一
燦爛と爆ぜた水飛沫に頬を叩かれて我に返った。視界いっぱいに水面。詰めていたらしい息を吐くと同時に視界の端でまた光が爆ぜた。木々の碧からも紗光が降り注ぎ、渓流は音を立てて震えている。
山──深い山であった。手足が痺れるほどに冷たい。当然であろう。瀬に座り込み両手両足を川底についている。国民服はまだしも一張羅の乗馬靴までが中まで水に浸されて、どうやら既に指先の感覚は失われている。
ぶるり、と胴震いが出て奇妙に視界が澄んだ。遠くで渓魚が跳ねている。森の気配の他には水音だけが揺れて、全てが碧に染まった山の一切がひそやかな息遣いに包まれて鎮座している。深い──。
一つ頭を振った。そのまま巡らせた視界のどこにも黄褐色の獣の姿はない。
振り切れたか、と知らず声にしようとして喉で堰き止められた。しわがれた呻きだけが川面に落ちる。両手で掬い上げようとした水は腕の震えで全て零れ、武骨な指が己の意に反してばらばらに踊った。
此処は──此処は何処だ。
立ち上がろうとした脚も同じく戦慄くばかり、見目には微かな流れに押されて体勢を崩す。殆ど沈む恰好で喉に流れ込んだ冷水が胃に落ちて凍り付き、ようやく浅瀬に這いずり寄った頃には歯の根が合わず空音が頭蓋に響いて尚も呻く羽目になった。
川原で転がって天を仰ぐ。水に揉まれて滑らかな石はそれでも背に敷くには向かぬ。バラバラの痛みが身体中で軋みを上げ、呼吸がままならぬ。だというのに──そうだ、だというのに、頭上を覆う木々の向こうには人を莫迦にしたような蒼穹が広がっている。夏が来る──。
視界が回る。瞼の奥で何かが爆ぜている。最前の光が眼球に入り込んで暴れているのだ、と強く目を閉じ、開いてもまだ止まらぬ。蒼穹は──昏い。
驚いて目を見開いた。頭を振ろうとして叶わず、身体ごと横転した。腹の下の石が臓腑を圧迫して辺りは尚も昏くなる。藻掻いたところで実際には緩慢に腕一本が僅かに持ち上がったに過ぎず、視界は昏いまま急激に回った。臓腑がせり上がるのに息を詰める。その刹那──木立の中に白く輝く巨きな獣の姿を、視た。
微かに人の声がする。
瞼の裏に友の顔が過って身を跳ね起こそうとし、果たせず呻いた。歪めた目に年季の入った天井板の節が映って放心する。何が起こったものやら皆目見当がつかない。
「あら」
床板の軋む音と同時に声がした。戸板を開く物音に重なって「あんた、起きたかね」と柔らかな女の声が届く。
ようよう頭だけを持ち上げた先、割烹着に襷掛けの女が盆を手にしているのが目に入った。どうやら自分は夏蒲団に寝かされているらしいと察して頭が沈む。枕の中で蕎麦殻らしき乾いた音がした。
「あんた、どこからお出でなすったかね」
女の問いは尚も柔らかい。学生さんかね、の問いに緩く首を振ると、そう、とそれ以上には問わないまま布団の肩口近くに膝を衝き、盆の上の大ぶりな湯飲みを取って差し出した。
「使ってない部屋で、埃っぽくて悪いけど」
己よりは年上かと見たのは、所作が所帯じみて見えたせいだ。これも柔らかな笑みの女の、しかしゆっくりと検分する視線はやや堅い。見知らぬ若造を前にすれば、それも当然ではあるか。
「あの」
声は出た。しわがれたそれに唾を飲み込む。女は口を閉じ、二度瞬いてから、あの、と上げた声に続きがないのを見て取って頷いた。
「ここへ迷い込む人は珍しい。山子の若いのがあんたを見付けて連れて来たんだよ。ずぶ濡れでね、熱が出ていたけど」
差し出していた湯飲みを引き、盆を傍らに置いて女の手が伸びた。視界が翳り、額を手で覆われるとひやりと冷たい。やがて手は離れていき、思案顔の女がもう一度盆から湯呑みを取った。
「下がったみたいだね。何か口に入れた方が良い」
再び湯飲みが差し出される。
肘を衝いて半身をゆっくり起こした。節々が痛む。緩慢な動きは殆ど己の肉体とも思えず、歪めた顔に気づいたらしい女が小さく息を吐いた。
「何かわけがおありだろ。話せるものなら聞くよ」
湯飲みを両手で受け取った。ずしりと重い。もう一度目線だけで周囲を見回し、女の顔を見た。おかしなところはない。ない──ように見えた。それ以上も以下もわからぬ。そもそも──此処は何処だ。だが少なくとも──、助けられたのだろう、山子とは何を指すものかはわからぬとしても。
湯飲みにそろりと口をつける。ほのかな甘みが広がった。温かい。重湯に近い粥だった。塩気の甘さが沁みる。女が覗き込むような格好で見守るのに一口二口を飲み下した。女は酷く真剣に観察する目をまだ解かない。怪訝に思いかけてようやく察した。
「おれは」
今度はまともに声が出た。「おれは人を追っ掛けて来たんです。友人が山に入って」
微かに目を見開いた女がほっと息を吐き、それは心配だね、と零された声にはしかし安堵が滲んだ。なるほど目の前の若者が死ぬ為に水に入ったわけではないと知れば安堵もするだろう。そうだ、あの川原でこのまま死ぬのかとは思ったが、死にたかったわけじゃない。死ぬかと思ったのは──
「犬が」
「いぬ?」
「野犬だろうか、黄味掛かった褐色の大きな、何頭か分からない。群れに追われて」
昼なお昏い森の、微かな光に浮かび上がる獣は荒い息を吐いていた。獣の匂いがした。獣の高揚。獣の荒寥。狩るものとして見据えられたあの刹那。ぶるりと胴が震える。あの犬はまさか。
「あれはまさか狼ですか。まだ狼が出るんですか。友が、ああ死にたがりはおれじゃない、狼なんぞにあいつが対処できるわけが」
声を上げたせいで頭が酷く傷んだ。呻いて額に湯飲みを押し当てる。女が「また熱が出るよ」と囁き、押し留められた湯飲みを持つ手に力が入った。女がゆるりと首を振って立ち上がる。それ、のんでおしまいよ、と言い置いて戸板の向こうに消えた。湯呑みが重みを増す。屈み込んだ視界の端に、背嚢と着ていた国民服、乗馬靴が揃えて置いてあるのが映った。他に調度も何もない、六畳に満たない板張りの部屋だ。ようよう確かめてみれば、着せられたらしい木綿の単衣は少し汗ばんでいる。
やがて戸板越しに「何処の者か訊いたか」と野太い声が響いて床板が鳴り、音を立てて戸板が開くと今度は顔に布を巻いた得体の知れない男が現れた。さながら修験者か僧兵じみている。国民服ではなかった。藍の作務衣。やはり僧か。しかし此処は寺社のようには思われない。
「人、探して山に入ったのか」
声が大きい。無遠慮な問いに答える間さえ寄越さず、大股で床板を鳴らし、どかりと腰を落とした。身体が分厚い。
「あんた、何処から来た。何をしに此処まで来た」
探る目。此処が何処かさえ知らぬものを、何を疑われるのか皆目見当もつかない。知らず顔が歪んだ。呻き声に混じって出た返答は「友人が死ぬんだと書き置いて山に入った」という一言だった。
沈黙が落ちる。堪え兼ねて湯飲みを一思いに空け、そのままの勢いで身を乗り出した。頭痛は薄らいでいる。
「早く探してやらなきゃまずい。おれは道に迷ったんでしょう。ここは一体何処ですか。おれは尾道から来た」
男が布から覗く目元を歪ませた。何かおかしなことを言ったか。眉根が寄るのを自覚した瞬間、男は振り返った戸板の先に佇んだ女と視線を交わし、一つ頷いてから向き直り、言った。
「……御與山」
「み、もろ、やま?」
鸚鵡返しにしながら目が泳ぐ。御諸山なら奈良だ。高木先生の調査研究を手伝って何度も文献を見たのだから間違いない。大物主神の鎮座した三輪山──馬鹿な、幾ら山を彷徨い歩いたとて、奈良には至らぬ。あるいは瀬戸内に、同じく御諸山と呼ばれる山があるのか。確かに大物主は大国主の半身とも言う。大国主は──しかし大国主は山陰、出雲の神だ。山陽の尾道には。
「尾道は、遠いぞ」
男が言葉を落とした。遠い、遠いとは。
「地図、地図を見せてはいただけないか」
男が首を振った。思わず顔を向けた先、女も面を伏せて物を言わない。また頭痛がし始めた。ぎりと奥歯が鳴る。険しくなった顔に気付いたか、男が宥める様に口を開いた。
「御與山を知らぬとなれば、教えるわけにもいかない。此処は山内の人間が佐毘売山、とも呼ぶ天領の隠れ里。尾道とは言えないが、八鉾村の鉄道駅までは送ってやろう。此処の事は──忘れる事だ」


