佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 青年は湖面を渡るも同然に真っ直ぐ滑らかに歩み寄って来た。水の抵抗も、空気の抵抗も、時の抵抗さえ受けぬ確乎たる一本の若木が姿を取っている。肩口より少しだけ長い髪は無雑作に切られて蓬髪ほうはつめいており、しかし乱れた印象はなかった。頭上から千々に差し込む細い光の束が青年を金色に浮かび上がらせている。
 カラカラカラ、コロコロコロコロ。
 気付けば足元に横たわる朽ち木の先、一際太く複雑に捻れた大木の切り株に二、三の木魂の姿がある。カラカラカラ、コロコロコロ。肩を並べて歌うように首を振るのに、隣で甲六が「うへぇ」と声を上げた。首を竦めている。
「コダマ平気ですかい旦那。俺ぁどうにも苦手で」
 言われて木魂を見直した。小さな白い精霊が揃って首を傾げ見上げている。
「何もせぬでしょう」
 答えると木魂達がさんざめいて笑った。カラカラカラ。音と共に、湖面に波紋を幾重にも広げながらやって来た青年の足元で水音が跳ねる。
「甲六が来てくれたのか」
 染み渡るような穏やかな物言いだった。よく見ればくるぶしまでが水に浸かっている。藍の着物の下、腕にはどうやら産篭手うぶごてと手甲を着けており、背には打飼袋うちがいぶくろに良く似た、革の袋を負っているように見えた。腰に吊されているのは古墳の副葬品と見紛う見慣れぬ山刀で、その異質さだけが際立ったが、総じて一分のぶれもない直線めいた背筋の良さと、適度に鍛えられていると窺える身体の厚さがやはり若木を連想させた。年の頃はもしや己と同じくらいだろうか。ふと友を想起したのは、意志の強そうな眉と大きな瞳のせいかもしれない。
「ヤックル、遣いをありがとう」
 唇を綻ばせて青年が手を伸ばし、獣の鼻面を撫でる。されるがままの獣は嬉しげに更に顔を寄せた。青年の目線が向き、ぱちりと瞬かれる。
「甲六、こちらは」
「ああ、エボシ様に言われてお連れした、お客人でさぁ」
「客人」
 アシタカの瞳が向けられ、微かな笑みで弧を描いた。ざぶりと音を立てて水から上がる。足元は革の靴で、きつく巻かれた脚絆が水を滴らせて光の粒子を生んだ。
「池ぁどうですか」
「少しずつ水位は戻っている」
 甲六に答えてから、アシタカはまた視線を寄越した。精悍な青年だった。柔らかな空気を纏いながら、何処かしら張り詰めた険しさを滲ませている。左目の下に刃物で引いたような傷跡があるのさえ、青年を彩る装飾の趣だ。何処か一抹淋しさを浮かべる静かな瞳が凪いで、少しエボシを思った。内と外とが乖離する、この青年もまた、身の内に荒れ狂う嵐を飼っていながら、草原の柔らかさで立っている。
「此処は」
 やはり深い声だ。アシタカがぐるりを見回す。
「特に深い『シシ神様のお池』だったんです」
 細めた目が水面を渡り、遠く小島になった場所で止まった。真ん中に朽ちかけた、それでも尚、人の背丈程は高さのある、かつては見事な大木であっただろう幹が鎮座している。周囲を苔やシダが覆っているのは湿気と日照不足のせいだろう。見上げれば倒木の組み木屋根は、この島を中心に聳え、島には僅かの光だけが絹糸の白さで細く紗に降っている。幽玄の森であり、湖だ。
「豊かで美しい湧水の池だったのですが、数年前に水量が減ってしまって……ようやくこの頃、少しずつ水が湧いている」
 思わず「シシ神殺しの晩からですか」と問うと、アシタカは一瞬目を見開き、そっとまなざしを伏せて頷いた。
「シシ神は隠れてもう姿がない。森も池も、再生はしても、もう元の姿ではなくなった。此処は……それでも今もシシ神の森だ」
 甲六が泣き出しそうに顔を歪めた。旦那、と呟いたのだろう欠片が呻きになって零れ落ち、苔と落ち葉に受け止められてふわりと散った。アシタカが顔を上げてにこりと笑みを見せる。
「甲六、少し待っていて呉れ。おトキさんと食べて欲しいと思って集めたウスの実がある。籠を取って来る」
「本当ですか。おトキが喜ぶ。いつもありがてぇ」
 一つ頷いてアシタカが身軽に倒木を飛び越えた。首を傾げたヤックルには振り向きざまに「お前も待っていろ」と小さく笑う。斜めに支えあっている倒木を潜ってしまうと、もうアシタカの後姿は見えなくなった。枝葉を踏む微かな音だけが響いている。
「『シシ神様のお池』と言ってましたね」
 言うと甲六が嬉し気に相好を崩した。「〝さひめ〟がそう言ってたらしいんでさ」と更に顔をくしゃくしゃにする。
 さひめ、と思わず口の中で繰り返した。さひめとは、佐毘売だろうか。
「アシタカの旦那の大事な方でさぁ。おトキから聞いてませんか旦那」
「山犬の姫──もののけ姫、の事ですか。おトキさんが、アシタカ様の大事にしているお人だと」
「元はといやぁ、麓のどっかの里が山犬に贄に差し出した子どもだったそうでさ。山犬神のモロに育てられて、俺たちぁ皆、もののけ姫ってそう呼んでた。でもね旦那」
 アシタカの旦那が、と甲六は言って深い息を吐いた。いつの間にやって来たのか、すぐ目の前の倒木の根元に揺れるひこばえにぶら下がって、木魂が首を傾げている。カラカラカラ、コロコロコロ。
「シシ神殺しの晩に、あの山犬の姫と一緒に、シシ神を宥める為に命賭けてくれたってんで、もう俺ぁとてもじゃねぇが、もののけだなんて言えなくなっちまいましたよ」
「それで、さひめと」
 カラカラカラ、コロコロコロ、カラカラカラ──木魂が一斉に揺れる。風が渡り、湖面に漣が立った。降り注ぐ細い光が、木魂と共に歌って揺れる。
「あの子の名ぁ、だぁれも知らねぇんです。だけどいっぺんだけ、アシタカの旦那がね、どうやらあの子の名ぁ呼ぼうとしたところにでっくわしたんでさ。旦那は俺に気付いて黙っちまったが」
 確かに、「サ」と言ったのだ、と重々しく頷いた。
「サだか、サァだかはわかんねぇですけどね」
「それでサ姫と」
「あの子が俺らぁ信じねぇのは仕方ねぇ。そういう事をした。だから、名を明かさないのも仕方ねぇ。でも俺ぁ、山犬の姫じゃなくて、アシタカの旦那の大事なさひめって呼びてぇなあって思うんです」
 へへ、と甲六は頭を掻いた。ヤックルがふるりと頭を振る。カラカラカラ、コロコロコロ。
「山犬の姫、さひめ」
「たたら場の裏の禿山も、元はと言えば猪神の山で、南ッ側は山犬の縄張りだった。いや、俺らぁが知らなかっただけで、アシタカの旦那によると、ここら一帯、山は全部、山犬の縄張りなんだそうでさ」
 山犬の脚で駆けりゃ、確かに国中走ったって平気なんじゃねぇかって、俺ぁすっかり納得しちまって、と甲六は首を竦めて言った。
「だとしたら、最初から、たたら場で稼ごうってのが、もうハナっから山犬や大猪の怒りを買ってたって事でさぁ。人間が好き勝手すりゃ、祟ろうってのも無理はねぇ」
 堪忍袋の緒が切れたんでしょうなぁ、と甲六は首を振る。屈み込んで湖面に手を浸した。ちゃぷんと立った水音は澄んで高い。さらさらと、降る光が甲六を包む。
「このシシ神の森は、特に深い、深い森で、昼でも殆ど光の入らねぇ、おっかねぇ森だった。コダマだの、シシ神だの、気味の悪いもののけが支配する場所だってんで、俺ぁ余程の事がなきゃぁ近付いた事もなかったんでさ。この池の水も、こうして触れるなんて事ぁ、考えた事もなかった。本当は、アシタカの旦那みてぇに、考えなきゃ拙い事だったかもしれねぇ」
 甲六の指先が水を掻き回す。浅く澄んだ水の底に、やはり朽ち木と落ち葉が沈んでいる。時折、小さな気泡が昇った。
「山犬の群れに襲われて牛飼いも何人も死にやした。何てことしやがると思ってやしたけど、こっちが家族殺されて怒るも、山犬が縄張り奪われて、群れの仲間ぁ殺されて怒るも考えたら同じ事だ。モロもおっかねぇ山犬神の母親で──最後まで生き残った。ああそうだ、そうですよ旦那。ここらは結局、モロにせよ、あの娘っ子にせよ、山犬の姫の、姫山なんでさぁ」
 姫山と名付けられた山は中国地方には幾つかある。だが、甲六が言うのはそれとはまるで別の文脈から導き出された名付けだった。思わず「では」と口を挟む。
「〝さ〟は接頭語でしょうね。姫山に、接頭語で、佐姫山」
「せっとう?」
「ああ、ええと、おトキさんって呼ぶじゃないですか。トキさんじゃなくて、その前に〝お〟を付けるそういう言葉の決まり事で、語調を整える為に付くのです」
 へぇ、やっぱり旦那は物知りだ、と甲六は目を丸くした。水から手を上げて振る。飛び散る雫が煌めいては苔や朽ち木に降り掛かるのを木魂が首を巡らせて追う。物知り──余計な事を言った。どう考えても、この時代にそもそも接頭語などという概念はあるまい。甲六が覚えられないのなら寧ろそれは幸いと言うべきだろう。
「じゃあ、さひめって呼ぶのもおかしかねぇんですね」
 甲六は冷たくなっただろう手を額に当てて満足そうに頷いた。無論、おかしくなどない。思ってから気が付いた。廻り回って、これが佐毘売になるのか。元より、国の土地が足りぬと大陸から引いてくる国引き神話に於いて、三瓶山は佐比売山と呼ばれていた。表記の漢字は異なれど、その名を冠した神社は基本的に金山毘古神を祀る。鉱石、製鉄を司る神の、その山の名が佐毘売ならば、間違いではない。ここは確かに、蹈鞴の山なのだから。
「神代に、三瓶の山は、佐比売山と呼ばれていたそうです」
「三瓶が。へぇ! そういやぁ〝さひめやま〟神社ってぇのがあちこちにありまさぁ。この辺りじゃ、蹈鞴師に連れられて山ぁ入ると、大概の土地にある」
 パキリ、と枝の折れる音がした。揃って振り返った先に籠を下げたアシタカの姿がある。アシタカが大きな倒木を越えて「これを」と籠を掲げた。隙間から見事に赤い小さな実が見える。旦那! と声を上げた甲六が駆け寄り、籠を押し戴くようにして頭を下げた。そのまま二、三を小声で遣り取りする。エボシの伝言だろう。アシタカは首を小さく傾げ、そこからまた小声でのやり取りが続いた。近くの枝に座った木魂が、そんな二人を真似て遊んでいる。カラカラカラ、コロコロコロ。やがてアシタカの目がふと向けられて、思わず背筋を伸ばした。アシタカはそのまま甲六に頷く。甲六が全身で振り返って籠を振り回した。
「旦那ぁ、俺ぁ里に戻ります。旦那はアシタカの旦那と一緒に居てくだせぇ」
 咄嗟に頷いた。「わかりました。ありがとう」と言ってから、おトキさんに宜しくと続けようとして口を噤んだ。成程もしかしたら、もう二度と会わないのかもしれない。己はこの土地には留まらない。カムナを探して、それから──それでも。
「甲六さん」
「へい」
「先程の話、里の皆さんにもしてあげてください。良い、呼び名だと思います」
 甲六は驚いたように目を見開き、それから照れたように笑った。カラカラカラ、コロコロコロと木魂が揺れる。別れを告げるのは、やめておこうと決めた。
 アシタカがゆっくりと戻って来る。甲六は手を上げて背を向けた。ヤックルが首を振り、アシタカを出迎える。ただ、それを黙って見守った。やがてアシタカはヤックルの手綱を取り、首筋を撫でて、振り返った。
「待たせてすまない」
 目を細めて微笑う。真っ直ぐに向き合って、言った。
「エボシが、そなたは道を探しているようだと、言っていたそうだが」
 最前とは違う、砕けた口調だった。甲六は何を告げたのか。訝しみながら、苦笑した。
「確かに自分は──道を探している」
 友を探し、いつしか迷い込んだ道から、何処かへ続く道を探している。
 足元に、木魂達がまろびながら走り寄って来る。そう言えば、姿が少ない。倒木ばかりの、幽玄の森であるせいか。カラカラカラ。それでも音は辺りに木霊して幾重にも重なる。カラカラカラカラ。道は──何処に続いているのか分からない。だが、切り開く事も出来るのだろう。
「そなたの知る道かは分からないが、よければ街道まで案内しよう」
「案内。あなたが」
「アシタカだ。わたしの名は、アシタカ」
「──アシタカは、里に戻らないのか。エボシ殿が呼んでいたのでは」
「先にする事がある。わたしはこのまま石見に行く」
 石見。戻りたいのは尾道だ。石見では、瀬戸内でなく日本海に更に近付く事になる。エボシが銀山と言っていた。尼子を下した、周防を動かすのだと。思わずそのまま声になった。
「──銀が、出るのか」
「それを知って、そなたどうする」
 アシタカの表情は変わらない。動じた風さえなかった。シンと静まり返った瞳を見返して、小さな笑みが漏れた。
「ただ、知りたい。シシ神殺しの話を聞いた。それで、エボシ殿がその顛末をどうしようとしているのかを」
 知ってどうする、とはもうアシタカは訊かなかった。アシタカの手が伸びて、手元に握っていたらしい物を押し付けられた。手のひらに、赤い実が幾つか載せられる。花の形がそのまま実になったと見紛う、ウスの実だった。アシタカは自分の分をそっと口に入れる。倣って口に含んだ。薄く甘い仄かな優しい味がする。その一部始終を見守ってから、アシタカは先に立って歩き出した。小さく振り返って言う。
「行こう」
 木魂が揺れている。

 

 

 

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