佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 アシタカの足取りには迷いがない。池の周囲を確認するように歩いた。倒木の重なりはやはり光を遮って、辺りは左程明るくない。見回す樹木の折れた根元の株を見る限り、どうやらたたら場から西に向かってこの森に入り、今は森の中を南下している。年輪の重なりは数えるのも難しい悠久を示して鎮座している。
 ふ、と足を止めたアシタカが、屈み込んで何かを始めた。ヤックルは大人しく背後で佇んでいる。何をしている、とも言わないアシタカを見詰めている内に、アシタカの手は半ば以上を朽ち木と土に埋もれた白い何かを掘り出している。
「……骨」
 呟くと、アシタカは両手でその細い棒状の白を押し戴き、ゆっくりと両膝を衝いた。思わず後ろで同じように膝を衝く。足元から濃い土の匂いが立ち昇る。池が近いせいだろう、じわりと布地を通して水が染みた。いつの間にか、木魂は姿を消している。アシタカは、そのまま深く頭を垂れた。
 静寂。
 一切の音が消えている。気圧されて同じように頭を下げた。硬く握った拳に知らず力が籠もる。脳裏を幾つもの白木の小さな箱が過った。白い布で包まれた、その中身がなんであるか、誰もが知っていた。万歳で見送られ、余りに静かに帰宅したそれ。おめでとうございます、ありがとうございますと頭を下げあう人々を直視出来ずに、ただその白さだけが焼き付いた、その、白い──白い──。そうだ自分は、友が握った拳が見る間に赤くなり、真っ白になったのを見ていた。叩きつける場所のない拳は、振り上げられる事も、行き場を見付ける事もなく、ただただ、友の中に何かを積もらせて、彼の絶望を育てた。
 アシタカが静かに頭を上げた。丁寧に懐から出した布に骨を包み、腰に下げた小袋に仕舞う。見詰め続ける視線に気付いたのだろう、小さく目を伏せ、それから立ち上がった。
「行こう」
 この言葉は二度目だ。朽ち木が音を立てて折れる。踏んだそれは崩れて土になった。
「見付ける都度、弔ってはいるのだが」
 まだ、残っている、とアシタカは静かに呟いた。誰の、とは言わない。獣の物なのか、人の物なのかも判然としなかった。あるいはアシタカにとって、そこに差異はないのかもしれぬ。何を言わずとも、シシ神殺しの晩に肉体から放たれた魂なのだと知れた。
「シシ神とは、何だ」
 歩き出して幾らも行かぬ内に問うとアシタカは目を細めた。倒木が少し減り、また若いが濃い森の様相が広がっている。水音は微かになり、頭上の光は清かな木洩れ日に変わった。アシタカの瞳が色彩を重ねた森の色をしている。
「……生と死と二つとも持っているもの」
 零れ落ちた返答に迷いは無かった。迷いは無いが、何某かの躊躇いは窺える、そんな声だった。歩き慣れているのだろう森の中は、よく見ればアシタカの身幅に獣道となって続いている。ヤックルが、軽快に先を行く。
「神々は……死して尚、消えはせぬもの。ただ、シシ神は死なない。命そのものだから。わたしは、そう思っている」
「山犬は、神だろうか」
 アシタカが一瞬、足を止めた。横目で視線を寄越してからまた前を向く。
「わたしがこの森に最初に辿り着いた時、ここは太古の神々の棲まう森だった──わたしにとっては」
 アシタカの目が一瞬昏く沈む。「たたら場の者達には」と続けて言葉が途切れた。続きを口にしてやる。
「もののけ」
 アシタカの目が強くなる。
 目線を落としたアシタカが右腕の手甲を外して手を差し出した。掌の一部から腕に掛けて薄く皮膚の色が違っている。
「祟り神の祟りを受けた」
 言って手甲を戻す。
「里を守る為に射て、祟り神は命を失い、わたしは祟りを得た。──世の理は……あるがままなのだろう。わたしは死ぬ運命であった筈だ。だが、あの夜に」
 生きろと──。呟いてアシタカがじっと手を見る。薄い痣。それは当初には濃く、アシタカの身を蝕んだのかもしれない。
 理の外の事であったろうと思う、と続けてアシタカは微かな笑みを浮かべた。
「命を司るのは神の領域だ。わたしにはやはり彼らは神の眷族だ。わたしを──生かしてくれた」
 ヤックルが振り返って首を傾げた。アシタカがそれを見て小さく笑う。
「どうやらわたしは思い掛けず沢山喋っているな。何故だろう、そなたには聞いて欲しくなった」
「山犬が生きろ、と?」
 アシタカの笑みが深くなった。応えぬまま先を行く。足元には岩が露出し始めている。木々が減り、草が伸びて、光が燦々と降っている。
 再びせせらぎの気配が満ち始めていた。川に近付いている。水の匂い。心なしか風にも湿り気がある。いつの間にか登り降り、どうやら少し低い場所へ向かっているのか。
「アシタカは」
 ふと口にした。
「何処から来たと、尋ねないのか」
 アシタカはゆるりと瞬いた。濃い睫毛が目元に影を落としている。思案気に首を傾け、やがて口を開いた。
「そなたが何処から来たのであろうと、こうして話をし、歩ける」
 風がアシタカの髪を掬って舞わせる。切りっぱなしのそれは、里の男達の束ね髪からは恐らく酷く異質である筈だ。短髪に国民服の己程ではないにせよ、やはりアシタカ自身も、奇異な客ではあったに違いなかった。
「そなたがもののけであったところで」
 不意に言って、アシタカは妙に幼げな笑みを翻した。
「わたしや山犬とて同じ事だろう。違うのか?」
 呆気にとられた。もののけは──人でなく神でなく、得体の知れぬ何かであるとするなら、それは確かに──。
「違いない」
 つられて笑ってしまう。なるほどその通りだ。何処から来たのかなど、何も関係が無い。ただ。
「アシタカにとって山犬は、大きな存在なのだな」
 視界が完全に開ける。広い石河原だった。川面を陽光が爆ぜている。
「……いや、山犬ではなく、山犬の姫か」
 アシタカが振り返った。目を細め、何も言わず、ただ笑みが深くなる。アシタカの進む河原の先には飛び石が見えている。甲六と渡ったものより浅瀬の、しかし幅は広い。ヤックルが軽快に跳び、続くアシタカの背に向かって言った。
「明日香川 明日も渡らむ 石橋の遠き心は思ほえぬかも」
 アシタカが飛び石の上で足を止めた。舞うように手を広げて拍を取り、三度跳ねて足音を響かせた。タタン。ヤックルがじっと見ている。
「ヒィ様の紡ぐ祝詞のりとに似た響きだ」
 言ってアシタカは広げた腕を優雅に差し上げた。陽光に霞む、その指先が赤い。
「甲六さんが、〝アシタカの旦那だ〟と」
「わたし?」
「明日もまた逢いに行こう、あなたとの間には飛び石程の距離も無い。そういう歌だと言ったら、そう言って嬉しそうだった」
 アシタカは小さく笑った。なるほどと呟き、飛び石を渡る。
「命が──人の姿をとったような子だ」
「──佐毘売」
「サン、と言う」
 アシタカを追って飛び石を渡る。ヤックルはもう対岸に降り立って耳を立てている。
「モロは山犬神だ。サンや、そのきょうだいが山犬である事は確かで──彼らを神にするものがあるとしたら、それはわたしたちなのだろうと思う」
 アシタカの声が風に乗る。穏やかに低い、それこそが祝詞であるべき言葉だった。風は舞い上がり、森を抜け、岩場を駆け上がって天に向かう。アシタカの祝詞が佐毘売を神にする。
「そなた、山犬を知っているのだろう」
 アシタカが柔らかく笑む。
「山犬と聞いて驚きもしなかったとおトキさんが呆れていたそうだ」
 そんな事で確信を持たれるとは。自分の迂闊さにそれこそ呆れる心持ちで肩を竦めた。山犬は、知っている。そうだ、何しろ──山犬が、己を此処に連れて来たのだ。
「知っている、という程には、知らない、と言ったら?」
「……そなたは賢いのだな。それは、とても良い答えだ」
 笑ったアシタカが飛び石を渡り終える。対岸はややもすれば険しい岩場に覆われて見える。その向こうに広がる森はたたら場やシシ神の森よりは年輪を重ねた濃厚な色をして、奥底を見せない太古の気配を纏っていた。山犬の森なのだ、と察して天を仰ぐ。本当なら、この太古の森こそが、辺り一帯を占めていた筈だった。シシ神殺しの夜までは。
「ひとは、すぐに何かを知った気になる。だがそなたは山犬を知っており、知らぬと言う」
 アシタカがヤックルの顎下を撫でている。渡り終えて振り返ったシシ神の森は、やはり若い。それでも、命が満ちている。
「──シシ神は、もう現れないのか」
 言うとアシタカが目を細めた。
「シシ神は、もうすべてを人の世に委ねたのかもしれない」
「委ねる?」
 アシタカはヤックルを撫で続けている。ヤックルが、その大きな目で見詰めている。
「人が神を捨て、山の太古の神々をもののけと呼ぶのならば、シシ神の役目は終わったのだろう。命そのものを、人がどう扱うのか、きっとそれを見ている。わたしたちが何をし、何をしないのか──」
 歩き出したアシタカに着いて隣に並んだ。今度はヤックルが後ろを着いてくる。
 大きな岩が連なっていた。岩肌に意味もなく触れて歩く。岩は沈黙し、ただそこに鎮座している。
 石見の銀は、と言ってアシタカがそっと息を吐いた。
「猪神が護っていたのだ」
「猪神」
 今はこの山から離れている、ナゴの一族が守る山だった、そうアシタカは言って遥かなる南を指さした。
「鎮西という土地があるのだそうだ。そこに住む乙事主という猪神から、モロがそう聞いていたのだと」
 神々の対話だ。悠久の時を、そうして巨大な獣の神はそれぞれに時を刻み、大地を踏み締めて越えて来た。
「その昔、大和の心清きものが、鎮西で苦難に陥って、乙事主の一族が窮地を救った。その際に、大和へ戻る路銀として、石見の銀を僅かに分け与えてやったのだそうだ」
「銀を」
 その話を、救われた男は秘した。秘して、己の一族にのみ伝えた。だが、時が経ち、周防の守護たる者の配下に入った男の係累は、己が主にその話を漏らす。石見を訪れた周防の守護は、山肌に露出した銀を発見し、勇躍それを手中にしようと画策した。
「それで、どうなった」
「ナゴの守……この一帯の主であった猪神が、手を付けるなと説得した。山はあるがままに残せと。さもなくば、一族は周防をそのままに捨て置けぬ、そう言って諦めさせたのだそうだ」
 巡り巡って、と言ってアシタカは自分の右手を見詰めた。握った拳を開き、また握る。
「結局、ナゴの守は人間に討たれ、祟りを残して、死んだ」
 思わずアシタカの腕を掴む。目線を上げた、アシタカの瞳がやはり深い森の色を湛えている。木々の碧を縫って紗光が降り注ぎ、渓流が音を立てて震える、その全てを含んで、なおアシタカの瞳は深い。
「すべてが移ろおうとしている」
 アシタカの静かな言葉に、不意に脳裏に炎が燃え上がる。重量のある地響きが轟き、朽ち木が一斉に燃え上がった。その真っ只中を、真っ赤な岩と化した一頭の巨大な猪神が駆け抜けて行く。悲痛な咆哮が轟き渡る。それは真っ直ぐに、何もかもを薙ぎ払って火を放ち、駆け、駆け抜いて──不意に澄んだ瞳の、髪を結い上げた美しい若者に出会い、力強い見事な弓によって額の真ん中を射抜かれ、止まった。
「──アシタカの祟りはナゴの……」
 アシタカが目を伏せる。
「わたしは、此処を見届けねばならない」
 黄金の、人面の鹿が見詰めている。深い深い森の、深淵なる池の真ん中で、聳え立つ樹木の小島が静かに光を浴びている。木魂が鈴生りに首を振っている。カラカラカラ、コロコロコロ。人面の鹿が、そっと視線を外して背を向ける。もう、振り返りもせずに、遠く深い昏がりに歩み去って行く。
「シシ神──」
 思わず漏らした声に、アシタカがゆるりと瞬いた。押し留める様に腕から手を離される。辺りは──最前までと何も変わらない。だが、呼吸が浅くなっていた。湧き出した唾をようよう飲み下してアシタカに向き直る。
「シシ神の首を所望されたのだと聞いた。だが出来なかったとも。所望した相手はそれでは引き下がるまい。それを──ナゴを失った山から銀を、差し出して、手打ちにするのか」
「周防は、配下に古い神の係累を名乗る武家を抱えているらしい。一文字三つ星の紋を持つ家だ。エボシは」
 その当主と幼き頃に面識があるのだそうだ。わたしには分からぬ世界だが、と言ってアシタカは大きく息を吐いた。
「此処と、たたら場をわたしたちに任せる代償として、銀山を周防に仄めかし手中に収めさせ、その上で、銀山を巡る周防と出雲の尼子との争いに再び火をつける事で双方の勢力を削ぎ、最後に一文字三つ星の紋がすべてを浚う、そのように協力すると、そういう絵を描いた」
 脳裏で目まぐるしく記憶を辿る。周防は──大内氏だ。銀山を得たのは、尼子に寝返った毛利が帰参した、その頃であったか。ゴンザの言葉が過る。エボシは──エボシはとある荘園の、ああ、それで──まさかそれで、毛利の御曹司とも面識があるのか。そうだ周防の遣いをした、と言っていた。大内は、足利将軍家の争いに乗じ、新たな公方を奉じて上洛している。云わば、公方にも朝廷にも通じる絶妙な人材ではあるのだ。エボシはそれを知っていたのか。知っていて、初めから、中国地方一円を見据えて絵を描いた。烏帽子山を望む、故郷に似たこの場所に、今度こそ奪われぬ己の理想郷を打ち立てる為に。ただ、ただそこに──そうだ、そこにシシ神殺しの晩があった──。
「山犬は──アシタカの佐毘売は、それに乗ったのか」
 アシタカが目を細める。ゆるく首を振る、それが否定なのか何なのか、判然としない。眩暈がする。喘ぐように、言った。
「山犬は──眷属は、そうやって山を取り戻したのか。そういう、事なのか、神の座をそうして取り戻したのか」
 岩屋で見上げた巨きな白い獣の姿が浮かぶ。己の耳目で確かめろと、そう言って此処へ連れて来た。時を超えて、そうして。
「お前が、見せたかったのはこれなのか」
 そうなのか。
「カムナ──!」
 不意に頭上が陰った。岩を叩く硬い爪音が響いて、視界を影が覆い尽くす。アシタカとヤックルが振り仰いだ大岩の上を、同じように振り仰いだ。天が高い。空は何処までも蒼く、光が──降り注いで、眩しさに手を翳した。白銀の獣の姿が躍り出る。山犬──!
 思った瞬間、大岩の上に、一際白く輝く毛並みが立ち上がった。最前の白銀の獣を従えて仁王立ちする。吸い込まれそうに強い瞳が見下ろし、しなやかに細い、しかし均整の取れた筋肉で覆われた腕が差し伸べられた。傍らの獣を制しながら、冴え切って澄み通った声が山々を渡る。
「我が伉儷こうれいの名を呼んだか」
 身動きすら出来ずに、その姿を見上げた。見事な白銀の毛皮を纏った、人とは思えぬ、その──。
 傍らでアシタカが小さく「サン」と呼んだ。

 

 

 

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