佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 駅まで連れ行くつもりであったが、と言われて「駅?」と鸚鵡返しにした。駅。最早何処か懐かしさすら感じる響きだ。
 カラカラカラ──カラ……カラカラカラ──
 音がしている。それは木札が風に煽られて立てる音に良く似ていた。あるいは──あるいはそうだ、寺社の絵馬が立てる音だ。願いに似た、祈りに似た、息吹に似た、音の連なりだ。嗚呼、それは木魂ではなかったか。
──ほう、忘れなかったと見える。
 言われて不意に覚醒した。カラカラカラ、コロコロコロ。笑いさざめく気配で木魂が鳴っている。辺りは白い、白い霧の中だった。
「天狭霧神」
 境界だ。山と野の神によって形作られた山の霧の──
「カムナ!」
 跳ね起きた。浮遊している。確かに起き上がったと思ったものが、余りにも覚束ない。上下も、況や左右も失っている。
──暴れるな。落ちても拾いには行かぬぞ。
 動きを止めた。風が吹いている。霧の中だ。白銀の獣は──思った瞬間、目の前に鼻先が付き出された。
──案じていた者、少々厄介だな。このまま八鉾村の鉄道駅に行くのでは、間に合うまい。
 何の話だ。思ってすぐに思い当った。最初に神梛の里で送り届けると言われた、それが八鉾村の鉄道駅ではなかったか。
 自分がカムナの背に居る事をようやく把握した。露台から落下した、のだろう。カムナがそれを救ってくれたのか、あるいは、カムナこそがあの露台から自分を落としたのか。何もかもが、現実感を失っている。否、今なんと言った? 案じた者。友の、事か。
「何が間に合わない!」
──喚くな。お前が探す者が、お前を探している。お前がおらぬとなれば、命運が狂う、このままでは火に巻かれる事になる。
「……何を、言ってる?」
 カムナは答えない。答える代わりに、唐突に首を振った。
──神梛は、里で最後の子供だ。
「待て、何の話をしてる。何を言っているんだ」
──里は衰退した。あの子は、山を下りて生きる事になるだろう。
 混乱した。混乱しながら、それでもカムナの声を聴く。寂しげに見上げた、少女の森の色をした瞳が瞼に浮かぶ。何処かで見た色だ。優しい、深い色の瞳。
──里は道を誤った。蹈鞴を大きくし、時の政府の言いなりに流れを変えた。神梛が悪いわけではないが、神梛であの里は終わる。
 言ってカムナは沈黙した。
 おトキを思い、甲六を思った。あの小さな里が、終わろうとしているのか。だが半世紀を、と思う。それでも半世紀を、エボシの理想は生き延びたのだ。神梛は何と言った。──里が変わる節目には、客人が来る。言い伝えだと、言っていた。アシタカに始まった客人の訪い──伝わったのだ、サンの望んだ通りに。
「里がなくなるのか。おれが──契機で?」
──さて、いづくとも。
「里がなくなったら、お前はどうなるんだカムナ」
──吾等モロの一族は、過去に在り、現在に在り、全ての時に常に在る。
「神梛が、山を失っても」
──然り。この国の、何処かで吾が半身の命は続く。サンの半身たる吾は、過去の山犬たる吾だが、神梛の半身たる吾は、ひとの子の言うところの神族としての性を取り戻した後の吾。常に、現象は変動する。全ては、同一であって同一ではない。
「この国が変わろうとしていても?」
──変えて来たのは、常にひとの子であろう。なれば、また変えれば良い。思うが儘に、己の求めるがままに。吾等モロの一族は、そのひとの子の傍らに常に在る。
「そうか。おれに、何が出来る」
──さて。だが、何事かをさんとする者に、吾の出来る事は、しよう。
 目を閉じる。山犬神の女、尾生いたる人、即ち佐毘売命の御所に、蝦夷より参ゐ到りし阿齎高日子命、甚麗はしき客人にて、佐毘売命に問ひて曰はく、『汝が国を杜に、吾が国を多々良の地に成さむと以為ふ』といふ。佐毘売命答へて曰はく、『然善ゑけむ』といふ。故、爾くして眷属を率いて御與山に国を作りき。何度でも、そうだ、何度でも。


 ぽつりと頬に水滴が当たった。耳元で、微かな澄んだ音が跳ねた。ぴちゃん。嗚呼、生暖かい、これは命の温かさだ。思った刹那、両目を見開いた。目の前に、大粒の涙を零す友の顔がある。
「き、さま」
 今まで何処に。云おうとした言葉は喉につかえて押し留められた。咳き込んだ拍子に友の両腕に頭を抱え込まれる。何も見えない。
「貴様は莫迦だ!」
 怒鳴られて茫然自失した。そもそも此処は何処だ。何故、こいつが目の前に居る。貴様が山に入ったせいで、おれは──
「あれは、なんだ」
 友の肩越し、見渡す限りで猛然と煙が上がっていた。不意に周囲の音が一時に戻った。轟音。火が爆ぜている。目の前の民家が焼け落ちようとしている。暑かった。サイレンが鳴り響いている。
「立て、まだ来るかもしれない」
「来る? 何がだ」
 南西方向から戦闘機の爆音が轟いた。背後で「敵機来襲──!」の怒号が起きて息を呑む。空襲。遠く海岸近くの造船工場で火の手が上がった。
「死ぬ気か! 立て、走れ!」
 怒鳴られて引き摺り起こされた。そのまま走り出す。何が起きたのか、わけもわからないままに山に向かった。サイレンが鳴っている。対空高射砲が、戦闘機と激しく撃ち合う音を背中で聞いた。友と二人、もつれ合うようにして山の斜面の壕に飛び込む。身を丸めた瞬間、頭上を轟音を立てて戦闘機が通過した。

「貴様、死にたかったんじゃなかったのか」
 言うと友はくしゃくしゃに顔を歪めた。笑っているとも泣いているとも判然としない顔に握り締めていた布切れ一枚を押し付けてやる。
 空には静けさが戻っていた。一帯は、瓦礫の山で埋め尽くされている。何所かで誰かを呼ぶ細い声が上がり、直ぐに消えた。
 山で獣の遠吠えを聞いたのだと友は言い、座り込んだ姿勢のまま、膝を抱えて顔を埋めた。造船工場の、預かり先も全壊していた。崩れ落ちた屋根を残して、他にはもう何もない。世話になった家主の行方は知れなかった。二人すすに塗れて家の前の取り残された塀に寄り掛かって座り込んでいる。既に夕闇が迫りつつあった。まだ、火の匂いが充満している。
「それで山を出た。やはり貴様に会うべきだったと思った」
 くぐもった声は酷く聞き取り難い。
「おれは」
 空を見上げた。嫌になる程、やはり空は高い。
「貴様を追って山に入ったんだ」
「そう聞いた。なのに警報が激しくなってから、何だってあんなところで倒れていた」
「おれが知りたい」
 友の手から真っ黒になった布切れ一枚を取り返した。広げても、もはやそこには字も文様もありはしない。たった一つ、このボロ布一枚が手元に残された全てだった。深い森の匂いが遠い。あれは、なんだったろう。おれは。
「何処に、行っていたんだ」
 顔を上げないまま友が言う。
「道を探していたのか」
 ──そなたは道を探しているようだと。アシタカの言葉が脳裏を過った。ああ、と答えて少しく沈黙し、一度口を開き、閉じてから、結局もう一度開いた。
「おれは、桃源郷に行っていたんだ」
「桃源郷? それがどうして道の真ん中でぶっ倒れているんだ」
 道は──境界だろう。あの白銀の獣のやりそうな事だ。火に巻かれる筈だった友は、今こうして座り込んでいる。山で死ぬ事もなく、火に巻かれて死にもしなかった。お前の出来る事と言うのは、おれを突っ込んで状況を変える事だったのか、カムナ。いちいちやる事が、どうにも乱暴に過ぎる。
「桃源郷からの、帰り道だ」
「何を言ってる」
「本当の事だ」
 道を探してたのは、貴様じゃないのか、と口にした。友が顔を上げる。意志の強そうな眉と、大きな瞳が見返してくる。
「わからない」
 桃源郷では、誰も苦しまず、何の憂いもないという。エボシのたたら場には、苦しみがあった。モロの山には哀しみが。姫山。女達の──だが、桃源郷を創り出すのも、確かに人なのだ。
「生きよう」
 友の肩に手を掛ける。他に、出来ることなどない。
「貴様も、生きろ。命は──容易くは」
 諦めてはくれない。
「生きろ。絶望したなら、その絶望の分だけ、変えればいい」
 まだ、工場からは薄く煙が上がっている。並んで、それを見ていた。
「神も、もののけも──ひとが作り出すんだ」
 友は何も答えなかった。空が、深紅に染まっていく。


 たった半月後、現人神は玉音放送で大東亜戦争の終了を告げた。大学に戻った後、人を頼んで探した天領の隠れ里、神梛の里は、烏帽子山の見えるどこの山からも見付からなかったが、背嚢ひとつが更に二月を経て何処からともなく届けられ手元に戻った。
 𦻙記は、何処で語り継がれているだろう。探しに行くと、もう決めていた。探し出し、神梛のあの瞳に告げねばならない。祈り、語り、変えていく力の事を。
 この国は、まだ死なない。神は隠れても、誰もが──全てが──生きている。


《了》
 
 
 

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