佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 カラカラと音がする。
 カラカラカラ──カラ……カラカラカラ──
 それは木札が風に煽られて立てる音に良く似ていた。あるいは──あるいはそうだ、寺社の絵馬が立てる音だ。願いに似た、祈りに似た、息吹に似た、音の連なりだ。
 カラ……カラカラカラ──
 音は段々と強く高く、重なり合って幾重にもこだまし始めた。カラカラカラカラコロコロコロコロ。全てが音に包まれて浮遊している。
──そう、あれは木魂コダマだ。
 言われて成る程と得心する。木魂。何故か脳裏に文字として浮かんだそれに頷いた。成る程そうか、これは木魂であったのだ。木々に宿る命それそのものが、光と風を謳歌して奏でる音。カラカラカラ、コロコロコロ、カラカラカラ──
──それほど木魂が珍しいか。お前の所には木魂がおらぬのだな。
 木魂が居る、とはなんだ。居る? 生き物なのか。
──さて、木の魂と言うくらいだ、生き物と呼ぶかは知らず、しかし存在はしておろうよ。
 成る程それはそうだろう。またしても思ってから気が付いた。おれは何者と会話しているのだ、今。声──声なのかこれは。玲瓏と脳裡に響く低い音、流れるようなそれ──。カラカラカラ、コロコロコロ。笑いさざめく気配で木魂が鳴っている。鳴っているのか啼いているのか、嗚呼、そもそも此処は何処だ?
──アマノサギリの道だ。
 アマノサギリ? 天狭霧神の事か。山と野の神によって形作られた山の霧の──
──お前達の地ではそう呼ばれるのか。アマノサギリは境界を司る。神梛の望みだ。お前を彼の地へ連れゆくのは。
 カムナ? そうだカムナだ。おれはカムナと話をしていたのだ。カムナと高殿の前で話をして、それから?
 風が立った。柔らかくぬるいそれが頬を撫でた。次いで鼻孔をくすぐったのは僅かな土の匂いと湿った獣の体臭だったが、それらは直ぐに霧散し、だが濃厚な気配だけが残った。指先がぴくりと跳ねる。跳ねた指先が硬いものを叩いた。硬い……硬くて冷たい……ざらりとした、これは何だ、石か。爪先がざり、と引っ掛かる。
 カラカラカラ、コロコロコロコロ。
 また笑われている。笑いさざめく気配はしかし遠くなっていく。重なり合ったそれらの合奏が間遠になり小さく掠れた。余韻に重なって、微かな澄んだ音が跳ねた。ぴちゃん。
──目が覚めたのなら、起き上がってはどうだ。
 目が覚める? おれは眠っていたのか。そんな筈はない、と思う端から思考がぼやけた。己はカムナと話をしていた、その後で眠りに落ちたのか。では倉に戻ったのか。いつ。
 濡れた何かが頬に触れた。弾力のある何かしらの物体が押し付けられている。二度、三度。無意識に手が動いたらしい。押し退けるとも確かめるともつかない曖昧な動きの指先に触れたのは上等な毛皮に似た滑らかな感触で、驚きに咄嗟に手を引いた。指に細い何かが纏わりつく。悲鳴を上げかけたその刹那、両目を見開いた。
──ようやく起きたようだな。
 大きく嘆息する息が頬に掛かる。至近距離。跳ね起きた。暗闇だ。暗闇に、凛と光る碧い目。
「カムナ! 何処だ」
 思わず叫んだのは何故であったか。少女のいらえはない。代わりに碧い目が細くなり、月光を思わせる青白い毛並みがのそりと動いた。闇に目が慣れる。左手の方が微かに明るい。眼前に、巨大な白銀の獣──大神。
「おお、かみ──!」
 残響が其処彼処を跳ね回った。洞穴、あるいは坑道。無意識に膝を衝いた。目の前の獣はじっと動かない。友に連れられて何度か乗った馬より大きいか、否か。息が詰まった。ひくりと喉が鳴る。大神──山を支配する、山の王。
──そう喚くな。
 泰然と告げた声はやはり玲瓏として低い。目の前の獣が発している事に疑いはなく、だがそれは決して獣の唸り声ではなく、しかし獣の喉から発せられる音とも思われなかった。それでも間違いない、これはこの獣の声だ。
──吾が名はカムナ。お前に危害は加えぬ。
 瞬いた。カムナ? カムナと言ったか、今。
「カムナは里の」
 掠れた声が出た。どこかで水滴が滴っている。ぴちゃん。獣は更に目を眇め、頭を低くした。目の前に鼻梁があり、僅かに獣の匂いがする。
──神梛は人の子。吾が半身。吾はあの子を守護する者、山犬のカムナ。
 山犬。神梛の声が脳裏に浮かぶ。山犬はご眷属なの。佐毘売様の山だから。
「佐毘売の眷属……」
 カムナが大きな耳を蠢かせた。細められた目が何かを思案するように右を向き、左を向き、戻った。
──サンはモロの娘。人の子らには、佐毘売と伝わった。
「モロ……みもろやま」
 繋がった。ではみもろやまは矢張り御諸山ではないのだ。思った瞬間に、『御與山』の字が浮かぶ。
──故、気満ちて祇獣神の杜となりませる出雲の山々に眷属たる山犬神坐しき。
 然れども天之菩卑能命の末裔、祇獣神に仕え奉らんと欺陽きて大殿を作りて、石火矢打ちて軍を興し、故尒して、霊猪忿りて、天之菩卑能命の末裔らを殺さむとす。
 眷属たる山犬神、是に加勢せんと攻め入り、其の牙爪を以て散らしき。 故、其の地を山犬神の名を取りて御與山と謂う。此の時に祇獣神、身を隠しき。
 まるで詠唱、あるいは祝詞。天之菩卑能命アメノホヒノミコトの末裔ならば、毛利氏か。安芸の殿様、確かに神梛もそう言った。神梛の声が再び過る。
「山犬神の女、尾生いたる人、即ち佐毘売命……」
──然り。
 カムナが辺りを見回した。つられて周囲を見回す。石室だった。そろりと立ち上がる。足元に枯れ葉が散っている。天井が高い。里で寝かされていた倉と大差ない空間だった。滑らかに磨き上げられた巨石が石室を形作っている。
「横穴式石室の古墳に似ている……」
 九州北部、そして山陰に広く見られるそれを思えば、やはり此処は山陰か。これが横穴式石室であるとするなら、左手の明るい方が羨門せんもん、この場所が玄室げんしつ、即ち棺を収めるべき場所という事になるだろう。だが、見回してもそれらしき様子は見えない。あるいは、巨石信仰による岩屋なのか。尾道には、岩屋巨石と呼ばれる場所がある。友と二人、興味本位で見物に行った。古代、如何にしてあれほどの巨石を動かし造作したのかは見当もつかぬ。それより更に精緻な石室だった。
「人が……作ったのか、此処を」
──さて。
 カムナがのそりと身を起こした。やはり大きい。思い付きが口を衝いた。
「おれが野犬の群れに追われてくたばりかけた時に、姿を見せたのはお前だったのか?」
 白い巨きな獣、あれはカムナだったのかもしれない。
 カムナが一瞥をくれ、そのまま明るい方へ向かって歩き出した。国民服に付いた汚れを叩き落として後に続く。手にしていた筈の懐中電灯は見当たらず、しかし国民服も乗馬靴も異常はない。
 横穴式石室であれば前室と呼ばれるだろう小さな空間を抜け、羨道せんどうを抜けた。羨門の、四角く開いた穴の向こうに夜空が広がっている。月明かり──。
 崖の中腹に突き出た平たい岩の上のようだった。これも人の手によるものだろう。見事に平らかに削られ広がる露台は先程の玄室と同じかそれよりも広いかもしれない。見渡す眼下の全てに濃い樹木の海が広がっている。明かりは見えない。目を凝らしても、人家らしき気配さえ感じられなかった。いわんや、石州瓦の赤屋根など見えよう筈もない。
 静寂。
 あまりに深い森の静寂に気圧される。神梛が多々羅の里だと言った、あの場所から此処はどれだけ離れているのか。
 振り返った。やはり岩屋は横穴式石室によく似ている。だが、規模が大きい。岩屋巨石と同じく、しかし更に精緻な、これはまるで神殿だ。
──モロは、良くこの岩の上から下界を見下ろして居た。
 カムナが露台に姿を現し、振り返って大きく見上げたのは岩屋の上だった。削られた巨石が載せられたその場所は、確かに辺りを睥睨へいげいするには似合いだろう。月光に輝く白銀の獣。その姿が巨石の上に寝そべる姿は、見事であったのに違いなかった。
「モロは……まだ生きているのか。それとも、お前はモロの時代から生き永らえているのか」
 山犬──山を統べる神。カムナがじっと見下ろしてくる。森の緑に似た、碧い瞳が神梛と同じである事に気付いた。半身。カムナと名乗るこの大神は、全体何者であるのか。
──吾等モロの一族は、過去に在り、現在に在り、全ての時に常に在る。モロは既に隠れ、モロの子等は熊野の眷属と和合してその命を繋いだ。吾はモロの一族であり、マカミの一族にも属する。
「マカミ……大口真神オオクチノマガミ?」
 熊野の眷属、と言ったか。ならばマカミは真神、秩父の山中で迷える日本武尊ヤマトタケルノミコト軍を案内したという白き狼、大口真神ではないのか。秩父は熊野を模した霊場だ。狼は──山々を越えて分布する。
──お前は物知りだ。
 ふ、とカムナが哂う気配に顔に朱が昇った。だが、否定せぬところを見ると、やはりカムナの祖は大口真神なのか。
──山犬と共にあった者共を、海を渡って来た人間達が追ったのだ。山犬は何れに与したわけでもない、ただ見守るのみだ。だが、明朗で美しき一人の若者があり、マカミはそれを助けた。結果として、山は蹂躙され、山犬と共にあった者……熊襲クマソも、出雲も絶えた。シシ神の森に残った山犬は、己の振舞いを悔いたマカミと約定を交わしたのだ。山を守り、戦い続ける為に、出雲の山犬に、熊野の山犬を世代毎に同数、半身として帯同すると。
 日本武尊は、その父である景行天皇の命で西征し東征した。出雲建イズモタケルに至っては騙し討ちで平定している。天之菩卑能命の末裔、祇獣神に仕え奉らんと欺陽きたのと、事情はよく似ている。であれば、成程猶更に、山犬は人間を許さないだろう。神罰は下されるべくして下されたのだ。
 カムナの瞳が伏せられる。
──モロの子の数だけ、熊野は眷属を送った。だがサンは山犬であって山犬ではない。故にサンの半身たる吾が血族だけが、以降サンの系譜の半身となるのだ。
「そうして今、神梛の」
──然り。
 里で子が生まれると石室を詣でるのだと神梛が言った、では此処がその石室なのだ、と唐突に合点した。それは紛う方ない神殿ではないか。巨石と、山の王たる山犬の為の、これは古い古い聖櫃せいひつだ。
 モロは此処を住処としたのか。
 山犬と共にあったという出雲族の、素朴で純粋な祈りを聞き届けた山犬の、嗚呼なればこそ、次に現れた人間の振る舞いは、どれ程この古い神を絶望させ怒りを買った事か。だがそれでも尚、そうだそれでも尚、モロはこの石室に留まった──。
 森を見下ろした。多々羅の里で見渡した濃い山々より、更に一層濃い山々が月明かりの中で昏い海となって揺蕩っている。暫く、それを見ていた。
「佐毘売は……サンは、この森を守る神なのか」
 それはどんな神だろう。尾生いたる人、佐毘売。山犬であって山犬でない山犬神モロの娘とは。神梛は何と言っていたろう。そうだ──佐毘売様はそれを怒って、許さないと怒って──山の破壊にそれ程までに怒ったという、正しくモロの娘たる森の守護者。
──乗れ。
 カムナが身を低くした。意味を取りかねて眉根が寄る。獣は身を揺すり、更に首を下げた。
──乗るが良い。たたら場に案内しよう。

 

 

 

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