鈍色の標的

[SHERLOCK]

 

05 River Thames

 桟橋から川岸を見た。
 この国の中枢。ホワイトホールと呼ばれる場所の、重厚な建物群が立ち並ぶ区画は夜間照明で文字通り白く浮かび上がっている。
 その建物群の、テムズ川沿いは整備された広い歩道の一角、第二次世界大戦時、ドイツ空軍との熾烈な戦いを繰り広げる事になったいわゆる「バトルオブブリテン」の記念のモニュメントが刻まれた河岸沿いの手摺の位置に人影があった。
「とんだ邪魔が入ったもんだな」
 水に濡れた男は低くそう言った。
「イアン・モーム」
 シャーロックが眉を寄せる。確かにそれは、イアン・モームだった。ジョンは川面と河岸に視線を泳がせる。恐らく、流されたモームは少し先で岸に辿り着き、自力で這い上がってここまでを戻って来たのだろうと想像はついた。奇妙に安堵した自分の心持にジョンは内心で苦く笑う。ひとまず、この手でこの男を殺さずに済んだ。それが結果として吉と出るか凶と出るかは於いておく。思わず口走った。
「無事か」
 我ながら可笑しな事を訊いた、とジョンは思う。川に落としたのはジョンだ。気遣うような言葉は滑稽でしかない。同じ事を思ったのだろう。乾いた笑い声が響いて、モームは両手を上げた。
「めでたい人だな、元軍医殿」
 蔑む目線はジョンを射抜き、そのままパトリック・ピアースへと向けられた。まだ青い顔で膝を衝いている男を視線で殺しかねない凶悪さで見詰める。
「ふん、どうやっても、決着をつけざるを得ないって事か」
 ピアースは顔を上げただけで答えない。モームは再び視線をジョンに向けた。
「アンタがそいつを助けたのか、元軍医殿。そいつはテロリストだぞ、判っているのか。お優しいことだな。ナイチンゲール憲章でも掲げるか? 我が手に託されたる人々の幸のために身を捧げん、だ。ああ、アンタは医者だったな。ナイチンゲールに献身される側か」
 さてどうしようか、と言った声が低い。
「そんな事だから、目の前に裏切り者が居ても見過ごす。それとも、所属隊が違えば関心がなかったか?」
 揶揄する口調は確かで、どうやらモームにも致命的な怪我はなかったらしい、と医者の頭で判断した。同時に、緩く耳から入り込んだ毒はぐるりとジョンの脳を回って浸透した。所属隊。アフガニスタンでの、あの乾いた場所で、自分は何を見、何を見なかったのか。
「俺を消せと命じたのは外務省だったな。今、俺の排除を命じた誰かは、そこに居ると思うか? 目と鼻の先だ」
 振り仰ぐようにしてモームが上体を傾けた。目線の先、幾つかの建物の裏側は確かに外務省だ。深夜とは言え、外務省という機関の性質上、今も職員のうち幾らかは勤務中ではあるだろう。世界は眠らない。
「命じたのが外務省であれ、要はホワイトホールの意志だ。自分の身が危うくなれば、平気で兵隊を切り捨てに掛かる。なるほど組織ってのは便利に出来てる。そうだな、俺は自分が単なる駒であるとは知っていたつもりだが」
 ただで殺されてやる義理もない。
 モームの声はそれほど大きくはなかった。だがその言葉は酷く明瞭に響いた。ピアースは黙ってモームを見詰めている。シャーロックも無言だった。
 ジョンは首を振る。
 兵隊は駒だ。それは間違いがなかった。ジョンは軍医であり、戦場で何人もの負傷者を診た。軽症であればそのまま原隊に戻され、負傷の程度によっては本国に送り返される。彼らの選別は実に的確かつ厳格、迅速に行われ、酷く機械的だった。
 それは負傷者が、ジョン本人になっても変わらなかった。撃ち抜かれた肩。暫く腕は上がらなかった。戦場の軍医が片手では仕事にならない。おまけに、怪我が徐々に癒えても、何故か脚が巧く動かせなかった。走る事の出来ない兵士は戦場にはいられない。
 帰国を命じられて荷物を纏めた。小隊の連中は寂しくなると声を掛けてはくれたが、それだけだった。誰もが明日の我が身だ。別れを惜しんで泣く程の弱さも情緒も、戦場には必要のないものだった。
 乾いた風が吹く。
 アフガニスタンは昼夜の寒暖差が激しかった。空気は乾燥しており、ロンドンとは何もかもが違う。誰もが経験する事だが、唇や鼻の粘膜、手の甲や脚は乾燥の為にかさかさとひび割れた。日差しの強さもロンドンとは比較にならない。眩いばかりの太陽は、遮るものもない平原を容赦なく炙った。当然のように、大抵の人間がサングラスを掛けていた。通常のゴーグルでは紫外線を遮る事は出来ない。射撃用のサングラスは部隊からの支給などないから、誰もが自分で購入して持ち込んでいた。既にアフガニスタンでの作戦は長く、先任し、帰還した兵士から経験談を聞く機会は多かったから、派遣が決まれば誰もが準備に余念がなかった。
 アフガニスタンの大地は概ね乾いた荒涼たる大地だ。
 人は山岳地帯から僅かに流れ出す川沿いに集落を作る。タリバンは山岳地帯に篭もってゲリラ戦を続けており、当然のように、山岳地帯に近ければ近い程に危険性は高かった。アメリカ軍が概ねそうした危険地帯を受け持つのに対し、英軍は比較的安全な平野部に展開している。
 だが、それは建前上の話でしかない。北部も酷かったが、南部の情勢も同じかそれ以上に酷かった。
 駐屯地のあるヘルマンド州は首都カブールからは遠く離れている。近隣で辛うじて知名度のある都市といえばカンダハルが上げられるが、これはヘルマンド州に隣接した別の州だ。だが、このカンダハルから山岳地帯の裾野を結ぶように広がる幹線道路沿いが、英軍の受け持ち地帯ではあった。それより北と、更に南部はアメリカ軍の担当地帯になる。
 ヘルマンド州サンギン、と呼ばれる地域の治安権限は英軍にある。正確に言えばあった。既に昨年夏、英軍は治安権限をアメリカに委譲し、中部まで撤退すると発表して実行した。だが、ジョンが派遣されていた頃、英軍の大部分はこのサンギンに展開していた。
 そこに何があったか、と問われて思い出せるものは多くない。
 赤茶けた大地。どこまでも平面が広がり、それはロンドンでは決して見る事のない景色である事だけは確かだった。僅かに潤う水辺の土地に人々はしがみ付くようにして生活を確立し、辛うじて畑が広がるその場所での、住民の生活の糧は概ね自給自足だった。
 IEDと呼ばれる手製地雷がある。
 サンギンでの負傷者のうち、重症を負う者にはこのIEDの被害者が多かった。死者というなら、アフガンに於ける英軍戦死者の実に三分の一がこの地域での死者であり、その大半はIEDによるものだった。谷間であるサンギンは、文字通りの死の谷だった。栽培されるケシが、コカインの原料となってタリバンを潤している事も、死の谷の名を強調させた。
 住民にタリバン寄りの人間は少なくなく、少し集落を離れれば襲撃がある。一見すれば川沿いに畑が広がり、アフガン特有の乾いた土を利用した家々が並ぶ美しい村は、しかしやはり戦場ではあったのだ。
 従って、幹線道路からこうした村へと分け入って行くのは酷く緊張感を齎す出来事だった。
 例えば幹線道路沿いには古ぼけたガソリンスタンドがあり、パーキングエリアのある飲食店があったりもする。民間軍事会社の装甲車が走り抜け、その後を地元の農夫のトラクターが走って行きもする。周辺は広大な荒野としか呼びようがなく、稀にヤギの群れを見る事はあった。近くにヤギ飼いがいる筈で、しかしその姿を見た事は余りない。
 そんな幹線道路から、ひび割れたり陥没があったりするのが当然の道に踏み込んだ先に、前線と呼ぶ他はない村々は存在した。無論、アフガン警察の基地など、現地の治安組織の姿はある。大抵のそういった基地は有刺鉄線を張り巡らせた塀に囲まれ、民家とは違ってコンクリート製の建造物が据えられている。ダークグレーの制服警官が、AK47を抱えて歩き回っている。
 AK47だ。
 正式には1947年式カラシニコフ自動小銃とでも言うべきこの小銃は、ソビエト連邦軍が一九四九年に制式採用した歩兵用のアサルトライフルで、以来連綿と改良され続けながら半世紀を越えてあらゆる紛争地域で使われ続けている代表的なものだ。存在自体は余りに有名であり、名称だけならポピュラーとさえ言って良かったが、それを正規に使用しているのを目の当たりにすると、否応なくその場所が紛争地帯である事を思い知らされる。
 大抵の乾燥地帯でそうであるように、民家も土で出来た壁に囲まれている。そのせいで中の居住空間は見えず、様子は高い場所からでもなければ窺えない。直線で構成されたそれらは、出入り口の金属性か木製の扉を除けば他の大部分は土だ。それと比較するなら、恐らく駐屯基地は遥かに頑丈且つ快適と言うべきなのだろう。
 他に何があの大地にあったか。
 哨戒任務で更に北部の集落に近付く、というのは頻繁に行われた。何かをするのではなく、反応を見る為だけの行動だ。村は一枚岩では無論なく、当然そこには敵が混じっている。彼らを挑発するつもりはないが、どの程度の攻撃の意思があるのかを確認する事は確かに必要だった。攻撃される事は多くはなく、だが少なくもなかった。つまるところ、何もかもが戦場だという、ただそれだけの事だ。
 アフガン軍の兵士達とは無論交流した。昼食に招かれ、彼らの真似をして素手でナンを食べた事もある。基本的に衛生面で優れているとは言い難い場所だ。彼らの料理が衛生的であるとはとても思えない。だが、幸いな事に何度か食事に招かれて、一度も悲惨な結果にはならずに済んだ。時折、アフガン軍の兵士によって国際治安支援部隊の兵士の殺害事件などもニュースになったが、少なくともジョンの周囲ではそれは起こらないままだった。
 覚えているのはそんな事ばかりだ。
 あの場所で、自分は何を見て来ただろう。
 時に、駐車場に停められたバイクなどに仕掛けられた爆弾が破裂し、それを合図にしたように交戦が発生する事はあった。治安活動で出歩いている限り、軍医だ、という主張は何の役にも立たない。相手は国家同士の戦争を行う職業軍人ではなくゲリラでありテロリストだ。国際条約など何の役にも立たない。衛生兵を攻撃してはならないというルールさえ彼らには通用する筈もなく、あまつさえ医療用車は狙い撃ちにされる始末だった。物資の運搬車に次いで、彼らにとっては医療用車は役に立つ戦利品になり得る。
 一度、米軍特殊部隊の衛生装備を見学した事がある。気さくな衛生兵が、まるで自宅にでも招くかのように招待してくれたのだ。
 他愛もなく、お互いの装備を見せ合った。例えばアーマー。
 身を守る為に着込むアーマーは、同時に物品の運搬を行う為のポーチでもある。イーグル社のプレートキャリアーを使っているとタグを見せてくれた米兵は、前面腹部に弾倉ポーチを三つ付けていた。携行弾倉は六個。胸部には手榴弾、拳銃の弾倉ポーチ、止血帯と救急救命用のハサミが固定され、左側には無線機とメディカルポーチ、右側には汎用ポーチのほか、コンバット・グローブも下がっていた。暗視装置や万能ツールなどは汎用ポーチに収納されており、当然だがメディカルポーチには赤十字マークが付けられている。
 基本的な装備はどこの軍でも大差がない。だが、軍医や衛生兵は医療従事者であると同時に兵士でもある。自分の命は自分で守る他なく、携行する装備も基準はあれど、個人の裁量に任されている。自分が使い易いように装備を工夫するのは全ての兵士が行う事で、細かい差異を教えあうのはそれなりに有意義ではあった。
 例えば、止血帯を輪ゴムでバックパックに固定する衛生兵がいる。引っ張るだけで引き千切れるから即座に使う事が出来るというこの工夫は、しかし同時にゴムの劣化によって止血帯を落として歩く結果も同時に招きかねない。
 そんな些細な事も自分だけで考えていては見落とす事は多く、意見交換は常に最善の結果の為に必要だった。
「ワトスン先生は、何故軍に?」
 時折投げ掛けられる質問には大抵「腕が良いから」と答えた。冗談半分のこの答えは誰に告げても笑いを攫えるのが気に入っていた。実際のところはどうなのかと突っ込んで尋ねられる事はなく、ジョン自身も他の兵士に尋ねる事は殆どなかった。
 何故、ここに居るのか。
 考える事にそれほどの意味を見出さなかった。腕が良いからと答えるそれは、半ば以上は本気だった。自分の腕を活かせる場所に居たいと思うのは当然の欲求だ。戦場であり、救急救命であればこそ医療行為は幾らか柔軟に法の縛りから解放され、日進月歩で技術は進化した。その真ん中に身を置いて居たかった。極限の緊張感と高揚、それは軍医にならなければ得られないものだったに違いない。
 単純に言えば好きだったのだろう。戦場の空気、その緊張感。アフガニスタンには、少なくともその全てがあった事だけは間違いなかった。例え、死者を見る事になっても、それは変わりなく揺るがなかった。
 ──死者。
 エイドリアン・マクリーンの遺体が脳裏に浮かんだ。シャーロックに話すまで殆ど思い出す事もなかった戦場での奇妙なあの一件がジョンの思考に大きく闇となって広がっている。バタフライ効果エフェクト。そうだ、とっくにシャーロックは辿り着いていた。偶然と必然。思い出す。
 ドクター! こっちです!
 呼ばれて駆け寄った瞬間、ジョンはエイドリアンの死を半ば確信していた。
 エイドリアンは呼吸をしているように見えなかった。顔色は既に土気色で、脈があるかどうかさえ既に怪しかった。背中に爆発の影響らしい石の欠片を幾つも突き立てられ、大小の傷のせいで肌の色を探すのが難しい程の血塗れだった。これは助からない、否、既に絶命している。判断するのに掛かった時間は短かった筈だ。首を振り、駄目だと意思表示したのは、まだエイドリアンの背中しか見ない内だった。
 抱え起こされたエイドリアンの胸部。その時の違和感が脳裏に甦ってジョンは顔を顰める。ある筈のない銃創。有り得ないは有り得ない。残されたものだけが真実だ。
 そう、エイドリアンは。
「アンタ、元軍医だっていうなら、俺が手に掛けた裏切り者を診たかもな」
 不意に現実に引き戻された。
 ジョンは真っ直ぐにモームを見詰める。明かりに照らされた男の顔は平坦で、滴り落ちる雫を拭ってモームは続けた。
「兵士は駒だ。邪魔になれば捨てられる。どうやって捨てるか。別の駒に命じれば良い。実に簡単だ。俺は命じられたとおりに裏切り者を始末した。何しろタリバン民兵組織に潜入中だった。彼らのテロ計画を知るのは簡単だったし、それに紛れて英軍兵一人を始末するのも難しくはなかった。誤算だったのは、仕掛けられた爆弾が期待した程の威力じゃなく、始末した筈の男の遺体が木っ端微塵にはならなかったらしい事くらいだな」
 繋がった。エイドリアン・マクリーン。あの男の死因を、自分は知っていたではないか。
「君が殺したのはエイドリアン・マクリーンだな、イアン・モーム」
 不意に断罪の声が降り注いだ。ジョンは目を見開いて傍らを見る。シャーロックだった。
 一歩を前に出て、シャーロックは目を眇め、モームを真っ直ぐに見据えて言った。
「エイドリアン・マクリーンはタリバン民兵組織に物資を横流ししていた。通常であれば憲兵による調査の後に軍法会議に掛けられる所を、一足飛びに君の手で処分される事になった経緯までは判らないが、彼を殺したのは、君だな」
「驚いた」
 モームが呆れたように両手を広げた。
「何故、アンタがエイドリアン・マクリーンの名を知っている?」
「……僕が診た」
 ジョンは乾いた唇を舐めた。
「僕が診て、死亡と判定した。彼は、防弾衣アーマーベストを着ていたにも関わらず、胸部に銃創を残していた。有り得ない。銃弾は防弾衣を貫通しないからだ。不思議だと思った。思ったのにうやむやにした。その話をシャーロックにしたばかりだった」
 そういう事だ。
 謎でも何でもない。防弾衣を着ていたにも関わらず胸を撃たれて死んでいた兵士。発見された時に、防弾衣を着ていた事から混乱した。だが。
「君はテロ計画の実行時間を正確に承知していた。その時間に合わせてエイドリアン・マクリーンを射殺し、遺体に、防弾衣を着せて爆発の威力が最も強いと思われる場所に彼を座らせて去った」
 滔々と語ってシャーロックは一度言葉を切った。確かめるように向けられたシャーロックの視線にモームは何も言わない。
「直後、テロは実行され、爆弾は破裂した。隣室の兵士に負傷者が出て現場は混乱する。居合わせたジョンは駆け付けて負傷者の救済に走り回る事になり、エイドリアン・マクリーンの遺体を検分する事になった」
 一つ、息を吐く。
「遺体は爆発の影響で酷く損傷していた。恐らく君の計算では、もっと酷く損傷する、あるいは四散するくらいのつもりでいたのかもしれない。そうであれば、胸の銃創など誰も気に留める筈がないからだ。だからこそ君は、悠然とそんな手段を取った」
 だが、エイドリアンの遺体は酷く損傷していても原形を留めた。特に胸部側は。
「防弾衣は背中側は損傷してしまって、胸部側だけになっていた。遺体を最初に発見した人間がエイドリアンを抱え起こし、移動したせいでそれは取り残され、脱がされたのと同然になった。傷口を覆っていただろう着衣も剥ぎ取られた。治療の邪魔だからだ。その遺体を、ジョンは診た」
 まるで見て来たようにシャーロックは言葉を紡ぐ。ジョンの脳裏にはありありとその情景が浮かんだ。
 親しげに、モームは彼を訪ねたのだろう。あるいは、横流しの現場で顔を見た事があったかもしれない。基地には原則として外部の人間は入れなかったが、基地外の借り上げられた民家や拠点には現地の人間も、業者も出入りしていた。そもそもそうでなければ物資の横流しなど出来るわけもなく、恐らくその場所に出入りする事は難しくなかった。
 ──やあエイドリアン、調子はどう。
 そんな風に話し掛けられれば、どこかで知己を得た人間だと思うだろう。そうして、エイドリアンは射殺された。常に物音の響く雑然とした場所で、消音器を通した銃声は殆ど響かない。室内にエイドリアンしかいなかったのであれば、それは実に容易い仕事である筈だった。そもそも。
「簡単だっただろうな。君はそもそも英国人だ。英国陸軍の身分証も持っているだろう。出入りを咎められる筈もないからな」
 その通りだ。
 ああ、今日は何だい、とでもエイドリアンは答えただろうか。モームはプロだ。状況は見極めて声を掛けただろう。即ち、室内にエイドリアンしか居ない事、爆発までの残り時間が殆どない事、用意すべき状況はたったそれだけで、それは恐らく実に容易い。たとえ室内にエイドリアン以外の人間が居たところで、全員の情報を持っているモームは、エイドリアン以外を室外に呼び出す事など赤子の手を捻るより簡単な事なのだ。
 腕時計を一瞥。時間を確認し、エイドリアンの腕を引く。胸に拳銃を押し当てて一発。
 声もなくエイドリアンは崩れ落ちた筈だった。後は防弾衣を着せ、椅子にでも座らせておけば良い。室内を覗き込んだ人間が居たとして、足元に装備を広げたエイドリアンが俯いている事など誰も気に留めない。いずれにせよ、直後に爆発は起こるのだ。
「爆発で死んだと思われた人間の胸部に銃創があったというなら、当然、死因は爆発ではなく銃創だ。どうしたらそんな事になるか。簡単だ。爆発の前に殺せば良い。これが完全犯罪にならなかったのは爆発が思ったよりも小規模だったせいだが」
 ふん、ずさんな完全犯罪だなとシャーロックは吐き捨てた。
「まともな検死の行えない場所でしか通用しない。四散していたとしてさえ、銃創はまともに検死すれば見付かっていた筈だ」
「正解だ」
 パンパン、と場違いに乾いた音を立ててモームが手を叩いた。
「まるで見ていたみたいだな。アンタ探偵だって言ったか。とんでもない名探偵だ」
 ずさんな完全犯罪、その通り、とモームは面白そうに笑った。
「だがずさんで構わない。何しろあそこは戦場だ。まともな検死が行われるわけもなければ、爆発で混乱した現場にいつまでも疑問を引き摺っておける余裕もないんだ」
 乾いた風が吹く。
 灼熱の大地。広大な荒地は赤く、そこに蔓延しているのはどうしようもない暴力だ。大義を謳い、正義を標榜し、自由を掲げて蹂躙する全てが、武力という暴力の上に辛うじて立っている。
「エイドリアン・マクリーンが横流ししたのは物資だけじゃない」
 モームは肩を竦めた。
「部隊の行動予定まで筒抜けだった。奴の父親が誰か知っているか」
 外務省、と不意に思った。シャーロックが眉を寄せて「マクリーン、か」と呟く。
 シャーロックの脳というデータベースには、膨大な数の人名録がある。アメコミのキャラクターであるブルース・ウェインの名はなくとも、重要人物の名は即座に浮かぶのだろう。やがて小さく視線を彷徨わせていたシャーロックは、「アンソニー・マクリーン?」と口にした。
「ご明察だ。外務省高官。来年にも局長ポストと噂されている。さあ、そんな人間が息子のスパイ容疑を知ったらどうする」
 ジョンは息を呑んだ。通常通りに憲兵に検挙されれば、それは即座にスキャンダルになり、その父親のキャリアを無にするだろう。だから殺害命令だったのか。名誉の戦死とスキャンダルを天秤に掛けた。
「もっとも、これは任務遂行後に知った事だ。命令はただ、エイドリアン・マクリーンを排除せよの一言だった。物資を横流しし、情報漏洩を行っている人間。米軍の手前、通常の処分では追い着かないくらいの、そんな理由だと思って実行した」
 面白いものでな、とモームは目を細めた。
「何故か、情報ってのは思い掛けない時に思い掛けない形で転がり込んでくる。そうしてある日、唐突に全てが結び付く。エイドリアン・マクリーンの父親の事もそうだった。戦死者として手厚く葬られ、勲章を与えられたエイドリアン・マクリーンについて、涙ながらに語った男が外務省の高官だった。知った瞬間は特に気にも留めなかったが、今や何もかもが明白だ。そいつが自分の出世と名誉の為に、息子を容赦なく切り捨てたって事がな」
 それは冷淡な決断だ。それほど非情でなければ、ホワイトホールでは生きられないのかもしれない。そう、シャーロックの兄、歩く英国政府と実の弟が呼ぶマイクロフトも、氷のような目をした非情の人だ。
「俺は命令に従っただけだ。ああ、女王に忠誠を誓っている。この国にな。だが、潜入任務を終えて帰国してみればどうだ。右から左へ次の対象者だとそいつの資料を渡されて」
 指が突きつけられて、パトリック・ピアースが顔を上げた。顔色は更に悪化している。土気色と言って良かった。思ったよりも出血が多かったのかもしれない、と思い当たってジョンは唇を噛む。モームもピアースも、即座に入院させられてもおかしくない怪我をしているのだ。
「ああ、愚かな俺はまた忠実に任務を遂行する気で居たさ。もうロンドンオリンピックは目の前だ。今更表面的には解決した事になっている北アイルランド問題を大々的に蒸し返されちゃ困る。その為にこの男の排除が必要だと言われれば、そうだろうと思いもする。骨の髄まで諜報員として躾けられてたからな!」
 1952年以降連綿と女王として君臨する女性の姿が浮かぶ。聖金曜日協定ベルファスト合意でさえ収まらなかった北アイルランド問題を、ジョージ五世以降100年ぶりのアイルランド公式訪問と、北アイルランド副首相との握手など、歴史的なと呼ばれる行動で全面解決へと導こうとした。女王を慕う国民は多い。フィクションの007ダブルオーセブンが女王陛下のと言われるのと同じく、この国の諜報員は女王の為に尽くす気概を確かに持っているだろう。
「それが蓋を開けてみればどうだ」
 モームがするりと腰から何かを抜いた。明かりに煌めくそれがモームの目の高さに翳される。ナイフ。刀身がぎらりと光った。
「追っている筈のこの男に、あべこべに付け狙われた。どうなっているのか全く判らなかったよ。狙う事はあっても狙われる事なんて潜入先で正体がばれでもしない限り有り得ない。混乱した。誰が味方で誰が敵かも判らなくなった。だから定時連絡を抜いたんだ」
 そうして、マイクロフトは諜報員が失踪したと、シャーロックに行方を捜すよう依頼する事になった。そういう事だ。なるほど、事態は余りに複雑だ。マイクロフトがシャーロックに依頼するしかなかったのも、恐らくそれが原因だろう。おいそれと誰にでも明かせる話ではない。
「定時連絡をやめて、この男から身を隠したまま考えた。考えても考えても判らない。ならばこいつに訊けば良い。任務を遂行し、同時に情報を得る。今までと同じだ。そうだろう」
 くるりと、モームは手の中のナイフを弄んだ。
「こいつの狙いをバッキンガム宮殿と当たりを付けた。どこで待ち伏せるか、その下見のつもりでいたハイドパークで遭遇したのは余計だったがな」
 ピアーズが低く呻いた。シャーロックが「それで判った」と一つ頷いた。
「僕に斬り付けたのは君だな、パトリック・ピアーズ」
 ジョンは驚愕に目を見開いた。なんだって?
「昨日の昼間、下水道で遭遇したのは君だったんだろう。僕はそれと知らずに君の隠れている側溝へ無造作に踏み込んだ」
「は! あれはお前だったのか」
 ピアーズが唇を歪めた。
「てっきりこの諜報員だと思って何も考えずに斬り付けて逃げた。なんだってあんな所に来た」
「僕は探偵だ」
 シャーロックは肩を竦めて首を振った。
「情報を集める為なら何でも使う。あの付近の路上生活者達は、時折下水道を使うからな。確認の為に歩いていた。路上生活者は僕の情報源だ」
 どこでこんな怪我をしたんだとジョンはシャーロックに尋ねた。それが喧嘩の原因だった。まさか、ピアーズに遭遇していたとは。ああ、それでとジョンは頭を抱えたい気分になる。君には関係ないとシャーロックは言った。斬り付けられたなどという話を、シャーロックが素直にジョンにするわけもないのだ。何の気負いもなく、いっそ当然のように人を巻き込む男だが、同居人を危険に晒したくないという程度の友情の持ち合わせはあるらしい。一体どうするつもりだったのか。一人で明日以降に調べようとでも思っていたのか。
 ピアーズはモームに視線を向けた。冷ややかな口調で告げる。
「ハイドパークでお前が前から来るのを見て決めた。一度斬り付けている。お前は真っ直ぐに俺を殺しに掛かるだろうとそう思ったからナイフを構えた」
 ピアーズの言葉にモームが失笑した。
「なんて馬鹿馬鹿しさだ。それで判った」
 モームは今度こそ声に出して高らかに笑った。
「運命ってのは悪戯好きと決まってんのか。元軍医殿、アンタどっかでこの男を治療したな?」
 ジョンは瞬いた。治療。パブの帰りだ。ホテルの裏で蹲った男に簡単な治療を施したのは間違いない。そうしておいてガーゼや包帯と共に消毒液を与えた。
「おかしいと思った。アンタを襲った俺に、アンタは傷が開いたのかと言った。脇腹の刺し傷に驚きもしなかった。俺に会う前に、あの男を診てたんだな」
「ちょっと待ってくれ」
 混乱する。何がどうなっている? あの時治療したのはモームではなかったのか?
「君は僕の渡した消毒薬を持っていた。そうだろう!」
「拾った」
 くぐもった笑いを洩らしてモームはまたナイフを回した。
「拾ったんだよ、ハイアットの裏だ」
 拾った? 消毒薬を? ハイアットの裏。確かに治療をした男がいたのはハイアットの裏だ。だが。それは何だ。ジョンが治療をしたのはモームではなかった?
「つまり」
 シャーロックが一つ溜息を吐いた。
「ジョンが治療し、渡した消毒薬その他を、君はそのまま通りに置き去りにし、君を追って来たイアン・モームがそれを拾った」
「そんな事って!」
 ジョンは叫ぶなり呆然とした。オックスフォード・ストリートから路地に入った。気紛れだ。そこで怪我をした男の治療をした。持ち合わせていた消毒薬やガーゼを与えて、けれどそれは別の男の手に渡った?
「俺はピアーズが治療した残りだろうと思った。お互いに刺し傷を抱えてる。消毒薬を手にぶっ掛けてみたが単なる消毒液だった。ありがたく傷の治療に使った。残りはポケットに突っ込んで、そうしてアンタのフラットに押し入ったんだ、これまた偶然な」
 そんな事があるのか。偶然の連鎖だ。あるいはそれさえも必然だとシャーロックなら言うのか。そのシャーロックは、苦い顔で「ジョンのフラットじゃない」と指摘し、両手を口元で合わせた。
「一つ、僕に提案がある」
 ジョンはシャーロックを振り仰いだ。何を言い出したのか。ピアースとモームも同じだろう。疑問の浮かぶ視線がシャーロックに集中し、この名探偵は一つ頷いた。
「このまま膠着状態で向かい合っていても仕方がない。互いの命を奪い合うのも馬鹿らしい。取引に乗る気は?」
「取引だと?」
 答えたのはモームだった。ナイフを回しながらシャーロックを目を眇めて見詰める。
「アンタに何の権限がある? 名探偵」
「僕にはないが、兄にはある」
 事も無げに言って、シャーロックはポケットからモバイルを取り出した。
「君達が水から上がる前、僕は兄に連絡を入れた。呆れた事に、兄は君達二人を二人とも自分の手駒にしたいらしい」
「手駒、だと」
 余りに直截な物言いにジョンは口を開いたままシャーロックを見ていた。何を言い出したのか、何をする気なのか、マイクロフトが何を考えているのか、一つも判らない。無論、この兄弟の思考回路など未だかつて判った事など一度もないが、それにしても今回は群を抜いている。何をする気だ、シャーロック。
「ともかく、ここに居ても仕方がない。この男はこのままでは死ぬ」
 引き摺りあげるようにシャーロックがピアースの腕を抱えて持ち上げた。よろめきながら立ち上がった男は、シャーロックの真意を測りかねる顔でそれでもシャーロックに支えられている。顔色は悪い。確かにこのままでは最低でも意識は失うだろう。
「上に戻るぞ、ジョン」
 振り返ってジョンに言うなり、シャーロックはピアースを引き摺るようにして桟橋を歩き始めた。モームが「どういう事だ」と言いながらそれを対岸から追う。ジョンは暫く呆然とそれを見守り、ようやく小走りに後を追った。桟橋が揺れる。ビッグベンを見上げた。午前四時が近い。
 桟橋は、対岸の歩道と合流する。先に待ち構えたモームがナイフをシャーロックに突き付けた。
「何のつもりだ。どこへ行く。アンタの兄ってのは何者だ」
「君を探せと依頼してきたのは兄だ」
 一言で言い捨ててシャーロックは構わずにモームを押し退けた。ピアースを連れたまま先を行く。一瞬振り返ったモームの視線にジョンは首を振る。ジョンにさえシャーロックの意図は判らない。言える事など何もなかった。
 だが。
 ウェストミンスターブリッジに戻る為の階段を上がり始めると、遠くサイレンが響き始めた。パトカーのサイレン。ピアースがシャーロックを睨み上げた。モームがナイフを振り翳す。ジョンがモームの腕に飛び掛ると、体勢を崩したモームは側壁に強かに身体を打ちつけて呻いた。ジョンはそのままモームの腕を押さえ付ける。シャーロックが「心配するな」と眉を寄せて振り返った。
「警察は一切の手出しをしない。僕を信じろ」
 諦めたのか、あるいは既に体力が失せたのか。ピアースは大人しくシャーロックに引き立てられて階段を上がった。ジョンはモームのナイフを握った腕を捻りあげたまま眉を寄せる。
「一つ、言える事があるんだけど、聞く気ある」
 モームは返事をしない。お構いなしにジョンは続けた。
「彼がそう言うなら、本当に警察は手を出さない。彼のお兄さんが言うなら、本当に何らかの取引は用意されているんだろう。僕には判らない世界に生きている人だ。同じように、僕には判らない世界に生きている君達の使い道を知っているんだと思う」
 マイクロフトは使役する側の人間だ。そして、モームもピアーズも、使役される側の人間だろう。それが正しいとは思わない。だが、それを正しいと信じる世界に彼らは生きている。
「ホワイトホールの人間だって事か」
「詳しくは知らない。だけど、少なくとも君のような表に出ない筈の人間の情報を手にし、バッキンガム宮殿に出入り出来る権限を持っている人だ」
「ホワイトホールの人間を信用しろと?」
 モームは低く笑った。
「あの男に俺を始末するように命じたのは外務省の高官だ。俺がエイドリアン・マクリーンの死の真相を知っているからだろう。だから帰国するなりこんな事になった。そんな人間がいるホワイトホールの人間をどうやって信じる」
「……少なくとも」
 ジョンは深く息を吐いた。
「僕らは、君を探せとは依頼されたけど、殺せとは言われなかった。今も言われてない」
 ふん、とモームは鼻を鳴らした。だがナイフを持った腕から力が抜けている。ジョンは一つ頷いてモームの腕を解放した。腕を擦りながらモームは階段を上がる。ぽつりと言った。
「アンタ、本当にただの元軍医か。こっちは訓練受けてるってのに」
 ジョンは小さく笑った。
「医者であると同時に軍人であるからこそ、軍医だろ」
 モームは肩を竦めただけで何も言わない。頭上、パトカーのサイレンが大きくなり、止まった。ジョンは早足で橋の上へ戻る。道は封鎖されていた。だが、警官達は遠巻きにするだけで近付いては来ない。
「ジョン」
 シャーロックに顎を振られて視線を向けた。見慣れた顔が立っている。苦虫を噛み潰したような顔とはこの事だろう。
「レストレードだ」
 シャーロックに言われて頷いた。見ればわかる。スコットランドヤードの敏腕警部。ふと、レストレードの身分証でMINIを借り受けた事を思い出した。MINIとベントレー・ミュルザンヌが大破し、バイクが捻じ曲がって横たわる歩道は何かの冗談のようだ。持ち主にも、レストレードにも謝らなくてはならない。MINIの修繕費はどのくらい掛かるのだろう。これは果たして、マイクロフトに経費として請求出来るものか。
 早朝から叩き起こされる事になったレストレードの機嫌が良いとはとても思えない。謝るには最悪のタイミングだ。だが、顔を合わせておいて謝罪しないというわけにもいかない。ジョンはレストレードの方へと歩み掛けていた足を止める。シャーロックの方へ数歩を戻り、小声で言った。
「それで?」
「それで、とは?」
「つまり、これからどうなるんだ」
 シャーロックはああ、と頷いた。
「マイクロフトが来る。恐らく本人じゃなく迎えだけだが」
「すぐ?」
 シャーロックは手の中のモバイルをジョンの鼻先に突き付けた。短い文面にジョンは仰け反りながら目を走らせる。
《迎えを寄越す MH》
 実に簡潔だ。とても良く判る。シャーロックはモバイルをポケットに戻した。思いついてジョンはもう一度シャーロックの腕を叩いた。
「君、足は」
「足がなんだ」
「怪我は。良くその怪我でこんなに走り回ったな」
 シャーロックは肩を竦めた。ノーコメント。ジョンは眉を寄せる。シャーロックの顔を下からねめつけた。肝心な事ばかりを何故か口にしたがらない男だ。
「もしかして、相当痛むんじゃないのか」
「だとして、今何か出来るわけじゃない」
 不貞腐れた子供のような言い草だ。だが確かに真実ではあった。ジョンの手元にはそれこそ消毒薬の一本さえない。唇を舐めて首を傾げた。
「迎えってどのくらい掛かるんだ。あの二人だって、一刻も早く治療した方が良い」
 脇腹の傷を、彼らは一度もまともに治療していない。おまけにテムズで水泳をしている。菌が入り込めば、あるいは命に関わる事になりかねなかった。排水が直接河川に投棄され、コレラ流行の引鉄となった頃に比べれば相当改善されたとはいえ、未だテムズの水質は良好とは言い難い。
 言った瞬間、遠くヘリコプターのローター音が響き始めた。瞬く間にそれは大きくなり、テムズ上空に黒い機体が現れる。ジョンは呆然と夜空を見上げた。
「ウェストランド スカウト!?」
 陸軍の汎用ヘリだ。迷彩色でなく黒い。こんな機体を見るのは初めてだった。警官達が呆気に取られたように見上げている。風圧によろめいた。ローター音のせいで他の一切の音が消える。やがて機体はウェストミンスター橋に舞い降りた。エンジン音が停止し、ローターの回転が緩んでいく。
「お待たせしました」
 降り立ったのはこれもまた見慣れた顔だ。
「アンシア!」
 思わずジョンは驚愕して叫ぶ。数時間前に別れたばかりの美女。当然のようにきっちりとスーツを着用し、身支度は整っている。この美女は、一体どういう契約をマイクロフトと結んでいるのか。二十四時間いつでも対応出来るのだろうか。
 にこやかに笑んだマイクロフトの秘書の後ろから、担架を持った男が走り寄ってシャーロックの足元に座り込んだピアーズを抱え上げた。目を細めて見守るモームの前を、担架がヘリに向かって去って行く。どうやら救急救命の医師と道具を持参したのか、迎え入れるのは白衣を着た男だ。
「行きましょう」
 涼しい顔でアンシアがそう言った。相変わらず、片手にはモバイルを握っている。モームがアンシアを値踏みするように見下ろした。次いで無言で見守っている周囲の警官達を見回す。
「行くって、どこに?」
 モームの問いに、アンシアは答えない。笑みを浮かべて見上げたのみだ。
「アンタは、何者?」
「私は秘書です」
 アンシアはまるで動じない。
 ジョンはそのやりとりをぼんやりと見詰めた。閉鎖されたウェストミンスターブリッジ、封鎖の為に停車している複数のパトカー。その前にただ立ち尽くして見詰めているレストレード。橋の上に舞い降りたヘリコプター。イルミネーションに輝くロンドン・アイ。全てが酷く虚構めいて現実味に乏しい。
「どうした」
 シャーロックに言われて首を振った。
「どうもしない。しないけど」
 これは何だろう。これが、二つの世界の境界だろうか。ジョンが無造作に触れたがったもう一つの世界と、日常である筈の世界と。
 本当は、同時に存在するそれらの世界は、目を瞑って見ない様にしているだけで初めからあるのだろう。例えば軍人であるジョンには当たり前の戦場という世界も、人によっては遠い遠い違う世界の出来事でしかない。
 アンシアとモームは、何かを話しながらようやくヘリの方へと歩き出した。シャーロックがそれを追って歩き出したのを見て、ジョンは背後を振り返る。レストレードは微動だにしない。本当は、お前ら何やってると怒鳴りたいだろう気持ちは十二分に想像出来た。レストレードはどの世界に立っているのか。市民を守る為に日夜奔走するスコットランドヤードの敏腕刑事の世界はどこに立脚しているのか。今、恐らくこの橋の上はいわゆる治外法権に近い状態に置かれている。そんな事を電話一本か指先一本で指示できるマイクロフトの世界と、では全ての世界は本当に繋がっているのか。
 ゆっくりと視線を戻したジョンの前で、そしてその瞬間、それは起きた。

 

 元軍医、と言った。
 苦笑する。降参だ。諜報員として訓練された自分が容易く押さえ込まれた。怪我と疲労を差し引いても、そもそもフラットで襲い掛かった時に避けられた事実を鑑みれば、この男の実力は本物だろう。
 アンシア、と元軍医が呼んだ美女は振り返りもせずに先を歩いている。後ろをついて歩きながら、まだ迷っていた。ヘリの場所まではそう距離がない。迷っている時間は殆どない筈だった。
 ふと、後ろを振り返る。
 ベントレー・ミュルザンヌが無残な姿を晒して欄干に鼻先を突っ込んでいる。酷い有様だ。それこそこちらはジェームズ・ボンドでもあるまいし、次にあのクラスの車を手に入れようとすればどれだけ働けば良いのか見当もつかない。
 ヘリには、抹殺を指示された標的が横たわっている。パトリック・ピアース。個人的な恨みなどは一切ない。ただ、国家の敵だというだけだ。
 あの元軍医と妙な名探偵のお陰で、縺れていた糸は全て解かれた。恐らく、このヘリに乗り、アンシアの雇い主であり、あの探偵の兄であるという人間の元へ行けば、このまま互いに生き延びる事が出来るのだろう。
 無論、元軍医よりは裏社会を見て来た人間として、どんなに楽観的に考えたところで新しい雇い主が今までの境遇より素晴らしい任務を与えてくれる等という夢は見ろと言われても難しかったが、それでも、むざむざと外務省の高官の保身の為だけに殺されるよりはずっと良い。
 それは間違いない。間違いはないのだが。
 果たして、それはどんな世界だ。
 己を国家の部品の一つと思う事は容易かった。今までそうやって任務をこなして来た。この国を守る為の捨石の一つと思えば何程の事はなく、その信念は今でも変わらない。
 パトリック・ピアースはどうなのだ、と考える。
 バッキンガム宮殿にテロを仕掛けるつもりでいた男。過去の例から考えるのなら、地下に周到に巡らせた爆弾の包囲網で一息に建物全てを崩落させる事が不可能ではない男ではあった。探偵が下水道で出会ったというのも、恐らくその下見の一環であった可能性は高い。
 欧州において、大都市の地下は複雑怪奇だ。積み上がった歴史の分だけ地下は掘り進められ、掘り抜かれて迷宮と化した。現役で下水道として使われているもの以外にも、無数の下水道跡や地下道が網の目のように走っているのが都市の地下だ。バッキンガム宮殿の地下だけが例外であるとは考えられず、恐らくそれを全て把握している人間は少ない。
 もし、あの男のテロが成功していれば、バッキンガム宮殿が崩壊する未来はあった。
 だからこそ、あの男の抹殺という任務を躊躇わずに居られる。では、この先、その脅威は本当に去ったのか。
 パトリック・ピアースは孤児だという。生まれた時から組織で育ち、北アイルランドの英国からの独立という大義名分だけを掲げる集団の中で生きて来た筈だった。その信念は、たったこれだけの事で消滅するのだろうか? この機を利用して生き延び、いずれ大望を果たす事がないと本当に言い切れるのか。
 判らない、と思う。
 自分には、国家に捧げる以外の自分はない。なのに、パトリック・ピアースにはあるのか。アフガンで負傷退役したという元軍医は、軍人でない自分の生きる道を本当に見付けたのか?
 世界とは、どこにある──
 やぁ、久し振りだ、と言った自分の声を耳の奥で聞いた。
 あの日、アフガンで、エイドリアン・マクリーンを射殺した日だ。
 爆発は十五分後。必要なのは僅か五分で、それでも十五分の余裕を取ったのは何故だっただろう。
「やぁ、久し振りだ」
 言うとマクリーンはまだ僅かに幼さを残した頬を引き攣らせる様にして笑みを浮かべ、「久し振り」と答えた。まるでピンと来ていない事は明白だったが構わない。当然だ。こちらが一方的に見知っているだけで、マクリーンの方にこちらから素性を明かした事はない。
「ええと、どこで……?」
「なんだ、忘れたのかよ」
 笑ってその肩を叩き、部屋の最奥まで誘導した。手に装備品のボストンバッグを握ったままのマクリーンに、とりあえずそれ下ろせよと言うと、まだ点検の途中なんだと言った。
「ああ、じゃあそれ続けてくれて良いぜ。俺はちょっと時間潰しに来ただけだから」
「そうか」
 疑いもせず、マクリーンはバッグを広げた。雑多な装備品は、マクリーン個人が軍から受給したものだろう。小型バックパック、ハイドレーション背面水筒リザーバー、ゴーグル、ニーパッド……。軍の物資を平然と横流ししておきながら、この青年は自分の装備品を入念に点検している。
「なぁ、お前、ここに来てどのくらいだ」
 問いにマクリーンは考えるように首を傾げ、半年を二度目だと答えた。つまり都合一年近くかと呟くと、そうなるなと笑う。たった一年で、物資を横流しし、自分の懐を暖めようと思い付くのがどういう人間なのか、少し考えた。今では、軍の行動予定まで洩らしている。それで自分だけは安全でいられるつもりなのか。友軍に被害が出る事は気にならないのか。
「何で、軍に入った?」
「うん?」
「家が貧乏なのか」
 貧しい家の子息が軍人になる、という典型的なパターンは中世以降職業軍人が誕生してから最も普遍的な理由だ。だがマクリーンは首を振った。
「うちの親父は高給取りだ」
「それで何でお前はこんなところに?」
 さあ、と首を振ってマクリーンは視線を彷徨わせ、「違う世界が見たかったから、かもな」と吐き出した。違う世界。
 なるほど、戦場は日常の延長にはない。ある意味で特殊な世界には違いなかった。ここで生き、ここで死んで行く人間以外にとって、紛争地あるいは戦場は非日常であり、決められた期間だけ滞在するワンダーランドだ。
 では、自分はどうか、と考える。諜報員として、常に複数の名前を、身分を使い分け、世界中のどこにでも派遣される。必要であれば銃を握り、相手を死なせる事もある。人によっては諜報員の世界こそ違う世界だと言うだろう。フィクションの世界と混同される事も多い。現実には007ダブルオーセブンの所属するMI6などというものは存在しなくても。
「違う世界、か」
「アンタは?」
 問われてマクリーンを見た。マクリーンが首を傾げる。
「ええと、アンタ、も軍人だろ? 何で軍に入ったんだ?」
 見咎められないために軍装をしていた。駐屯地の英軍兵は多く、交代で入れ替わっていくせいで余程の事がない限り全員の顔を覚えている人間など存在しない。今のマクリーンには確かに自分は友軍の兵士に見えている筈だった。
「さぁな、俺は……」
 より良き世界を夢見たからだろうか。
 それもまた、違う世界を望むという事だろうか。
 世界は多層構造をしている。全てが重なり、しかし全ての層に属している人間は恐らく存在しない。ならば、より良き世界とはどこにある。あるいは、それは既に存在し、自分が知らずにいるだけなのかもしれない。人が一生の内に知りうる世界は、恐らく酷く少なく薄い。
 誰の為に、より良い世界なのか。
 浮かんだ疑問に不意に苛立った。国家への忠誠を、世界への貢献を、では、その『世界』とは誰にとっての『世界』か。
 苛立ちのまま、マクリーンに向き直った。腕を掴み、額を寄せる。驚いて目を丸く見開いた男に向かって、言った。
「なぁ、久し振りって言ったよな。一昨日、会ったんだが覚えてないか?」
「な、に?」
「お前が流したブツの代金を受け取りに来た日だ。思い出せないか?」
 マクリーンが後ずさった。赦さずに引き戻す。まだ、タリバン側に居た人間だとは看破出来ずに、それでも本能的に危険を悟ったらしい動作だった。
「違う世界なら、引っ掻き回しても平気か? 元の世界に戻れるという保障は誰が呉れたんだ、親父さんか、国か」
 マクリーンは悲鳴を上げようとした。ああ、お前は違う世界の人間だ。その瞬間に、口元を押さえ、抜いた拳銃で胸を撃ち抜いた。
「もう一つ、別の世界に送ってやるよ」
 それが、その仕事の全てだった。
 より良き世界。その為に奪った命なのか、否か。答えはもう、探さない事にしている。
 目の前に、ヘリの乗降口が迫っていた。少し、目を閉じる。もう、迷いはなかった。

 

 ジョンはシャーロックの背中を見た。
 ああ、考えるのは後にしようと、そう思った筈だった。
 長い夜だ。ともかく、思考力は低下している。ひとまず、あの背中の行く所に行けば良い。そう決めた筈だった。青い青いプールサイド。『大いなる事件』の終焉を見詰めながら。
 少なくとも、この男と同じ日常を生きるのだと、隣に並んでみようと、決めた。
 ならば追い掛ければ良いだけだった。足を速めてヘリに向かって歩き出す。
 だが。
 怒声が上がった。驚いて一瞬足が止まる。
 白衣の男がヘリの中で仁王立ちになるのが見えた。だがその姿が一瞬で消える。ジョンは目を瞠った。何が起こったのか理解が及ばず、しかし次の瞬間に悟った。消えた白衣の後、イアン・モームが立っている。あの男が医師の喉元を掻き切ったのだ。モームの手に、血塗れのナイフが握られている。タクティカルナイフ。ジョンにも向けられた、何度も向けられたナイフだ。
 担架を運んだ男達が逃げ出すように一斉にヘリから飛び降りた。アンシアはヘリの手前で立ち尽くしている。何故、あのナイフを取り上げなかったのか。過去を悔やんでも始まらないにせよ、そう思う事は止められなかった。何故、今またあの男はナイフを振り上げているのか。全ては終わった筈ではなかったのか。
 シャーロックがヘリに向かって駆け出した。ジョンは見る。モームがナイフを振り上げた。足元に、パトリック・ピアースが横たわっている。治療は既に終わったのか、途中だったのか。意識はあるのか、ないのか。ジョンのところからでは定かではなかった。
 振り上げられたナイフから血が滴る。モームはピアースの胸に向かって、ナイフを突き下ろそうとしている。理解するなり脳内がカッと熱くなった。
 咄嗟に腰に手を当てる。上着はピアースに渡してしまった。だが、腰に差した愛銃はここにある。シャーロック、僕は君の武器であり、けれど僕自身でもある。
「イアン・モーム!」
 シャーロックが叫んだ。ジョンは銃を抜く。構えた。頭の芯が冷える。全てが静止した。引鉄を引く。モームの振り上げた手が宙を泳いだ。ナイフがモームの手から離れ、宙を舞った。
 直後。
「止せ!」
 ジョンは自分の悲鳴のような制止を聞いた。

 

 元軍医が何かを言っている。
 声が良く聞こえなかった。
 医療品のキットボックスから、元軍医は仇の様に全てをひっくり返して最終的に首を振り、タオルを強く胸に押し当ててきた。彼の顔の向こうにヘリの天井が見えている。いつの間に仰向けになったのだったか。
「駄目だ抜くな!」
 声が耳に痛い。無意識に胸にある何かを握っていた。それを引き抜こうとした手が押さえられてようやく思い出す。ああそうだ。パトリック・ピアースの心臓めがけて振り下ろした筈のナイフは、この元軍医の銃弾で弾かれて、あべこべにパトリック・ピアースによってこの胸に突き立てられたのだった。
「アンタ」
 掠れた声が漏れた。元軍医が何かの薬剤を投与する為の注射器を握ったまま目を合わせる。
「すげぇ、腕だな」
 確かに近い。だが、正確に手だけを狙って当てられるのは相当な射撃技術を要する。少し呆れた。元軍医にしておくのは惜しい。もしかしたら、自分より余程腕の良い諜報員になるかもしれない。
「パトリック・ピアース、は」
 尋ねて噎せた。咳き込んだ喉に血の味が広がる。元軍医が手早く腕に注射針を突き立てた。無駄だろう。たださえ脇腹の怪我を放置している。
「ピアース、は」
 繰り返すと、元軍医は首を振った。
「喋らないでくれ、すぐに病院に行けば」
 その腕を押さえた。必要ない、と告げると元軍医の明るい色の瞳が曇った。きつく寄せられた眉に苦労して笑みを浮かべて見せる。
「アンタの、目の前で、これだけ殺した」
 一度目を閉じてもう一度開く。
「それでも、俺を助けるのか」
 元軍医は唇を引き結んだ。唇を湿らせるように何度か舐め、それからどこかが痛むかのように眉間に皺を寄せて言った。
「僕は、医者だ」
 なるほど、と顎を引く。
「それが……アンタの世界か」
 それもまた、違う世界には違いなかった。
標的ターゲットは」
 倒すのが、と続けて声が掠れて消える。何度も咳き込み、それでもどうしても告げたくて元軍医の腕を掴んだ。血に濡れた手が元軍医の腕に赤い模様を描き、けれど元軍医は、身を乗り出すようにして言葉を拾ってくれた。
「倒すのが……俺の世界、だ」
 俺にはその世界しかないのであれば。
 より良き世界の為に、出来る事はもうそれしかない。

 

 ジョン、と呼び掛けられて顔を上げた。
 ヘリの昇降口から手を衝いて覗き込んでいたシャーロックに向かって首を振る。ピアースはモームの胸にナイフを突き立てると同時に絶命した。モームの命の灯もたった今、消えてしまった。
「世界って何だ、シャーロック」
 シャーロックは目線を上げただけで何も言わなかった。身軽にヘリのタラップを上がり、ジョンの隣に立つ。のろのろと立ち上がったジョンの肩を一度だけ叩いた。
「レストレードが送ってくれるそうだ」
 流石に目の前で人が殺される事態には傍観もしていられなかったらしい。レストレードはヘリまで乗り込んで追い出されたばかりだった。
「行こう」
 促されてヘリを出る。まだ夜は明けない。それでも東の空は白み始めている。
 路上に立つと、既にMINIやベントレー・ミュルザンヌを動かす為のレッカー車が到着していた。その横を掏り抜けるようにしてビッグベン側へ出る。即座に走り寄って来たレストレードに「おい大丈夫か」と言われてジョンは苦笑した。大丈夫だ。どこに怪我をしたわけでもない。
「シャーロック」
 振り返る。
「足、大丈夫か」
「帰ってから診てくれ」
 頷いた。やっぱり痛むのだろう。痛まない筈もない。レストレードが眉を跳ね上げ、「どこかどうかしたのか」とシャーロックに向き直った。どうもしない、と言うシャーロックは、恐らく事の顛末を話すのが面倒なだけだろうなとジョンは内心に考えたが黙っていた。この事件の幕はどうやって引かれるのか。恐らくマイクロフトによって全ては闇に葬られるのだろうが、どうやったらそんな事が出来るのかはやはり判らない。判らなくて良い、あるいは、判らない方が良いのだろう。
 パトカー越しにヘリを振り返った。レッカー車がヘリの横を通り抜けてウォータールー駅の方へ去って行く。二人の遺体はこのままマイクロフトが引き取るという話だった。その後どうなるのかはこれもまた知りようがなく、知りたいとも思わない。
「マイクロフトから連絡があったぞ」
 レストレードが渋面でそう言った。
「何が何だかさっぱり判らんが、ともかくこの一見は高度に政治的ななんたらとかで処理するそうだ」
「そんないい加減な理解で良いのか」
 シャーロックが言いながらレストレードの車の後部座席に乗り込む。その隣に続きながらジョンは肩を竦めた。少なくとも、レストレードの世界では、それで良いのだろう。高度に政治的な判断を要するような出来事は、マイクロフトのような人間に任せておけば良い。
「おい、ホントに大丈夫か、ジョン」
 レストレードが運転席から振り返った。ジョンは片手を振る。
「へとへとなんだ」
「ああ、まあそうだろうな」
 レストレードが肩を竦めた。当然だろう。スコットランドヤードでレストレードと別れたのさえ日付が変わる頃だった。
「早く帰って寝たいよ」
「着くまで寝てて良いぞ」
 まるで預かった子供にでも言うような口調だが、レストレードの声に温もりを感じてジョンは「ありがとう」と口にした。お言葉に甘えて一眠りさせて貰おう。隣のシャーロックは何事かを考え込んでいる。
「シャーロック」
「なんだ」
 返事があるという事は、まだ思考の海には沈んでいないらしい。シャーロックが言うところのマインドパレス。それもまた、ジョンには遠い世界だ。
 僕の世界は、君の隣に立つ事で見える世界だ、と言い掛けて止めた。代わりに「鍋の事、忘れないでくれ」と続ける。鍋? と怪訝な顔になったまま車を出したレストレードに、そう鍋だ。今日の最重要事項だ、と答えてから思い出して言った。
「そういえば」
「なんだ」
「あのMINIだけど」
「ああ、持ち主を照会掛けたら見た事もない若造だったぞ。誰のだ」
 借り物、と言って座席に背中を預ける。
「君の名前で借りた。スコットランドヤードの、レストレード警部」
 何だと! と喚くレストレードの声が遠くなる。
 そのまま、ジョンは眠りに落ちた。

 

タイトルとURLをコピーしました