扉から真っ直ぐに廊下が伸びて、突き当たりがハドソン夫人の居室の入り口になっている。その手前にファーストフロアへの階段があり、銀色に輝く鍋はその階段前で受け取った。鍋を抱えて階段を上がるのは苦でもなんでもなかったが、リビングへの扉が閉まっているのには閉口した。シャーロック、開けてくれシャーロック! と大声を出したのは同居人がどこにいるか判らなかったからで、どうやらリビングに居たらしい彼が即座に扉を開いたのは良かったが、そのまま無表情に見下ろされて目を細められた挙げ句、告げられたのが「それで?」という冷たい一言だというのは余り喜ばしい事態ではなかった。
「何? この鍋なら下でハドソンさんが。温めて食べよう。夕食まだだろう?」
「鍋じゃない」
返された言葉は更に冷ややかだった。ジョンは同居人の顔を見上げる。
シャーロックはいつも通りだった。濃いワインレッドのシャツ、黒のスラックス、どちらも高級ブランドの商品なのは買い物に付き合ったから知っている。ドルチェ&ガッバーナにスペンサーハート、どちらもジョンには縁がない。長身痩躯、ジョンよりは五インチと少しくらい背が高い。つまり頭半分くらい。暗褐色の巻き毛に彫りの深い白皙の顔立ち、瞳の色は今はブルーグレイに見える。無表情。声は低い。元々かなりの低音だから普段と違うかと言われればそんなには違わない、心持ち冷ややかさが増しているかどうか。つまり機嫌が良いか悪いかと判断するには些かニュートラルに過ぎる。判断は保留。
「鍋を下ろしたいんだ、そこどいてくれ」
目の前にシャーロックが突っ立っていてはどうにもならない。が、同居人は目を眇めたまま動かなかった。やはり機嫌が悪いのか。だがそもそも口論の時点で腹を立てていたのはジョンの筈だった。まあいい。そんな逆転劇など慣れっこだ。
「シャーロック、どいてくれ」
「君は買い物に行くと言って出て行った」
「ああ、してきたよ買い物」
鍋を持つ両手の内、左手を主張する為に肘だけを上げて見せる。
「鍋の陰になって見えてないかもしれないけど、ビニール袋持ってるんだ。とにかくこれを下ろしたいからそこをどいてくれないか」
返事はなかった。代わりのように、眇めた視線が頭の先から靴の先までをなぞるのを感じてジョンは宙を仰ぐ。来るぞ、と身構える間もなく、目の前の男の口が開いた。
「君が買い物に行くと言ったのは口実だ。今、このフラットで不足している物はない。ミルクは冷蔵庫、パンやコーヒーは買い置きがあるし豆の缶は戸棚に積み上がってる。調味料が切れているわけでも洗剤やバス用品が切れているわけでもない。すなわち買い物は口実で君が出掛けたのはここに居たくなかったからだ。理由は明白、その前の僕との口論だ。おおかた君は怒りに任せてハイドパークの辺りまで歩き、気を静める為にパブで一杯引っ掛けてから頃合を見て帰宅した。いつものパターンであればそれに要する時間は一時間から一時間半。僕はそのタイミングでメールを送った。なのに君はそれから更に一時間も経てからようやく帰宅した。何をしていた?」
これだ。ほぼ一息。流暢に過ぎるキングス・イングリッシュは澱みなく溢れてジョンの頭上から降り注ぐ。足元に溜まったそれは小さな池を作り、更に流れて階段に向かって小川を作る勢いだった。職業『諮問探偵』、シャーロック・ホームズは観察した些細な事柄から全てを見抜く。見抜くだけなら天才だと賞賛していれば済むが、この男の場合はいかんせん『高機能社会不適合者』だから始末が悪い。
「シャーロック、わかったからどいてくれ、この鍋そんなに軽くないんだ」
シャーロックは片頬を歪めて僅かに首を伸ばし、スンと鼻を鳴らした。
「パブで呑んだのはオールド・エール。君の習慣としてそれはグラス一杯だけだ。残り香から推測するに呑んでから既に一時間。つまり僕がメールした時には呑み終わっていた。それから一時間も帰宅に掛かった理由はなんだ? 買い物に行った、という口実を履行する為にドラッグストアに寄っただけじゃそんなに掛かるわけがない。君の愛用のそのユニクロのジーンズ、膝が白くなっている。どこか路地で膝を衝いたんだ。何の為に? Oh、君のその左手の爪、表面は拭き取ったんだろうが爪の中に残っているそれ」
にこりと口角だけを無理に引き上げるような笑みを浮かべてシャーロックはジョンの左手の人差し指を撫でた。
「何をしてた? ジョン。これは血液だ。君は怪我をしていない。これは誰のものだ」
お手上げだ。
ジョンは盛大に息を吐いて肩を竦めた。そもそもシャーロックに隠し事が出来るとは思っていない。どこまで見抜かれているのかは考えないことにしている。
「オーケイ。素晴らしい推理だシャーロック。話すからともかくどいてくれないか。食事をしながら説明するよ」
ふん、と満足気に片眉を跳ね上げてようやくシャーロックは片足を軸に半身をずらした。どうぞ、と首を振られてジョンはどかどかとリビングを横切る。リビングからは左手に続いているキッチンへ踏み込み、ぐるりと見回して瞬時に諦め、買い物のビニール袋ごとコンロの上に鍋を下ろした。
「なぁおい、シャーロック。キッチンテーブルを実験器具で占領するのは止めろって言ったよな? 最低一フィート四方は空けておくって約束はどうなったんだ」
鍋の下敷きになったビニール袋の端を引っ張り出しながら言う。右手でそのビニールを握ったまま左手で鍋の蓋を少し持ち上げ、充分に水分があるビーフシチューの状態を確認してコンロに火を入れた。更に同居人に苦情を申し立てようと身体ごと振り返る。しかしそこでジョンは思わず顎を引く事になった。目の前にシャーロックが立っている。
「音もなく背後に立つなよ!」
「取り立てて僕は足音を殺した覚えはない。聞こえなかったとしたらジョン、君が盛大に音を立てていたせいで僕のせいじゃない。テーブルの件に関しては、君が居なかったのが悪い。僕は君を呼んだ。それから一時間以上も経ってから帰宅した君に言われたくない」
「……ちなみに後学の為に訊いておくけど、僕が帰って来てたら何をさせられてたんだ?」
「僕が顕微鏡を覗いている状態で口述するデータを君が書き留めてくれていたらこんな風にはなっていなかった」
なるほど、とジョンは頷いた。キッチンを見回す。自分の背後にはコンロ、その隣にはシンク、右手の壁には棚と冷蔵庫、その隣がシャーロックの部屋へ続く扉、向かい側の壁には食器棚や食料品棚、並んで直接キッチンから階段ホールに出る扉。目の前にはキッチンテーブル、左手がリビングに続く仕切りで、今はその磨りガラスの引き戸は開け放たれている。
一巡した視線はそしてキッチンテーブルに固定された。キッチン中央に据えられたそれは小さくはないテーブルだが、その全てが化学実験の道具に占領されている。顕微鏡、シャーレ、フラスコ、試験管、試薬の瓶、書類、ピンセット、メス、ビニール手袋、数え上げればキリがない。顕微鏡はプライアー社のZOOM Master65というモデルで、これは英国を代表する顕微鏡メーカーの傑作だったが、少なくともジョンはこれを研究者でもない個人が所有している例をシャーロック以外に知らなかった。シャーロックがどれだけオプションを所持しているか確かめた事はないが、オプションがなくとも最低八〇〇ポンドはする筈だ。病院の備品としてだって経理にしぶい顔をされるというのに!
「つまり顕微鏡の隣に紙を広げる必要があったから、そこにあった試薬類を押しやる必要があり、その為に空けてあった一フィート四方はやむなく埋まったって事」
「その通り。陥落は必然で、何もいたずらに不法占領したわけじゃない。侵攻はやむを得ずなされた。常にNATO軍あるいは国連軍、ないしアメリカ合衆国軍が広報するのと同じように」
ああそう、と素っ気なく言い放ってジョンは唇を引き結んだ。また眉間に皺が寄っているだろう事は確かめるまでもなく判りきっていたが最早瑣末な事だ。ついでに、メモを取らせる等という実に些細に過ぎる用件で呼び戻されていたらしい事もそれこそ瑣末な事だった。シャーロック・ホームズを相手にしている限り、こんな事は日常茶飯事だ。
「ちなみに喩えが軍隊なのは僕に対する嫌味?」
「まさか。勇敢なるアフガン帰りのジョン・ワトスン大尉に僕がそんな事をすると思うか?」
「思うね」
顰めっ面で即答してから結局噴き出してしまった。シャーロックが肩を竦める。
「最初に『アフガンに侵攻した』と皮肉を言ったのを根に持ってる?」
「いや? あれは気の利いたジョークだと思った。確かにもう少しバリエーションは欲しいけど。そろそろ飽きる」
「君に気の利いたバリエーションがないのが悪い」
「アフガン帰りの元軍医で心的外傷後ストレス障害持ち、今は世界で唯一の『諮問探偵』の助手兼専属ブロガー。これ以上バリエーションが必要か?」
大袈裟に目を瞠って仰け反って見せた。出会った直後、いきなり遭遇した事件で無茶苦茶なタクシーの追走劇を繰り広げる羽目になった夜、こんな馬鹿な事は初めてやったと言ったジョンにシャーロックは『アフガンに侵攻したじゃないか』と言ったのだ。あれは気が利いていた。まさにアフガニスタンへの軍の派遣は馬鹿な事に違いなかったし、好き好んで派遣されたジョンは馬鹿に違いない。イギリスでは軍人は全て志願制だ。戦争という行為は、人類が克服する事の出来ない永遠の病の一種だろう。
「心的外傷後ストレス障害? 足はもう治ったから無効だ」
「君のお陰でね」
肩を竦めてビーフシチューの鍋に向き直る。タクシーを追って掛け出したあの時、動かない筈だった足の事をジョンは完全に忘れていた。それきり、二度と杖が必要な事態にはなっていない。退役の直接の原因になったのは撃たれた左肩の傷で、なのにロンドンに送還されたジョンは右脚が動かないという後遺症に悩まされていた。完全なPTSDだ。そうしてシャーロックは、唐突な追走劇という演出で見事なまでにそれを治してしまったのだった。
思い出して少し可笑しくなる。誤魔化すように鍋を覗き込んだ。レードルが鍋に入ったままだったのは助かった。緩やかな渦を描いてとろけていく茶褐色のソースを掻き混ぜる。食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。ハドソン夫人の料理はいつだって絶品だ。
「見ろよシャーロック、旨そうだ」
「旨いだろう。ハドソンさんのビーフシチューが失敗したのを僕は見た事がない」
言いながら、それでもスン、とシャーロックが鼻を鳴らした。ジョンの全身を点検した時のそれよりは随分と控え目に上品だ。少なくとも夕食を口に入れる気はあるらしい。つまり、今は事件を抱えていないし、どうやらこのダイニングテーブルで繰り広げている何らかの実験も切羽詰まっていないという事だ。本気で『仕事』に取り組み始めるとシャーロックは碌に食事を取らない。
もう一度鍋に蓋をし、火を緩めてから戸棚に向き直る。シチューの為の皿と、丸パンを幾つか出すべきだった。後は冷蔵庫に残り物のマッシュポテトがある、と算段し、自分がまだドラッグストアのビニール袋を握っている事に気付いた。
「シャーロック、これ向こうのテーブルにでも置いてくれ」
無意味に背後に突っ立っているくらいなら、その位はしてくれても良いだろう。腕を突き出すとシャーロックはそれを受け取り、胡乱な目でばさりと広がったビニールの中身を検めた。
「消毒薬と脱脂綿、カットガーゼに綿棒? こんな物を入れるだけでこんなに大きな袋が必要か? 第一何だってこんなものをこんなに買って来たんだ、ここは君の個人医院を開業出来る程には広くない」
「誰の為に買って来たと思ってるんだ。ああもう、良いから向こうへ行ってろよ。どうしても立っていたいならパンくらい運べ」
シャーロックはジョンを見下ろし、無造作にビニール袋を放擲した。狙い過たずそれはリビングのマントルピースの前、ジョンが定位置にしている一人掛けのソファに納まる。この同居人は存外ものぐさだ。何かを寄越す時にそれが飛んでくる確率はそれなりに高かった。消毒薬はプラスチックボトルで、壊れ物でもないからまあ良い、とジョンはそれには言及せずにシンクで水を出して手を丁寧に洗い、戸棚からパンを入れた籠を出してそのまま渡した。流石にそれを投げる気はなかったのだろう、シャーロックは籠を抱えてリビングに足を向ける。それから不意に肩を竦めた。
「あぁ、判ったぞジョン」
ジョンは思わず不審気に眉を寄せて視線を彷徨わせた。判った? 何を? 買い物の理由か? そうその通り、君が碌でもないところで碌でもない理由による怪我をする上にそれを隠そうとするからだ。ああそうだとも。君は何を怒ってるんだと不思議そうに言ったが口論の原因はそれだ。ようやく判ったのか御名答。違うな、それじゃない。
「何が」
シャーロックは小さく首を振った。そのまますたすたとリビングのテーブルに歩み寄り、椅子に腰を落ち着ける。何かを確認するように視線を動かし、ゆるく瞬いてから再び口を開いた。
「君は怪我人を見付けたんだ」
断言して頷き、そう、怪我人だ、と呟いてキッチンへ首を振り向ける。
「恐らくはどこかの路地、蹲る誰か、大方男性だろう、子供でも若者でも老人でもない彼、を見付けて声を掛け、膝を衝いた。それで君のジーンズは乾いた土埃で白く汚れた。君はそんな事は意に介さない。何故なら君は医者で、道徳心と善意に溢れている。そうして相手が怪我をしていると判った君は、ドラッグストアで買ったばかりの止血パッド、あるいはガーゼの大袋とサージカルテープ、包帯を気前良く提供した。いつもは二本セットで買って来る消毒薬が一本しかないのもそのせいだ。その場で使った、そうだろう? だからビニール袋は不必要に大きい。入っていた物が減ったからだ」
ジョンは唇を引き結んで鍋に向き直った。火を止める。出した皿を苦労してシンクの横の僅かなスペースに並べようとして止めた。冷蔵庫の扉を開き、ボールに入ったマッシュポテトを取り出す。皿とボールを抱えてリビングに運んだ。シャーロックはパンの籠を持ったまま椅子で長い足を組んでいる。
「答え合わせは? ジョン」
「ご明察」
盛大に肩を竦めた。テーブルに皿を並べ、ボールを置いてからシャーロックが持ったままのパンの籠に手を伸ばす。引き取ってこれもテーブルに載せてから一つ息を吐いた。名探偵。なるほど。座っているシャーロックを見下ろし、首を傾げて訊いた。
「何で判った?」
シャーロックは薄いブルーグレイの瞳を細めた。小さく口を開いてから閉じる。両手を唇の前で合わせ、緩やかに目を閉じてから開いた。
「聞いていなかったのか? 根拠なら、既に全て述べたと思うが」
「勿論聞いてた。何故、若者でも老人でもない男性だと?」
そんな事か、とシャーロックは鼻を鳴らした。
「相手が君のいわゆる射程範囲内の女性だったとしたら、君は怪我をした彼女をそのまま帰したりしない。よしんば病院に送り届けたとして、帰宅したら真っ先にその話を僕にしただろう。君は僕に言わせれば実に不毛な事に女性と恋愛関係に陥るのが大好きだ。そして頼みもしないのに美人を見ただの知り合っただのと僕に報告する。今日はしなかった。だから妙齢の女性じゃない。年寄りや子供、少なくとも君が自分よりか弱いと判断するような相手であったとしたら男女を問わず、これも君は抛っておかないだろう。そんな事は君の『常識』には入っていない。残るのは一定の年齢の、君が『仕方ない、自分に出来る事はした』と思える相手。そういう事だ」
「素晴らしい。君は凄いな、シャーロック。まるで見てたみたいだ」
シャーロックは片眉を上げただけで何も言わなかった。ジョンはキッチンに引き返し、カトラリーから数本のフォークとスプーンを無造作に掴んでコンロに向かい、鍋を持ち上げた。全部をリビングのテーブルの上に運んで下ろす。大振りのスプーンをマッシュポテトのボールに突っ込み、残りを適当にシャーロックと自分の前に分けてから椅子を引き、しかし座らずに鍋の蓋を開けた。ビーフシチューの香りは芳醇だ。
「確かに男性だった」
レードルでビーフシチューを皿に取り分けながら言う。
「そうだな、僕よりは大柄だったと思うけど、君ほどの身長はなかった。体格は悪くない。鍛えてる風だった。暗がりだったからはっきりとは判らないけど、触れた感じではね」
「怪我をしていた?」
「そう。左の脇腹だ。声を掛けた時には返事がなかった。気を失ってたんだろう。出血と痛みのせいだろうな」
夕食の席に相応しい話題かは議論の余地があるが、221Bではこれも日常茶飯事だ。食事時に死人や怪我人、グロテスクな事件の話を忌避するデリケートさは少なくともここでは考慮されない事になっている。ビーフシチューの皿をシャーロックの前に置いた。
「オックスフォード・ストリートから、ポートマン・ストリートに出る一本手前で曲がった。ホテルの……ハイアットの前を抜けるつもりでね。彼が居たのはだからバークレー・ミューズの路地だ」
もう一枚の皿に自分の分のビーフシチューを取りながら続ける。
「最初は気付かなかった。停めてあった車の陰になってたし、全体的に黒っぽい服装をしてたんだ。何で気付いたんだろうな、一歩通り過ぎてから、少し気になって引き返した。勘と言えば勘だろうけど」
「血の匂いがした?」
「まさか。でももしかしたら無意識に僅かなそれを感知したのかもな。戦場ではそんな事が生死を分けたりするから」
ここはアフガニスタンの戦場ではなくロンドンのど真ん中だ。既にジョンは軍人ではなく、それでも日常からその習慣は消えては居ない。
皿を置いて鍋に蓋をし、腰を下ろした。少し迷ってフォークを手に取る。シャーロックはパンを手にしていた。
「倒れているってわけじゃなかった。蹲ってるように見えた。どうしました、大丈夫? って声を掛けたけど返事がない。酔っ払いかとも思ったけどアルコール臭はしなかった。それで肩をゆすったら、横たわっちゃったんだよ」
咄嗟に怪我人だ、と思った。病人だ、と思わなかったのは、身体を動かした拍子に血臭が立ち昇ったからだ。驚いて目を凝らした。左腕に掛けたジャケット、シャツ、スラックス、全てが黒っぽい色で何もかもが良く見えない。ドラッグストアの袋を放り出した。軽く頬を張る。起きない。だが呼吸はあった。脈は少し多いか。皮膚は冷たい。出血性ショックと断定する程じゃないが近い。即座に全身を点検した。上から順。首、肩、胸、腹。そこで手が止まった。指先がじわりと濡れる。シャツのボタンを手早く外し、前を開いた。左脇。
「血塗れだった。強く圧迫していたのか、辛うじて血は止まりつつあるみたいだったけど、何しろ良く見えない。日は沈んだ後だった。ただ、ともかく幸いな事に僕の手元には消毒薬がある。ぶっ掛けて洗った。脱脂綿を一袋使い果たして、傷口をもっと良く見ようとした瞬間、男が気が付いた」
ジョンはそこで一息ついた。目の前に立ち込めた血の臭いを思い出す。
目を開いた男は、怪我をして気を失っていた人間とは思えない強い力でジョンを跳ね飛ばした。咄嗟に両手を広げて敵意がないと主張し、ジョンは言った。僕は医者だ! 恐らくその一言はそれなりに効果的だった。男は身構えたまま身体を起こし、だがジョンを攻撃はしなかった。まるきり手負いの獣を相手にしているのと同じだが、戦場の負傷兵だと思えば慣れている。ジョン・H・ワトスンは元軍医だ。アフガニスタン帰りの傷痍軍人でもあった。怪我を負った直後の精神状態についてなら嫌という程には知っている。
「骨に達するような怪我じゃなさそうだった。清潔にして安静にしていれば治る程度の。出来れば縫った方が良いと思ったけど、まさかあんなところでそんな事は出来ないし、どうやら男は病院に行く気はなさそうだった」
噛んで含めるように「その怪我なら病院へ」と伝えたが、男は首を縦には振らなかった。切り傷。鋭利な刃物だろう。寧ろ刺し傷、というべきか。指先で触れただけの感触ではそれは確定ではない。だが、経験上というなら、肉厚なナイフの傷だ、と思った。
「チンピラの喧嘩、痴話喧嘩、まあ色々可能性はあるけど、とりあえず命に別状はなさそうだったし僕は忠告だけはした。止血パッドを貼ってやって、病院に行くか、行かないにしても信頼出来る人にきちんと見せて固定して包帯巻けって、持ってたガーゼもテープも残った消毒薬もジャケットのポケットにねじ込んでやった。やっかいな相手だとしたらそれ以上関わっても僕が刺されるのがオチだろ? それは御免だから、彼が立ち上がって去っていくのを見送るだけにしたよ。僕が何を言っても相手は一言も喋らなかったし、結局一度も明るい場所で見てないからそれ以上は不明」
肩を竦めてビーフシチューを口に運ぶ。口の中で肉がとろけた。ハドソン夫人のビーフシチューは野菜が少し小さめで一見すると肉ばかりに見える。
「うん、美味い!」
パンを咀嚼していたシャーロックが同じようにスプーンを手にし、ビーフシチューを口に運んだ。暫く黙然と咀嚼に集中し、それから顔を上げる。ビーフシチューと一緒にジョンの言葉を咀嚼していたのだろう。微かに細めた目は何かを考えている時の色だ。
「ジョン」
「僕が君のメールから一時間何をしていたかの答えはそれで全部だ。つまりメールを貰ってから遠回りしてドラッグストアに寄って怪我人に遭遇してたって事」
シャーロックは小さく頷いた。目線が茫洋としているのはまだ何かを考えているのだろう。ジョンはそれを見詰めたままビーフシチューを口に運ぶ。流石のシャーロックもこの説明だけで何かを導き出すのは無理だろう。何か気になる事があるのなら、明日はバークレー・ミューズに行くと言い出すかもしれない。まさか事件性があるとも思えないのだが。それともあるのか?
シャーロックは無言でスプーンを口に運び続けている。もう少し皿の中身が減ったら鍋から追加してやろう、とジョンが一人決めた時、しかしシャーロックがふと表情を変えた。テーブルの右、通りに面した窓を気にするように顔が傾けられる。どうした、と訊くより早く、シャーロックが眉を寄せた。直後、ジョンにも階段が軋む音が聞こえて扉の方に目を向ける。
「誰だ? 依頼人? 何か予定あった?」
「ない。違う」
シャーロックの顔が苦虫を噛み潰したように歪められた。
「マイクロフトだ」
言葉尻に、ノックもなしに開く扉の音が重なる。ジョンは扉を見詰めていた。シャーロックは眉を寄せたまま敢えて扉を見ないように視線を逸らしている。するりと長身の男の影が立った。雨でもないのに手にした傘の柄で扉をリズミカルに三度叩く。一目で高級であると知れる三つ揃いのスーツ姿。往時の英国紳士を思わせるステッキ代わりの黒い傘がくるりと回った。ジョンは一つ頷く。この英国紳士は顔馴染みだ。かつりと鳴らされる靴音さえも何かしらの意味を伴って全体に男の得体の知れない空気を助長する。一見するとにこやかな、しかし底の知れない笑みを口元に貼り付けて、男は言った。
「やぁ、夕食中にすまない。君達に頼みがある」
シャーロックが警戒する猫のように目を細めた。

