01 221B
男はにこやかに笑みを浮かべたままリビングを見回した。つられるようにジョンもその視線を追う。
221Bはクラシカルなヴィクトリア朝の内装を受け継いで落ち着いた佇まいをしている。濃い木目の色と乾いた砂を思わせるベージュの下地とを基調にして全体がオリーブ系あるいはブラウン系で纏まったそれはインテリアとしては上等な部類だろう。サバンナのアースカラーというには彩度が低く、壁紙の幾何学的に並ぶ模様で人工的なイメージを植え付けたリビングは王侯貴族が住むには庶民的で、労働階級が住むには多少気取って見える筈だった。無論、221Bの住人には酷く心地良い。
男の視線は見慣れた壁紙を皮切りにぐるりとリビングを一巡した。
男の真正面はマントルピースだ。夏である今、そこに火が入る事はない。僅かに白い灰の痕跡を残しているその上に、ナイフを突き立てられた郵便物、昆虫標本などが並んでいる。飾られた雑多な品の最後の一品は頭蓋骨で、これはシャーロックが言うところの彼の友人だった。無論比喩だ。ジョンと出会うまで、シャーロックはこの骸骨に向かって推理を語っていたらしい。なるほど脳内で組み立て、口に出す事で確定し、更にそれによって刺激を受けて発想が飛躍するタイプの人間なのだろう、と今ならジョンもそう思う。シャーロックには無駄な行動など存在しない。相手が頭蓋骨であるという突飛さはともかく普通ではないかもしれないが、趣味嗜好など千差万別なのだからとやかく言うべきではないだろう。
そのシャーロックの大切な友達を見下ろす壁には鏡が据え付けられている。今はそこに男の細められた目が映っていた。マントルピースの前にはチェスボードと一人掛けソファが二脚、ローテーブル。左にはテレビ。鏡とテレビはジョンが同居を決めた後にここに持ち込まれたものだが当然の如く共用品で、頭蓋骨や昆虫標本のようなシャーロックの私物とは違う。更に右には書棚、その前に譜面台。サイドテーブルにはバイオリン、これと譜面台はシャーロックの私物だ。右手の壁は二つの窓と壁とでほぼ三等分されて、真ん中の壁に寄せられたテーブルを、今はジョンとシャーロックが食卓にしている。
そこまで確認するように視線で蹂躙してから、夕食時の闖入者は優雅に眉を聳やかせた。
「お邪魔しても?」
とっくに邪魔になっている。ジョンもシャーロックも既に食事の手は止めていた。扉を向いて座っているジョンは嫌でも目を合わせるしかないが、シャーロックはまだ彫像のように動かない。扉と同居人を交互に見詰め、ジョンは曖昧に一瞬笑みを浮かべた。それを目を細めて見やった招かれざる客が傘と大判の封筒を振って口を開く。
「ハットマンとロビン、我が家は大富豪と呼ぶには些か足らないように思うが、満足かね?我が弟よ」
シャーロックの視線が鋭くなった。ジョンは肩を竦める。『ハットマンとロビン』というのは、アメリカンコミックのヒーロー『バットマンとロビン』をもじった新聞記者の面白くもないジョークだ。つい先日、煩い記者連中のフラッシュを避けようと劇場の衣裳部屋から拝借した鹿撃ち帽姿の写真が一面を飾った際の見出しだった。シャーロックの寸評は「大衆紙にしてもくだらない。いつから我が国のマスコミはこんなにIQが低くなったんだ?」だった。立て続けに幾つかの事件を解決したせいで、マスコミはシャーロック・ホームズに俄かに興味を抱いている。
ハットマンを弟に持った英国紳士が笑みを深めた。自分と視線を合わせないシャーロックを見詰めたまま緩く首を振る。抑揚のない声がするりとその唇から零れ出した。
「ひけらかしたがりの天才。ふむ、お前の希望が叶ったじゃないか、国中の記者がお前の話をこぞって聞きたがっている。逃げ回る必要もないだろう。勿体ぶるのも御曹司の真似なのかね?」
皮肉な口調にシャーロックは不快そうに眉を寄せただけで口を開かない。視線も逸らされたままだ。代わりにジョンは唇を舐め、少し考えてから口を出した。
「ブルース・ウェイン程じゃないとしても、僕に言わせたら充分に裕福そうですよ、ホームズ家。違いますか、マイクロフト」
シャーロックに据えられていた薄いアイスブルーの瞳が自分に向くのを確認してジョンはもう一度肩を竦めた。兄弟揃って高級服を着こなし、シャーロックに言わせれば『歩く英国政府』であるらしい兄と、世界で唯一の『諮問探偵』の組み合わせとくれば、内実がどうあれ世間離れしている事に掛けてはアメコミの世界と大差ない。その世間離れした兄弟の弟の方が相変わらず兄の方を全く見ないままジョンに向かって盛大に眉を寄せた。
「ブルース・ウェイン? 誰だ?」
虚を衝かれ、ジョンは思わず瞬いてから一つ頷いた。ブルース・ウェイン。どうやら蝙蝠を模したヒーローが守るゴッサムシティの大富豪はシャーロックの紳士録には記載されていないらしい。
「バットマンの正体だ。……何だよシャーロック、もしかしてバットマンを知らずにくだらないって言ってたのか?」
「アメリカンコミックのヒーローだろう。その位は知っているが、内容まで知る必要性を認めない」
ああそう、と眉を上げてジョンは引き下がる。地動説すら必要ないと判断すれば記憶から消去するような男とこんな話題で論争しても仕方がない。最初にその話を聞いた時には本気で冗談かと思ったものだが(今時、この二十一世紀に生きる良い大人が地動説を知らないなんて事があるとはまさか思わない!) ことシャーロック・ホームズが語る当人についての証言に偽りはない。曰く精巧なハードディスクも同然だというシャーロックの脳内は、不要だと思った事柄を削除する事が可能であるらしかった。果たして地動説が不要な事なのか、という点については、あの『大いなる事件』と名付けた一連の事件中に(ああ忌々しいあの大騒動! だがそれは一応は過去の話だ) いささか考えを改める余地もあったかもしれないが、基本的な概念は揺らぐまい。少なくとも確かにアメコミないしカートゥーンアニメの知識がシャーロックに必要だとはジョンにも思えなかった。……アメコミに登場する事件を模倣する犯罪者が登場したとしたなら必要になるだろうか?
住人達のやりとりをにこやかな笑みのまま受け流したマイクロフトは、しかしカツンと傘の先でフローリングを叩いて注意を自分の方へ引き戻しに掛かった。
「ともあれ、私はそのハットマンとロビンに頼みがあるのだがね?」
ようやくシャーロックの視線が兄へと据えられた。二組の冷えた淡い蒼が向き合って絡まる。取り立てて顔立ちが似ているとも言えない兄弟の、唯一相似形を成しているのはその酷薄な氷の瞳だ。シャーロックが小さく息を吸い込んで口を開いた。
「僕は帽子男じゃないし、ジョンも駒鳥じゃない。そして僕らは夕食中で、客は招いた覚えがない。帰れよマイクロフト」
ジョンはマイクロフトの表情を窺った。微かな笑みを浮かべたまま、しかし男のそれは酷く冷ややかだ。仮面、あるいはそれこそが本質だろうか。そして、当然ながらマイクロフトは帰らなかった。それがあらかじめ決められた手順であるかのようにフローリングを踏み、カーペットを踏んでマントルピースの前、普段はジョンが主に使っている一人掛けのソファを少し眺め、そこにあるドラッグストアのビニール袋を優雅に拾い上げてテーブルに移した。耳障りなビニールの音など聞こえないかのようにそのまま悠然と腰を落ち着ける。その位置から鷹揚に一つ頷き「ジョン」と言った。
「君が同居人になってから、弟は随分と人間らしい生活をしているらしい。まさか弟の口から夕食の邪魔をするなという言葉が聞けるとは思わなかった。兄として礼を言うよ」
「いや、ええと、どうも」
この兄弟の距離を未だに掴みかねてジョンは曖昧な顔をする。唯一明白なのは、この二人の間に麗しい兄弟愛などいうものが期待出来ないという一点のみだ。二人の間には何らかの確執がある。それが何かは判らないとしても。
「それで、頼みって?」
「聞くなジョン!」
ジョンの語尾は鋭いシャーロックの声に掻き消された。ジョンはまぶたを下ろして一瞬だけ天井を仰ぐ。同居人の方へ顔を向け直した。シャーロックは明らかに苛立った顔で大きく息を吐き、ジョンを見据える。冷たいアイスブルー。やはりそんなところだけ酷く似ている。
「聞くな。聞けば否が応でも引き受けざるを得なくなる。そういう男なんだ。巧妙で狡猾」
「周到で計画的、と言うべきだな」
マイクロフトが片眉を跳ね上げた。
「そもそも、言えば引き受けると?」
「黙れマイクロフト。僕は聞かない。ジョンもだ」
「ジョンの事はジョンが決める。シャーロック、お前じゃない」
「うるさい。ここは僕達のフラットで、あんたはそうじゃない」
「なるほど、テリトリーを冒すなと? まるで威嚇する猫のようだな。それが私にも通用すると? ふむ、面白い。だがシャーロック、言葉には気を付けなさい、『あんた』とはね。ママが聞けば何というか」
「ママは関係ないし、ここには居ない」
ジョンは自分の頭上越しに飛び交う会話を黙って聞いていた。口を挟んだところで何がどうなるとも思えない。が、目の前で冷えていくビーフシチューを見ているのは如何にも馬鹿馬鹿しかった。こうなったらマイクロフトには早々に退散願って鍋をもう一度温め直すべきだろう。
「あー、あの、ちょっと良い?」
ホームズ兄弟の言葉が途切れた隙に口を開く。冷ややかな目線が自分に集中するのを唇を尖らせて受け流し、一つ頷いた。
「シャーロック、お兄さんの話を聞くだけは聞こう。但し、聞いた上で、断るという選択肢がないのならこの話はこの時点で終わり。終了。お兄さんにはお引き取り願って、僕らは夕食の続きを。──それでどうです? マイクロフト」
「致し方がない。良いだろう」
つい、とマイクロフトが顎を上げた。床に垂直に立てた蝙蝠傘の柄に両手を載せてトン、と人差し指で叩く。ジョンはそれに軽く肩を上げてシャーロックに向き直った。シャーロックは渋面のまま無言でいる。
「ほら、聞いて嫌だったら断っても良いんだ、聞くだけは聞こうじゃないかシャーロック」
「僕は聞かない」
「シャーロック」
「ジョンが一人で聞け」
言うなりシャーロックはスプーンを握り直した。目線を落としてビーフシチューを口に運ぶ。何かを言おうとして口を開き掛け、結局ジョンはそれを閉じた。マイクロフトに向かって右手を広げる。
「だそうです。僕だけ聞いても?」
どうせ同じ場にいるのだから嫌でも話はシャーロックの耳に届く。マイクロフトもそれで了承したらしい。深々とソファに沈み込み直した。ゆっくりと口を開く。そして笑みを浮かべた。
「簡単な依頼だ。ある人物を捜し出して欲しくてね」
すっかり空になった鍋をシンクに抛り込み、水を張ってから手を拭いた。スイッチを入れておいたコーヒーサーバーがカチリと音を立てて停まったのを確認し、鍋の代わりにマグカップ二つを手にして食後のコーヒーの用意をする。片方には砂糖二個。一度間違って砂糖を入れた方を口にして甘さに辟易して以来、カップの取り違えには慎重になっている。幾ら頭脳活動に糖分が必要だといっても限度がある、とジョンは思う。そもそも砂糖を摂取したからといってどれだけ脳の活性化に繋がるかは微妙だ。だがシャーロックは譲らない。コーヒーには砂糖二個。……甘過ぎる。
「シャーロック、コーヒー」
「そこへ」
素っ気ない指示に従って、マントルピースの前のソファに落ち着いたシャーロックの前にカップを下ろした。小さなテーブルはドラッグストアのビニール袋のせいで半分が埋まっている。自分はカップを左手にしたまま、右手でその袋を持ち上げ、少し迷ってから最前まで食事をしていたテーブルに移した。たらい回しだ。後できちんとしかるべき位置に仕舞う事にする。ともかくコーヒーを飲み終わるまでの事だ、と誰にともなく脳内で弁解しながらジョンはようやく定位置のソファに腰を下ろした。向かい側のシャーロックを見ながらカップからコーヒーを一口啜る。シャーロックの視線はどこか遠くを見詰めたまま、右手はソファの傍らにあるチェスの駒を触るともなく弄っている。半ば以上は上の空だ。
「まだ痛むか」
そもそもの喧嘩の原因になったそれをようやく尋ねてみる。シャーロックは「痛まない」と短く答えてやはりまともに目線を合わせない。そうか、なら良いけど、と口の中でもごもご呟き、ジョンはシャーロックの右足を見た。スラックス越し、巻かれた筈の包帯は見えず、シャーロックの様子も余りにいつもどおりに過ぎて、それ以上の言及も馬鹿馬鹿しくなって一つ溜息が零れる。頑なに怪我をしたらしい足を見せようとしないシャーロックに癇癪を起こしたせいで自分は行きずりの男の怪我に気付いたのかもしれないな、とパブからの帰り道をそう統括し、そこで尽きた話題ついでにもう一つを口にした。
「一体、マイクロフトの仕事って何」
通算何度目かの同じ問いだった。この場合の通算は出会って以降という意味で、この半年と少しの間の話だが、何度も繰り返しているのは常にこの問いにまともな返答がないからだ。
「……政府関係」
案の定、僅かに目線だけを動かしたシャーロックからは端的な言葉だけが返された。その説明なら何度か耳にしている。歩く英国政府のような物だとも。……それは一体どんな立場だ。
「だから、つまり?」
ジョンは素直に問い返した。判らない事を幾ら考えたところで判るようになどならない。ヒントさえない問題を解く超能力の持ち合わせはなかった。
「具体的な事は知らない方が良い。知ったら色んな事が嫌になるだけだ」
面倒臭そうにシャーロックがそう言った。殆ど投げ捨てるような口調だ。だが、そう言うところを見るとシャーロック自身は兄の立場を明確に理解しているのだろう。兄弟が何をしているのかすら知らないというような断絶は少なくともホームズ家にはないらしい。仲が良いとはお世辞にも言えないにせよ。
ちらりと脳裏を過ぎった実姉ハリエットの面影を首を振って払い落とし、ジョンは唇を舐めた。慎重に切り出す。
「じゃあ、MI6ってやっぱり表に出ている姿だけじゃない、のか」
シャーロックが目線を上げた。真正面から見据えられてジョンは唇を引き結ぶ。ややしてシャーロックは小さく息を吐いた。
「MI6じゃない、SISだ。情報局秘密情報部」
「だけどMI6として知られてる。元は軍情報部第6課だろ。公式サイトには今でも略称のMI6だって併記されてるじゃないか」
「フィクションの見過ぎで馬鹿になった連中用だろう。ダブルオーセブン? 馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しくはないだろ」
ジョンは渋面になった。フィクションと現実を混同する気はさらさらないが、少なくとも作家イアン・フレミングの産み出した世界最高の諜報員であるジェームズ・ボンドの物語を否定する権利など誰にもあるまい。ボンドカーと呼ばれる特殊加工満載のスポーツカーを疾走させる007に心ときめかせた時間が無駄だとはジョンには思えない。シャーロックにとってそれが地動説やバットマンの正体と同じくらい無駄だとしてもだ。シャーロックは微かに眉を寄せ、しかし珍しく一つ頷いて首を傾げた。
「百歩譲って馬鹿馬鹿しくないとして、それで?」
「それでって?」
「MI6がどうしたって? 君が言ったんだぞ、ジョン」
ああ、と頷いてジョンはもう一口コーヒーを啜った。シャーロックが同じようにカップに口を付けるのを眺めながら少し考える。それから僅かに身を乗り出した。
「つまり、マイクロフトみたいに、正体不明の人達が密やかに動き回るような、そういう世界って実在するのかって……するんだよな?」
シャーロックはその青灰色の瞳を細めた。
「過去にMI6は存在したし、今もSISは存在する。君は軍人だったんじゃないのかジョン。世界を知っている筈だ」
世界を。
ジョンは小さく笑った。違う世界、という言葉を使ったのは確かに自分だが、そう返って来るとは思わなかった。なるほど確かに自分は世界を知っている。
「確かに僕の経験は三大陸にまたがる。軍にいたし、医者でもある。例えばパン屋の職人よりは一般的でない世界を知っているかもしれない。医者も軍人も生死の境目を人より沢山見るからな。でもだからと言って、例えば裏社会と呼ばれるようなところは知らないし、君のお兄さんがいるような世界についても知らないよ」
「知って価値があるとも思えない」
カツン、音を立てて握っていたチェスの駒を置いたシャーロックがその兵の頭を爪で弾いた。その目の底を確かめるようにジョンはシャーロックを見返し、互いに暫し無言になった。兵。チェスの駒の内、最も移動が制限され、数が多く、価値が低いと見做されるそれは、実際の戦闘でも同じだろう。消費される兵は命令に従えば良く、世界を知っている必要はない。それだけの意図があってシャーロックが長い指先で兵を弄んでいるのかは知らず、ジョンはただ冷えた湖水のような相手の瞳の色を見ていた。やがて何を思ったのか、あるいは諦めたのか、シャーロックの双眸はゆっくりと伏せられ、無言の対峙に終わりが告げられる。
「少なくとも兄が探せといっている男が正体不明かという話なら、現状顔も名前も判明していて正体不明とは言い難いが、仮にもエージェントであれば、活動時にはおいそれと正体は明かさないだろうな」
「確かに」
007だって高名ではあっても、偵察活動中に相手に007だと明かすような真似はしない。当たり前だ。彼らは諜報員であり、極秘任務を負っている。堂々とMI6だと名乗りを上げて情報が手に入るのなら苦労はない。
「あー、シャーロック。つまり僕が言いたいのは」
ジョンは少し考えてコーヒーを口に含み、含んだ苦味を右に左に転がした後、おもむろに嚥下して頷いた。
「つまり、そんなプロフェッショナルな男を、果たして幾ら君でも見付けられるのかって事。別に君の能力を疑ってるわけじゃなくて、純粋な……純粋な興味」
「探せないと思っているなら、兄は僕に依頼などしない」
「オーケイ。なるほど」
シャーロック・ホームズ対ジェームズ・ボンド。世紀の見ものだ。この、とジョンは傍らに投げていたメモを取り上げて眺める。このイアン・モームという男がジェームズ・ボンドに匹敵するかどうかはともかく、少なくともマイクロフト・ホームズが自分の組織力で探すよりも弟に依頼した方が早い、と思うような相手であるのは間違いない。
「探し回って片っ端からイアン・モームさんですか? はいそうですってわけにはいかないよな?」
「やってみるか? 僕はやらない」
「ごめん、今のは面白くない冗談だった」
イアン・モーム。所属はMI6もといSIS。年齢は三十二。だが渡された写真──御丁寧に真正面と真横からの二枚組──の生真面目に唇を引き結んだ顔はどうにも年齢不詳だった。捉えどころがないというのか、もっと若くも、もっと年を重ねているようにも見える。それこそが諜報員としての素質なのかもしれないが、余り印象に残る顔とは言い難い。
「フィクション世界を垣間見たい、という単純な好奇心が動機なら余り賢いとは言えないな、ジョン」
「言うと思ったよ。君がお兄さんの依頼を断ったのはそれが理由とは思えないけど」
去り際の、意味ありげなマイクロフトの一瞥を思い返す。僕はそんな依頼は受けない、と即答したシャーロックと、僕だけじゃお力になれそうもないですね、と肩を竦めたジョンの両方を値踏みする目で交互に眺め、歩く英国政府と称される男は「では仕方ない」と手元の封筒を閃かせたのだった。シャーロックが引き受けると答えたなら、あの封筒は今頃ジョンの手の中にあり、この写真と僅かなプロフィール以外の情報も入手出来ていたのだろうか。
「せっかくの依頼を断ったんだ。向こう一週間は退屈だと騒ぐのはやめておけよ? シャーロック」
「僕は僕に相応しい事件を求めてるんだ」
「行方不明の諜報員探しは君に相応しくない?」
「犬を探させるならバタシーか王立動物虐待防止協会だ。僕じゃない」
バタシーには世界最古のアニマル・シェルターがある。幾らその嗅覚と忠誠心で犬呼ばわりされるとしても、流石に迷子の諜報員を保護はしてくれないだろう、と思いながらジョンは唇を舐め、諦め半分、一つ息を吐いた。
「けど、良いのか、断ったりして」
「断る事が出来るという条件を付けたのは君だぞ、ジョン」
そうだった。だがそうでもしなければシャーロックはマイクロフトの話を聞かなかったに違いない。彼が持ち込む依頼となれば、無論、政府筋の何かしら複雑な背景を持っている事は想像に難くなく、聞きもせずにシャーロックが断ろうとするのはそれも理由には違いなかった。流石に兄弟の確執というだけで国家の一大事、かどうかは知らないが、少なくとも歩く英国政府とまで言われる男の依頼を蹴り飛ばせるとはジョンには思えない。否、思いたくない。『大いなるゲーム』の際のミサイル防衛システムの設計図漏洩にしても、無論シャーロックの言うとおり政府が自分で尻拭いすべき案件には違いないが、一刻でも早い解決の為にシャーロックの頭脳を使いたい、というマイクロフトの言い分には一理ある。今回も似たようなものだろう。
「まあ、ちょっと興味があったのは認める。だって諜報員の失踪だぞ? それも任務の最中! プロならそんな事は有り得ないとマイクロフトだって言ってた。君好みの難事件かもしれないじゃないか」
「有り得ない? 不可能なものを消去していけば、どんなに有り得ないように見える物であっても残ったものが真実だ、ジョン」
何度言えば判るんだ、と言い捨ててシャーロックはコーヒーを口にした。だったらその残った真実とやらをさっさと見付け出してマイクロフトを安心させてやれば良い、とは思ったもののジョンは口を噤む。流石に半年以上の時間を共有していれば言うだけ無駄な事の見極めも上達する。そのうち気が向けば諜報員の行方について暇潰しにでも推理する気になるかもしれない。無論、暇潰しになどされてはマイクロフトはたまらないだろうが、そもそも弟の性質を誰より把握しているあの男の事だから、それすら想定の範囲内である可能性は高い。ともかく一介の同居人が心配する事じゃない、とジョンは内心で結論付けた。勿体無い、という気持ちは無理に腹の底に押し込める事にする。やれやれ、007の世界を体感できるチャンスなどそうないだろうに。
カップの中のコーヒーを一息に飲み干した。そのまま立ち上がるとテーブルに抛り出していたビニール袋を手に取る。キッチンとの境の壁にある棚から救急箱と薬品類のボックスを取り出してビニール袋の中身を移した。作業の間、行儀悪く床に置いていたカップを拾い上げ、シンクに抛っていた鍋を一瞥してカップをすすぐ。腕時計を外してテーブルに置き、ぐるりと首を回して鍋に張った水を流した。とんだ邪魔は入ったが、ビーフシチューは文句なしに美味だった。お礼の言葉は早い方が良い。洗い上げた鍋を丁寧に布巾で拭い、そのまま階下へ返しに行く事にする。
ちらりと視線を寄越したシャーロックに鍋を少し掲げて見せる。それだけで興味が失せたらしいシャーロックはまたチェスの駒を弄びながら思索の海に戻ってしまった。ジョンはリビングを抜け、階段を下りる。予定よりはすっかり遅くなってしまったが、まだハドソン夫人の就寝には随分と時間がある。今日は確か彼女が毎週楽しみにしているテレビ番組が放送される日で、邪魔をするのは忍びないから始まる前に声を掛けるべきだろう。まだ十分くらいは時間が残っている筈だ。
階段は十七段。いちいち自宅の階段の段数など気にした事もなかったジョンに、シャーロックは事も無げに「観察していないからだ」と言い放った。じゃあ君は段数を知っているのかと呆れて尋ねた答えが十七段で、思わず確かめて事実十七段である事を知ってからは忘れられない数字になった。人は主観で生きているというのは当然の認識だが、シャーロックの観ている世界と自分が観ている世界ではどれだけの齟齬が生じているのだろうかとたまに空恐ろしくなる。
十三、十四。
階段の数を無意識に数えるのも癖になった。いつ数えても変わらない筈のそれは、時折十八になり十五になる。酔った時、浮かれた時、どうしようもなく塞ぎ込んだ時。意識が散漫になれば揺るぎない筈の真実も揺らぐ。世界とはそういうものだろう。
十五、十六。
そして、ジョンは眉根を寄せた。意識のどこかで何かが警告を発する。何だ?
十七。
瞬間、鋭い風が頬を掠めてジョンは大きく目を見開いた。
切っ先。
視覚で捉える前に反射的に身体を逸らす。髪の毛一筋の差で眼球の先を刃が切り裂いた。逸らした上体を戻そうとして不意に悟る。勢い良く膝を折った。頭上を猛然と太い棍棒のような圧力が通過する。勢い余って鍋で膝を打った。金属の高い音が響き、衝撃で蓋が吹き飛んだ。カーペットの敷かれた廊下を転がった鍋蓋が壁に当たって動きを止める。レードルが遅れて鍋から転がり落ちた。ス、と血の気が引き、直後に逆流した。極度の興奮。カッと頭に血が昇って頬が熱くなる。汗が噴き出し、脈が速くなる。が、それを自覚した瞬間、突如として全てがクリアになった。
「……誰だ」
低い声で囁く。もう脈は戻っていた。必要以上に平静な自分を自覚して唇をそっと舐める。騒ぐ気はなかった。騒ぐのは得策じゃない。ハドソン夫人が物音に気付いて出て来るまでにどの位掛かるだろう、とジョンは考えて目を細める。人の気配がないグランドフロアの廊下は薄暗い。だが、誰か居る。
誰かが居るのだ、恐らく刃物を持った、手練の何者かが。
最後の一段を慎重に降りた。そっと周囲を見回す。右に表通りへ続く扉、左にハドソン夫人の部屋のドア。左に背を向けた。彼女が出てきても背後に庇える。身を低くして構える。両手に握っているのが金属製の鍋一つ、というのが些かどころでなく間が抜けていたが今更階上に駆け戻っている暇はない。ジョンにあったとしても、相手が許さないだろう。
「何者だ? 目的は? 残念ながら、金ならないぞ」
押し殺した声でゆっくりと言い放った。ハドソン夫人が扉を開く気配はない。既にテレビの音で掻き消されて気付いていないのかもしれない。そういえば彼女は、いつだって十分前には行動を起こしている。お楽しみのテレビ番組の為に、今頃はテレビの前のソファに深々と身を沈めているのに違いなかった。
「本当だ、金はない」
ゆっくり首を巡らせながら続ける。
「その、なんだ、金があるなら、僕だって何もシャ……相当変わり者と評判の男となんかフラットシェアをせずに済んでる。つまり、強盗なら無駄足だ。同居人の方も現金の持ち合わせがあるとは思えない。いつもカードなんだ」
そのカードの上限額が幾らなのかは聞いた事がないのだが、そこまで馬鹿正直になる必要もないだろう。案外、聞けば飛び上がるような金額まで使えるような気がしなくもないな、と考えてジョンはうんざりした。神様の配分の意図はいつだってその真意を探るのは実に難しい。
じわりと、場の空気の濃度が増した。この感覚は久し振りだ、とジョンは思う。極度の緊張感。冴えた頭の片隅で、遠いアフガニスタンの熱波を思った。命のやり取りをする瞬間の、どうしようもなく背筋が粟立つ感覚を、今でも身体は忘れていないらしい。
そっと目を細める。正直に言えば、ナイフを持った相手との格闘が得手だとは言い難かった。元軍人と言ったところで所詮は軍医、将校としても軍人としても、基本的な訓練は勿論受けているが、特殊部隊のそれと同じというわけにはいかない。
「何が……望みだ?」
唸る様に囁いた。直後、背後から風の気配を感じてとっさに鍋を頭上に振り被った。ガッという金属同士の擦れる音と打撃音が鈍く響いてジョンは手首に掛かった圧力に息を呑む。力任せに鍋ごとそれを押し戻して跳ね返し、同時に身体を反転させた。咄嗟に右足を振り上げる。蹴り。身長が高いとは言い難いジョンの足では上半身は狙えない。ドッと足に重量が掛かった。黒い影が身体を二つに折るようにしてジョンの方へ倒れ掛かってくる。鍋を相手の頭にそのまま叩きつけようとし、そうしてジョンは気付いた。
「おい?」
苦悶の声を漏らすまいと唇を強く噛んだ男が上体を上げない。両手で強く、ジョンの蹴り上げた左腰を押さえている。そのジャケットのポケットから消毒薬のボトルが頭を出していた。
「まさか、アンタ!」
こんな偶然があるのか、それとも後を尾けられたのか。否、後を尾けられたにしては時間が経過し過ぎている。だとしたら偶然か?
ようやく明かりの下に出て来た男は、全身を殆ど黒っぽい服装で固めている。よろめいた男の手からタクティカルナイフをもぎ取り、ジョンは男の顔を覗き込んだ。脂汗がびっしりと浮いた顔は目の下が黒ずんでいる。薮睨みの目を向けて来た男に向かって、ジョンは両手を広げて言った。
「僕は医者だ。元軍医。さっきも言ったよな? 言わなかったっけ? なぁ、あの後で動き回ったのか? 傷口からまた出血してるんだ。ともかく手当てをしないと」
胡乱な目で見上げる男の手は、傷口を押さえて赤く染まって行く。ジョンは頷き、階上を顎で示して見せた。シャーロックへの説明は……後で良いだろう。ともかく手当てと、それから警察への通報だ。握ったままの鍋にナイフを抛り込む。残る問題は、どこかへ転がってしまった鍋蓋とレードル、それからこの傷と凹凸だらけにしてしまった鍋を、ハドソン夫人になんと言って説明するかだけだった。
ベーカー街、と呼ばれているこの一帯はいわゆる高級住宅街だった名残を色濃く残す地区だ。ジョンも自分が住むまでは都心の便利な商業地区、という印象しか持って居なかった。ロンドンの中心地に位置しており、ベーカーの名は十八世紀にこの通りを敷設した建築家に由来している。幹線道路でもある事から交通量は多く、如何にも大都会、という空気を満喫出来る場所だった。つまり、わけありの傷を負った男が身を潜める場所を探して歩き回るような通りではない。
男はジョンに追い立てられるようにして階段を上がった。足取りが重い。だが、ジョンも流石に男を担いで階段を上がってやる気はしなかった。何といっても正体不明の相手であり、しかも最初にナイフを向けられている。
鍋の中のナイフを見て戦慄した。刃の長さは六インチ程度、グリップまで含めれば十インチを超える。リカーブド・スタイルで幅広のブレード、半分以上が両刃になっており、ハンドガードが目立つ事や、ブレードバックの窪み等を見ると、いわゆるロシアのカラテルと呼ばれるナイフに似ていた。厳密にどこのメーカーの何と言うナイフなのかまではジョンには判別出来ない。シャーロックなら判るだろうか? 切るにも突くにも支障のない万能型のナイフは、改めて眺めればこんなものと生身で対峙したと考えただけでも足が竦みそうな代物だった。おまけにどう見てもそのブレードは一度は血を吸っている。それも数時間以内だ。白く光って見えるのは油脂だろう。誰かを刺した、あるいは斬った可能性がある。手入れをする暇がなかったからこそ未だに付着したままのそれは、この街のどこかにこのナイフによる犠牲者が存在する事を暗示していた。汚した後で手入れをする時間がなかったとすれば、持ち主の怪我がこのナイフに拠るものだとは考え難い。追われてでもいるのだろうか。
よろめく男を引き摺るようにしてリビングに戻った。マントルピース前のソファに座ったままのシャーロックが一瞥を寄越して眉を跳ね上げる。
「さっきの物音は、そいつが原因か」
「まぁね」
聞こえていたなら助けに来るとか様子を見に来るとかいう選択肢はなかったのか、と一瞬恨みがましく思ったが、そういう一般的な反応をシャーロックに求めても仕方がない。ともかく男を壁際のカウチソファに突き飛ばし、転がるように倒れ込んで呻く男を抛っておいてナイフ入りの鍋をシャーロックの前のテーブルに置いた。眉を寄せてそれを覗くシャーロックに背を向け、先程収納し直したばかりの救急箱と薬品類のボックスを取り出す。それを小脇にキッチンに入り、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出して足早にリビングに戻った。シャーロックはまだそいつは誰だとは言わない。訊かれても困る。ジョンだって知らないのだ。
「シャーロック」
「何だ」
「ヤードに、レストレードに電話しろよ、ナイフ男を一人確保してるってな」
「僕がか」
「つべこべ言うな。こいつ怪我をしてるんだ。話しただろ? 脇腹だ」
シャーロックの眉間の皺が深くなった。その男が何故今ここに居る? と問いたいのはありありと判ったがジョンは無視した。男は浅い呼吸を繰り返している。気を失う寸前だ。ここで死なれても寝覚めが悪い。簡単に過ぎるやり方だったとは言え、一度は治療しているのだ。ともかく生かしたままロンドン市警のレストレード警部に引き渡したい。最初の市警本部の所在地からスコットランド・ヤードの通称で知られる市警は今やジョンにとっても酷く馴染み深い場所になってしまった。願わくば末永く善良な市民としてのみ馴染んでいたいと切実に希望しつつ、それも同居人の動向次第だなと諦め半分に思考を放棄する。ともあれ、わけありなのだろう事は容易に察せられるこの男を引き渡したとして、レストレードなら悪いようにはしない筈だった。少なくとも悪徳警官ではないし、良識と常識と多少の友情は持ち合わせている男だ。何といっても旧知であり、気安く呼び出せるのが良い。
シャーロックが胸ポケットからモバイルを取り出すのを横目に男のジャケットを剥ぎ取った。中のシャツはぐっしょりと血を吸っている。ほとんど引き千切るようにしてシャツを開き、左の脇腹を見て呆れた。止血パッドはどうしたのか、剥き出しの傷から溢れた血が凝固して酷い有様になっている。男の頬を軽く叩き、口を開かせて抗生剤を押し込んだ。ペットボトルの蓋を捻じ切り、冷えた水を流し込んでやると辛うじて男の喉仏が上下した。残った水にキャップをして脇にどける。
剥ぎ取った男のジャケットを男の身体とソファとの間に押し込み、更にタオルを二重にして挟み込んだ。手早く薄い手術用のビニール手袋を着け、結果的に男が持参した恰好になった消毒液を惜しげもなくぶっ掛ける。シャーロックの実験用を含めて、この部屋ではこの手のゴム手袋には事欠かない。
「ハロー、レストレード?」
背後ではシャーロックが電話を掛ける声が流れ始めた。どうやらレストレードは電話に出たらしい。ピンセットで掴んだ脱脂綿で血を拭き取り、赤黒く染まったそれは片っ端からまとめてビニール袋に抛り込んだ。更に先程のペットボトルを取り上げて水を掛け、血を完全に拭う。明るい場所で見る傷口は刺し傷がそのまま上下に裂傷を作って二インチ程度の醜い鉤裂きを形成していた。全く塞がっていない傷を、いっそその方が治りは早いと判断して両手で押し広げる。苦悶に呻く男の頭が動くのに、男の肩口を膝で押し付ける酷いやり方で押さえ付けておいて開いた傷にビニール手袋の指を入れた。感触を確認する限りは骨には達していない。完全な悲鳴を上げて気を失った男に肩を竦めて、ジョンは男を押さえていた膝を下ろした。
「……いや、今ジョンが殺したかもしれない」
呆れたような声が背後で言うのがようやく耳に入った。今の悲鳴がモバイル越し、レストレードにも聞こえたのかもしれない。殺したとは人聞きの悪い、と振り返って眉を跳ね上げると、通話を終えたモバイルを宙に投げ上げてキャッチしたシャーロックが「直ぐに来るそうだ」と面白くもなさそうに言った。
「何て説明したんだ?」
「普通だ。ナイフを持った男が押し入ってきていきなりジョンを襲った。怪我をしているらしく気絶してしまったから引き取ってくれ。容態? 命に別状はなさそうだが、いや、今ジョンが殺したかもしれない」
「お見事」
芝居掛かった仕草と口調で丸々会話を再現して見せたシャーロックにとりあえず賛辞を贈っておき、開いた傷口の内側、凝固した血液の塊を取り除く処置に戻った。傷口がぴたりと合わさらなければ治りは遅くなる。新たに滲んだ体液を脱脂綿で拭い取ってからようやくビニール手袋を外した。これも丸めてビニール袋に放り込み、救急箱を開いた。念の為に消毒薬で指先を湿らせてから外用副腎皮質ホルモン剤、いわゆるステロイド外用剤の軟膏を男の綺麗になった傷口にこれでもかと塗り込む。その上にこれも新しく取り出した止血パッドを貼れば、とりあえずの処置としては上出来だった。炎症の制御と組織の回復ならステロイドが一番早い。この後でスコットランドヤードまで動かす事を考え、更にサージカルテープで留めて上から包帯を巻く。本当なら乳酸リンゲル液の点滴を行って循環血液量の不足を補わせたい所だが、それこそ個人病院を開くのでもあるまいし、この部屋にそこまでの備えはない。
少し考え、着ていたシャツは脱がせて丸め、抱え起こして素肌に直接ジャケットを羽織らせた。血液で濡れているシャツを着ているよりはマシな筈だ。そこまでしてようやく一息ついた。男は完全に眠り込んでいる。包帯に緩みがないかだけ確かめて立ち上がった。男のシャツを更に別のビニール袋に突っ込んで口を縛る。
「で、君は何故その男の治療なんかしてやったんだ、ジョン」
問われてジョンは顔を上げた。まとめたビニール袋を二つ抱えてキッチンに立つ。ビニール袋は足元に転がし、とりあえずテーブルの下に足で押しやってからシンクで丁寧に手を洗った。細心の注意を払ったお蔭で付着した筈もない血液が流れ出す錯覚を覚える。何かの臭気が鼻をつき、水が赤黒く染まってまだらを描くのを見た。細めた目でそれを見詰めたまま口を開く。我ながら酷く平坦な声だった。
「僕は医者だ。目の前に怪我人がいればそりゃ治療くらいする」
「悪人でも?」
「まだ悪人かどうかなんて判らない」
「君をナイフで襲った」
ジョンは右へ首を向けた。ソファから動かないシャーロックを見、舌を舐める。襲われた、その通りだ。避けなければ死にはしないとしても大怪我をさせられていただろう。
口を開かないジョンに何を思ったかは知らず、シャーロックは両手を合わせ、軽く唇に当ててから微かに首を傾けた。青灰色の目は眇められて何かを量ろうとしているようにも見える。
「襲われたんだろう、ジョン。そうでなければ鍋にこんな傷は付かない。君が防衛に使用したんだ。この、中に入っているナイフで襲われた。蓋とレードルはどうした、落としてきたのか?」
「そう、後で探しに行かないと。レードルはともかく、鍋は新しいのを買ってハドソンさんに返すよ」
手を振って水を切り、カランをひねって水を止めた。流れていく水と共に溜息も零れて流れて行く。
「なあシャーロック。もうすぐレストレードが来るんだろ? 当局に引き渡して調べて貰えば済む。僕らに彼を悪人であるかどうか決める必要はない筈だ」
「僕は頻繁に善悪が判っていないと他人に非難されるが、君の善悪も理解出来ないな、ジョン」
「かもな」
手を拭いてリビングに戻った。カウチソファでは男が昏睡しており、その周囲には救急箱や薬品が出しっぱなしだ。だが急激な疲労感に襲われてそれらは見なかった事にし、ジョンはシャーロックの向かいの、定位置である一人掛けのソファにどさりと身を投げ出した。目を閉じて左手を上げ、まぶたを上から強く揉む。一つ首を振った。
「……手負いの獣は、近付く全てを攻撃するんだ、シャーロック」
何も悪くなくとも、誰が悪くなくとも、ただ己の痛みと苛立ちに従って。
「あの男が手負いの獣だと? わざわざこの建物に侵入してきたのに?」
「鍵の掛かっていない扉が目の前にあったから、一時的に身を潜めるつもりで入り込んだのかもしれないだろ、体力が回復するまで」
「随分と好意的な見解だ」
「シャーロック、僕は誰かを」
手を振ってそう言ってからジョンは下唇を噛んだ。あるいはそれもまた願望だ。
「誰かを先入観で判断したくないんだ、誰であっても」
シャーロックは真っ直ぐにジョンを見た。暫くそうして感情の伺えない瞳を据えた後、不意にゆっくりと瞬いて立ち上がり、カウチソファの男の元へと歩み寄った。訝しんでそれを見詰めるジョンに背中越し「この哀れな男について、判る事を言ってみようか、ジョン」と宣言する。
屈み込んだシャーロックの手がジャケットを捲り、ポケットをまさぐった。投げ出された男の腕を取り、足元を眺め、スラックスの裾が僅かに折れている、その折り返しに指を突っ込んでその指を目前でこすり合わせる。更に靴底を指先でなぞってから同じように鼻先で眺め、一つ頷くとシャーロックは満足したように立ち上がった。くるりと男に背を向け、悠然と戻って来ると、そうしてシャーロックはジョンの横に立ち、ぴたりと胸の前で両手を合わせた。
「何が判った? 名探偵」
眉を寄せて見上げたシャーロックの顔には相変わらず表情がない。目を伏せてジョンを見下ろす視線にも感情の色はなかった。その少し厚い唇が開く。
「着ているスーツは既製品だ、が、取り立てて安物なわけでもない。それなりの稼ぎがあるんだろう。履いている靴はラフな革靴。歩きやすさ、ないし走りやすさを重視した選択。外を出歩く仕事だ。だが爪が短く整えられているし右手にペンのせいで出来た微かな皮膚の隆起が認められるから事務仕事を全くしないわけではない。ナイフのグリップが手の形状に合わせてカスタマイズされているから、あれは商売道具。適度に鍛え上げられた筋肉を見ても、日常的な訓練も欠かさず行っている筈だ。加えていくつもの古傷。それらを踏まえると想定される職業はボディガード、私設秘書、軍人、警察官、消防士、まあそんなところか。いずれにせよそれに類する職業だ。勿論、ボディガードや私設秘書には堅気でない職業が含まれる。あの怪我でハイドパークからここまでを徒歩で移動しているから痛みあるいは怪我への耐性もそれなりにある」
ハイドパーク、と言われてジョンは思わず眉を跳ね上げた。
「何でハイドパークなんだ? 僕が彼を最初に見たのは」
「ハイアットホテルの前。それくらいは覚えている。そこに転がる前の話だ」
「何で判る?」
「ハイドパークを歩くと、あの公園特有の砂が附着する。あそこには馬の乗り入れが許可されている上に湖畔であるという際立った特徴があって、植生と砂、それに馬糞という条件を満たそうとすれば自ずから限定される。正確にはあの靴底とスラックスの裾の」
シャーロックは頭を振ってカウチソファを示した。
「砂を顕微鏡で覗いてみる必要があるだろうが、感触的には僕はあそこの砂を何度も採取して確認しているからほぼ間違いない。条件が重なる場所をロンドン全域に広げれば他にもあるが、あの怪我で徒歩と考えるなら可能性としてはハイドパークだ」
「なるほど」
相変わらずシャーロックの記憶力には驚かされる。この分だとロンドン中の土の成分は完全に頭に入っているのかもしれない。半ば呆れながら大きく頷くと、シャーロックは満足そうに口角を持ち上げて笑みを浮かべた。だが即座にその笑みは消え失せ、その長身を折り畳んで至近距離に寄った冷えた青がジョンの目を覗き込んだ。
「さてジョン、僕は今、一つの可能性に思い至っているんだが」
「うん?」
勿体ぶるのはこの男の癖だが、本気でシャーロックが何を言おうとしているのか見当も付かずにジョンは困惑した瞳を向けた。シャーロックが小さく息を吸い込んで口を開く。直後、その背後に現れた影に驚愕し、ジョンは咄嗟にシャーロックを突き飛ばした。
「後ろだシャーロック!」
突き飛ばされたシャーロックが大きく目を見開く。シャーロックの立っていたまさにその場所に振り下ろされた太い腕にジョンは転がるようにソファから後ろへ下がった。素肌に包帯、ジャケットを羽織った男がゆらりと体勢を変えてシャーロックに向き直る。シャーロックが一歩を下がろうとした瞬間に男の足が上がり、動かそうとしたシャーロックの足を払った。寸でのところでそれを避けたシャーロックが仰け反ると同時に腕が伸び、今度は首が鷲掴まれる。
「シャーロック!」
ジョンの悲鳴とシャーロックが身体を捻って男の腕をとり、投げ飛ばすのは殆ど同時だった。テーブルに激突し、その向こうのチェス盤をひっくり返した男はそのまま置いてあった鍋を蹴り飛ばし、中のナイフを弾いてそのグリップを宙で掴んだ。シャーロックに駆け寄ったジョンが振り返った時には男は脇腹を庇いながら握ったナイフを構えている。肉を穿った脂が白く光るブレードは殆ど男の手と一体化して見え、喉を押さえて咳き込んだシャーロックが睨む先で男は青褪めた顔を晒して目を細めた。その唇がゆっくりと開く。
「アンタ達は、誰だ?」
「こっちの台詞だ」
ジョンが吐き捨てると同時にシャーロックが薄い笑みを浮かべた。一つ空咳をしてから首を傾ける。やがて、ハットマンとロビンだ、と呟かれた声に男が眉をひそめ、ジョンは盛大に顰め面になった。何だって?
「ハットマンとロビン。知らないか?」
「カートゥーンアニメの話は今はどうでも良い。アンタ達は何者だ、と訊いてる」
男の声は低かった。ジョンは男を見据える。さっきの今だ、余程の意志力がなければ立っているだけでも苦痛な筈だった。あるいは、だからこそシャーロックを捕らえ損ねたのか。否、殺し損ねた、というべきだろうか。
「僕は医者だ、と言った筈だ」
ジョンは一歩前に出た。男の視線がジョンに向けられる。値踏みする視線に促されて更に続けた。
「正確には元軍医。君のその怪我は動き回れるような軽い怪我じゃない。病院できちんと治療しろ」
但し、その病院は警察病院だ。もう間もなく、レストレードが到着する筈だった。スコットランドヤードからここまでならそう時間は掛からない。
「……軍医、か。なるほど」
微かな声が呟くのに眉根を寄せた。シャーロックは黙っている。奇妙な静寂が場に満ちた。危うい均衡。誰もが何かの切っ掛けを探している。ふ、とシャーロックが表情を変えた。窓の外を窺う気配で「レストレードが来た」と呟く。パトカーのサイレンが聞こえたのか?とジョンが耳を澄ませようとした瞬間、しかし目の前で激しい金属音が響き渡った。
「待て!」
シャーロックの制止の声が金属音に重なる。窓際、シャーロックがバイオリンを弾く為に立てている譜面台を男が振り上げていた。ジョンはテーブルに飛び付いた。引き出しを引くと同時に中の拳銃を握り、咄嗟に男に向ける。SIG SAUER P226。
「止まれ!」
男の視線が一瞬だけジョンを振り返った。銃口はピタリと男の額に向いている。だが直後、窓が開け放たれ、譜面台が投げ付けられた。破裂するような金属音。
「クソ!」
引鉄に指を掛けたまま、ジョンは為す術もなく男が窓から外の柵を越えて飛び降りるのを見た。路上に出されていたと思しきゴミ箱が倒される派手な音が響き渡る。シャーロックがテーブルを踏み越えて窓に飛び付き、やがて、大きく息を吐き出して言った。
「逃げられたな」
階下から、ばたばたと扉を開けて廊下に飛び出したらしい物音が響いた。ハドソン夫人の声が高く反響する。
「ボーイズ! 今度は何事なの!」
ようやく、ベーカーストリートにくっきりとサイレンの音が響き始めていた。

