** United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
夢も見ずに寝ていた。
レストレードに叩き起こされたのは221Bの前で、既に辺りは明るくなり始めている。夏のロンドンの朝は早い。まだ五時台だ。
先に車を降りていたシャーロックに並ぶと、後ろから「ジョン」と呼ばれた。
「一つ貸しだ」
言われて二度瞬き、ああMINIの事かと合点して「しょうがないな」と肩を竦めた。借りを作るのは余り好きじゃない。早めに返す必要がある。そのままレストレードを見送った。のろのろと221Bの見慣れた黒いドアに向かうと、必然のように欠伸が漏れてジョンは盛大に背伸びをした。シャーロックが胡乱な目を向ける。
「犬か猫だな」
「朝の空気って気持ち良いだろ。あー、でも今はちゃんとベッドで寝たい」
あれだけの騒動が一晩で起きた、というのも考えてみれば酷い話だ、と今更のように噛み締めてジョンは再び欠伸を噛み殺す。先にドアに辿り着いたシャーロックが無造作に開け放ったドアを潜って、けれど不意に初めてシャーロックと夜のロンドンを走った日を思い出した。
タクシーを追って散々駆け回り、そのまま走ってここまで帰った。こんな馬鹿な事は初めてやったと笑いあったのはもう半年以上も前の事だ。
その直前まで、何を考えていただろう。アフガニスタンからロンドンへ戻って、抜け殻のようにただ苛立ちながら日々が過ぎ去るのを見詰めていた。
世界。
シャーロックの世界はどんな世界か、と考えようとして笑いが漏れる。シャーロックという人間は、自分が宇宙の中心だくらいに思っているような男で、自分の世界がどんな世界かなど、考えたりはしそうもない。
この国に生きている。この街に生きている。この場所で、221Bの存在する、ここがあれば、それで良いのだろう。偉大なる大英帝国。これが世界だ。
二人先を争うように階段を駆け上がる。リビングに飛び込むと、ジョンは真っ先に愛用の銃を引き出しに入れた。本当ならしっかり手入れをしてからにしたいところだが、今はそんな事を言っていられない。起床後の最初の仕事は銃の手入れになる事だけは間違いなかった。そのまま反転して抛り出したままの包帯や消毒薬を手に取る。
「よし、シャーロック、座れ」
シャーロックがカウチに勢い良く腰を下ろす。あれだけ動いた割には包帯はさほどずれてもいない。安堵してガーゼを取り替え、きっちりと新しい包帯を巻きなおした。既に麻痺しているのか否か、シャーロックは苦痛の声一つをあげる事もない。外した包帯は後で洗濯する事にして抛って置く。シャーロックの膝を叩いた。
「じゃぁな、おやすみシャーロック。起きて僕が銃の手入れを終えたら、ハドソンさんに返す鍋を買いに行こう。ついでに、食事も」
言って立ち上がったジョンに、シャーロックは一瞬不可思議な表情を浮かべた。それから小さく首を傾ける。
「ジョン」
「何?」
既に階上の自分の部屋に上がるつもりで踏み出した一歩を押し留めてジョンは振り返る。シャーロックは奇妙に生真面目な顔で言った。
「大丈夫か」
ジョンは小さく笑う。君こそ、と返すとシャーロックは肩を竦めた。
「僕が君に訊いてる」
ジョンは頷いた。大丈夫だ、と答える。君の武器だからな。
シャーロックはゆっくり瞬いた。だけど君は人間だ、と返って来た答えにジョンは僅かに息を呑む。それをシャーロックが言う事の意味を少し考えた。何かが溶け出して空気に混じる。
「大丈夫だ、シャーロック」
ジョンはもう一度頷いた。ああ、僕は大丈夫だ。世界が、どんな風に変わっても。
「君が、僕の撃つべき標的を用意してくれる限りは」
シャーロックの瞳が細くなった。
<了>

