五
囲炉裏に掛かっていた鍋から雑炊を振る舞われた。茸類の他に菜っ葉と鶏肉、多少の雑穀が混ざっている。
滋味だった。
ここ数ヶ月間というもの、こんなに上等な食事をした記憶がない。思い浮かぶのは芋であり茎であり煮干し一匹あるいは沢庵数枚であって、主食は麦飯ないし水団でしかなかった。沈痛な面持ちで麦を噛んでいた友の横顔が脳裏を過る。都会ではもう麦飯もないと聞きましたと同情する声で言ってくれた尾道の預かり先とて、男二人分を余分に用意するのに苦心していたのは知っている。
「余程に腹が減っていたんだねぇ」
シマだと名乗った女が碗に三度目の雑炊をよそいながら呆れた声でそう言った。思わず飲み込んだ雑炊が胃の腑の上でつかえる。シマの隣に座ったトキが「遠慮する事はないよ、腹一杯食べな」と笑った。
「米一升は一日鞴踏みゃ貰えるんだ。細っこくたって男ならあたしらよりは楽に稼げる筈だろ」
「申し訳ない。腹に染み渡ります」言って「鞴踏みでお返しすれば良いんですか」と続けると更にトキが笑った。
「冗談だよ、あんた真面目なお人だね。第一、今は操業はしちゃいないからね。まあ暫く居るなら畑でも手伝ってくれたら助かるだろうけど」
「それは」
暫くなのかどうなのか。カムナが居なければいずれ戻る事も進む事も出来ぬのは確かだが、如何とも答え難い。
差し出された鮮やかな文様の美しい漆器の碗を受け取りながら囲炉裏端を見回す。エボシは奥へ入ったきりまだ戻らない。
雑炊をかき込んだ。やはり美しい漆器だ。八雲図に鹿の姿が見え隠れする文様は色漆や乾漆の他に青貝が使われているように見える見事な品だった。山間の里にはまるで似つかわしくない高級品に見えるが、蹈鞴製鉄による富の産物だろうか。確か島根と言えば松江の八雲塗が著名だったと記憶しているが、これはその前身なのかもしれぬ。
製鉄……操業。今は操業していないという。ではこの里はどうやって維持されているのか。
「何か気になるのかい」
視線に気付いたトキに問われて碗を置く。腹は満ちていた。人心地がつくとはこういう事だろう。
「見事な碗だなと」
「碗? ああ、そりゃあ試作品だけどねぇ」
「この里で作っているのですか」
驚いた。思わずまた辺りを見回す。広い。殆ど担がれるようにしてこの館に連れられて来た。近付く前から目を瞠る大きな茅葺きの入母屋造の家屋だった。エボシ様の館だと囁かれて招き入れられる前に見渡した限り、集落ではこれが一番大きな家屋だろう。殆どが板葺きの粗末な家屋の中に、たった数軒が茅葺きの入母屋造で、それでも三階以上なのはエボシのものだというこの館だけだ。
「もしや、この館で?」
「此処でもやってるけど、別に工房の小屋もあるんだよ」
この囲炉裏の他に一階では各種の仕事場が設けられているのだとトキが言う。二階はいわゆる居住区で、三階は薬草を保管する他、養蚕も行っていると付け加えて、アシタカ様の提案をエボシ様が採ったのだ、と笑った。
「エボシ様は良いと思ったらなんでも即決なのさ。それで、漆器もね。アシタカ様が漆掻きを教えてくだすって。此処等の山にもウルシの木ならある。それをエボシ様が裏の山に移植して、女達にやらせてるんだよ。器の細工はおキヨが巧くてね。工房を任されてるんだ」
おキヨにあんな才能があるなんてねと女二人は顔を見合わせてアハハハと口を開けて笑った。おおらかに明るい。女達のこの明るさはなんだろう。何者にも支配されない伸びやかな明るさ。最前現れたエボシは荒ぶる海を抱えた人間に見えた。だが、こうまで慕われ信頼されているというのは、凪の海か湖面の静けさであり包容だ。強い、女なのだろう。それにしても、であるならば尚、アシタカという男は何者なのか。蝦夷より参ゐ到りし阿齎高日子命、甚麗はしき客人──。
「アシタカ様、というのは、北の出身なのか」
漆と言えば、岩手の方ではなかったか。奥州平泉の印象が強い。蝦夷、ではある。
「ああ、東と北の間から来なすったのだって。エボシ様が客人には慣れてるって言ったろう。最初の客人がアシタカ様だよ。今じゃこの里に居てくれなきゃ困るお方だけどね」
薬草に養蚕、漆まで、アシタカ様は何でも知っていなさるのさ、とトキは眉を聳やかせた。シマが横から「しかもお強い」と付け加える。
薬草は屋根裏で干すのだと言われて天井を見上げた。巨大な大黒柱と無数の柱で支えられて太い梁が武骨に剥き出しになっている。これだけの館を維持するには大変な労力が必要だろうが、里の人間が総出で維持しているのなら腑に落ちる。エボシは里で最も高い地位だと見て良い。そう言えば、神梛が鉄師だと言っていたか。あの時は高殿にしか目が行かなかったが、これ程の見事な館であれば、神梛の里でも現存しているかもしれない。
それにしても、漆器にせよ、養蚕にせよ、それではまるで、製鉄以外の事で生業を立てていくかのようだ。小さな山村なら、それだとて十二分に生きては行けよう。
「製鉄はしないのですか。エボシ様というのは、てっきり鉄山師なのかと」
トキが小さく笑った。
「シマから聞いたんだろ。ここの蹈鞴は一度駄目になっちまったからね。ま、アタシらの自慢だった大蹈鞴みたいな事は無理だけど、いずれまた蹈鞴には火が入る。ただ、山犬の姫が納得するには、もうちょっと時間が必要なんだろうさ、きっとね。エボシ様はアシタカ様を立ててそれを待っていなさるのさ」
「山犬の姫」
サン、と咄嗟に浮かんだ名は呑み込む。山犬の姫、サン。佐毘売と伝わったという、尾生いたるモロの娘。
「森の岩屋に山犬と暮らす、もののけ姫だよ」
トキはそこで言葉を切り、思案気に宙を睨んで手にした汁杓子で鍋の中身をかき回した。
「山犬は、本当にもののけなんだろうか」
呟きにシマが目を瞠った。トキは茫洋と視線を彷徨わせて「アシタカ様がさ、大事にしているお人だよ」と続ける。
「もののけ姫、ですか」
思わず口を挟んだ。トキの視線がふと戻り、ゆるりとした瞬きに飲み込まれる。
「もののけの姫さ。少なくとも、アタシらにとってはそうだったのさ。山犬も猩々も大猪共も、山に棲んでアタシらの稼業の妨げになる古の神々って奴はみんなもののけだよ」
もののけは、と思う。もののけは、もののけだ。神ではない。だが、トキは神々をもののけだと言う。山犬も、猩々も大猪も。それは人の手が入る前から連綿と命を繋いで来た山の獣達だ。獣は──もののけではあるまい、本来は。
カムナの白銀に輝くしなやかに巨きな姿が瞼に浮かぶ。神々の末裔。もはや、御一新後のこの国の山からは姿を隠してしまった、山を統べる眷属。彼は──カムナの雌雄は知らぬが、ともあれカムナは、神、だろう。それをもののけと呼ぶかと問われれば、己にとっては、否だ。
「物の怪というのは、人に害なす霊や妖怪の類の事だと……」
思っていたと言う前に、一陣の風に遮られた。
「待たせたね」
「エボシ様」
シマが立ち上がってエボシに肩を貸す。ごく自然にエボシはシマに支えられて腰を下ろした。一本何か支えがあるかの如き、天に向かって伸びた背筋の良さは、しかし硬さを感じさせない。羽織った上衣が磨き込まれて黒光りする板間に波間めいて広がった。白く抜かれた文様が飛沫になって散る。
「何の話をしているのかと思えばもののけだとは」
笑みを含んだエボシの視線は、特に感情の窺えない静けさだった。荒ぶる海を抱き込んで、穏やかな湖面を維持できるのだ、という印象がより強くなる。一つ頷いて、エボシに問うた。
「山に棲む者達は、もののけ、ですか」
「そなたはどう思う」
揺らぎも迷いもせずに言ったエボシは目を逸らさない。シマとトキも揃って微動だにしなかった。ゆらゆらと、鍋から昇る湯気だけが淡く空に消える。
「自分は」
言って少し考えた。エボシは己に何を問い返したのか。もののけ──蹈鞴の里にとっては害悪であったのだろう、山の神々──。怒りに震えただろう山犬と、その娘たる、尾生いたる人。山の──。
「自分は山に棲む古い神々と相対した事はないのです。ですから」
わからない。わからぬ事を答える事も出来ぬ。カムナとの僅かな時間で全てを語ることも当然に出来ぬ。ゆるく首を振るとエボシは片眉を跳ね上げた。
「では獣は?」
「獣」
鸚鵡返しに軽く顎を引いたエボシの、目を射る艶やかに紅い唇が開いて言葉が零れ落ちる。
「獣を見た事はあるのだろう。そなた、しかも山犬を知っていたそうだな。山犬は神か獣か」
挑まれている。言の葉が辺りに散っては積み重なる。鋭利な刃物が閃いては何かを一つずつ削ぎ落とす。エボシが振るうそれは自らが鍛えた鋼の刃だ。
「獣は……獣でしょう。獣はもののけではない。神は神であってもののけではない」
では、とエボシは言って目を細めた。きゅう、と唇が弧を描く。
「獣と古の神が同じ姿をしている事を何とする。そなたの知る山犬がどのようなものか知らぬが、天を衝かんばかりの巨体で、物言う獣であったなら、それは獣かもののけか神か。太古のままに巨体を誇り欲しいままに山を支配するのは」
私の腕を一呑みで食い千切った山犬のモロは、と殆ど歌うようにエボシは言って目を伏せた。
「ひとの言葉を操り、尾が二股の、大の男二人分はあろうかというそれは大きな山犬だった」
モロとはそれ程までに巨きかったのか。鋭い牙の並ぶ、赤い大きく開けられた口がエボシの腕を食い千切った。隻腕。山の神は怒り、鉄山師の腕を奪った──神罰。
「あれを神と呼んだ者が居たのはわからぬでもない。モロは自ら神だと名乗る程には愚かでもなければ奢り高ぶった獣でもなかった。何が神を神とする? 帝然り、侍然り、自らを恃んでそう信じ込む者は、ただそれを以て他者を支配したいだけだ。初めから高貴な者も、初めから神である者もない」
思わず息を呑んだ。エボシは何を言っている。よく似た事を友も口にした。現人神は、何を以て神であると定まったのか。駄目だ、そんな事を口にしては。それは──それは──身を亡ぼす。
「言葉持つ巨きな獣共に、人の身が敵わぬ間は、あれらは神であったろう。だが、人は力を手に出来る。出来るのだ。そうなれば」
神はその座を奪われる。
ふ、とエボシが笑んだ。何かを懐かしむ目をしてそっと己の腕のない肩を撫でた。山犬に食い千切られたと事も無げに告げた、その肩を摩りながらエボシは続ける。
「モロは神と呼ばれる存在ではあったろうさ。だが生きて年老いる事と言えば、特段我らと変わりはせぬ。言葉持つ、鼻持ちならん山犬だ。だが、その子供らがひとの言葉を操るのはついぞ見た事も聞いた事もない。大きさとて、母親にはまるで届かぬ。あれから数年が経ったが、今も同じだ」
目を瞠ったそれをどう取ったかは知らず、エボシは小さく笑った。
「元より太古のままの神の末端に連なった獣たちは、その神性を失いつつあったのだ。モロはその最後の代であったろうよ。ならばシシ神が死ねば、その流れは決定的になろう。そうなれば、もはや神性を失い言葉を失っていたもののけでしかないあやつらとて、ただの獣になってしまえた筈なのだ」
山は、とエボシは言う。山は宝だ。
「この国の小さな平地を取り合ったところでたかがしれている。侍どもが血を流し奪い合うは勝手だが、山を手にすることが叶うのなら」
──それを阻む全ては、邪魔なもののけでしかあるまい。
エボシの左手が右肩を強く握った。隻腕。モロが食い千切ったのだ、というその痛みはいかばかりであったろう。胎の底が冷える心持ちでその所作を見詰めていた。男二人分にもなろうかという白銀の獣に、それは食い千切られた。何が、あったのか。
「モロは」
神ではあったろうさ、とエボシが呟いた。
「最後の獣神、山の誇り高き古き神だ。だが、そこまでの事よ」
「山犬の姫、は──あなたにとってもののけなのか」
エボシの視線がつい、と向き直った。眇められたそれに値踏みされている。淡い光が揺蕩っている。
「そんな事を探りに来たか。そなた、何処から来て──何処へ行く」
真正面からエボシの爛と光る目を見返した。唇を舐める。動悸がしていた。返答如何によっては、この女はモロと同じく、一閃で己の首を獲りに来る。確信があった。口を開く。
「遠き場所から……行くべき処へ行きます」
「それで何をする」
一つ瞬いた。エボシの坐してなお揺らぎもせぬ伸びた背筋と隻腕を見る。では貴女は、と問う気持ちがそのまま声に乗った。
「──己の耳目で、すべてを確かめる」
エボシは黙して見返している。静寂。一拍の間を置いて、呵呵大笑した。天井を仰ぎ、大口を開けてひとしきり笑うと、エボシは晴れ晴れと明るい顔をした。
「案内しよう。好きなだけ、見るがいい」


