佐毘売山異聞[もののけ姫拾遺]

[もののけ姫]

 

 

 





 美しい山犬だった。
 肩から纏った白銀の毛皮は豊かで、身体に沿って滑らかに波打っている。顎下で切った藍媚茶あいこびちゃの色をした短い髪が白い顔を縁取り、はしばみの瞳が凛と強い。すべてを見透かす光を湛えている瞳だった。簡素な編布あみぬのの白く短い貫頭衣と、下に纏った墨染衣との対照的な明暗さえ全身を縁取る白銀の毛並みの装飾に過ぎず、そのすべてが山犬のしなやかさを引き立てて目を引いた。額飾りと大きな耳飾りとが風に揺れては陽光を零して煌めいている。手足の長さも、手にしている象牙色の剣もすべてが滑らかで、染め抜かれた深紅の文様が内に籠もる熱を溢れさせていた。風が吹き、山犬の胸元で数多の牙型の飾りが揺れた。否、それは正に牙であるのかもしれない。剣と同じく象牙色の、正しくそれは山犬の牙そのものに見えた。
 ──命だ。
 命が姿を取ったと、そう言ったアシタカの言葉のままだった。
 尾生いたる人、佐毘売──。
 榛の瞳が細くなり、見据えられる。尚も傍らの巨きな山犬を制して腕を上げたその動きで毛皮が波になり尾が揺れる。二本の尾──常なる山犬神とは明らかに異なる、その輝く毛皮こそが、その姿の何もかもをこの世ならざるものの姿に見せながら、確かにそこに生きる炎の揺らめきを押し留めていた。
「おまえ、いづくから来た」
 また冴えた声が響いた。エボシもアシタカも問わぬ、この地に生き、この地を護り続けた者の声だった。身の内が震える心持ちで声を押し出す。
「そこなる山犬神──カムナの導きにより、彼方の地から来た」
 佐毘売の後ろに控える巨きな白銀の獣が目を細めた。カムナ。それがカムナである事に疑いは抱かなかった。他の山犬は知らぬ。知らぬからこそ、過ちようがない。
 二本の尾が揺らめく。少しく沈黙を選んだ後、山犬の視線はアシタカに向いた。
「アシタカはいつも奇妙なものを連れて来る」
 微かな嘆息の混じった声だった。アシタカは真っ直ぐにそれを見上げる。「サン」という柔らかな呼び掛けに、山犬は肩の力を抜いたらしかった。
「サンに危害を加えるような事はない。この者、一切を持たぬ。ただ──道を探しているだけだ」
「それは人間の匂いと少し違う。アシタカとも違う。何故連れて来た」
 人間の匂いと違う、という言葉に引っ掛かった。どういう事だ。この時代の人間ではないからか。光が眩しい。くらりくらりと視界が回る。
 アシタカは小さく首を振った。
「私が此処へ来たように、この者も此処へ何かを求めて来た。わたしが連れて来たのではないよ」
 今度こそ、山犬の、佐毘売の全身からゆるりと力が抜け落ちた。瞳の強さは変わらず、しかし険しさが薄れる。ひとつ瞬いて、山犬は不意に何一つ変わらぬまま、鮮やかに変じて人の姿をとった。
「サン」
 またアシタカが柔らかに呼ぶ。背後の獣を制していた腕を下ろしたのは、確かにもうサンと呼ばれる一己いっこの存在であって、小さく息を吐いた彼女は、そのまま微かに首を傾けた。
 カムナの視線がサンを向き、次いで岩の下の男二人とヤックルに向く。だが、何も言わない。何故、という疑問と、果たして己は、何をもってカムナと会話していたのだったか、と刹那に過った疑問とが同時に脳裏を撃ち抜いた。そうだ、己はカムナと話をしたと思っていた。一体どうやって?
 今、見上げる巨きな白銀の獣は沈黙を守っている。
 サンが一つ頷き、カムナが身じろいだ。身を屈め、撓めた四肢が弾けて跳躍する。風が起きた。辺りの全ての空気を孕んで、優美な白銀が傍らに舞い降り、その重量に相応しく石が鳴った。サンが追って傍らに飛び降りる。膝を軽く曲げただけで着地した、その手に握った剣は真っ直ぐこちらに向けられたままだ。赤い鮮やかな三角文。それは死者を護る文様の筈だ。数多の古墳に、土器に、刻まれた太古のしゅ。──あるいは、その墨染衣の通り、にえだったという彼女自身が正に死者であるという意味なのか。
「カムナの名を何処で知った」
 真っ直ぐな問いに思わずカムナを見た。カムナは黙したまま、ただ見返している。アシタカとヤックルは何も言わない。のみ込んだ唾で喉が鳴った。
「カムナ──自身に」
 押し出した言葉はそれでも届いた。サンの耳飾りが揺れる。
「おまえ、獣の言葉がわかるの」
 首を振った。わかるわけがない。振り返ってアシタカを見た。やはりアシタカは微笑むだけで何も言わない。ヤックルが立てた耳を振る。
「カムナ」
 向き直ってカムナに呼び掛けた。
「お前が、此処へ連れて来た。そうだろう。それとも、お前じゃないのか」
 サンが目を眇める。身体をずらし、カムナに身を寄せて「おまえが連れて来たの」と囁いた。カムナの目が細くなる。小さな唸りが聞こえたか、否か。せせらぎに掻き消されそうなそれを受けて、サンの眉が寄った。
「おまえが出会ったカムナは、何処に居た」
 何処? 何処も此処もなかった。大東亜戦争真っ只中の、しかし確かにこの場所の、嗚呼そうだ。
「自分が知るカムナは、マカミの係累だと己の事を説明した……そのマカミの、熊野の眷属と和合してその命を繋いだと言うモロ一族に連なる遥かなる先、あなたを佐毘売と呼ぶ里が、ある」
 それが、本当に此処から繋がるのかは分からないとしても。
「その里の娘が、カムナに出会わせてくれた」
「……娘」
「神梛と言う。もう山犬の言葉はわからぬと寂しい目をして言っていた、それでも自分の守り犬が山に居るのだと」
「モロ一族に連なる遥かなる、先に──」
 サンが細く長く息を吐いた。
「──過去に在り、現在に在り、全ての時に常に在る」
 言って微かに顔を歪めた。
「母さんが」
 言葉が途切れて息を吸い込む短い時間、サンの瞳が滲んで伏せられた。
「……母さんが、言っていた。母さんは数百年を生きて、その先はどうなるのと訊いたわたしに、シシ神様も、モロ一族も、その息吹は常にあるのだと、死して尚、過去に在り、全ての時に常に在るのだと。今も、常に──!」
 不意にカムナが天を仰いだ。高らかに咆哮が響き渡る。遠吠え。高く低く山を、森を渡ったそれに、やがて遠く咆哮が重なった。二重になり、三重になったそれが、山々に響き渡って無数に染み渡り、辺りを浸して埋め尽くした。音の海の中で、押し寄せる様にサンの哀しみが溢れて波になる。その波に重ねて、山犬の遠吠えが響いて、響き渡って、一陣の風になった。
 サンの纏った毛皮が風を孕んで膨らみ、サンの全身を包み込む。声にならぬサンの慟哭が山を揺るがした。白銀の海。山犬の咆哮が重なり重なって旋律を紡ぐ。アシタカが「モロ」と呟いた刹那、全ての音が──消えた。



 険しい岩場を過ぎると、見覚えのある場所に出た。思わず見上げた巨石の上を、同じように誰もが見上げている。人の子が二人、獣が数頭。アシタカはサンの隣に寄り添って離れない。
 遮る物もない崖の中腹に突き出た平たい岩の上だった。見事に平らかに削られ広がる露台で、揃って岩屋の上、削られた巨石が載せられたその場所を見上げている。
 いつの間にか、山犬は増えていた。カムナ程の大きさはないが、いずれも成人男性の背丈を優に超える巨きな山犬だ。岩場を登る間に気付けば背後を、そして傍らを並走していた彼らもまた、モロの一族なのだろうと察せられた。肉食獣であるのだろう山犬に囲まれても、ヤックルは臆す様子もなく平然としている。
 モロがそこに居たのだ、と他ならぬカムナに教えられた巨石を見上げながら、サンは微動だにしない。そっとサンの握り締めた拳の上から自分の手を重ねたアシタカが、何事かを囁いて身を離し、振り返った。
「案内しよう」
 頷いて露台を大きく回り込み、岩屋に近づく。
 カムナと共に此処を潜ってこの地へ辿り着いた筈だった。だが、どうやらたった半日前のそれとはまるで様子が違う。黙って先に立ったアシタカに続く。ヤックルは大人しく露台で身体を休める事にしたらしかった。一頭の山犬が近付いてヤックルと共に座り込むのを見届けて、岩屋の中に踏み込んだ。
 岩屋の中はやはり広い。だが、明らかな炉があり、むしろが敷かれている時点で、己が知っている岩屋とはやはり似て非なるものだった。よく見れば、奥の方にも光が見える。露台に面したもの以外にも、出入りが可能な口が開いているのだろう。
「明かり取りに、どこかに穴を穿てないかと思ったのだが」
 アシタカが言って首を振った。岩が重く、動かす隙間もないと言う。簡素に過ぎる炉を眺めているのに気付いたらしいアシタカが「わたしが造ったのだ」と小さく笑った。
「山犬には必要がないものであったのだろうが、わたしには必要で、サンにも──必要だと思って欲しかった」
「アシタカが」
「嫌がられるかと思ったのだが、思いがけず、サンのきょうだいたちが賛同してくれた。火は、その昔、此処へ祈りを捧げる為に来ていた者たちも使っていたとモロから聞いたではないかと言って」
「祈りを捧げる為に来ていた者」
 川を渡っただろう、と言われて頷く。飛び石の事だ。浅いが川幅は広かった。飛び石がなければ渡るのは難儀するに違いない。
 筵に腰を下ろしたアシタカに倣って胡坐をかく。アシタカは腕を上げて露台の方を指さした。
「その昔、この山々と森と共にあった古き人間の一族は、麓の里から、山を登ってあの川を渡り、此処まで来ていたそうだ。わたしたちは、ちょうどその道を辿って此処へ来た。もう幾久しく使われなくなった、古い古い道だ」
 古き一族。それは、大和族に追われる前のこの地の人々だろうか。ふと、右手の壁面に穿たれた窪みに重ねられた数枚の編布が目に入った。そっと手を伸ばしてみる。アシタカが何も言わぬのを、構わぬと取って布を広げた。やはり、編まれた布だ。簾の子と同じように、横糸に対して縦糸が二本、絡み付ける様にして編まれている。縄文晩期や、飛んで中世の遺構から出土する物として認識していた布の様相だった。見回せば、別の横穴に木製の編布台のようなものも鎮座している。櫛状に刻みを入れた木板に糸を渡してこの布を編むための台だ。よく見ればまだ新しい。
「わたしの里でも、同じようなものを使っていた」
 アシタカが言って立ち上がり、横穴から幾つかの木板を取り出した。
「それでわたしが新しく作ったのだ。それまではこの」
 古い板をそっと慈しむようにアシタカは撫でる。
「古い布と道具が、サンを生かした」
 思わず露台を振り返った。まだ、サンは露台から動かない。ヤックルと共に居る山犬以外に、三頭がサンを見守っている。カムナの姿が見えないのは、岩屋の上か。そうだ、そこに居るのは獣たちだった。神と呼ばれ、もののけと呼ばれた、その中にたった一人、サンだけが人の姿をとって存在している。山犬神のモロが育てたと、甲六がそう言っていた。──元はといやぁ、麓のどっかの里が山犬に贄に差し出した子どもだったそうでさ。
 そうだ。サンは──それでも衣服を纏い、人の姿をしている。
「此処には、三年みとせに一度、里の若きかんなぎが山犬神に仕える為に自分の足で登って来ていたのだそうだ。三年毎に、入れ替わる」
「かんなぎが……」
 神と交わり、神の声を聴く者だ。ならば、古き人々は、山犬神を信仰し、仕えていたのか。そう思って更に見れば、酷く古びた編布の切れ端も、朽ちた椀も、幾つかの横穴には、遠い昔に使われたのだろう何某かの痕跡が幾つもあった。
 犬は──古来、ひとの友だ。此処に住まう古の一族もまた、山犬神と共にあったのか。長く、長く、この地を追われるまで。
 布を一枚ずつ捲る。巫が置き去りにしたそれらで生き延びたサンの、長じては自ら編んだのだろうそれらの温もりは酷く胸を衝いた。刺草いらくさ、獣の毛、麻──目の粗い短いものは、まだ巧く編めずにいた幼い彼女の手になるものだったろうか。憑かれるように撫で、捲った、しかしその最後の一枚で手が止まった。息さえも止まる。ひゅ、と喉が鳴った。たった一字、掠れかけた墨跡の、その布だけが、織物だった。細く長い、白布。書かれているのは──『饌』。
 指が震える。布の端に赤く三角文が染め抜かれている。これは何だ。古の一族の手になるものではあるまい。これは──。
「どうか、したか」
 怪訝な声に我に返った。編布を重ねて白布を覆い尽くす。駄目だ、と思った。恐らくアシタカも、サンも文字を知らぬ。ならば尚更、それは呪になる。駄目だ。触れさせるわけにはいかない。
「……いや、見事な布で、驚いた」
 声は震えなかった。言ってそっと白布だけを抜き取り手の中に丸め込む。饌──そなえもの──。それは、サンと読めてしまう。駄目だ──甲六の声が脳裏で広がる。麓のどっかの里が山犬に贄に──嗚呼、幼子を、何を思って差し出したのだろう。祈りでなく、ただ、自らの欲望の為に山を蹂躙する、その代償に差し出しされた無垢なみどりごの、その肩に掛けられた一本の白い──。
「モロは」
 アシタカの柔らかく低い声が耳朶を打って目を瞠った。ゆっくりと振り返る。アシタカは手にした小さな象牙色の小刀をいとおしそうに撫でた。その刃にも、深紅の三角文が染め抜かれている。
「身勝手にあの子を差し出した里の者を許さなかったそうだ。この鋭き牙もて追われた彼らは東に去り、残されたあの子は、モロの娘になった。大切な愛娘だと、モロはあの子の事をそう言っていた。──わたしは」
 あの子は人間だとモロに言い募ったが、と言ったアシタカが伏せた目は穏やかに甘い。
「あの子は、山犬神モロの娘だ。此処が、あの子の居場所だ。その美しい布も、太古からの祈りも、きっとすべてが、ひとつのうつくしい命を生かした」
「モロの……」
 牙、なのか。では、サンが身につけているあの美しい剣も、胸に下がる飾りも全て、纏った白銀さえも、何もかも全て、モロの全てを、サンが受け取った。饌は──山犬神モロによって、その意を違えた──モロの愛娘、サン。
 光が露台を染めている。何処までも明るい、その光の中に、山犬の娘が立っている。変えられるのか──そうだ、変えられるのだろう。それこそが、祈りで、願いで、力だ。祝詞──全てが、一つの命を護って意を違える。それは神の──神を形作る祈りの、根幹であって、天地に満ちる力の全てだ。
 ゆらりと、岩屋の羨門が陰ってカムナが現れた。その傍らにサンが立ち、そのまま立ち尽くす。思わず立ち上がって向かい合った。光を背にしたサンの、白銀の毛並みが燦爛と眩しい。
「礼を」
 掠れたサンの声が届いて、「え」と驚きが声に出た。サンが躊躇う素振りで口を二度三度と開いては閉じる。かあさんに、と酷く幼い口ぶりで続いたサンの声は、次の瞬間に、鮮やかに凛と力を帯びた。
「モロにもう一度出会えた。礼を言う」
 風が鳴った。それは酷く、大神の遠吠えに似ている──。
「アシタカ」
 サンが小さく笑んだ。
「石見に伴うのだろう。話しておいた。わたしはカムナと、残ったものとで帰りを待っている」
 アシタカが立ち上がった。「本当に良いのか」と尋ねた声は静かに優しかった。伴う、と言った。アシタカは石見に行くと言う。何故ここへ立ち寄ったのか、そう言えばまだ理由は聞いていない。
「大森を掘れば、また森が消える。だけど、そうしなければ、シシ神様の森も、この場所も守れないというのなら、モロ一族は、アシタカの提案を呑む」
「サン……」
「そんな顔をするな。わたしが決めた。母さんとシシ神様の眠るあのお池を失うわけにはいかない。言ったでしょう、あの女は信じられなくても」
 アシタカの事は信じている。
 アシタカが一つ頷く。二人を等分に見ながら手の中の白い布を握り締めた。このまま、この布は失われるべきだった。里で、エボシは女達に読み書きを教えている。草子を持っていると甲六が言っていた。ならば、いずれアシタカもそれを学ぶだろう。サンには、アシタカが相応しい字を選ぶのが良い。この美しい二つの命に、この呪は必要がない。
「伴う、とは」
 訊くとアシタカが露台に視線を流した。
「サンのきょうだいを借りる。石見の、大森を守護してもらう」
「大森……銀山を? 猪神は」
「ナゴの守はもう居ない。大森はモロ一族が乙事主様の鎮西の一族から託された」
 サンの言葉が岩屋に響く。
「マカミの眷属を加えて、モロ一族はこれからも生き延びる。猪神の分まで」
 サンの手が強く胸元の飾りを握り締めた。飾り同士が触れて清かに音を立てる。
「モロ一族は森の、山の為に戦う。諦めはしない。アシタカは──アシタカの故郷では、全てを語り継ぐのだと言った。わたしにも、同じ事が出来る。それも戦う事だと教えてくれた」
 わたしにはことばがあるから。
 言ったサンの声が強い。
「わたしはことばを持っているから。母さんと同じように、ことばを」
 ああそうか、と音の中に揺蕩いながらそれを聞く。そうだ。それもまた、祈りであり祝詞だ。モロは──それによって神であり続ける。
「わたしがひとの姿を持っているのは伝えるため。モロの賢さを、偉大さを、優しさを、わたしに何を呉れたかを──ことばで、母さんの、モロ一族の、シシ神様の全部を伝える。伝える限り、わたしたちは死にはしない。何度でも蘇る。死者が蘇るようにではなく、生き続けられる。モロ一族は生き延びて、その先に命を繋げる。これからも続く。その為に、あの子にはつがいで大森に鎮座して貰う」
 つがい。そうか、と思い当った。モロの子等は熊野の眷属と和合してその命を繋いだと、カムナが言っていたのは、そういう事だ。サンのきょうだいに、娶わせる為に熊野から、共に戦う為のマカミの眷属が此処へ来た。カムナは──サンの為に遣わされた熊野の山犬なのだろう。
「ジコ坊から遣いが来たそうだ」
 アシタカが言うのに、サンが眉を潜めた。スン、と不意に鼻を鳴らし「アシタカの腰袋の中はあのシシ神様の仇から受け取ったものなのか」と鼻の頭に皺を寄せた。アシタカがゆるりと首を振る。
「これは、シシ神様の森で朽ちた人の骨だ」
 サンの目が細くなる。アシタカがそっと腰の袋を抑えた。
「里に連れて戻る。サンの──シシ神様の森には、残さない」
 頷いたサンはそれ以上、何も言及しなかった。それで、と促したのは話の続きで、アシタカも何事もなかったように露台に向かって歩き出す。
「師匠連は条件を呑んだ。大森銀山を最終的に天領にする事で、すべてが手打ちになる。周防と、出雲との争いは続くとしても、この山には手出しは出来ない」
「どうでもいい」
 サンの返事は素っ気ない。
「天朝とかいうのも、侍もあの女も、人間は全部同じ。まだ、同じ。勝手に山を自分のものだと言い張っている」
 その通りだ。いつからか、人は大地を所有していると主張するようになった。海を越え、遠く大陸をも、七つの海をも、その先さえ。
「そっちはアシタカに任せる。アシタカは、ひとだから」
 わたしは、と言ってサンがまた胸元の飾りを強く握った。指先が白くなり、やがて赤くなった。飾りを握ったまま、顔を上げる。
「わたしはモロ一族の山犬。ひとの子の祈りを、今一度聞き届けよう」
 傲然と言い切った。眩いばかりの、強い瞳がアシタカを射ている。
「大森には……猩々達に教わったように、木を植える。潰した分だけ植えて、循環させれば山は死なない。アシタカがそう言うのを信じる」
「信じて欲しい」
 アシタカが頷いた。
「それを周防の守護に守らせる。実際に山に入るのはエボシの里と同じように鉱山衆だ。彼らには、サンのきょうだいの牙は脅威だろう」
 ようやく呑み込めた。朝廷は、望んだシシ神の首の代わりに銀山を所望したのだ。それを、ジコ坊とやらが中継ぎしている、エボシを通じて。同時にエボシは周防と毛利を操り、アシタカは、エボシがかつて作り出した禿山の二の舞を避ける為に、大森銀山の採掘に条件を付けようとしている、そういう事なのだろう。アシタカがエボシに寄越した書き付けは、モロ一族とのいわば共闘の為の交渉成立を伝える為の物だったのだ。
 大森銀山は、長く採掘が続いた有数の銀の排出鉱だ。蹈鞴と同じく大量の木材を必要としながら、しかし石見の山は死にはしなかった。そこにこんなからくりがあったと、誰が知るだろう。太古の神々は姿を隠し──けれどその眷属は、尚もこの地の護り手であり続ける──。
 饌──この美しい命を贄にしてまで、人は何を求めているのだろう。神は──命のうえにこそ、君臨している。
 嗚呼、そうだ。ひとが、ひとを作り神を作るのだ。ただ、そう、たったそれだけの事なのだ。
「今から向かえば、日没までには麓に出る」
 アシタカの言葉に頷いた。アシタカを追って露台に出る。巨きな山犬が二頭、身を伏せてアシタカを迎え、傍らでヤックルが耳を立てた。振り返った先、カムナがじっと見詰めている。己の耳目で確かに確かめた。神梛は、アシタカとサンの末裔だろうか。エボシの里は縮小したたたら場と田畑を以て、営々と続くのだろう。朗らかに明るい女達も、ゴンザを始めとする男達も、誰もが己の果たすべき役割を持って、それは神梛の代まで続いたのだ。烏帽子山を望む、この場所で、エボシの名は、名から昇華して、神梛にまで引き継がれた。里を動かすもの、烏帽子──。
──然り。
 不意に脳裡に、低い音の連なりが玲瓏と響いた。懐かしさに棒立ちになる。何処に居るのか、木魂の笑い声が聞こえている。カラカラカラ、コロコロコロ。
「霧だ。珍しい」
 アシタカの声がして振り返った。晴れ渡っていた筈の蒼天が俄かに白い霧に覆われて行く。
──踏み外すぞ。
 響いた声に咄嗟に足元を見た。切り立った崖。露台の端だ。辛うじて踏みとどまった乗馬靴の爪先が蹴った小さな石が、音もなく宙に消えた。息を呑む。刹那。
──案ずるな。
 一陣の風に巻き上げられた。身体が宙に浮く。足元が消失した。立ち込める霧に、全てが塗り潰されていく。耳元で風が唸る。露台から見下ろした、深く濃い樹木の海を思った。落ちていく。握り締めたままの白布が煽られてくねった。深紅の三角文が目を射る。赤は──いのちの色だ。思った瞬間、何もかもを凌駕して、全てが、白くなった。

 

 

 

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