佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 八鉾村とは何処であったか。横になったまま記憶を探り続けてようやく思い当った。比婆ひば郡ではないか? そうだ、比婆山について書かれたもので目にした筈だ。雲伯うんはく国境の比婆山も、廣島ひろしまの比婆郡の由来となった比婆山も伊邪那美イザナミの墓陵と伝わっている。御諸山に次いで、またもや古事記。八鉾村まで送り届けるというなら、この辺りはまだ廣島なのか。あるいは、島根との国境か。比婆山には、神世七代最後の神、国生みの伊邪那美が葬られたという。それは出雲と伯耆ほうきの境だ。山陰だ。比婆郡とて、山陰と接する中国山地の土地だ。ああ、であるならば、成程そうだ、尾道は遠い。
 尾道は──瀬戸内だ。尾道から山に入って、しかしたった半日を彷徨って中国山地の奥深くに迷い込む事などあるものか。それでは神隠しだ。あるいは──これは神隠しなのか。
 天領の隠れ里、とそう言ったか。布団を退けて起き上がる。出雲に天領はない。石見いわみ──大森銀山は、確かに銀山領として天領になっている。だが隠れ里とは。
 俄かに興味が出た。忘れろと男は言った。幕藩体制など遠い過去になった現在、もはや天領どころではない。神国日本はあまねく天皇ヲ以テ現御神あきつみかみトシたのであって、現に大東亜戦争の最中ではないか。忘れろとはどういう事か。軍の機密にでもなっているのか。
 国民服を手繰り寄せて手早く着替えた。背嚢の中身を確認する。何一つ欠けていない。中身は検めた形跡があった。何もかもが乾かされている。友は──どうしているだろう。気紛れに、山に厭いて里に戻っていてはくれないものか。どことも知れぬ山で彷徨っている己には、貴様を救う術がない。
 乗馬靴の中に手を突っ込む。これも乾いていた。ありがたい。どうやら危害を加えるような事はされないと見て良い。だとすれば、逃げ出すような真似をすべきではないだろう。
 少し考えて背嚢から懐中電灯だけを取り出した。乗馬靴と懐中電灯を抱え、そっと戸板を開ける。せめて、此処がどのような場所であるかだけは確認しておきたかった。
 月が明るい。
 戸板の外は土間だった。土壁の途中から板壁になり、開け放たれたままの窓から月明かりが煌々と射し込んでいる。三和土に乗馬靴を下ろし、板間に腰掛けて足を通す。辺りは静かだった。人の気配もない。
 そろりと戸を開く。それなりの物音が立ち首を竦めたが、あの作務衣頭巾の男が現れる事も、湯飲みを呉れた女が顔を出す事もなかった。目を凝らして周囲を見る。山。どこまでも山が連なって黒々と鎮座している。
 不意に高く遠吠えが響いた。立ち竦んで声の方向を凝視する。たった一声、それきりだった。早鐘を打つ心臓を宥めて深く息を吸う。ようやく慣れてきた目に、小さな集落の赤瓦が映った。
 山陰には、石州せきしゅう瓦の特徴的な赤茶色の屋根が多い。
 屋根が見下ろせるという事は、此処が高い位置にあるという事だ。数歩を歩き、振り返ると茅葺に土壁と木板の小さな建物であった事がわかる。倉か何かかもしれない。
 やはりここは山陰なのか。少なくとも、中国山地の奥深くである事は間違いなさそうだった。集落は山間の里らしく簡素で乏しい。里全体で百人、居るのかどうか。
 倉の壁伝いにそろそろと歩いた。足元からは濃い土の匂いが立ち昇る。疾うに忘れていた豊かで素朴な土の、大地の匂いが纏わりついては風に消える。目線を傍らへ落とせば、これも棚田らしき黒光りする水面が幾つか見えている。山の斜面を切り開いて作られた里であれば、どこで急に崖になっているか知れない。風が渡ると、月明かりを受けて、黒々とした水面にさざ波が綺羅の如く光った。物音は聞こえない。遠吠えも、もう響かなかった。
 そうだ、遠吠えだ。あれは己が追われた野犬なのか。思わず狼かと口走った。明治にその系譜が途絶えたと言われる山の王者……関東の三峯みつみねでは、しかし山深く隠れているのだと今も言う。これほど深い山であれば、あるいは──。
 声がした。
 あ、ないし、え、という短すぎる一声に背筋が凍り付いた。人の声。硬直したまま目を見開いている内に、背後に気配を感じた。
「お客人て、あなたでしょう」
 涼やかな声だった。まだ若い女子だ。瞬き一つ、ゆっくりと振り返る。麻模様の単衣かすりに、この頃はもんぺと呼ばれる袴を着けている。大きな目の、白目が蒼く見える程に白い。
「おなかでも、空いた?」
 問い掛けは奇妙にいとけなかった。咄嗟に頷き掛け、そのまま首を振る。すらりと手足の長い娘だった。年の頃は、まだ十四、五かもしれない。
「わたしはカムナ」
 顎のあたりで切り揃えられた髪が揺れた。月明かりが白い顔を夜に浮かび上がらせている。目の前に居ながら、どこか浮世離れして見える。だが、恐ろしさは感じなかった。
「──カムナ」
「そう、わたしのうちは代々『カム』の音が付くの。神様の神に、わたしのは、『ナギ』……なぎという木を知ってる?」
 知っていた。熊野三山では神木とされる美しい葉を持つ木の事だ。
「良い名だ。神の加護あり、凪いだ美しい人生であれと、そう願って付けられたのだろう」
「凄い。当たり。ねぇ、さっき遠吠えが聞こえたでしょう。怖がってた」
 いつから見られていたのか。汗が噴き出そうになるが、それよりこうして人懐っこく話してくれるものは利用せぬ理由がない。
「あれは犬か。おれは道を失って、追い立てられたんだ。怖かったよ」
 重なり合う山々を見遣る。薄墨を流したような空に、山は滴る程に黒い。
「佐毘売山は山犬が守ってる。此処では怖くないよ」
「さひめやま」
 あの男もそういえば口にした。みもろやま……御諸山ではないとすれば、この里でだけそう呼ぶのか。
「そう、御與山は佐毘売様の山なの。山犬は佐毘売様のご眷属けんぞく。大昔は、うちのご先祖は山犬の言葉がわかったんだって。わたしにはもう、わからないけど」
「さひめ様、というのは?」
 少女が真っ直ぐに見上げて小さく笑みを浮かべた。
「山犬神の女、尾生いたる人、即ち佐毘売命の御所に、蝦夷より参ゐ到りし阿齎高日子命、甚麗はしき客人にて、佐毘売命に問ひて曰はく、『汝が国を杜に、吾が国を多々良の地に成さむと以為ふ』といふ。佐毘売命答へて曰はく、『然善ゑけむ』といふ。故、爾くして眷属を率いて御與山に国を作りき」
 尾生いたる人。
 玲瓏と暗唱されたそれは古事記の記述によく似ていた。古事記に登場する『尾生いたる人』は、いずれも神武東征で自ら服従した国津神くにつかみだ。実際に尾が生えていたかはともかく、カムナの言う『佐毘売命』も、国津神かもしれない。瞬時にそれだけ思考が巡る。大学で研究を手伝ったあの時間は、どうやら自分で思っていた以上に深く身に染みていたものとみえる。
「文献があるのか」
 思わず口を衝いた言葉にカムナが肩を竦めた。
「天領になってから、お役人が聞き書きしたとかいう眉唾物だけどね。うちの蔵にあるよ」
「聞き書き」
「そう、里ではずっと、口伝くでんなの。もう正確には伝わっていないって。𦻙記っていう、草に埋もれながら人の耳から耳へと語り継がれていく物語」
「せっき」
「こう書くんだけど、里でしか使わない字」
 カムナが屈み込んで土に棒切れで文字を刻んだ。艸の下に耳が二つ並んでいる。目を凝らしてそれを読み取り、手の中で書いた。不思議と懐かしい気持ちが沸き起こる字だ。
「𦻙記は昔話みたいなお話で、さっきの文書とは全然違う。大半は、阿齎高日子命の事」
「それが君のご先祖か」
 わからない、とカムナは唇を尖らせた。屈んだまま見上げてまた肩を竦める。
「『アシタカ様は、どんな者にも分け隔てなくお優しかった』『強くて美しい方だった』『決して邪心を持つことのない方だった。いつも曇りなき眼で物事をじっと見詰めておられた』だから『お前達は、アシタカ様のお守りになったこの多々羅の里の為に、アシタカ様のようにおなり』っていうのが、おばば達の口癖。アシタカ様は、佐毘売様をとてもとても大切にしていて、二人は山と里に離れていたけれど誰より近かった、って言い伝えの中に、でも、うちのご先祖は育てられたとしか出て来ないから」
 佐毘売様は山犬の姫で、アシタカ様は客人、と続けてカムナは立ち上がった。
「だから、里ではお客人はもてなす事になってる。里が変わる節目には、客人が来るものだって、これも言い伝え」
 里が変わる。変わるのか、と考えて首を振った。この戦争がどうなるのか誰にもわからない。この里だけではないだろう、この国が丸ごと、変わらざるを得ない日がきっと来る。そうだ、そもそも友はそれをも憂いて死にたがった。気分を変えて来いと尾道の造船所に視察を名目に送り出されたのも、周囲に立ち並ぶ高射砲や駐屯する陸軍によって逆効果になってしまったが。
「おばば様達が、客人は久し振りだと言ってた。もう、七十有余年、天朝様やお役人の遣いの人は来ていないから」
「七──十有余年」
 それは、御一新ではないのか。御一新で、確かに里は変わったろう。天領ではなくなり、──なくなったその先、だがもはや何も起きていないのか。それは。
「この里は、元は鉄を作っていたんだって」
 先導するように歩き出したカムナの後を追う。左右には粗末な小屋が立ち並んでいる。いずれも土壁の、茅葺かやぶきの小屋だ。何かの作業場のようにも見えた。否、これは──これはたたら場なのか。
「鉄を作るたたら場は、物凄く木炭を使うし、砂鉄を精製するのに川に土砂を流すの。つまりたたら場は、森を奪ってしまう。佐毘売様はそれを怒って、許さないと怒って、だけどアシタカ様が、それを変えたんだって。森が再生するように、すべてを管理して、安芸あきのお殿様にも、天朝様にも、鉄師てつし烏帽子エボシ様と説得に当たって、決して踏み込ませなかったって。だから、佐毘売様とご眷属はそれを守護して、この里は多々羅の里になった。余所のたたら場では、嫉妬深い犬嫌いの女神様が守護して、操業中は犬も女も近寄らせないけど、此処は逆。女衆が操業を仕切って来たし、山犬はご眷属なの。佐毘売様の山だから」
 夜の中にも一際聳え立つ、この集落に似つかわしくない高殿たかどのの前でカムナは足を止めた。
「此処が操業の為の高殿。なんでだか、ずっと古いやり方で鉄を作り続けてきた、この里の高殿。余所の山内さんないは知らない。此処では大掛かりな製鉄は絶対にやらずに来た、だけど、七十有余年前のお客人が、この高殿に、大きなふいごを付けて、全部変わったの。きっとそれがいけなかったって、村下むらげ炭坂すみさかだったっていうおばば様達は悔いてる。里は子が生まれなくなったし、此処は秘されたまま、もう忘れられてるんじゃないかって。忘れ去られて、大昔のように、ご眷属の森に戻るなら、それも仕方ないって」
 でもご眷属の森に戻るなら、とカムナは笑った。今からでも、わたしも山犬の言葉がわかったらいいなっていつも思うよ。
「里で子が生まれると、一度石室いしむろにお参りに行くの。わたしの家系の子の時だけは、必ず真っ白で大きな山犬が姿を見せるって言い伝えられてて、それが護り犬になる。わたしの時にも現れたって。だからわたしは、遠吠えが聞こえるとわたしの犬だって思う事にしてる」
 ねえ、お客人なんでしょう、とカムナに真っ直ぐに見詰められる。蒼くさえ見えそうな白目が爛々と光っている。光の中でカムナの瞳は、深い山の碧に染まって見えた。
「あなたは何を此処に持って来たの。外界は今、どうなっているの。わたしは──」
 もう烏帽子様は継げない。
 不意にまた、長く尾を引く遠吠えが響いた。唐突に思い出す。そうだ、この里へ来る前、最後に見たのは、大きな大きな、白い獣ではなかったか。
 振り返った。山は夜に沈んでいる。遠吠えが木霊した。一つ、二つ、重なり合って遠吠えが響き渡る。
「カムナ、これは──!」
 向き直ったそこに、少女の姿はない。ただ、白く巨きな影がぶわりと立ち上がった。

 

 

 

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