鈍色の標的

[SHERLOCK]

 

04 Greater London

 階段を駆け降りる靴音は耳元で酷く高く響いた。
 既に深夜だ。辺りに人の姿はなく、目抜き通りであるというのにタイミングの問題か車一台すら通らない。最上階から地上まで。階段で駆け降りるのに適した階数というものが存在するかは知らず、ジョンは上がった息を宥めて大きく深呼吸した。その一瞬を立ち止まった他は一切停止しないまま道路に飛び出す。前を行くシャーロックはもう振り返りもしない。
「シャーロック!」
 思わず大声を出した。
「どこに向かってるんだ!」
「この向こうの路地だ!」
 シャーロックが振り返りざまに怒鳴った。あの男のバイクなど既に影も形もない。イアン・モームを追うしかない自分達の、しかし行き先が判らずにジョンは天を仰いだ。息が切れる。続かない。そもそも、イアン・モームは男を追った筈だった。バイクを追うのに徒歩とは考え難い。そこまで思い至ってから足を止めた。先を行くシャーロックは路地を曲がって姿を消す。振り返った。数歩を小走りに目抜き通りに戻る。左右に視線を走らせた。遠く一瞬の光を捉えて飛び出す。一つ、思いついた事があった。シャーロックの悪癖もたまには役に立つ事があるものだ。後は頼む、こっちに曲がって来てくれ!
 どうやら願いは天に通じたらしい。車のヘッドライトが眩く目を射た。腰に銃を差し直し、左手を顔の前に翳す。眩しさに目を細めたまま、さほどのスピードも出さずに近付いてくる車の前に飛び出した。大きく両手を振る。
 当然の事だが、突然飛び出して来た男の姿に運転手は動転したらしい。深夜だというのに静寂を突き破る急激なブレーキ音を響かせて車はジョンの目の前で停止した。ジョンの両手がボンネットを叩く。黒のローバーMINI。屋根だけがミルク色をしたツートンカラーの愛らしいオールドコンパクトカーだ。
「馬鹿野郎なにしてる!」
 運転席の窓が開くなり怒声が降り注ぎ、しかしその若い男の声をジョンは無視してドアに飛び付いた。街灯の真下。浮かび上がった車内の、助手席には若い女。ブロンド美人だ。青い目と口紅が鮮やかな口が丸く開かれている。オーケイなるほど深夜のドライブデート。邪魔してごめんよ。美女には限度一杯のにこやかな笑みを作ってから、ジョンは青年の上着の首を引っ掴んだ。
「警察だ!」
 言いながら右手をポケットに突っ込む。手に当たったそれを引っ張り出して一瞬だけ青年に突きつけた。
「事件で犯人を追ってる。これ貸して」
「は!?」
 青年の目が泳いだ。ジョンの手の中の身分証を凝視する。ジョンは一つ頷いた。ごめんレストレード、恨むなら君の身分証を掏ったシャーロックを恨んでくれ僕は悪くない! ああクソ、つまり何だ。緊急事態だ。
「ご協力ありがとう!」
 有無を言わさずにレストレードの身分証をポケットに戻し、青年を引き摺り出した。路肩に抛り出された青年があんぐりと口を開けたまま見詰めているのに敬礼一つ、ドアを閉める。まだ助手席で硬直している美女には、身を乗り出して助手席のドアを開けてやった。
「ありがとう! 良い夜を!」
 慌ててシートベルトを外し、転がり落ちるように降車した彼女にウインクを一つ。よし、ともかく足は出来た。たった今まで走っていた車だ。暖機運転の必要は当然ない。即座にクラッチを踏みアクセルを踏み込んだ。クラッチが繋がる。一速や二速でエンジンの回転数を引っ張るのも、急激なシフトダウンも禁物のMINIは、しかしそれでも滑らかに発進した。恐らく九六年式。BMWがMINIを含めたローバーを買収した頃の形式だ。MINIと言えば古き良きイギリスを象徴するような世界で最初のエンジン前置き前輪駆動の大衆車として知られる。四十年以上も昔に誕生し、今なお世界で愛されているこの、今やイギリスメーカーではなくなったMINIを、それでも最もイギリスらしい車だと感じる人間は少なくない筈だった。生産だけなら今でも頑なにイギリスで続けられているからあながち間違いでもないだろう。
 さて、では愛らしいこの車が街中の追跡劇に向いているかと言われれば良くはないが悪くもないという他はなく、しかし少なくとも徒歩より断然良いのも間違いなかった。
 恐ろしいまでにシンプルな車内を一瞥し、脳裏に界隈の道路地図を思い浮かべる。シャーロックはまだ彼らに振り切られずに後を追っているだろうか。その路地を入ったという事は、どこに出るにせよエジウェアロードに辿り着くか、メリルボーンロードに一度出るか、あるいはジョージストリートを抜けて反対に出るかだ。他にも幾つかの候補はあるが、最早悠長に考えている暇はなく、いざとなればシャーロックからモバイルに連絡が入るのを期待する事にして大きくハンドルを切った。コーナリングで車体が傾かないのがMINIの最大の特徴だが、どうやらあの青年、あるいはこの車の持ち主は愛車を良く手入れしているらしい。特有の跳ねるような動作でMINIは軽快に夜の中へ飛び出した。
 車の運転をするのは久し振りだ、と思う。
 少なくともロンドンに戻って来てからは一度も車を運転した事はなかった。財政的に所有する余裕もなければ、車がなくて困るような場所へ行く用事もなかったせいだ。シャーロックとの外出は概ね徒歩かタクシーを使うものと相場が決まっていたし、221Bには車を置く場所もない。
 ましてやMINIに乗った経験と言ったら、学生時代に友人が所有していたものを運転したきりだ。骨董品レベルに古かったそのMINIも、まるでゴーカートのようにきびきびと軽快な走りをするおもちゃのような面白い車だった。
 シフトをチェンジし、アクセルを踏み込む。エンジンの回転は2,000を超えた。殆ど車の走らない深夜、道路はこの車の為のサーキットだ。
 シャーロックが目立つ男で良かった、と誰にともなくジョンは肩を竦めた。人ごみの中でも目立つ男だ。こんな深夜の道路を走っているなら、嫌でも目に付く。少なくとも見落として追い越す事はない。自分の勘が間違いでなく、追い掛けると決めたこの方向が合っていれば、の話だが!
 それが聞こえたわけでもないだろうが、不意にモバイルが震えた。左手をポケットに突っ込んでノキアを取り出す。メール。
《メリルボーン SH 》
 オーケイ、と口の中で呟いた。どうやら勘は当たったらしい。前方の白いバンのテールランプに眉を跳ね上げ、アクセルを踏み込んでハンドルを切った。反対車線。構う事はない。対向車はまだ遥か向こうだ。追い越したバンの大柄な運転手が何かを怒鳴っているのがバックミラーに映り、直ぐに小さくなって消えた。対向車のヘッドライトが瞬くのを見て車線を戻る。よし、悪くない。運転の腕はどうやら鈍っていないらしい。
 メリルボーンロードは幹線道路だ。ベイカーストリートからは北のリージェンツパーク方向で交わっている。片側二車線ないし三車線の通り沿いには有名店も軒を連ねている。但し、今は深夜だから人の姿はあるわけもない。殆ど停止せずに左折方向へ飛び出した。シフトチェンジ、車体が跳ねる。スプリングの効いた普通の車ならもっと跳ねる。MINIは足回りにゴムを使用しているせいでコーナリングの傾きは殆どないから、まさにゴーカートの感触だ。
「邪魔だな」
 思わず呟いた。シフトチェンジ。アクセルを踏み込んで速度を上げながら小さく舌打ちが漏れる。道の両サイド、見事な街路樹は美しいが、そのせいで影になって見える筈のものを見えなくしている。幅の広い道路はそのまま路肩に連なる駐車列を生み出し、これもまた視界を遮って邪魔だ。まさかこんな夜中に飛び出してくる歩行者がいるとは思わないが、シャーロックがどこを走っているのか判らないから遮蔽物はないに越した事はない。左手にメリルボーン図書館を見ながら直進した。通り三つ先はソーンベリー城の名を冠したパブだ。本物の城の方はコッツウォルズにある1511年に建てられた領主の城で今はホテルになっているのだが、このパブとはとりあえず関係がない。いっそエールの一杯や二杯を胃に収めたい気がするのは山々だったが、少なくとも営業時間でもないし状況的にそんな事が赦されるわけもなく、ジョンはパブを横目に素通りする。こんな事なら腹立ち紛れの散歩の際にもっと飲んでおくんだった。 
 エールはさておき、しかしこれからどうするか。ウェスタン・オフサーミック病院を通り過ぎれば真っ直ぐにフライオーバーを直進するのか、あるいはエジウェアロードに入るのかの選択に迫られる。そもそもエジウェアに入るのなら手前のオールドメルボーンロードに入るなりチャペルストリートに入る手もある。
「おいシャーロック! どうするんだ!」
 狭い車中で喚いた瞬間、まるでそれが聞こえたかのようにモバイルが震え始めた。着信のバイブレーション。即座に耳に当てる。
「シャーロック!? どこだ!」
『君はどこだ』
 電波の向こうのシャーロックの声は普段と少し違って響く。その末尾を攫うようにしてウェスタン・オフサーミック病院と答えると即座に『オールドメルボーンへ』と指示が返った。片手でハンドルを回しながら左折体制に入る。十字路ではなくY字路だから、ハンドルの動きは僅かだ。
「それで!?」
『バス停がある。そこで』
 そもそもジョンがMINIに乗っている事すら知らない筈だがシャーロックは何も言わない。そのまま通信が切れたのを確認してジョンは眉を跳ね上げた。オールドメルボーンロード沿いには、エジウェアロードに出るまで一つしかバス停はない。ともかく行けば判るのだろう、とアクセルを踏んだ。オールドメルボーンに車を乗り入れる。見事なまでに閑散としている。600フィートも行かない位置にある筈のバス停は、道が緩やかなカーブを描いている為に未だ見えず、しかし油断すれば直ぐに通り過ぎてしまう。普段馴染みの余りない道の、しかも深夜となれば様子はイマイチ覚束ず、目を凝らした瞬間にそれは目に入った。
「シャーロック!」
 思わず大声を上げる。ハンドルを切りながらシフトダウンし、ブレーキを踏んだ。タイヤが擦れる酷い音が響く。MINIには酷な動作だが、どうやらギリギリでご機嫌は損ねずに済んだらしい。円形に横一本のラインが入った赤いバスのマークが浮かぶ標識の手前、殆ど飛び込むようにして歩道に突っ込むと、見慣れた長身が驚きの手早さで助手席に収まった。閉まるドアの音と同時に低い声が指示を投げる。
「このままエジウェアロードに出ろ、ジョン」
「判った」
 クラッチを繋ぎバックで急発進した。またもやタイヤが悲鳴を上げる。フロントパネルに片手を突っ張ったシャーロックの声が跳ねたのを構わず即座にハンドルを切って飛び出した。
「何がどうなってる?」
 尋ねながらまたハンドルを切る。エジウェアロードとの合流は左折車線だけ分離している。三角地帯の歩行者信号は街灯の明かりがあるとは言え、塗装が黒い為に夜に沈んで碌に見えない。遊園地のゴーカートさながら殆ど遠心力任せにコーナーを曲がると、今度は座席に押し付けられたシャーロックが天井に腕を突っ張った。
「ジョン! そんなに慌てなくても追い着ける!」
「別に慌ててない」
 エジウェアロードも当然のように歩道側は駐車列で埋まっている。アクセル。中央分離帯のコンクリートにタイヤを擦って車体が跳ねた。長身のシャーロックには狭すぎるMINIの車内でばらばらにシャーロックの腕が踊る。
「ジョン!」
「煩いな」
 久し振りの運転はようやく両手がハンドルに馴染み始めた頃だった。深夜の幹線道路。サーキット代わりにはもってこいだ。
「それでどこに向かってるんだ僕達は」
 このままエジウェアロードを南下すればマーブルアーチに辿り着く。そこまで行ってしまうとオックスフォードストリートに左折、あるいはベイズウォーターロードに右折、さもなければハイドパーク沿いを走る事になる。更に南下するなら、後にした筈のスコットランドヤードも目と鼻の先だ。
「テムズ川を越えるとか言うんじゃないだろうな」
「グレーター・ロンドンを出る前までには彼らも仕掛ける筈だ」
「グレーター・ロンドン!」
 冗談じゃない。真夜中だ。今からロンドンを出たのでは朝までに221Bに帰る事の出来る確率は限りなく低い。
「そもそも大丈夫なのか、ここを真っ直ぐ?」
 未だに前方にはテールランプの一つも見えない。対向車もなしだ。昼間は嫌という程に賑やかな通りだが、店の一つも空いていない深夜には当然静まり返っている。
「ベントレー・ミュルザンヌ」
「何?」
「我々が追っている車種だ」
「なん、どこから出て来たんだ、そんなもの」
 思わず眉が寄った。ベントレー・ミュルザンヌ。要するに高級車だ。マイクロフトと言い、どうしてこう突拍子もない世界の差を見せ付けられるのか。男はバイクで逃走した。となれば、つまりそれはイアン・モームが乗っている車だという事になる。諜報員というのはそんなに高給なのか。こっちは借り物ですら庶民派の代表であるMINIだぞ。
「どこからも何も、イアン・モームがここに来るまでに乗って来た以外に何がある。僕らのところから逃げ出した後、彼は愛車、かどうかは知らないが、を取りに行き、戻って来た。僕の読みは一応は当たったわけだ。彼の目的地はSOEだった筈だ」
「全く君の推理は素晴らしいな!」
 拍手でもしてやれば良いのかもしれないが生憎とハンドルを握っている。なるほどイアン・モームが初めからベイカー街に用があった、と推理したシャーロックは正しかったのだろう。つまりあそこで待ち伏せようと考えたのも間違いではなかった。あの男さえ現れなければの話ではあったわけだが。
「で、逃げたあの男は何。北アイルランドの工作員か?」
 殆ど自棄のように口にしたジョンに、シャーロックは「工作員と呼ぶかはともかく、君の想像しているものが僕と同じならば、その可能性は高いな」と頷いた。それに驚いたせいでもないだろうが僅かな段差に車体が跳ねた。大きく口を開いたまま下唇を舐める。
「シャーロック。つまり何がどうなってる?」
「判らないのか?」
 驚いたようにシャーロックが眉を寄せて顔を振り向けた。ジョンはようやく口を閉じて大きく頷く。
「生憎と、何がなんだかさっぱりだ!」
 同じような位置に同じように怪我をした男が二人。しかも今はそれが追走劇を繰り広げている、のを更に追っている。何故こんな事になったんだったか、と考えるのも馬鹿らしい。今夜が碌でもない夜である事だけが間違いなかった。
「ああハドソンさんのシチューを食べたのが随分昔の事みたいに思えるくらいさっぱりだ!」
「そうだ、鍋を買い直すのを忘れるなよ、ジョン」
「僕の責任か?」
 憤然と横目で睨んだがシャーロックは今度は真っ直ぐに前を見詰めていた。思いがけず真剣なその顔に驚く。シャーロックはそのままついと指を上げた。前方を指差して身を乗り出す。
「ジョン」
 つられてシャーロックの指が示す先に視線が向いた。両サイド、立ち並ぶ建物の間を抜ける幹線道路のお陰で正面は夜空が広がっている。街灯に照らされた地上は無人で酷く作り物めいて見えた。その真ん中に。
「あれだ。テールランプ」
「追い着こう」
 ハンドルを握り直した。ギアを上げようと伸ばした左手は、しかしシャーロックに押し留められる。
「待てジョン、向こうは僕を振り切った気でいる。見失いさえしなければ良い」
「つまり尾ける?」
「ああ」
 ジョンは踏み込みかけた足を戻しながら二度瞬いた。唐突に気が付いた。そうだ。逃げた男はバイクだった。追った男がどこでペントレー・ミュルザンヌに乗ったのか知らないが、いずれにせよ文明の利器だ。走って追ったシャーロックと、そこから更に遅れた自分とで、何故追い着ける。否、現に追い着いた。シャーロックがあれだというのなら、前のテールランプの車がそれなのだろう、疑いなく。
「シャーロック」
「言いたい事は判る」
 助手席でシャーロックが大きく息を吐いて座席に背を預けた。長身のシャーロックには窮屈だろう助手席は、しかしこの男が痩身であるせいで多少は余裕があった。そうでなければ箱詰めにされたスポンジのようになっている。
「僕の移動手段だろう」
 僅かに首を傾けてシャーロックはそう言った。目線だけをバックミラーの中に向けるのにジョンは無言で見返して頷く。シャーロックは両手を唇の前で合わせた。微かに口角が上がる。どこか自慢気に見えるその表情は酷く子供じみている。
「最初は先回りして進行先を固定した」
 あの辺りは一方通行が多いから簡単だ、と嬉しげに言ってシャーロックは指先を唇に触れさせた。察するに、とジョンは脳裏で考える。ビルの隙間や他人の敷地を我が物顔で突っ切って先回りするのはシャーロックの得意技だ。出会った最初の事件の際も、タクシーを追うのにとんでもない場所を走らされて、徒歩だったのにタクシーに追い着いた。今回も似たような事をしたに違いない。しかも進行先を固定したというのなら、その先へ行けないように、あるいは特定の一方通行の道に彼らを追い込んだという事だ。例えば表に出してあっただろうゴミの缶。あるいは看板、もしかしたら消火栓。やれやれこのMINIの件以外でも、どうやらスコットランドヤードにはこってりと油を絞られる明日が待っているらしい。否、とっくに日付の変わった今、それはもう今日かもしれない。その元気があれば良いんだが、と他人事のように考える。シャーロックと走り回る日常は、どうにも感覚を麻痺させる。
「目的地があるかないかは知らないが、少なくとも僕は君が追って来るまでの時間稼ぎをしたかった。それでようやくメリルボーンロード方向に追い込んだところで君にメールを送った」
「それは判ったけど、それだけじゃ足りないだろう」
「勿論だ。結局のところ大通りに出られてしまえば僕の足では追い切れなくなる。そう思ったら巧い具合に自転車に行き当たった。正に目の前。どうする? 選択肢は一つだ。勿論拝借した。お陰でそう振り切られずに済んだ」
「ちょっと待て、それって自転車泥棒じゃないか」
 呆れて思わずバックミラーの中を見上げた。シャーロックは涼しい顔をして首を振る。
「鍵は壊されてた。僕が壊したわけじゃない。君と合流したバス停の後ろに置いて来たから明日にでも元の場所に戻せば良いだろう。そもそも往来に放置されていたものだ」
「あのなシャーロック」
「細かい事を言うな。それを言うなら君だってこのMINIを強奪して来たんだろう」
 思わず今度は直接首を振り向けた。
「人聞きが悪いな、借りたんだ!」
 少なくとも借りると持ち主に断りはした。了解を得た記憶はないが、黙って乗って来たわけじゃない。シャーロックは横目でジョンを一瞥するなりフン、と鼻を鳴らした。
「他人の名前を使って『借りた』は僕の自転車拝借とそう違わないんじゃないかジョン? 要するに僕が掏ったレストレードの身分証明書を使ったんだろう」
 ご明察だ。クソ、シャーロック・ホームズには隠し事が出来ない。渋面のままで仕方なく正面に向き直った。せめて釘を刺しておく。
「そもそも掏って来たのがどうだって話だ。そんなに威張るなよシャーロック」
 シャーロックは肩を竦めた。涼しい顔で言う。
「役に立った」
 虚を衝かれて思わず瞬いた。なるほど確かに。そもそもレストレードの身分証がなければ已む無く強奪する羽目になった可能性は高かった。
「まあそうだけど」
 違うそうじゃない。ともあれあの状況で車を手に入れない、という選択肢はジョンの中にはなかった。結果は同じだ。シャーロックの手癖の悪さの擁護にはならない。当たり前だ。だが今それを云々している場合でもない。一つ息を吐いた。もう既に癖になっている。唇を舐めて目線を上げた。
「驚かなかったな、君」
 僅かににアクセルを踏み込みながら言うと今度はシャーロックが眉を寄せた。
「何に」
「僕がMINIで現れた事だ。他にあるか?」
 何だそんな事か、と言ってシャーロックは眉を跳ね上げた。
「君が途中で追って来るのを止めた時点で可能性は二つだ。単に脱落したのか、他の手段を確保しに行ったのか。追い掛ける対象がバイクなんだから手段を確保するとしたら車。僕らはそんなものを所持していないから、得るとすれば強奪するかタクシーを拾うしかない。この時間にタクシーが捕まるわけもないから、前者。そういえばタイミングよく君はレストレードの身分証を持っている。恐らく穏便に済ませようとしてそれを使うだろう、と僕は予想した。結果、君が車で現れた。驚く要素があるか?」
 ジョンは軽く両手を上げた。何もかもお見通しというわけだ。この先の顛末はともかく。
「脱落したと思われなくて良かったよ」
 シャーロックは緩く首を振り、足を窮屈そうに組み替えた。爪先がフロントパネルの下に当たってプラスチックの乾いた音を立てる。
「君は僕の武器だ。そんなに簡単に脱落して貰っては困る」
 ジョンは両肩を上げた。『大いなるゲーム』の後で決めた。自分はシャーロックに守られるばかりではいないと。シャーロックが使いこなすというのなら、確かに武器に徹する事は可能かもしれない。シャーロック・ホームズの武器、主治医、同居人、友人。そのどれも、恐らくジョン以外の人間には務まらない。
 車窓はマーブルアーチの優美な白さを映して流れた。前方のベントレー・ミュルザンヌはそのままパーク・レーンに右折していく。若干の距離を置いて後に続きながら、ようやくジョンはそれに気付いた。おかしい。何故バイクを追っている筈のイアンの車が、こんなに悠長に走っている?
「シャーロック」
「僕がマイクロフトから受けた依頼はイアン・モームの捜索だ。問題はない」
 疑問を口にする前にシャーロックに先を越される。なるほど確かにその通りだ。その通りだがしかし、それで済む問題か?
「だからってバイクの男を野放しには出来ないだろ」
「それはマイクロフトかレストレードの仕事で僕じゃない」
 明らかにイアン・モームの運転は何かを追っている動きではない。逃亡するバイクを追うというなら、もっと激しい動きになってしかるべきだ。そもそもバイクは車の入る事が出来ない場所を走行出来る。幹線道路を悠長に走る道理がないのである。
「だとしてもだ。って、じゃあ彼は一体どこに向かってるんだ?」
「さぁな。ただ、少なくともイアン・モームを追っていればいずれバイクの男も現れる筈だ。何しろ彼は僕達ではなくイアン・モームを求めてあの場所に来た筈だからな。それに」
 シャーロックは微かに目を細める。
「これだけ悠然と車を走らせている。何かしらの目算はあるんだろう」
「例えば?」
「君なら、追っている人間と乱闘になって逃げられる、と思った瞬間には何をする」
 一瞬考え込んだ。例えば。そう、例えば自分が憲兵であったとして、脱走兵と揉み合いになったなら。
「……発信機……?」
「可能性はあるだろう。イアン・モームは諜報員だ。君のご執心の007ダブルオーセブンの現実離れした小道具はともかく、軌跡ログ記録型超小型GPS発信機なら今や単3乾電池より小さなサイズのものが民間でだって売られている」
 ましてや政府お抱えの諜報機関であるなら尚更。なるほど確かにその通りだった。本人に、あるいはバイクに、接触さえしていたなら取り付けるチャンスはあった筈で、相手に気付かれていなければ追跡は可能だ。
「だから、慌てなくて良いって言ったのか」
「他に何があるって言うんだ?」
 降参だ。つまりジョンの仕事は、ベントレー・ミュルザンヌを見失わずに追う事だけらしい。ならばこのMINIでも充分に用は足りる。本気で追走劇となれば、幾らサーキットを走れるだけの性能を誇るMINIとてベントレー・ミュルザンヌとでは些か分が悪い。
「急いでいたとしても余り君にその事実を告げたくないのも確かだが。僕は君がこんなに乱暴な運転をするとは夢にも思わなかった」
 シャーロックが一つ息を吐いた。ジョンは瞬いてバックミラーの中のシャーロックを見詰める。乱暴? 思わずシャーロックを拾って以降の自分の運転を反芻したが、特に乱暴な運転をした記憶はない。
「そんなに繊細な神経してたか、君」
「どうやら君よりは」
 相変わらず失礼な男だ。
「今後もし車を使うような事件があれば、金輪際、絶対に、僕が運転する」
「ああそう」
 肩を竦めた。運転は嫌いじゃない。が、してくれるというものはやらせておけば良いだろう。シャーロックが何かを自発的にしてくれる事など滅多にない。そもそも車を使うケースも滅多になさそうだが。
「それとも軍人はみんなそんな運転なのか」
「さあな。比べた事はないし、そもそも僕は僕の運転がそんなに酷いとは思わない」
「どこで運転してた。アフガン? ノーサンバーランド連隊か」
 一つ首を振る。
「第5ノーサンバーランド・フュージリアーズ連隊」
「細かいな」
「歴史ある栄光の部隊だ」
「歴史」
「知りたいか?」
 別に、という返事を聞かなかった事にして指を振る。
「最初に出来たのは1836年。この頃の歩兵連隊は三つあった。第5ノーサンバーランド以外には第7ロイヤルと第20ランカシャーだ。この三つの連隊は1957年に再編された。第5と第20を統合した連隊と第7とだ。更に六三年には第7ロイヤルに新設の第6ロイヤル・ウォリックシャーが統合される。これが今でも存在する二連隊。君が知っているかどうか知らないけど、連隊ってのは基本的に二大隊で組織される。だから統合されたそれぞれの連隊番号がそのまま大隊の通称になった」
「なるほど栄光の部隊ね」
「歴史の重さがあるんだよシャーロック。ノーサンバーランドはイングランド北部、ランカシャーは西北部、ロイヤルは当然ロンドンで、ウォリックシャーは中部だから、統合の基準は地理的な近さが最優先された。アフガン派兵は、この栄光の二連隊から混成部隊が編成されて第五大隊と名付けられる事になった。第五大隊ってのは常に臨時の編成部隊だ」
 だが脳裏に浮かぶのはやはり大隊旗よりも連隊旗だ。軍医として従軍する事になったジョンはノーサンバーランド付になった。軍医は基本的に陸軍医療部所属だが、戦地に送られる際は野戦病院あるいは部隊付きになる。部隊付きの軍医は、部隊の家族として迎えられる。文字通り生死を共にする戦場派遣部隊となれば尚更だった。
「僕にとっては特別な名前だ」
 第5ノーサンバーランド・フュージリアーズ連隊のジョン・H・ワトスン大尉。負傷し戦地から送り返される事になったとは言え、やはりあの場所はジョンの居場所だった。巻き込まれた銃撃の、悪夢のような光景を何度も夢に見る。文字通りの悪夢であるそれさえも、だがやはり連隊に所属した自分自身は誇りに思っている。人間の感情とは矛盾するものだ。それをシャーロックが理解しないとしても。
 道の右側にはハイドパークの緑が広がっている。夜に沈む公園は木々を黒いシルエットにしてロンドンの中心地に鎮座しているばかりだった。もう間もなく走ればピカデリーに出る。ウェリントンアーチを横目に、さてイアン・モームはどちらへハンドルを切るのか。
 横目でシャーロックを窺った。ジョンの話をどこまで聞いていたのか、名探偵の灰青の瞳は真っ直ぐに前を向いている。唇を舐めて冗談を口にした。
「まさかバッキンガム宮殿に乗り込む、なんていうんじゃないよな」
「ありえなくはない」
「まさか!」
 シャーロックの返事に本気で驚愕して身を起こすと、助手席で鼻を鳴らす音がして両手が上がった。
「バイクの男がテロリストで、イアン・モームがそれを排除する為に動いていたとするなら、標的がバッキンガム宮殿である事はそう飛躍した想像でもない」
「本当に北アイルランドの?」
「それを判断する材料は持ち合わせがない。可能性はある」
 男の言葉を北アイルランドの訛りだ、と指摘したシャーロックの言葉を思い出した。同時に、それを告げたシャーロックが口にした推論も耳の奥で再生される。この国に於ける最大の政治問題と呼ばれる北アイルランド紛争。そもそも四つの国で構成される連合王国である英国の、唯一グレートブリテン島に属さない国家が北アイルランドだ。アイルランド島の、ひいてはアイルランドとしての統一を求める民族運動は1916年の復活祭イースター蜂起を皮切りに未だ解決していない。独立派のうち武力強硬派はテロ活動を繰り返し、98年の聖金曜日協定ベルファスト合意によってアイルランド共和国が北アイルランドの領有権を放棄した後も散発的な暴力事件が起きている。
「IRAもUDAも武装解除を宣言したのに、か」
「それらの武装組織以外にも、未だに戦いを放棄していないグループは幾つもある」
 ジョンは深く息を吸った。アイルランド共和軍を名乗ったアイルランド独立闘争の為の武装組織は、あらゆる組織・集団に分派し、あるいは新たにそう名乗るものが出現して連綿と血塗られた歴史を繰り返してきた。その内の一部は和平への道のりに同意して解散し、しかし別の一派は強硬な姿勢を崩さない、などというのは、世界中のどこの紛争地帯でも見られる当然の経緯で、そういう意味では確かに英国軍は他国の紛争に首を突っ込んでいる場合でない事だけは確かだった。だがそれも、昨年女王がアイルランド共和国を公式訪問した事、更につい先日、即位60周年記念行事の一環として北アイルランドを訪問した際にIRAの元司令官であり、現北アイルランド自治政府副首相であるマーティン・マクギネスと初会談を行った事などで歴史的瞬間を迎え、真の和解への象徴と報じられた筈だった。
「逆に女王のそれが彼らの神経を逆撫でした可能性はある」
 シャーロックは淡々とそう口にする。
「来年のロンドンオリンピック開催に向けて、政府としては全面解決を世界中に印象付けたいのと、女王の即位60周年の節目とが巧く合致した結果なんだろうが、それは逆にいえば、このままロンドンオリンピックが開催されれば、北アイルランド問題は全て解決したと印象付けてしまう結果を招くとは馬鹿でも判る」
 だからこそ、最後のチャンスに賭けようするならば、バッキンガム宮殿へのテロの敢行という事になるのか。
 ジョンは夜に沈むバッキンガム宮殿へと視線を向けた。ウェリントンアーチを囲むロータリー上の道を回り、MINIはコンスティチューション・ヒルへと侵入しようとしていた。木立に囲まれる美しいこの道の右手、手入れされた庭園の奥にバッキンガム宮殿が聳えている。大英帝国の時代から、何一つ変わる事無く王家に捧げられてきた敬愛が、そのままジョンの中にも流れている。軍人であるからには尚、それは意識する以前の当然の事として脈打っている。その女王の動向が、しかし流血を招くというのは。
「ジョン!」
 だが、物思いは不意に強い声を出したシャーロックによって打ち破られた。
「見ろ、バイクだ!」
 ジョンは反射的にアクセルを踏んだ。イアン・モームが男のバイクを発見したのだ。前方のテールランプが速度を上げて離れて行くのに喰らいつくように速度を上げる。コンスティチューション・ヒルの直線は短い。瞬く間にバッキンガム宮殿の正面、ヴィクトリア記念堂を中心にした広場に出た。美しい広場。昼間は観光客で溢れ、王室行事の際は見学の市民でごった返す広場も今は無人だ。バイクは道路ではなく、広場を突っ切るようにしてバードケージ・ウォークに向かっている。ベントレー・ミュルザンヌが迷いなく後を追った。鉄パイプで作られた封鎖用のテンポラリフェンスが薙ぎ倒されて甲高い音を轟かせる。即座に宮殿の衛兵が駆けつけて来る筈だが、躊躇する事無くジョンもその後に乗り入れた。少なくともイアン・モームが薙ぎ倒した後だ。MINIなら簡単にすり抜けられる。シャーロックが何かを喚いて天井に腕を突っ張った。手足の長い奴は苦労する。左手にヴィクトリア記念堂。車の中からは見る筈のない角度で見上げたはばたく勝利の女神像は夜間照明に煌めいている。夜の中に浮かんでいるようにさえ見えるそれを尻目に再び道路に出た。MINIは跳ねながらもきびきびとコーナーを曲がる。
「どこに行く気だ!? 」
 バードケージ・ウォークを直進した。朝になればジョギングを楽しむ市民に遭遇するだろう道はやはり無人で、先を行くベントレー・ミュルザンヌのテールランプの向こう、バイクのそれが踊るように遠ざかる。グレートジョージストリート。左手は財務省、その向こうは外務連邦省だ。英国政府の中枢機関が集まるど真ん中を猛スピードで走り抜ける。
 不意にベントレー・ミュルザンヌが大きくハンドルを切った。左側から猛然と突っ込まれたバイクが反射的に右にハンドルを切って殆ど横転するようにパーラメントスクエアの交差点を斜めに滑る。思わず急ブレーキを踏んだ。急激なシフトダウン。MINIが悲鳴を上げ、エンジンが停止する。完全に動きが止まる前にシャーロックがドアを開いて飛び出した。ジョンも飛び出して後を追う。前方にはライトアップされたビッグベン。時計の針は深夜三時を回っている。
 イアン・モームと思しき男が路肩に停めたベントレー・ミュルザンヌから降り立ち、ゆっくりと横転したバイクに歩み寄るところだった。男はバイクから抛り出されたらしい、五フィート余り離れた場所に横臥している。バイクは歩道に乗り上げ静止して動かない。
 ジョンは周囲を見回した。静かだ。人の姿は愚か、通行する車輌さえも一台もなかった。最前の宮殿前の騒動を考えれば、十分もせずに警察なり憲兵なりが駆けつけて来るのは想像に難くなかったが、イアン・モームに焦りらしきものは見えない。
「ヘンリー・ピアースだな」
 低い声で言って、イアン・モームは男の頭の横に立った。その手に銃がある。FNファイブセブン。貫通力の高さは折り紙付だ。そうそう誰でもが持つ銃ではない。銃を向けたまま、横臥したヘンリー・ピアースの身体をつま先で転がした。
「アンタを生死を問わず排除する、というのが俺の任務だ。このまま引鉄を引けば仕事は終わる。が、その前に一つ訊きたい事がある」
 ジョンは目を凝らした。倒れているヘンリー・ピアースという男は動かない。仰向けにされても目は閉じたまま、唇も半開きで微動だにしなかった。だが、イアン・モームが話を続けるからには生きているのだろう。果たして意識はあるのか。
 一定以上に近寄る事が出来ないまま、イアン・モームを凝視した。傍らのシャーロックは眉を寄せたまま無言だ。ジョンは左手を腰に当てたまま息を詰める。状況は判らない。だが、目の前で人が殺されるのを看過も出来なかった。もし、イアン・モームが引鉄を引こうとするなら、ジョンは自分のSIG SAUER P226を抜くしかなくなる。
「何故、俺の事を知っていた? 俺を襲った理由は何だ」
 押し殺した声。どこか感情を抑えあぐねるような強い声だ。ヘンリー・ピアースがその時になってようやく目を開いた。昏い目が現れる。細められたそれは苦痛に呻く事もなく笑うように歪められた唇によって禍々しさを増した。ゆっくりとその唇が開いた。
「お前、MI6の人間なんだろう」
 問われたイアン・モームは答えない。無言で見下ろすままのそれに焦れたのか、男は「外務省だ」と続けた。
「外務省の防衛局の人間に持ち掛けられた。お前を始末すれば、過去の履歴を抹消し、新しいパスポートを与えてやると」
 外務省? とジョンは思って眉を寄せる。どういう事だ。何がどうなっている?
 状況が飲み込めなかった。この二人は、互いに相手を狙っていたという事なのだろう。任務、とイアン・モームはそう口にした。ならばヘンリー・ピアースの排除を命じたのはMI6、つまりマイクロフトの側の人間という事になる。だが、ヘンリー・ピアースにそのイアン・モームの排除を命じた人間が居る。それも、外務省を名乗って。同じ政府側の立場の人間が、お互いを排除しようとしている。だが、マイクロフトが外務省と揉める、という事は考え難かった。彼は『歩く英国政府』の筈だ。ならば何故こうなっている?
「そんな物を信じたのか。何の保証があって引き受けた?」
 瞬時に何をどう考えたか、イアン・モームは平静だった。眇めた目でヘンリー・ピアースを見下ろしている。
「さぁな」
 ヘンリー・ピアースはゆっくりと起き上がった。石畳に座り込む恰好になる。イアン・モームは微動だにせず銃を突きつけたままだ。それを細めた目で見上げてから、初めてヘンリー・ピアースは小さく呻き声を洩らした。左の脇腹を押さえる。
「どっちでも良かった」
 呻き声に溶かすようにして言葉が漏れた。
「本当にそうなるなら、願ったり叶ったりだ。俺は自由になって、このクソみたいな国からおさらば出来る。ああ、もううんざりだ。闘争も、テロも、差別も、晴れ間のないこの国もな」
 北アイルランドの自由、と言った声には微かに笑いが混じった。
「本当にそんなものが欲しかったのか、もう俺には判らん。初めから、俺は組織の子供だった。孤児が生きる為に、居場所に縋っただけだ。お前、俺の名前を偽名だと思っただろう?」
 低く笑って唇を歪める。
「ヘンリー・ピアース。そうだ、復活祭イースター蜂起の中心人物だったパトリック・ヘンリー・ピアースの名をそのまま付けられた。俺の身元は誰も知らない。無論、俺も知るわけがない」
 北アイルランド紛争は、最早宗教対立でも、民族紛争でもない、と続けて男は尚も笑った。
「では何かと問われても、さあ、何だろうな。ともかく俺は、組織にテロを命じられ、外務省にはお前の排除を命じられてここに居る。それだけだ。それ以上でも以下でもない」
 お前は一体、何をして国から消されそうになったんだ、と面白そうに言ってヘンリー・ピアースは口を噤んだ。イアン・モームは答えない。だが引鉄を引くわけでもなく、何かを口にするわけでもなかった。
 ジョンはイアン・モームを見、ヘンリー・ピアースを見た。彼らの生きている場所は酷く遠くも、普遍的であるようにも感じられ、しかしその全てを凌駕してとてつもなく空虚だった。大義、というものを何と見做すか。あるいはそれは、アフガニスタンへの派兵にしても同じかもしれない。
 少なくとも、ヘンリー・ピアースが北アイルランド問題の申し子であった事は確定したが、ではそれは、誰に自由を齎すというのだろう。
「外務省は、何故そんな取引を持ち掛けた?」
 不意に隣からシャーロックがそう言った。ジョンを含めた三対の目がシャーロックに向く。長身痩躯の探偵は、大きく手を振って続けた。
「仮に君の言う事を全て真実だとする。外務省はイアン・モームという男を消す必要があり、しかし自らの手を汚すわけにはいかずに北アイルランド問題で何度も手配を掛けられているヘンリー・ピアースという男にそれを持ち掛けた。そこまでは良い」
 かつかつと石畳に音を立ててシャーロックはその場を回った。
「では、イアン・モームを消さなければならない理由とは何だ?」
 イアン・モームは薄い笑みを浮かべた。シャーロックが足を止め、探るような視線を向ける。小さく首を傾けて言った。
「心当たりはあるらしいな」
「ある」
 シャーロックの問いに頷いて、イアン・モームは笑った。
「ありすぎて特定が難しい」
 何しろ俺は諜報員で、命じられた事は何でもやる。情報を盗み出した相手組織、あるいは国家にとっては、それは重大な裏切りに他ならない。
 歌うように言って、イアン・モームは続けた。
「だが、滑稽なのは俺が今まで手掛けて来た仕事は全てこの国が命じた事だって所だ。こんな滑稽な話がどこにある? 外務省だと!」
 最後は弾ける様に怒鳴ってそのままイアン・モームはヘンリー・ピアースの腹を蹴った。抑えた悲鳴があがり、蹲ったそれを上から踏み付けておいて銃口をシャーロックに向ける。
「それで、アンタ達は何でここに居る?」
 ジョンは我知らずシャーロックの前に出た。シャーロックは動かない。腰に差したままの銃を抜くか否か。イアン・モームの目がジョンを一瞥し、細められた。
「アンタ軍医だと言ったな。それが何故、あの場所に居た。しかも、こんなところまで追って来ている。本当は、何者だ」
「僕は医者だ。本当だ」
 ジョンは小さく両手を挙げた。
「軍医だったのは以前の話で、今はただの医者だ。そうでなければ、この男の……探偵の助手だ」
「探偵」
 鸚鵡返しにされた単語に頷く。背後のシャーロックはまだ何も言わない。
「僕らは君を政府……いや、政府筋の人間の依頼で探していた。君が僕らのフラットに入り込んで来たのは勿論偶然だろう。だが君は逃げてしまった。だから、君の来そうな場所だと考えてSOEに行ったんだ」
 だが、実際に現れたのはヘンリー・ピアースだ。そうして、それを追うようにイアン・モームが現れた。顛末はたったそれだけの事で、幾つもの偶然の連鎖によって今こうして向き合っている。
 イアン・モームが首を傾けた。細めた目はそのままに、銃口がジョンにスライドする。
「アンタに一度助けられたのは間違いない。が、その借りはこの男からアンタ達を助けたので返した。さて、どうにも話が見えない。俺は一体何だ? 何故外務省から排除を決定され、政府筋とやらからは行方を追われている? そもそもアンタ達はあの場所に居た。何故あそこに入る事が出来る。政府筋の人間というのは、俺の『身内』か」
 身内、即ちMI6、と思ってから脳裏でジョンはそれをSISと訂正した。007ダブルオーセブンの属するフィクションの世界ではなく、この男は現実のSISに所属している。
「正直に言えば」
 ジョンはゆっくりと口を開いた。
「僕にもこの状況は全く理解出来ていない」
 本当の事だ。マイクロフトは、諜報員が一人任務途中で姿を消したとそう言った。命が狙われているとは聞いていない。否、先に見付けなければ消されるかもしれないと、確かにシャーロックはそう言った。そういう世界なのだと。それに自分は何と返したのだったか。それは自分の知る世界じゃないと、そう思った事だけは覚えていた。 
「僕には君達の世界の事は一つも判らない。ただ、君のやるせなさは少しなら判る、と思う。同じように、この国の命令で働いた経験上」
 イアン・モームの眉が跳ね上がった。
「元軍医、か。どこで何をした?」
 ジョンはゆっくり頷く。
「アフガニスタン」
 言って唇を舐めた。一度では足らずに二度繰り返し、しかし言葉は巧く紡げずに、右手を自分の左肩に当てた。
「撃たれて、負傷退役になった。まだ、二年は経ってない」
 アフガニスタン、と小さく繰り返してイアン・モームは皮肉に唇を歪めた。
「奇遇だな。だとしたら、アンタと俺は、同じ時期にあの乾いた土地に居た」
 それとも、アンタが話を合わせてるのか、こんな偶然があるのか? と言うなり笑い出す。
「ああ、忘れもしないアフガニスタン。知っているか。アンタが本当にあそこに居たのなら、アンタはあの場所にいる間、敵に塩を送っていた男と同じ部隊で寝起きしていた事になる」
 ジョンはイアン・モームを凝視した。何? 何の話だ。敵? 敵とは何だ。タリバン、あるいはアルカイーダ。敵に塩? 国際治安支援部隊ISAPにそんな人間が? それは……まさかそれが英国陸軍内に居たと。
「どういう意味だ」
「そのままだ」
 面白くもなさそうにイアン・モームは手の中の銃を振る。
「俺は諜報員で、つまりは『敵の中』で情報を集めるのが任務だった。だが身元を隠し、タリバン側の人間だと思い込ませていた俺以外に、堂々と英国人でありながら通じている軍人がいたのさ。裏切り者。平たく言えばそうなるな。実際には、大した考えもなかっただろうが」
 ジョンは虚を衝かれて口を開いた。咥内が乾く。栄光の第5ノーサンバーランド・フュージリアーズ連隊。まさか隊内にそんな人間が居たとは思えない。だが。
「そんな、事が」
「一度確か本国でも話題になった筈だがな? だからこそ俺に命令が来た。つまりアンタが知らないだけだ、元軍医殿」
 言いながら、ふとイアン・モームが動きを止めた。視線が宙を彷徨い、やがてそれは小さく小刻みに左右に振れ、唐突に止まった。「そういう事か」と漏れ出した声は地を這うようで、やがて哄笑に変わったそれは「外務省! なるほどな」と言うなり足元の男を蹴り倒す事で発散されたらしかった。ヘンリー・ピアースが再びくぐもった呻き声を上げる。
「つまり俺が帰国した事でこれは発動したのか。馬鹿馬鹿しい。なるほどな、そういう事か」
 からくりは判った、と言ってイアン・モームは銃口を向け直した。ジョンに、次いで真っ直ぐにシャーロックに向けられた銃口が振られる。
「さて、探偵と言ったな。あんたに俺を探すように依頼したのは政府筋の、つまり誰だ? 俺を探し出して何をするつもりだった。外務省とは別口か、それとも、単に俺の任務放棄の疑いを考慮しただけか。答えろ」
 ジョンは首を振った。マイクロフトは依頼の際に何も告げなかった。否、それはシャーロックが依頼を断ったせいだ。やはり引き受けても良い、とシャーロックが連絡した際に、果たしてマイクロフトは新しい事実をシャーロックに告げただろうか。
 イアン・モームが銃を静止する。ジョンはシャーロックを振り返った。シャーロックは静かにイアン・モームを見返している。何を言うべきか、あるいは何をするべきか、ジョンは咄嗟に迷った。シャーロックを突き飛ばすか、それとも。
 瞬間、銃声が轟いた。
 悲鳴は、イアン・モームから上がった。ジョンが振り返るのと、シャーロックがジョンの腕を引くのとのどちらが早かったかは判らない。
 ヘンリー・ピアースの手に拳銃があった。足を抱えて倒れたイアン・モームを投げ飛ばすようにして跳ね起きるなりバイクに駆け寄って抱え起こした男は一度しか振り返らなかった。イアン・モームが弾かれたように起き上がる。足元に、夜目にも鮮やかに黒い染みが浮き出していく。血だ。だがバイクのエンジン音が響くと同時、足を撃たれたとは思えない速さでイアン・モームはベントレー・ミュルザンヌに駆け戻った。右足を僅かに引き摺っている。
 バイクのエンジンが咆哮を上げた。弾丸のように黒い塊が飛び出す。その影がブリッジストリートに戻ると同時、上品なエンジン音と、それを切り裂くタイヤの軋む音が轟いてミュルザンヌが後を追った。
「シャーロック! 大変だ」
 シャーロックに引き倒される恰好になったジョンは腰を落とした体勢から跳ねるように飛び起きたばかりだった。そのままMINIに飛び込む。イグニッションを回し、アクセルを踏んだ。急激な負荷にエンジンの回転が急激に上がり、悲鳴のように甲高い音が響く。そのままハンドルを切って飛び出した。
「── !」
 取り残されたシャーロックが何かを言いながら走り出すのをバックミラーの中に一瞬だけ見た。だが止まっている暇はない。ブリッジストリート。ビッグベンを通過した先は、ウェストミンスターブリッジだ。対岸にはロンドン・アイが見えている。既にロンドンの名所として有名になった巨大観覧車。ライトアップされたそれは光の渦をテムズ川に降り注がせている。
 距離僅かに300フィート。
 バイクはさほど速度を出していなかった。あるいは、一度転倒した際に不具合が出たのかもしれない。追うベントレー・ミュルザンヌが加速した。バイクを擦るようにして追い越し、不意にシフトダウンしてアクセルを踏み込んだらしい。ミュルザンヌらしからぬ暴力的なエンジン音が轟き、車体が殆ど回転する勢いでバイクに側面から突っ込みに行った。タイヤの悲鳴。同時にバイクが避けようと無理に傾くのを見た。金属音。鈍い激突音はMINIの中のジョンの腹の底に響いて消えた。
 それは一瞬の事だった。バイクが空転し、歩道に乗り上げる。そのまま勢い良く橋の欄干に激突した。轟音。
「やめろ!」
 ジョンが悲鳴のように叫んだ瞬間、バイクから人影が投げ出された。ロンドン・アイのイルミネーションが明滅し、人影もコマ送りのように動きを変えた。宙に浮いたそれは直後に川面に向かって落下する。バイクが悲鳴のような音を立てて横転した。空転するタイヤが虚しく宙を駆ける。同時に、イアン・モームが素早く運転席から降りて欄干に走り寄った。両手保持で水面に向かって銃を構える。
「やめろ!」
 ジョンはアクセルを踏んだ。ハンドルを大きく切る。ヘッドライトの明かりの中、イアン・モームが振り返った。その目が大きく見開かれる。
「撃つな!」
 ジョンはそのままベントレー・ミュルザンヌにMINIの鼻先を突っ込んだ。衝撃。咄嗟に腕で頭を庇った。思わず呻き声が出る。だが視線は逸らさなかった。見詰める先、欄干の手前でイアン・モームの身体が大きく揺らぐ。愛車に押される恰好で、イアン・モームの両手が宙を泳いだ。最前と同じ、ロンドン・アイの明滅がイアン・モームを浮かび上がらせる。
 直後、その姿が消えた。ジョンはMINIを転がるように飛び出した。高い水音。後ろからシャーロックが駆けて来る足音が響いた。
「ジョン!」
 声を背に欄干に飛び付く。濃い緑に塗装された欄干は大人の腰までの高さしかない。テムズ川は濁っている。ましてや夜だ。両岸の明かりに煌めく川面には何一つ見えない。光の反射は水面を覆い尽くして滑らかに平面を構成している。大の大人を二人呑み込みながら、波の様子さえ既に平静だった。
「ジョン!」
 間近で声がした。ジョンの隣で欄干に飛び付いたシャーロックが、大きく身を乗り出して川面を覗き込む。
「クソ」
 舌打と共に欄干を拳で殴った。直後、そのまま身を翻す。
「ジョン、こっちだ!」
 言われて気付いた。橋の袂にはシティ・クルーズの桟橋へと降りる為の階段がある。欄干から見下ろすよりは遥かに近い。シャーロックが数段飛ばしに駆け下りるのを追った。河岸の明かりが水面に揺れて捩れた明るさを投げかけている。こんな状況でなければ綺麗だとさえ思うのかもしれないそれは、今はいっそ邪魔だった。波に光が跳ねる。これでは水飛沫が上がっても見落としかねない。死に物狂いで目を凝らした。
「流れるとしたらロンドン・アイ方向だ」
 シャーロックが言うのに頷いて桟橋を走った。下流はロンドン・アイ方向だ。ここから先、うねりながらテムズは大西洋を目指す。水量は豊かで深い。怪我人が二人。沈めば助かるのは容易ではない。何とかして見つけ出さなければならないが、水面に浮かぶものはなかった。係留されている小型モーターボートが穏やかに揺れている。
 500フィート余りの長さがある桟橋を端まで駆けた。手摺を握って川面を覗き込む。
「ジョン」
 背後で声がする。まだ水面に目を凝らしていた。
「見付かったか!」
「駄目だ!」
 声が上擦った。カツカツと踵を鳴らしてシャーロックが歩み寄ってくる。桟橋が大きく揺れた。
「死体なら巧くすれば三十分も立たずに浮いてくるだろうが」
「シャーロック!」
 遮った。
「事実だとしても止めてくれ。まだ死んだと決まってない!」
 振り仰いで怒鳴る。光に妙な具合に照らされた探偵の顔は奇妙な陰影で常より尚も冷たく仮面のように見えた。微かに細められた目がジョンを見下ろし、それでも確かに口を噤んだ探偵は数秒の沈黙の後にジョンに背を向けた。
「ここにいろ。そろそろ警察が辿り着く頃だ、見て来る。遭遇するようなら僕が事情を説明する」
「……判った」
 シャーロックの足音を聞いていた。水面に動きはない。水流の激しい場所に沈んでしまったのか。その場合、どこまで流されるのか。
 落ちた。否、少なくともイアン・モームを落としたのはジョンだった。判っている。
 マイクロフト? というシャーロックの声が聞こえた。モバイルで連絡を取ったのだろう。この時間でも繋がるのか、と妙な感心をした。思考がまとまらない。
「ヘンリー・ピアースという名の北アイルランドのテロリストに心当たりはあるか。一体どうなってる。僕は聞いてない。イアン・モーム? ああ、見付けた。見付けたが今はまた消えた」
 矢継ぎ早に口にするシャーロックの声が遠くなっていく。
「それは後だ。そろそろ警察が来る、僕らの身柄についてそっちで確保するように手を回せ。良いから直ぐだ。そうじゃない。外務省云々をマスコミに喋られたくなければ、」
 殆ど脅しになったシャーロックの声に思わず苦笑した。ふ、と漏れた笑い声は、そのまま堪え切れずに溢れ出す。肩が震えた。
 これは何だ? 今日、僕は何をした。
 そうだ、シャーロックと揉めた。シャーロックが妙な怪我をして戻って……そう言えば、彼は足を怪我している。あんなに走って大丈夫だったのか。後で傷口を診なければ。どうかすると、あの何もかもが一般人と基準の違う名探偵は怪我を悪化させかねない。それから、ああ、そんな怪我をどこでして来たんだと怒鳴った。君には関係ないと言われて治療が終わるなり頭に来たまま221Bを出た。パブからの帰り、怪我人の治療をし……恐らくイアン・モームだったのだろう男。もしかしたら、そんな余計な事をしなければこんな事にはならなかったのか。帰宅してハドソンさんのシチューを食べるところまでは、それでもそのまま平穏に一日は終わるのだと思っていた。そうだ、そこにマイクロフトが来た。依頼を断ったのはシャーロックで、もしかしたらそれが正しかったのかもしれない。再びイアン・モームに遭遇する運命は、あるいはそこでも回避出来たのかも知れず、だが自分は彼を221Bに入れてしまった。
 溜息が漏れた。助けた筈の怪我人を、テムズ川に叩き込んでしまった。彼らがどこかの河岸に無事に流れ着く確率はどのくらいあるのか。テムズ川に落ちて溺死する人間は多くもないが少ないとも言えない。そこに二人もの人間を加えてしまったのか、否か。
 警察が遅い、とふと思った。パトカーのサイレンはまだ聞こえない。シャーロックの上がって行った階段方向を振り仰いだ。もうシャーロックの後姿も見えない。ビッグベンが夜空に浮かび上がっている。時計。時間は戻らない。
 戻したいのか、と自問した。どこまで? どこから?
 例えば負傷退役の前、あるいはシャーロックと出会う前? 今日の出来事の始まりまで戻す? それとも昨日、一昨日。
 唇を舐めた。肩を竦める。判っていた。これは後悔じゃない。何度やり直しても、自分は同じ事を繰り返すだろうと判っていた。何より、シャーロックと出会わない未来なら必要がない。それに至る為の必然であったというのなら、あの悪夢の負傷でさえ、構いはしないのだ。
 ふと、何かが頭の片隅で引っ掛かった。
 イアン・モームの言葉だ。アンタは敵に塩を送っていた男と同じ部隊で寝起きしていたとそう言った。本当に、そんな事があるだろうか。無論、軍隊に於いて内通や物資の横流しを初めとする不祥事は必ず付いて回る。極限状態に抛り込まれるからこそ、そこでは全てが試される。だからこそ憲兵が必要であり、事件や事故が起これば尋問が繰り返される。
 アフガニスタン滞在時に、憲兵隊の調査が行われた事は一度もなかった。
 だが、イアン・モームの言葉が気になった。命令され、何かをしたと明言した。何をしたというのだろう。裏切り者の存在を知った上層部が、イアン・モームに何を命じる? 微かに背筋が冷えた。結び付く筈のなかった出来事が結び付こうとしている。だが、まさか。
 シャーロック、と口の中で呟いた。
 そうだ、シャーロックに確認すれば良い。文字通り、三度の食事より推理を好む男だ。おまけにその推理は天才的で、間違っていた事が殆どない。
「……ロック」
 声に出した。
「シャーロック!」
 大声で呼んだ。桟橋を戻ろうと踵を返す。だが。
「!」
 背後で立った水音に咄嗟に振り返った。水音。確かに今、それが聞こえた。
 走った。桟橋の先端、金属製の柵から身を乗り出して水面を覗く。間違いない。人の手が一瞬浮かび上がって沈んだ。
「こっちだ!」
 叫んで手を伸ばした。イアン・モームなのか、ヘンリー・ピアースなのかは考えなかった。再び水を跳ね上げて伸ばされた手を握る。
「大、丈夫、だ!」
 力任せに引いた。水のせいで酷く重い。気を抜けば自分の方が水に引き摺り込まれるのは想像に難くなかった。片手で柵を握る。この柵が外れれば終わりだ。桟橋からの落下防止の柵は簡易的なもので酷く心許無かった。
「今、引き上げて、やる、から!」
 呻くように言った。水面に顔が浮かんだ。大きく喘いで息を吸ったそれを見て手を引く。重い。
「ジョン!」
 シャーロックの声が聞こえた。走り寄ってくる足音が響いて桟橋が揺れた。
「シャーロック!」
 先程考えなしに叫んだ声が聞こえたのかもしれない。ともすればすっぽ抜けそうになる腕を必死で掴んだまま首だけを振り向けようとした。
「こっちだ手伝ってくれ!」
 夏とはいえ、夜は冷える。ましてや川の水だった。掴んだ腕がひやりと冷たい。
「良いぞ!」
 不意に重さが軽減した。シャーロックが横から腕を掴んだのだ。一歩を下がった。人一人を水面から引き上げるのにこんなに力がいるとは知らなかった。水音が耳に痛い。
「よし、もう少しだ」
 ガツ、と足元に衝撃が来た。男の身体が桟橋に当たったのだ。呻き声を上げている。ああ、生きている!
 更に腕を引き上げた。滴る水が音を立て、男の身体が桟橋に上がった。
「しっかりして!」
 水に濡れた男は半ば意識を飛ばしかけている。頬を引っ叩いた。ようやくそれが、ヘンリー・ピアースだと確認する。ではイアン・モームはまだ水の中か。
「ピアースさん! 聞こえますか!」
 上着を脱いで包んだ。元の着衣の首元を緩める。何度か呼び掛け、頬を叩くとようやく男の目の焦点が合った。
「なん、で」
「無理に喋らないで。ゆっくり深呼吸。出来ますか」
 言い置いて手早く全身を点検した。左脇腹の傷を確認して目を凝らす。出血は既に止まっているが、油断すれば再出血しそうだった。
「警察は当分来ない」
 横からシャーロックがそう言った。そうかと頷く。マイクロフトが手を回したのかもしれない。少なくとも、確かに今、警察の相手をする気分でない事は確かだった。
 げほ、とピアースが咳き込んだ。身体を横に捻るのに、背を擦ってやる。どうやら大丈夫そうだ。いずれ病院での治療が必要なのは間違いないが、少なくとも即座に命の危険がある状態ではない。
 一頻り咳き込み、何度か水を吐いたピアースが上体を起こした。手で顔を拭い、まだ水の滴る髪をかき上げて目線を上げた。
「あんた、ら」
 ジョンは肩を竦めた。お陰様でお互いに濡れている。今が夏で良かった。これが冬なら全員仲良く限界まで冷え切って震える事になっただろう。一つ息を吐いて立ち上がった。足元がよろけるのを後ろからシャーロックに支えられて苦笑する。ピアースが立とうとするのに手を差し出した。一瞬怪訝な顔をした男は、しかし直後にジョンの手を握った。引き起こされて、ピアースがジョンを見下ろす。巻きつけた上着はピアースには小さく見えた。何かを言おうとして口を開き掛ける。だが、それは僅かに離れた背後からの声によって遮られた。

 

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