四
風だ。
おれは今、風になっているのだろう、と思う。カムナは躊躇なく背にその牙を以て国民服の端を引っ掛け、大の男一人を背負い上げてしまった。乗馬とはわけの違う感触に狼狽えるのに、「その履物は頑丈そうだ、強く力を入れていろ。遠慮はするな」と事もなげに告げた。
「これは友がおれに呉れたのだ。おれにはとても手が出ない品だ」
言って友の思い詰めた顔を思い出す。嗚呼、貴様は何処で何をしているのか。おれは貴様を追っていた筈が、すっかり妙な事になっている。
──そう案ずるな。
それは友の事か道行の事か。尋ねる前にカムナは駆け出した。慌てて取り付いた白銀の毛並みは剛毛でありながら滑らかだ。高い体温を感じる。燃えるようだと思った。神の背、山の神の炎。木魂が笑っている。カラカラカラ、コロコロコロ。視界の端で、小さな人型の白い何かが揺れている。カラカラカラ、コロコロコロ。それは次第に数を増した。カラカラカラカラ──あれが木魂、と呟いたかどうか。殆どカムナの背にしがみ付く恰好で、辺りを観察する余裕などある筈もない。岩屋から身を翻したカムナは足場などあるかなきかの崖を真っ直ぐに駆け降りる。振動よりは跳躍の都度撓るそのしなやかな肉体から振り落とされまいとする事の方に気が行った。垂直に等しい岩場をカムナは最短距離で駆け抜ける。巨石の山。悠久の時がこの山と山の神を育んだ。
──コダマは森の精。一時期は消え失せたコダマが、この頃は少し増えている。
「消え失せた?」
毛並みに半ば顔を埋めるようにして切り裂く風を避けている。殆ど呟きでしかない声を、それでもカムナは容易に拾った。白い風が駆けている。
──シシ神がお隠れになる際に、辺りの森は全て一度死んだのだ。
「死……」
森の死。それは一体何だ。シシ神。祇獣神の杜となりませる出雲の山々──森の一切を司る神によって、此処には死が満ちた。何故。
──己の耳目で確かめるが良い。
垂直に切り立った崖を目前にカムナは瞬間、その脚を止めた。遥かなる眼下に谷川の細い流れが月光に煌めいているのが見える。カムナの前脚がぐ、と力を溜めて撓む。驚愕して叫んだ。もう、川の水に浸かるのは勘弁願いたい。何よりこの高さ──
「カムナ!」
──案ずるな。
次の瞬間、留めようと伸ばした手は空を切り、恐ろしい風に巻かれて、意識が飛んだ。
見慣れぬ恰好だねぇ、という女の声が聞こえた。既視感に襲われる。こんな短期間に二度も人事不省に陥る事などあって良い物か。
「どっから来たんだい、このお人」
「いや分からん。里の入り口で倒れとったんで、とりあえず担ぎ込んだんだけどよ」
気の良さげな男女のやり取りに意識が明瞭さを取り戻す。嗚呼全く何という事だろう、倒れていた? そんな馬鹿な。崖の下は谷底だったのだ。人里の鳥羽口で転がっているとなればカムナが抛り出して行った以外の何がある。全体カムナを恨む他はない。
すみません、と声をひり出した。ピタリと止まった会話を余所にようよう起き上がる。後頭部が鈍く痛んだ。打ち付けたのかもしれない。だが少なくとも確かに谷底に落とされた傷ではなさそうだった。そんな事になっていれば生きてはいまい。それとも此処は黄泉の国か。否、そういえばそもそも、己は知らぬ間に根の國へ迷い込んでいたのかもしれず、となればこれ以上更に死ぬこともないのかもしれぬ。
「すみません、お構いなく」
「お構いなくったってアンタ」
女が呆れた声を出した。薄目を開ける。白々しい程に明るい。見上げれば、手拭いの桂包に小袖には襷掛けと前掛け、足元はと言えば脚絆のいわゆる桂女である。大きな目で覗き込んでくる女は幾らか年上だろう、呆れた声のままで続けた。
「後ろ頭、すっごい瘤が出来てるよ。何処へ行くんだか知らないけど、こんな所通るなんて、後ろ暗いところでもあんのかい」
後ろ暗いところ。どういう意味だ。空は青い。いつの間に夜は明けたのか。嗚呼、それよりカムナは何処へ消えた。
「つかぬ事を伺いますが、此処はどこです?」
女がぱちりと瞬いた。畑仕事でもしていたのか、頬に土が付いている。そのままゆっくりその頬が横に向いた。ほうけて突っ立っていた、これも小袖に脚絆の男が同じように女を見返す。二人は揃って眉を寄せた。
「どこって」
「こんな山奥に来ておいて」
「それとも攫われてきたのかい」
「あんたこそ何処から来たんだ」
交互に畳み掛けられて閉口する羽目に陥った。そもそも今時さすがに男女共に小袖に脚絆とは。御一新どころか大東亜戦争真っ只中、男であれば誰も彼もが国民服で過ごす中、幾ら山奥だと言ったところで、余りにも時代錯誤が過ぎる。
辺りをようやく見回した。山間だ。明るい緑に囲まれて、すぐ近くに川があるのだろう、微かに水の匂いがする。右手に段々畑、左手、これは川を挟んでいるのかやや遠目の山は森に覆われている。木魂の姿は見えない。あの笑いさざめく響きもなかった。
「カムナめ、置き去りとは」
「連れがおありかい」
女の方がきょろきょろと辺りを見回した。曖昧に笑って済ませる。ともあれ、自力では如何ともし難い。まず第一、此処が何処だかすら分からないと来ている。
「ちょっと良く……分からなく……」
これでは不審者である。が、女はまた男と顔を見合わせた。
「困ったね、どっちみちわけありなんだろ」
女がさばさばと言い捨てた。少し前にもそう言われたのだ。わけありも何も、己は友を追っただけの筈だったのだが。もはやわけがあるのかないのか、それすらどうにも覚束ない。
「ともかく、こんな所に居たってしようもない。泊めて上げるにも勝手にってわけにもいかないんだし」
「そりゃぁそうだな、締合に反する。山配に届けねぇと」
驚いた。間違いなく見慣れぬと言っていた奇妙な恰好の──小袖に脚絆が標準なのだとすればそれは成程国民服など見慣れているとは思われない──何処の誰とも知れない人間を、こうも容易く泊めるの泊めないのと、勝手に話が進んでいる。
「よし、おトキさんにでも相談しよう」
女の方がそう言って勢いよく頷いた。それが何らかの結論であるのは明白だったが、余りにも展開が早い。上に何が何だか分かりかねる。困惑のままに疑問が口を衝いた。
「おトキさん……?」
女は快活に笑った。一つ頷いて口を開く。
「あたしら番子の頭さ。尤も、ここ数年は操業しちゃいないから、音頭取ってんのはもっぱら畑仕事だけどね。まあ板踏むのか土踏むのかの違いだもの、あの人には苦でもない。ここじゃね、何でもおトキさんに任せりゃ心配はないのさ」
番子。番子とは何だ。板を踏むとは何だ。何もかもが見当もつかない。会えばわかるのか、否か。
「アンタ、歩けるかい? それ革かね、随分珍妙で立派な履物だけど」
女が手を差し出した。流石にその手に頼るのは気が引ける。意地で腰を上げたが、成程後頭部が痛む。思わず顔を顰めた。目の前で見守っていた男女が何故か一緒になって顰めっ面になる。うっかり噴き出した。
「いや、すみません、つい」
両手を振った。二人はまだ顰めっ面のままだ。大きく頷いた。
「大丈夫です、ありがとうございます」
「頭打ってんだったら気を付けな。こないだも麓の村のじいさんが平気だって言ってたのに寝付いちまったらしいから」
「麓っていうと」
何となく三人連れ立って歩き出す事になった。後頭部はまだじわりと痛むが、要は瘤が一つ出来ただけの事で、大事はなさそうだ。
歩き出してみれば小さな集落だった。神梛の里とそう規模は変わらないだろう。多くとも、住民は百人には届くまい。違いと言えば、石州瓦の赤屋根はそう言えばまるで見当たらない。
「三澤の郷さぁ。此処はもっと山奥だからね。アンタ自分で登って来たんじゃないのかい。まさか比婆の方から来なすったってんじゃないだろうね」
比婆……雲伯国境の比婆ではなく、これは廣島の比婆だろう。となれば三澤というのは仁多だろうか。出雲国風土記を記憶から浚う。仁多は四つの郷から成り、内の一つが三澤郷、その筈だ。
カムナは行き先を告げなかった。神梛の願いだとしか──否、違う、そうだ、カムナは何と言った。
「たたら場……?」
呟きが零れ落ちた。女が片眉を上げる。
「なんだい、やっぱり此処を知ってたのかい。言ったろ、操業はもう数年来やってないのさ。何処で聞き付けたんだか知らないけど、鋼を仕入れに来たんだったら諦めな」
足が止まった。たたら場ならば製鉄だ。神梛の里でも高殿を見た。製鉄は山を壊す。だから佐毘売は怒ったのだと……待て、石室だ。モロが住んだ石室に最前まで居たのだ。ならば此処は何処だ。操業していない、たたら場だという、この場所は──モロの石室の至近に、複数のたたら場があるのか。しかも。
「操業していない?」
「そうさぁ」
女はあっさりと頷いた。
「デイダラボッチがエボシ様にやられて死んじまった時に、大たたらは駄目になっちまったのさ。巻き添え喰らってね。それから未だに操業はしてないんだよ。まあそれどころじゃなかったってのもあるけどねぇ」
事も無げに言われて息が止まる。エボシ。エボシというのは何だ。神梛の口から確かにそれを聞いた。──安芸のお殿様にも、天朝様にも、鉄師の烏帽子様と説得に当たって──それは、それは名なのか。鉄師の烏帽子……職ではなく、名か。神梛の声が過る。──もう烏帽子様は継げない──エボシとは、それは。嗚呼おれは蹈鞴製鉄の事など碌に知らぬ。
古来、製鉄は神と結び付く。鉄は当然に刀となり、神に捧げられ神となる。同時に須佐之男命による八俣遠呂智退治は、製鉄民と下流域民との争いである、あるいは暴れ川と化した斐伊川の治水過程であると言われるなど、その結びつきは枚挙に暇がない。元より神梛が語った通り、蹈鞴は山を崩し、大量の土砂で河川を殺し、天井川となったそれは暴れて下流域を呑み込むのだ。モロや佐毘売の怒りはそこに端を発している。
「なんだい、エボシ様がどうかしたのかい」
振り返った女が怪訝な顔をした。更に先を歩いていた男が不思議そうに足を止めて振り返る。長閑な里の風景だ。遠くせせらぎの音が聞こえる。ぴぃと高く鳥の声が響いた。目に映る緑は若い。
「エボシ様、とは珍しい名だと」
ようやくそう言った。脳裏で、目まぐるしく思考が巡っている。目が回りそうだ。
「ああ、あの方は余りご自分の事はねぇ。あたしらも野暮だってんで聞かないのさ。エボシ様はエボシ様。あたしら行き場のない人間を拾ってくださった恩人、それで充分だもの」
水音が柔らかに響いている。そうだ、たたら場なのだ。水は切っても切り離せない。思い出した。鉄穴流と呼ぶのだ。山を切り崩し、大量の土砂を河川に流して砂鉄を得る。下流域一帯までの地形が全て変わる程の影響を与える、それが蹈鞴製鉄だ。
くらりと視界が回った。何もかもが霞んで見える。よろけて大きく息を吐いた。気が付いた。気が付かないわけもない。それ以外、何があると言うのだ。そういう事か。己の耳目で確認しろと、確かにカムナはそう言ったではないか!
浅い呼吸を繰り返す。落ち着きたかった。喉が渇く。水音。嗚呼、豊かな水と豊かな山、それがこの國か。何という場所だろう。神が正に生きて死に、過去から在り、今も在り、この先も在り続けるのだ。此処は──此処は神梛の里なのだ。おれは少しも場所を違えてなどいない、ただ──。
「ちょっとアンタ、やっぱり打ち所が悪かったんじゃないのかい大丈夫かい真っ青だよ」
大丈夫、と辛うじて声に出す。
「おトキさん呼んで来とくれ!」
女が叫んで、男が駆け出した。空は高い。鳥が鳴いている。遥か遠く、カムナの遠吠えが響いた気がした。
「本当に大丈夫、違うんです、おど、ろいて」
耳鳴りだ。木魂が笑っている。カラカラカラ、コロコロコロ。
女が腕を取り、殆ど引き摺られる有様で木陰に押し込まれた。腰を下ろせば立てなくなる予感がある。足が笑っている。そう言えば、川で死に掛けてからまだ碌に回復していなかったのだ。全くカムナめ。否、おれはもう死んだのだったか?
目が回る。ぐるぐると世界が回っている。地球が回っている事を、此処にいる誰か、知る者はあるのだろうか。
「山犬が」
何かを口にしようとして咄嗟にそう唇が紡いだ。女が目を見開く。
「山犬? アンタ、山犬を知ってんのかい」
驚きの声に苦笑した。知っているどころではない。山犬がおれを此処に抛り出して行ったのだ。女が眉を寄せる。
「山犬に脅かされでもしたのかい。ここらには山犬が出るんだよ。だけど大丈夫の筈さ、この里が間違わなけりゃ、山犬共は何もして来やしないからね」
何処かで似たような事を聞いたなと思う。──佐毘売山は山犬が守ってる。此処では怖くないよ──
「おおーい」
男の呼ばう声に目を上げた。素朴に続く小径の遥か向こう、男の傍らを矢張り桂女めいた女が駈けて来る。板張りの粗末な家屋数軒分。
「おトキさぁーん!」
女が両手を振り回した。あれがトキか。番子の頭だとかいう。女が駈け出していく後姿を見ていた。この里は、随分と女の元気が良い。
「なる、ほど、境界──天狭霧神の道と、言ったなカムナ」
笑い出しそうになった。山の霧に巻かれて、境界を行き来するのか。過去に在り、現在に在り、全ての時に常に在る。嗚呼、太古の神々の住まう國だ。
女とトキの後ろから、更に人影が現れた。左袖を片肌脱ぎにした朱の小袖の胸元をさらしで巻いた背の高い女。肩から被衣めいた濃紺の長衣を羽織り、夜明け前に似た墨染めの軽衫の足元を同色の脚絆で絞っている、酷く目に鮮やかな立ち姿だ。遠目にも、引かれた紅が艶やかな、いっそ凄みを感じる程の壮齢の女────。
「騒がしいと思えば、客人かい」
凛と声が響いた。トキが振り返る。
「エボシ様」
あれがエボシ。思ってとうとう笑みが零れた。風が吹く。エボシの纏った長衣の裾に白く染め抜かれているらしい複雑な文様が翻って踊った。それで気付く。隻腕──。
「妙な客にはアシタカで慣れっこだよ。連れて来な」
嗚呼、カムナ。お前は時を超えたのだな。
最早完全に確信を得た。おれは──過去に立っている。


