佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 空が澄んで高い。見回す山々は緑に染まっている。だが、明らかに最も近い山の緑だけが淡く、目を凝らせばその斜面に段々畑が広がっている。畑一枚は余り広いとは言えない。丁寧な仕事である事は伺えた。土坡どは──畔や土手には石が積まれ、その石垣の色が縞になって山を彩っている。
「禿山だったのさ」
 視線に気付いたらしい、エボシがそう言って真っ直ぐに左手を挙げた。指差された段々畑には、どうやら麦と野菜類が見えている。ごく狭い畑は薬草類だろうか。畔や石垣の隙間から野放図に伸びた野草類は伸びやかに揺れている。頂上に向かって種類の違う植物が見え隠れし、中途からは若木が風に揺れていた。ウルシの木を移植したというのは、あれかもしれない。頂上付近は若木ながら雑木林になって、ブナやミズナラの葉がそよいでいると察せられた。ささやかながら豊かさの片鱗が既に立ち昇る山だ。禿山であったとは、俄かには信じ難い。
「それも、シシ神、とやらの?」
 大蹈鞴を駄目にした程の何かがあった、というのであれば、山一つ無事であったとも思えぬ。問うとエボシの歩みが止まった。振り返ったエボシの表情は読み難い。なんとも奇妙な左右非対称の不可思議な顔に、何の感情も窺えない声が重なった。
「禿山にしたのはわたしだよ」
 こちらも思わず足が止まる。連れだって館を出た。畑があるのだと手を振ったシマとトキを、数人の男衆が迎えて去り、エボシは「ゴンザが戻ったら、外れに居ると伝えてくれ」とだけ言い残して此処までを来た。
 微かな風が吹く。天頂から僅かに降り始めた陽光は眩しいばかりで、エボシの白い顔は猶更読み難い。そうだ梅雨が明け、夏になったのだ、と不意に思う。ああだからこそ友を追った。夏の山は明るく、何処までも深い。山里が最も濃い緑に染まっている、その只中の、しかし目の前の山は確かに淡い。
 満ちた腹のせいか、じわりと汗が浮く。
「禿山にしたのさ。蹈鞴には木材が必要だ。全て伐った」
「伐った」
「一日でも、一刻でも早く此処を豊かにしたかった。一つも躊躇わずに山一つを潰した。木は炭に、岩石や土は砂鉄に──そうして山は死に、猪神と山犬は猛り狂って此処を襲撃するようになった」
 ザマァない、と深い笑みで言ってエボシは再び歩き出す。
「それでも、もののけを排除して同じ事を繰り返すつもりでいた。シシ神の首なぞ帝にでも公方くぼうにでも呉れてやれば、それで此処は誰にも邪魔されぬ村になる。豊かな、村になるとね」
「シシ神の──首を」
 狙ったのか。それは──神殺しだ。神は何を以て神と成るのか。エボシは試したのか。試して──腕を失った。
「シシ神なんてものは、山のもののけ共が森の守り神と信じただけの気味の悪いシシだ、黄金色のな。夜になるとデイダラボッチに姿を変える。月の満ち欠けで生死を繰り返し、病を癒すとか──馬鹿馬鹿しいと思っていたのさ、この世に神も仏もあるものか。あったとて、誰を救うわけでもない。救われる者があるのは成程重畳ちょうじょうだが……」
 少なくとも、それはわたしではない。
 風が吹く。汗で濡れた額が冷えた。デイダラボッチとは、ダイダラボッチの事か。山や湖沼を作ったという伝承上の巨人だ。それに姿を変える、とは尋常な様子ではあるまい。黄金色のシシ、それが夜になると巨人に変じる。もののけだろう、それは。そうでないならば、紛う方なき神、ではないのか。エボシがはためく上衣を手で押さえる。腕一本、失った女の述懐は、何処か他人事のようにも、あるいはいっそ、余りの切実さに渇いても聞こえて、巧く像を結ばない。
「わたしはわたしの手で救えるものだけを信じる。誰の助けもいらぬのだ。そう思っていた」
 そこから零れるものはどうするのだ、と疑問が顔に出たのだろう。エボシが横目で視線を寄越し、その目を細めた。
「生き残る者は生き残る。ただそれだけだ。それが世のことわりというものだろうさ。それは、今も変わらぬ」
「……何が、変わりましたか」
 変わらぬというのなら、変わった何かがあるのだろう。現に、禿山は既に禿山ではない。蹈鞴は──操業していない。
 エボシが再び立ち止まる。向き直って小さく首を傾けた。日差しは強くなっている。遠い山で獣の声がした。
「エボシ様ァー!」
 太い男の声が届いた。エボシと二人、振り返った先に禿頭の大男の姿がある。墨染めの小袖に括袴くくりばかま、背に大太刀を負った姿は僧兵めいているが、白の五條袈裟ごじょうげさ裹頭かしらづつみにする馴染みの姿ではなく、正体が知れない。
「ゴンザ」
 エボシが短く呼んだ。ゴンザが大股にやって来るのを、そのまま待っていた。見下ろされる。
「何者ですか」
 問いはエボシに向けられているが、見下ろされているのは己だ。大きい。蓄えた髭と強面からは、ならず者の印象も受けるが、挙措には粗暴さを感じない。
「行き倒れだ」
 エボシの返事は素っ気ない。間違ってはいないが、それで納得するような説明でもあるまい。かと言って自分でも状況がわかりかねるものを説明する言葉の持ち合わせもない。案の定、ゴンザは頓狂に顔を歪めた。
「またエボシ様はそうやって誰彼拾いなさる」
「わたしが拾ったわけではない」
「また甲六ですか、おトキですか」
「おシマだよ」
 含み笑いのエボシから、ゴンザがまた視線を戻す。
「うぬは、何だその珍妙な格好は。何処から来た」
 返答に詰まった。国民服は──成程奇異ではあろう。だが、この国の物には違いない。違いないがしかし、元を辿れば西洋の物で、さてこの時代には──どうやら小袖が一般的である以上、御一新以前であるのは間違いない──ない、のだろう、恐らくは西洋にさえも未だ。
「遠き……処から来たのです」
 ようやくそう言った。ゴンザは値踏む目を解かない。無意識らしい唸り声を漏らして目を細めた。矯めつ眇めつ、言う。
ミン国でもこのような格好は見ぬ。南蛮の人間も斯様な格好はせぬ」
つ国に……出ておられたのですか」
 驚いた。思わず素朴に問い返すと、ゴンザは目を丸くし、エボシを見てから眉を跳ね上げた。
「だったらどうだと言うのだ。エボシ様にお供をすると決めて以降、お側を離れたことなどない」
「エボシ様に」
 二度驚かされる。では、エボシも外へ出ていたのだ。あるいは、エボシの大胆に過ぎる思い切りの良さは、その経験が作用しているのか。女性だ。それがゴンザを供に国を出ていた、というのは。護衛、なのか。ならば何故、今のエボシは鉄山師として里の長を務めている? この里は、新しい、だろう、間違いなく。裕福な貴族の出でもあればこそ、国から出ていた、とは。否、裕福な貴族であれば猶更、女を外には出すまい。待て、明国、と言ったか。明? 十五、六世紀に大陸の覇者であった、大明帝国の事か、それは。
「大陸に比べるなら、この国は恐ろしく小さいだろう」
 エボシが周囲を見回す。山に囲まれた谷間の集落。この小さな里一つは、あるいはエボシにとっては余りに小さく、これしき守れずにおかぬ程度の規模なのか。エボシは何者だ。明の時代であるというなら、猶更にこの国で女が国外に出るのは危うい。エボシの素性はわからぬ。わからぬが、数奇な人生を辿ったのには、違いなかった。それはどれ程の苦難であったろう。
「船に乗っていたのさ」
 エボシが言って歩き出した。川のせせらぎが聞こえ始めている。蹈鞴がある以上、川は生命線だ。ない筈もない。
「ひとわたり何もかもを見た。見て、またあの山が見たくなっておかに戻ったのだ」
 何を、見たのか。何もかも、なのか。地獄も、極楽も──この世に神も仏もあるものかと言い切る程の。エボシの視線の先には山々が連なっている。此処が正しく己の想像通りに中国山地の奥地であるとするなら、見える連峰は廣島と島根の国境、比婆山の一角を占める山々である筈だ。そこまで思い至って目を見開いた。思わず声が零れ落ちる。
「烏帽子山」
 エボシの紅の唇がきゅう、と弧を描いた。聞き漏らしたらしいゴンザが眉を寄せるのを余所に「故郷、なのですか」と問う。エボシは答えない。歩みも止めなかった。急峻な川岸の崖まで辿り着くと、川面を見下ろし一言「神は、何も救わぬ」とそう言った。
「その禿山一つを潰して、この川を堰き止め湖と為して鉄を打ったのだ」
 エボシの視線を辿る。今は穏やかに若い里山と、陽光に煌めく川面と。川は、豊かに流れ下っている。左右に、田が見える。山間とは思えぬ、美しい棚田だった。
「鉄を売り、わたしの抱える集落の誰も飢えぬ、何者にも縛られぬ、そういう場所を作った。作ったと思っていたのさ。だが、救わぬ神は、破壊だけは寄越したのだ。あれを神と呼ぶのならな」
 シシ神。天之菩卑能命の末裔、祇獣神に仕え奉らんと欺陽きて大殿を作りて──あれは、誤って伝わったのか。エボシは祇獣神に仕え奉らんと欺陽きては居まい。そも、天之菩卑能命の末裔でもあるまい。それは、出雲の大社に仕える出雲国造ないし土師氏らの祖神、そうでなければ、安芸の毛利氏の祖神ではないか。
畢竟ひっきょう、わたしは仕損じた」
 サバサバとエボシが言う。ゴンザが声を荒げて「それは!」と遮った。
「シシ神殺しを持ち掛けた連中の裏切りだ。そのような大事に付け込んで吾等のおらぬたたら場が侍共に奇襲されたせいで、断じてエボシ様の!」
「そこだよ、ゴンザ」
 ふ、とエボシは笑みを零す。言葉を呑み込んだらしいゴンザを見上げ、そのまままた川面に視線を戻した。
「そこまで読み切らなかったのはわたしの甘さだ。そうまでして、シシ神の首を獲って何が得られると思っていたのか、今となってはよくわからぬ」
 間違えたのだろうよ、と呟いた声にせせらぎだけが何かを答える。ゴンザは黙り込んだ。此処で何があったのか、少なくとも──エボシが得たものは、勝利ではない。エボシは帝ないし公方と何らかの密約を交わし、シシ神の首を得んとした、だが、その留守を狙って大蹈鞴が狙われた──そういう、事なのだろう。
「湖、だったのですか」
 川面を見渡す。上流にしては川幅のある、悠然たる流れだった。エボシが腕を挙げる。
「あの辺りまで、堰き止めて水に浸かっていたのさ。シシ神の首を落とした後、何があったか然とは知らぬ。わたしはモロに腕を食い千切られ、あろう事かモロの子の背に乗せられて助けられたからね。戻ってみれば、見渡す限り何もかも、山も森も大蹈鞴も、一切が死に絶え、生き返った後だった」
「生き、返った?」
「焼け落ちた痕の一切が、芽吹いた緑に覆われていた。禿山にも、大蹈鞴にも、崩れ落ちたデイダラボッチの体液に呑まれて消えた森にもだ。流石のわたしも認めざるを得ない。シシ神が、何かを為したのだと」
 わたしは間違った、と繰り返して、エボシは腕を下ろした。
「ひとは、ひとのみで生きるのではない。山を宝と見るのなら──宝を守らねばならなかったのだろう。豊かな国を求めて、だがわたしの心根が貧しかった。思い知らされて身勝手に堰き止めていた水を流したのだ。元より、製鉄を続ければ山と川は死ぬ。そうしてまた別の山を殺して、行きつく先に何が残ろうが、知った事ではないと考えるのは、愚かだったという事だ。それでは結局──わたしの救った者たちの先行きをも殺してしまう。鉄穴流しで大量に流した土砂で、田を作り、禿山に畑を作った。アシタカに教えられて、そうしたのだ」
 ゴンザが複雑な顔をして額を拭った。豊かな、国。それは限りなく危険な響きには違いなかった。大東亜戦争は、何を目指したか。今が、室町期であるとするなら、戦国の世は同じく豊かな国を求めた結果だろう。その先に何があったか、己は既に知っている。だが、そうだ、だがしかし、大東亜戦争は続き、国は疲弊し、友は──嘆き、絶望した。
 ふと、問うてみる。
「シシ神の首を所望された、その件はどう始末なさったのです」
「ああ、それだ」
 ゴンザが急に大声を上げた。ごそごそと懐から書状を出し、エボシに差し出す。
「唐傘が寄越したのです」
「ジコ坊か」
 エボシが感情の窺えない顔で書状を手にした。無造作に一振り、ばさりと広がった紙に目を眇める。ゴンザが身を乗り出し、しかし背後から響いた蹄の音に振り返った。
「なんだぁ? アシタカのシシじゃないか」
 見事な角がまず目に入った。見た事もない生き物だ。圧倒されて思わず後退る。あべこべに一歩を前に出たエボシが、手にした書状を軽く振った。
「どうした、ヤックル。アシタカは一緒ではないのか」
 ブル、と獣が身を震わせた。馬程の大きさの、これは鹿なのか、牛なのか。黒目がちの大きな美しい黒曜石の瞳が真っ直ぐにエボシを見詰めている。赤牛に似た毛色の、しかし被毛は長く風に遊んでいる。胸元と額、口元の淡い毛色は流星鼻梁の馬を思わせた。タ、と前に出た足元を見て、ようやく偶蹄類であると気付く。やはり見た事のない生き物だ。よく見れば手綱が着いている。馬にするように、自然と手が出た。手綱を握ると、穏やかに大きな瞳が伏せられ、首元を差し出された。
「紙?」
 咽革のどがわに紙切れが挟まっている。目線で問うたエボシが頷くのを確認して引き抜いた。無造作な丸のみの書付けに首を捻る。覗き込んだゴンザが「アシタカめ! やりおった」と叫んだ。エボシが声を上げて笑う。
「遣いをしてくれたのだな、ヤックル。ゴンザ、水を汲んで、若いアオキを切って来てやりな」
 ゴンザが駆け出していくのを見送った。どうやらこの獣は、アオキを食すのだろう。
「ヤックル、という名なのですか」
「アシタカの友なのだ」
 可笑しそうにエボシが言う。
「アシタカを乗せて馬より早く駈け、矢も火も恐れぬ。大したアカシシだ」
 すまないなヤックル、面倒を掛けた。礼を言うよ、とエボシが首筋を叩くと、ヤックルは目を細め、大きな耳を蠢かせた。そのまま頭を下げる。手綱を握っているせいで、勢い目の前に来た鼻面に手を置くと、そのままヤックルは手のひらに鼻面を擦り付けた。
「懐かれたようだな」
 エボシが言うのに困惑する。何がどうしたら、懐かれるのか皆目見当がつかない。此処にカムナが居れば、通訳を頼めただろうか。思ってからまさか、とヤックルの顔をまじまじと見た。カムナに何か聞かされているのか。
「遣いで来た、のは」
 カムナの遣いでもあるのか。思わず呟くと、背後からエボシが「銀山の件をアシタカに頼んでいるのだ」と言った。
「銀山?」
 呆気にとられる。エボシがまだ広げた書状を下げているのを見て、手綱を渡し、代わりに書状を受け取った。墨跡鮮やかな書付はそれなりに長い。畳もうとすると「そなた、それが読めるか」とエボシに止められた。目を落とす。楷書とも草書とも付かぬ書だ。読めぬ事はなさそうだった。これには石見の文字が見える。
「最前、シシ神の首の始末をどうつけたと問うたな」
 エボシが愉快そうに笑う。
「石見の銀を餌に、大芝居を打っているのさ」
 ヤックルが、ぶるりと大きく身を振った。

 

 

 

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