七
ゴンザは、男を一人伴って戻った。ゴンザの手に手水桶、男の両手にはアオキを盛った飼葉桶がある。ヤックルは耳を蠢かせ、ちらりとエボシを見、笑みを浮かべたエボシが頷くのを見て男二人が抱え下した二つの桶に順に口をつけた。
「甲六、遣いを頼みたい」
エボシが言うと、ゴンザに伴われてやって来た男は「へい」と畏まって腰を折った。小袖に軽衫、脚絆と足元には革足袋を履いている。首に掛けた手拭いで額を拭った人の良さそうな男はちらりと視線を寄越してにかりと笑った。思わず小さく頭を下げる。
「アシタカの旦那の所ですか」
問うた男にエボシが頷く。
「ヤックルが道案内をしてくれよう。甲六ならヤックルも心安いであろうからな」
「あったり前じゃねぇですか。旦那のお留守の時分にゃぁヤックルさんのお世話を任されてんのは俺ですぜ」
へへっと得意気に笑う。甲六という男にとっては、どうやらヤックルは大切な獣らしい。エボシがヤックルの首筋を撫で、「ヤックル、甲六をアシタカの元まで案内しておくれ」と言って甲六に向き直った。
「アシタカが山犬の姫を説得したらしいのさ。周防の守護様が尼子を下したようでね、銀の件、今なら巧く行きそうだ。早速安芸の殿様に話をつけて、少しばかり踊っていただく算段をするから、戻って来て次の謀をと」
「へい、アシタカの旦那にお伝えすれば良いんですね」
「頼む。アシタカも直ぐには戻れまいが……その時は石見に出て貰うのでも良い」
これは何の話だ。呆気にとられて聞いていた。周防の守護と言えば大内氏ではないのか。尼子との争いは長く続いた筈だ。その只中に、どうやらエボシは何事かを画策している。
「で、お客人ってのがこちらの旦那ですか」
いきなり矛先が向いた。甲六の視線が頭のてっぺんから爪先までを二往復する。
「成程、こりゃぁ旦那、おトキから聞いたとおり随分と珍しい格好だ」
「え、甲六、さんはおトキさんの?」
「おトキとは夫婦で」
照れ臭そうに言って、甲六は小さく頭を下げた。
「俺ぁ牛飼いなんでさぁ」
「牛飼い……」
牛による荷役を担っている、という事か。確かにそれならば、ヤックルの世話をしているというのも頷ける。
「牛と共に、この美しい獣の世話もなさっているのですね」
「見事なアカシシでしょう。アシタカの旦那のいう事をよく聞く賢いシシですよ。俺ぁこのヤックルさんとアシタカの旦那には大恩があるんで」
甲六は目を細めてヤックルの背を撫でた。鞍や鐙はなく、障泥だけが掛かっている。アカシシ、という生き物については寡聞にして知らないが、確かに見事な生き物だ。
「ヤックルさんと旦那が居なきゃ、俺ぁ谷底でくたばってたに違ぇねえし、シシ神殺しの晩だって、旦那のお陰でみんな死なずに済んだんでさ。返し切れねぇ大恩だ。お世話くらいじゃ足りねぇや」
シシ神殺しの晩。また、それか。やはりその一夜が、この里の命運を決したのだ。
「そなた」
エボシに呼ばれて振り返った。エボシは人を食った笑みで「甲六と共に行くか」と言い放った。ゴンザが目を剥く。
「エボシ様! こんな得体の知れん若造を」
「得体は知れないが、間者や何処ぞの手先でないことは確かだろうよ」
「何だってそんな事が分かるんです」
「わたしの話をただ聞いていた」
言ってエボシは不意に破顔一笑した。今度は酷く屈託のない笑みだった。
「何一つ、突っ込んで訊きやしない。何某か調べるには余りにも迂遠が過ぎる。わたしの生まれ育ちも、船のことも、芝居ってぇ言葉にさえも反応しなかったからね」
試されていたのか、と思い、思ってから苦笑が漏れた。自然な成り行きで身上を語ってくれたのだと思っていた。行きずりの己にだからこそ、語れるのだろうとも。多分にそれは誤っては居まいが、語りそのもので推し測られていたとは。否、エボシはずっと試していたではないか。そういう、女なのだろう。そしてだからこそ、この里を率いる事が出来ている。
「俺ぁ構いませんよ」
甲六が大きく頷いた。
「この旦那の格好なら山ぁ歩くのは平気そうだ。昔のシシ神の森じゃぁ躊躇う気がしねぇでもないが、今はまだすっかり元に戻ってやしねぇですから」
猪共はもっと奥へ篭もってあの辺りには来やしねぇし、アシタカの旦那のお陰で山犬に襲われる心配もねぇ。笑みを浮かべて並べ立てる甲六の言葉に押されて一歩を前に出た。己の耳目で確かめる。そうだ、今はもう、何を確かめたいのか、わかっている。
「頼めるのなら、是非お願いします」
シシ神殺しの晩の事を、甲六に訊く事も出来るかもしれない。果たして、何があったのか。神殺しは、如何になされたのか。
ヤックルが顔を上げる。静かな黒曜石の瞳が、じっと見ている。
高殿へ行くというエボシと別れ、アオキで腹が満ちたらしいヤックルを先頭に歩き出した。ゴンザが里の入り口までだと言い、並んでヤックルと甲六の後ろを歩いている。
「エボシ様は、周防の守護様やお武家様に縁ある方なのですか」
訊くとゴンザは口をへの字にし、暫くそのまま黙り込んでから、不意に「とある荘があったと思え」と切り出した。
「その昔、大昔の話だ。無数にある、物語の一つよ」
厳つい禿頭の、髭の大男は、その姿に似合わぬ深い息を漏らした。真っ直ぐに前を見たままで言葉を紡ぎ、世の果てから吹く風がそれを拾う。
「領家と地頭が争った。良くある、良く聞く話だ。領家は陥れられて没落し、逃がそうと秘かに送り出された子息も子女も、追われて……子息は行方が知れなくなった。姫を慕った家人が必死で後を追い、探し求めたが賊に襲われたか、騙されたか、姿は杳として知れぬ。家人が探し出すより以前に、姫様は泉州堺の遊里で海を眺め、眺め眺めて郷里の山を思い、逃げ出して──何せうぞ くすんで一期は夢よ ただ狂へ──唄って海に消えた、とよ」
ふ、と風がやみ、ゴンザの唇も、止まった。背後の淡い山の頂から、高く澄んだ鳶の声が響く。ピー、ヒョロロ──振り返った山の上、何処までも続く蒼の中に黒く鳥影が旋回している。ピーヒョロロロロロ。
「──姫様は、どうなったのです」
ようやく押し出すようにして訊いた。ゴンザは首を振る。
「さぁな。西海浄土に渡ったとも、倭寇に拾われ、その頭領の妻になったとも、大陸に渡り、自らが倭寇となり財を成し、故郷の山に戻って荘を取り返したとも、そうではなく、別の地で静かに暮らしているとも、伝わる話は幾らでもある」
「家人は」
家人はどうなったのだ。だが、ゴンザはもうへの字に結んだ唇を開かなかった。見覚えのある板葺きの小屋を過ぎ、緩やかに下る坂に差し掛かって前を行く甲六が振り返った。手を上げる。
「ゴンザ様、行ってきまさぁ」
うむ、とゴンザは重々しく頷いた。軽く片手を上げ、右手の小路へと一人道を折れた。大きな後姿だ。背で、大刀が揺れている。家人は──どこかで追い着いたのだろう、姫に。そうしてただ、守り、護って付き従っている。何せうぞ くすんで一期は夢よ ただ狂へ──。
「ゴンザ様は、この里を囲む石積みの具合を確認に行かれたんでさぁ」
甲六が手拭いで額を拭った。
「この先は川に面して、定期的に石が水に削られる。抛っておいちゃ、秋の大風の時に全部崩れっちまう。牛飼い総出で積んじゃ崩され、それでも」
里の為なら苦でもない、と笑う。ヤックルが先を促すように首を振り、里を出る。カムナが運んで来て抛り出したのだろう大木の前を通り、ちらりと見上げた。木魂の姿はない。カムナは何処に行ったのか。考えても答えが出るわけもないが、そもそも此処へ連れて来たのはカムナだ。さて、そういえばそのカムナは、神梛が望んだからだとそう言った。神梛の望みとは、なんだ。もう烏帽子様は継げないと寂し気に沈んだ声が耳の奥で繰り返される。烏帽子様は──エボシだろう。この里で、エボシの名は──彼女の見上げ続けた山の名は、何かの銘となった。里長、あるいは蹈鞴の、だろうか。
道は踏み固められただけの素朴さで、時折獣道めいて分岐している。山間らしい種々の草が我が世とばかりに隆盛を誇って、更に時折、轍の跡が見え隠れした。木々は道に沿って切られているのだろう。両脇の若い木は真っ直ぐに天を目掛けて伸びており、日差しを適度に遮っている。だが、どうやら人の行き来は余りありそうもない。決まった日にしか、あの里からは麓へは下りないのかもしれなかった。市庭の間隔は、十日だろうか、廿日だろうか。
「旦那、ヤックルさんがこの道を行くなら、この先で川を渡りますから」
「橋があるんですか」
山奥だ。気を取られて見上げていた空から視線を戻すと、甲六が笑った。
「石橋でさぁ。以前は舟を渡してたんですが、堰を切っちまったんで、歩いて渡れる幅になりやしてね。堰の址に残した岩が石橋になってんでさ」
「いわはし……明日香川ですね」
なんですかそりゃ、と甲六が目を丸くした。思わず笑いが漏れる。
「万葉集です。明日香川 明日も渡らむ 石橋の遠き心は思ほえぬかも」
「あすかってぇと、大和ですか。どういう意味です?」
「明日香川の名のように、明日も渡ろう。石橋のように間遠な心は考えられぬ。とまあ、明日も逢いに行く、そういう歌です。石橋は飛び石でしょう。そんな風に心が離れるなんて考えられないんだと。慕わしいのでしょうね」
ははぁ、と甲六は頷き、ヤックルの顔を覗き込んだ。
「ヤックルさん、そりゃぁアシタカの旦那だなぁ」
ヤックルが首を傾げている。甲六は嬉し気に「石橋の遠き心は思ほえぬかも」と繰り返し、「みやびだなぁ。旦那はエボシ様やゴンザ様みてぇに学がありなさる」と感嘆した。歩く足元は次第に石交じりになっている。川が近いのだろう。やや湿地めいてきた。遠目にも行く先に葦が揺れているのが見える。
「エボシ様は、周防の守護様に戴いたってぇ草子を持っていなさるんですよ。おトキが今、読み方習ってまさぁ。なんでも周防の守護様に謝礼で貰ったんだとか。鎮西の湊っから瀬戸内に戻る時に、遣いをしたらしい」
エボシが船に乗っていたというのは、本当の事なのだろう。倭寇、とゴンザも言った。元はそれなりに高い身分であったのかもしれないエボシの駆け抜けた数奇な人生で、成程神は──何もしなかった。すべてを見たエボシの、では此処は彼女が自ら作り上げた桃源郷になる筈だったのかもしれない。
「旦那、ヤックルさんに乗せて貰いますか」
川べりに辿り着くと甲六が気遣わし気に思案顔になった。ヤックルが耳をひらめかせる。川幅は五尋か、もう少しあるだろうか。一抱えもありそうな岩が点々と連なり、一部は水面が被っている。明日香川の石橋と比すなら倍は渡らねばならぬ。おまけに岩の大きさはまちまちで高低差も激しい。
ヤックルを見た。小首を傾げて見詰めてくる大きな目がゆるりと瞬く。ヤックルは渡り慣れているのだろう。そもそも山の岩場を駈けられる生き物の係累に見える。常はアシタカを乗せているのに違いないが、しかし。
「いえ、自分で渡ります」
友の呉れた乗馬靴は、少々濡れても平気だ。ヤックルの背には、今は鞍も鐙もない。アシタカがそうしたのなら、今のヤックルに乗るのはいささか申し訳もたたぬ。
まるでそれを聞き遂げたように、ヤックルが軽やかに身を翻した。甲六の手から手綱が放れ、ヤックルは高く跳躍して岩を渡る。蹄が岩を踏む音さえも涼し気に響く。
「じゃ、旦那が先に」
甲六に言われて一つ目の岩に渡った。岩と岩は飛び移るに易いとは言えないが、無理はしない、絶妙の配置だ。
「行けますか旦那ぁ」
「大丈夫だ」
川面を渡る風が当たる。見回す周囲は深い山々で、濃い土と水の匂いがした。濃厚な生命の気配が満ちている。
「この先には、何があるのです」
岩を渡って声を上げる。背後から甲六の「森でさぁ」という端的な応えが響いて微かに辺りにこだました。先を行くヤックルが振り返って見ている。なんとなく頷いて、また岩を渡った。川は澄んで陽光に煌めいている。遠くばしゃりと魚が跳ねた。気をとられて足を踏み外し掛ける。慌てて次の岩に飛び移り、大きく息を吐いた。これは渡り切るまでは、余計な事を考えぬ方が良い。
無心でヤックルの後を追った。ヤックルの大きな角が左右に揺れる。跳躍の都度、ぴょんと弾む尾に知らず笑みが零れた。見事な均整の後ろ脚に、酷く不釣り合いで、どうにも相応しい尾だ。
岩を四つ数えてその先はわからなくなった。二度足が水に浸かり、それでも長靴の口までは濡らさずに渡り切る。葦が風に揺れている。河岸の緑は淡く、だが、顔を上げた先には木々が聳え立っている。
「森……」
土手を上がる。踏み締めた草が青い香りを立ち昇らせた。瞬く間に追い着いて来た甲六が再び手綱を取り、ヤックルが一つ首を振った。目の前には、まだ幹回りが両手で掴めそうな、それでも見上げる程の高さに葉をそよがせる若い森が広がっている。
「シシ神の森と、呼んでんですよ」
「シシ神の」
甲六に続いて足を踏み入れる。朽ちた葉が積もり、下草があちらこちらから藪になって茂っている。陽光は遮られたが、例えば郷里の鎮守の森のような昏さはない。林床にはあまり草木がなく、アオキ、樫、椿やヤマモモが見えた。
「足元、気を付けてくだせぇ」
甲六に促されて気が付く。そこかしこに倒木があった。半ば以上朽ちて、表面を苔が覆い、シダ類が生えている。跨ぎ越しながら改めて森を眺める。やがて気が付いた。これは、山火事から数十年を経た森だ。
「火事が、あったのですか」
「いやぁ」
甲六が手拭いで目元を拭った。ヤックルがまた倒木を飛び越える。
「シシ神殺しの晩に、首を獲られたシシ神──夜だったんで、デイダラボッチだ。そいつが辺りを首探してうろつき回って……」
ヤックルが鼻面を寄せて来るのを撫でた。不意に脳裏に広がる光景がある。濃い深い山の、その空に不気味に淡く光る巨人が蠢いている。山の稜線を跨ぐように、巨人がゆるりゆるりと歩を進める。巨人の触れた端から山にはどす黒い粘性の液体が土石流のように滴った。山が死ぬ。それは瞬く間に一帯を黒く染め、一部で火が上がった。
「首を、獲られたシシ神──」
「俺ぁ怪我してて、タタラ場に居たんでさ。やがて押し寄せて来たデイダラボッチの溶けた身体がタタラ場の柵乗り越えっちまって。蹈鞴の大屋根が落ちて火が出た。山もタタラ場も、一夜で壊滅しちまった」
不意に開けた場所に出た。開けてはいるが、昏い。巨木が折り重なって倒れている。その奥に静かな湖面が広がっていた。折り重なる巨木が幾重にも組みあがって、それはまるで複雑な幾何学模様の木の神殿だった。細く、木々の間を光が降り注ぐ。白々と冴えた光に照らされて、湖面はどこまでも深い静寂に沈んでいる。湖面から立ち昇る白く淡い霧が辺りを染めている。光が、降っている。
声もなくそれを見詰めていた。立ち尽くしたせいだろう。甲六も立ち止まって黙っている。うつくしい。美しいが、恐ろしい。これは、なんだ。此処は、何処だ。これは本当に、この世の景色なのか。
カラ……カラカラカラ──
いつか聞いた音がした。カラカラカラ、コロコロコロ、カラカラカラ──
ヤックルがピクリと身じろいで耳を立てた。倒れた木に生える小さな若芽が揺れる。風が鳴った。
「ヤックル」
凛と低い、深い声が獣を呼んだ。ヤックルが前脚を上げる。風が湖面を渡り、水音が跳ねた。光の中に若木のような人影が浮かぶ。
「アシタカ様」
甲六が声を上げた。背筋の伸びた青年が一人、立っている。アシタカ様──あれが、東と北の間から訪なったという若者か。蝦夷より参ゐ到りし阿齎高日子命、甚麗はしき客人。アシタカ。
青年が、光の中で何処までも深い森の色の瞳を、すい、と細めた。


